ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

HMS「モントローズ」@晴海埠頭〜ダメコン展示

2019-03-12 | 軍艦

北朝鮮監視の目的でフランスとイギリスが艦船を派遣し、
瀬取りなどの制裁違反活動を監視することが決まりました。
イギリス海軍はフリゲート艦「HMSモントローズ」を派遣し、
それが先週末晴海で一般公開を行いました。

昨年の強襲揚陸艦「アルビオン」に続くロイヤルネイビーの軍艦を
この絶好の機会に見学してまいりましたので、
江田島の術科学校見学記途中ですが、急遽ご報告です。

前回の「アルビオン」の見学は、とにかくセキュリティチェックに
時間がかかって大変だった記憶がありますが、あの大型艦ですら
そうだったのだから、フリゲート艦の公開となると、
その待ち時間に加えて狭い艦内に見学者が押しかけ、おそらくは
時間が後になるほど見学に困難をきたすだろうと判断し、
とにかく今回は朝早くから列に並んで早めに入ることを心がけました。

晴海埠頭に到着。
まずはデッキから「モントローズ」のホストシップ、
護衛艦「むらさめ」を撮影。

続いてデッキから、HMS「モントローズ」。
逆光でわかりにくいですが、艦体の色が海自よりブルーがかった
独特のグレイをしています。

マストの形も、日米海軍とは全く異なる形状。
主砲はシャープな感じの外形です。

主砲の砲口になんかロイヤルエアフォースのマークらしきものが・・・。

「モントローズ」は「デューク」クラスフリゲート艦の18番艦。
艦名は15世紀スコットランド貴族のモントローズ公爵からきています。
海軍のために何かしたいうわけではなく、この人が、当フリゲート
クラスの名前であるデューク(公爵)だったかららしいです。

彼女が太平洋に派遣されることが決まったのは、1月10日に行われた
日英首脳会談で、これは明らかに昨年末に起こった
韓国軍の自衛隊機に対するレーダー照射問題に端を発しており、
韓国が制裁違反行為をしていたという両国の認識があったことを示します。

艦首には国籍旗が木製らしい旗竿に掲揚されています。
旗竿の先がロイヤルネイビーらしく王冠の形をしているのがお洒落。

同時刻に我が海上自衛隊旗はこのように翻っていましたが、
イギリス国旗はそよとも動いてくれませんでした。

旗の布地の材質に違いがあると見た。

晴海埠頭のデッキ階段から見た「モントローズ」。
開門前に中に入っている人たちがいるので何かと思ったら
地本が引率してきた自衛官の卵?の「むらさめ」見学でした。

早くから並んだといっても、前にはこれだけ人がいます。
ほとんどが男性で、カメラ持ちが多数でした。

舷側を士官が三人歩いています。
少尉二人に指導をする先任という感じかしら。

先日「ホーンブロワー」についてちらっと書いたところ、
テレビドラマの「ホーンブロワー」が凄くいい、とオススメされ、
アマゾンプライムで購入して移動の合間に観たのですが、
本当に良かったです。

ウェールズ出身俳優ヨアン・グリフィズの海軍士官らしさもさることながら、
何と言っても帆船時代のロイヤルネイビーの描写、例えば厳とした
士官と水兵の身分の違いや、どんな戦闘中の切羽詰まった時でも
違いを「ミスター」付で呼ぶこと、海上自衛隊にも受け継がれている
艦長乗艦の際のサイドパイプ吹鳴など、昔ならば何となく観ていた
これらの表現に興味津々でした。

現代のロイヤルネイビーにもそれらの伝統が受け継がれているはず。

例えばこの光景でも、航海長か船務長が、少尉たちに

「ミスター・ホーンブロワー、ミスター・ケネディ、
見学客を入れる前にここのところ片付けさせてくれ給え」

なんて調子で指示を出しているに違いない、とか。

ところで今回晴海にほぼ1年ぶりにやってきて驚いたのは、
前回平地だったところにニョキニョキとビルが建っていたこと。

ここなんか、埠頭の真正面ですよ?

オリンピックの選手村になるそうで、オリンピック閉会後は
一般住宅として売りに出されるのだそうですが、
艦船マニアの垂涎の的になりそう。

急ピッチで建造工事が進んでおります。

さて、開門時間になり、列は岸壁に移動しました。
FはフリゲートのF。わかりやすい。

木に彫刻を施した「モントローズ」の看板。

入艦が始まりました。
最初に入った人が乗員と記念写真を撮っています。

彼らは最初ということもあってにこやかですが、この後、
日本人が次々とやってきて、やたら一緒に写真を所望するので、
だんだんと無表情になっていき、最後には死んだ目になっていました。

わたしは携帯と車の鍵だけをポケットに入れたのでカメラ以外手荷物なし。
セキュリティチェックで

" I have no bag! "

 

入ってすぐのところに、ウェルカムと書かれたボードがあり、
ここにはスペックや簡単な艦歴が紹介されています。

何でも建造は「ヤーロウ・シップビルダー」・・・・何だって?

ヤローといえば思い出す、金剛の「ヤロー式ボイラー」。
明治時代の海軍は「曙」というここの駆逐艦を所持していましたが、
もともと「ヤーロウ造船会社」は駆逐艦専門の建造会社だったそうですね。

1985年以降は買収を繰り返し今はなくなってしまったということですが、
「モントローズ」はその端境期に建造されたらしく、就役は1988年ですが
建造元はヤーロウとなっています。

対潜用に設計されており、ステルスデザインが施されたこの駆逐艦は
麻薬取締任務や災害派遣などでUNに派遣された経歴を持ちます。

舷門にいきなりみたことないものキター。
いわば出勤表というか日本なら名札をかけるようなもので、
自分の名前のところに黄色いピンを打って、所在を表します。

乗艦中、岸壁に上陸中、任務中?、出張中、上陸中。

これを見る限りPOはほとんどが在艦しているらしいことがわかります。

舷門ではフル装備に身を固めた女性兵士が銃を持ってお出迎え。

その奥には身長2mくらいありそうな人が。
こんな人が銃を持って立っていたら勝てる気がしない。

海自とはもちろん、アメリカ海軍のフネとも全く違う佇まい。
細かいところが見るもの全て珍しいので、もうここで
ワクワクしてきてしまいました。

「キープクリア」(上に物を置かない)

の表示字体が独特です。
気づいたのですが、アメリカ人ってあまり筆記体使わないですね。

舷門を入ってすぐ、ダメコンコーナーが展開していました。
ダメコン機材と消火機材、作業用の耐火スーツを着た人がお出迎え。

前に「アルビオン」で説明してもらったから知ってるもんね。
艦体が破損したらそこにとにかく木材片を突っ込み、
それを奥にあるお椀で蓋をして、さらに突っ張りポールで押さえつける。

キャンバスのバッグの中には各種大きさの木片が入っています。

ダメコンのこのかっこいいお兄さんに
写真を撮らせてもらいました。
手にしているものが何なのか聞けばよかった。

このダメコン乗員の帽子と飲み物。
・・・・・ゲータレイドか?

オレンジの人は暑くなったのかスーツを脱いでいます。

消火器と泡の消火剤。

メコン練習用器械。
多分本番ではブッシュー!と水が出てくる穴に、
びしょびしょになりながら木材を詰め込むのだと思います。

オレンジのスーツの人はそのための待機かな?

入ってすぐの壁も物珍しい表示ばかり。

ハロンボトルとはハロゲン化物消火設備に使う薬剤のことで、
ここにその倉庫があることからダメコン展示をしているのでしょう。

ペイントロッカー・・・もしかしたら艦体を塗装する
塗料の倉庫のことだったりしますかね。

揮発物なので危険のサインが赤でペイントされています。

何のための装備か全く見当もつかない構造物も多数。
国が変われば艦船の構造も変わる。

危険エリアの注意喚起マーク一覧と、危険の際のマニュアルが
舷門のすぐそばに設置してありました。

これは公開日かどうかを問わずいつもあるように見えます。

「エア・エスケープ・グレイ・ウォーター・タンク」

グレイウォーターとはなんぞ。
日本で言う上水(飲める水)、下水(汚水)の間の水のことで、
日本では中水(グレイウォーター)と呼ばれており、
台所排水、お風呂の排水、洗濯機の排水などに分類されます。



その頃、岸壁で見学をまつ人たちの列はこんなことになっていました。
並ぶのが5分遅かったら、乗艦するのに20分余計に時間がかかり、
さらに見学するのはその二乗くらい時間がかかりそうな感じです。

早く来ておいてよかった(迫真)

 

続く。

 


大講堂の「白い二本の線」〜江田島・第一術科学校見学

2019-03-10 | 海軍

 

来週土曜日の3月16日には、平成最後の幹部候補生となる、
A幹部(防大・一般大卒)の卒業式がここ江田島で行われます。

部内課程の卒業式はもうすでに2月7日に実施されており、
卒業した幹部は現在「せとゆき」「しまゆき」での外洋練習航海に出ています。

2年前の2月3日、わたしはこの部内課程卒業式にも出席させて頂きましたが、
一般課程と全く同じ形式で行われるものであることをそこで知りました。

海軍兵学校時代の昔から、海軍士官の旅立ちを見守ってきたのが
大正6年(1917)に建造されて今年で98年目になる、大講堂です。

 

先日の江田島訪問では、学校幹部の方々直々のご案内によって
大講堂を見学させていただき、普通に見学しただけでは見ることのない
裏の部分も見せていただくことができました。
(もしかしたら、幹部候補生も立ち入ったことがないかもしれません)

ただし、学校側に確かめたところ、貴賓室の不特定多数に向けた公開は
・・・という返答でしたので、写真はなしです。ご了承ください。


大講堂の外側門寄りに、賓客などが車を横付けして入っていく
屋根付きの入口があるのをご存知でしょうか。

ここを正式にも「お車寄せ」と称するそうです。
昔は建物ギリギリまで車を乗り入れることができるようになっていました。

あそこは大講堂の壇のある方に近く、その二階に設えられた
来賓のための待合室にすぐ案内できるのです。

畏れ多くも初めてこの入口から大講堂に入っていくと、
そこからは階段を上り、来賓の控え室に到着しました。

二階には二つ部屋があり、その一つは貴賓室となります。

卒業式では壇上に上がる来賓と、学校長を始めとする自衛隊幹部が
ここでお茶などいただきながら開式をお待ちするわけですな。

江田島の旧軍時代からある建物には必ずここにも写っている暖炉があり、
その多くは焚き口を塞がれてただのマントルピース風飾りになっていますが、
この部屋の大理石の暖炉はかつてのままの姿をとどめています。

 

貴賓室には富士山の絵がありました。
教育参考館にあった横山大観の絵に似ているなあ、

と思ってサインを確かめたら本物でした。

宮様もお出ましになる貴賓室にまさか偽物を置くわけがありません。
国宝級の画家の絵がさりげなく掛かっているとはさすが旧海軍兵学校。

 

その傍らをふと見れば、さりげなく鈴木貫太郎の「智仁勇」の額が。

鈴木貫太郎は大正7年(1918)、つまりこの大講堂ができた次の年、
海軍兵学校長(中将)としてここ江田島に勤務しています。

軍人が書を求められるのは少なくとも大将になってから後のはずですから、
この書がずっとここに掛かっていたとしても、それは昭和になってからでしょう。

貴賓室から外に出ると、そこは貴賓用観覧席。
2年前、卒業式にご来臨賜った彬子女王殿下はここで式をご覧になりました。

椅子に座って講堂全部が見渡せるように高台が設置されています。
赤絨毯の敷かれた台は木製で、これもおそらく戦前からのものでしょう。

貴賓用ですから、他のところとはドアで区切ってあります。

やんごとないお方の視線で大講堂を眺めるとこうなります。
わたしは彬子女王殿下ご臨席の時には、右側に写っている柱の少し向こう側に
座っていましたが、そこから殿下のお姿は窺えませんでした。

やんごとないお方の視線その2。

この時、一連の解説をしてくださっていたのは自衛官らしく非常に明快に
はっきりと大きな声で話をされる方でしたが、この声が反響して
講堂中に響き渡っているのをまたもや実感しました。

増幅装置を使わなくてもいいように、壁には和紙を塗り込んでいる、
という話は過去何度かの江田島見学の時に聞いていましたが、
今回改めて聞くと、さすがに今は修復にその方法は使われていないそうです。

ただ、壁材は非常に柔らかいもので、それは手で触ってもわかりました。

幹部候補生家族などが観覧するためのスチールの観覧席があります。

「兵学校時代はハンモックナンバーといって前から成績順に座っていたので、
卒業生の家族は、自分の息子の座っている場所で順番がわかりましたが、
今は特別に表彰を受ける5名以外は姓名のアイウエオ順です」

昔江田島の一般見学に来た時、案内係だったOBは、

「成績順に座ります。わたしはほとんど最後尾でした」

と言って笑わせていたのですが、昔は自衛隊でも成績順だったのか、
それとも説明係の自虐ギャグだったのでしょうか。

下から見ると舵輪の形をしている照明具ですが・・、

ここからなら真横からかなり細かいところまで見ることができます。
どうやって手入れしているのかわかりませんが、全く劣化が見られず、
できてから100年近く経過しているとはとても思えません。

 

 

大講堂二階の貴賓室にはドアが二つあります。
呉地方総監部の二階正面の貴賓室もそうでしたが、昔は
皇室の方々と下々の者は同じ扉から出入りすることも憚られると、
専用貴賓室にはすぐ横に別の扉を設けていました。

 

 

二階には二つ部屋があり、おそらく、皇室の方々のための貴賓室と、
もう一つはその他の来賓用と考えられます。


こちらの部屋には、兵学校の卒業生(キノシタマスミさん)の絵が掛かっています。

この木下さんは70期台の卒業生で、このように江田島の四季を
描いては第一術科学校に寄付してこられたようで、別のところでも
同じタッチの絵をいくつか拝見しました。

ツツジの季節に描かれた「西生徒館を望む」という絵。
海軍兵学校時代、この建物は西生徒館と呼ばれていました。

海上自衛隊になってからはここが第一術科学校であり、
建物の名前もそうなっていたのですが、木下氏にとっては
ここはいつまでも「西生徒館」であったのでしょう。

この絵の描かれた1988年には3階建てだった建物も、
耐震を加えた躯体改装工事により今は4階建と変わっています。

老朽化した第一術科学校を建て直す案が出た時、
主にまだ当時健在だった海軍兵学校出身者から反対の意見が出たそうですが、
改築は元の姿を最大限止めるという約束のもとに決行されました。

下に降りることになりました。

貴賓室のある二階から降りる階段の踊り場は、
アーチを描く美しい窓越しに光が入ってきてとても明るい。

窓越しに「兵学校の松」がまっすぐに背を伸ばしているのが見えます。

階段を降りると、ステージというか式台の裏側に出てきます。
ドアをくぐると国旗と海上自衛隊旗の交差するステージの右手で、
思わぬところに出てきたのでちょっとびっくりです。

玉座は連合国軍(主にオーストラリア軍)が接収していた頃、
教会となって十字架が設置されていたそうです。

一般公開の案内で「マリア像が置かれていた」といっていた人もいましたが、
この日解説してくださったのは2年前彬子女王殿下をご案内をするために
江田島の歴史を精査して内容をその緻密な頭脳で覚えこんだという
現第一術科学校長なので、おそらくこちらが正しいと思われます。

連合国軍はここがカソリック教会として、そして山手にある賜餐館を
プロテスタント教会にしていたということです。

第一術科学校に一歩足を踏み入れると、すでに空気が凛として
思わず背筋を伸ばさずにいられない気持ちになるのが常ですが、
特にこの大講堂の中は、これまでここで幾度となく行われてきた
厳粛な式典の空気を湛えているせいか、外界とは完璧に違って見えます。

ちなみに左におられる海将補と一佐は、かつてここ江田島で

「赤鬼と候補生」

の関係でした。

「部屋長と部屋ッ子」

もそうですが、防大やここ幹部候補生学校での上下関係は
それからの自衛官人生でずっと続きます。
幾つになっても、階級が上がって同じ勤務地で多くの部下を持つようになっても、
候補生にとって当時の赤鬼青鬼は永遠に鬼です。

一佐によると、赤鬼の頃の海将補はそれは怖かったそうです(笑)

この写真を見る限り普通に談笑していますが、こうなってもやはり、
二人の関係性は変わることがないものなのでしょう。

毎年2回行われる卒業式、幹部学校長はこの、同じところに革靴で立ち、
新しく幹部に任官する元候補生に証書を与えます。

見たことはありませんが、おそらく入校式の時も同じ場所に立つのでしょう。
そこには長年に亘って靴の踵が作った傷が白く残っていました。

それ以上にすごいのがこちら。
卒業式を見たことがある方ならご存知ですね。
この壇の一番上の段は、候補生が賞状を受け取るために
列を作って歩くため、白い二本線が壇の中央まで刻まれています。

つまり

「白い二本線」=White Two Lines

ウェストポイントの長い灰色の線「Long Gray Line 」みたい。

兵学校でのハンモックナンバー上位5名がそうであったように、
今でも幹部候補生の成績優秀者上位5人だけがこの赤絨毯の上を歩き
短剣ならぬ賞状を受け取り、ここを後ろ向きに降りることになっています。

 

「じゃ赤絨毯踏んだりしたらダメですね」

「いえいえ、ここで写真を撮ります」

わたしたちは畏れ多くも赤絨毯の上に立ち、
両校長に囲まれて記念写真を撮ってもらいました。

お二人ともおそらくはかつて「恩賜の短剣組」ならぬ本物の「赤絨毯組」?
わたしたちは「体験入隊」扱い、つまり海士相当?ですが特例です。

聖地江田島の最も神聖な大講堂から始まったこの日の見学ツァー。

なんども来ていて、一般見学者には見ることのできないところを
見学したという自負を持っていたわたしにとっても、
初めての場所を見せていただける貴重な機会となりました。

 

続く。

 



 

 


江田島の夜〜海上自衛隊 第一術科学校見学

2019-03-09 | 自衛隊

さて、「坪貴」で地元の海の幸をたっぷりと味わった後、
実は皆でカラオケのできる地元のバー(スナック?)に行きました。

そもそも、そのスナックというのも某海将の奥方の親戚(姉妹?)がやっていて
術科学校勤務自衛官御用達の店なんだとか。

カラオケ好きのTOは大張り切り、同席の方の中にはギター持参の方もいて
(坪貴からお迎えのバスが来た時、ギターを持っている人がいたような気がして
まさかと思い何かの見間違いだろうと思ったら本当だった)
そのギターの生オケでこの日初めて聴いたのが

「え・た・じ〜まが 好きじゃけん〜」

というちょいラップ調のご当地ソングでした。

田島が好きじゃけん/753Φ (なごみ)

地元の市役所職員が手がけたそうで、覚えやすく馴染みやすい曲です。

 

ところで、今回の訪問では、自衛隊ことに若い候補生について、
中の人である自衛官から多岐にわたって伺う機会があった訳ですが、
やはり年配の自衛官たちは、

「今の若い者は昔と違う」

という目で若い人を見ていることがわかりました。
全般的な傾向として、若者の「草食化」が言われている昨今ですが、
自衛官を目指す若者にも明らかな草食化が見られるのだそうです。

その表れとして、

「あまりお酒を飲まない」

これはあくまでも話をしてくれた佐官クラスの自衛官が、
自分の若い時と比べて言っているので、比較にすぎませんが、
一般社会でも、会社の飲み会などを極力避ける、宴会は好まない、
上の人とお酒を飲んでも楽しくないので行かない、という傾向が
特に平成後期になって顕著になってきたと言います。

そしてここ江田島の候補生も皆とは言わないけど、
お酒そのものを飲まなくなっているとか。
飲むとしてもコンビニのイートインでお酒を買って飲んだり。

「それは”コンビニ飲み”ですか・・・」

「しかしコンビニでお酒飲んで楽しいんですかね」

こんなお酒の飲み方をする人類には、雰囲気とか語らいとか、ましてや
女性を侍らせてお酌をさせることの意味など全く理解できなさそうです。

いや、しかし、自衛隊にはお酒好きそうなイメージがいまだにあるぞ。
特に陸自。

「陸自は『宴会多め』だと聞きましたが」

今現在のところ、陸自のことをうかがい知るための重要な情報源の一つ、
「トッカグン」で仕入れたネタを元に聞いてみたところ、

「海自は陸空にはない『下宿制度』というものがありまして、
週末には下宿に行ってしまうので、みんなでの宴会になりにくいのかと・・」


「下宿」は海軍兵学校に関するものを読んでいると必ず出てくる言葉で、
江田島には今でも幹部候補生を週末だけ寄宿させる「下宿」が存在し、
車で走っていると、時々民家の軒先に

「下宿 3000円」

とかいう看板がかかっているのを見かけたりします。

下宿は、昔兵学校の生徒を下宿させていた同じうちが、いまだに
幹部候補生の下宿をやっているという例もあるとか。

「ウチ(第一術科学校)は一番地元とうまくいっているんじゃないでしょうか」

海軍の街として栄えた呉よりも地元との関係は良い、と
当の海上自衛官が胸を張って言えるのは、ここ江田島は「赤煉瓦の住人」との間に
長年にわたって築かれてきた絶大な信頼関係で結ばれているからです。

ところでこの写真をご覧ください。

前回日没後に江田島を訪れたとき、

「夜の江田島を見てみたい」

とお星様にお願いしておいたのですが、今回、それが叶いました。
まさに夜の江田島構内を歩くことができたのです。

もちろん忍び込んだわけではなく、正当な理由あっての入門ですので念のため。

幹部候補生は夜、構内といえども外を歩き回ることはできないそうですが、
理由あって偉い人と一緒にいるのなら大丈夫。

この時、物影を歩いている自衛官の姿を見かけましたが、聞いたところ
職員(つまり自衛官)だということでした。

昨年の水害直後作られ、それ以来ここにあるという

「がんばろう江田島」

の大きな布バナーも夜の灯りの中でなかなか幻想的です。

実は、坪貴の後に流れた術科学校近くのカラオケ屋(スナックか?)で
われわれ一同が盛り上がっていると、ふらりと一人で現れたお客が、
何を隠そうこのバナーの「仕掛け人」だったと知りました。

地元で会社経営をしておられる方で、自衛官とも顔見知り、
このように江田島の自衛隊を応援しているとのことです。

 

かつて海軍兵学校時代に、江田島で火災や台風の害があると、必ず
すぐさま隊伍を組んで生徒たちが「地響きを立てながら」到着し、
キビキビと活動を行う姿を住民たちは見てきました。

現在でも一度地元が災害に見舞われると、現役の自衛官だけでなく
幹部候補生たちも出動し、災害地で救難活動や復興に活躍しています。

「江田島の海軍さん」に対する信頼は今日も全く変わることがありません。


今回、解説付きで見学させていただいた教育参考館のホールには、
先の水害への海上自衛隊、特に術科学校と幹部候補生学校が派遣された様子が
パネル展示されていました。

(卒業式で江田島に行かれる方はぜひご覧いただきたいと思います)

その時にこんな話を聞きました。

水害により大きな被害を受けた地域に出動した第一術科学校が
水没した一角にある一軒のお宅の普及作業を行いましたが、
このうちは、明治時代、兵学校が築地から移転してきた際、
校舎建設のため立ち退きを要求されてそこに引っ越しし、それ以来
ずっとそこに住んでいた人の子孫だったのです。

パネルには、作業を行なった地域の地図がが家主の名前を添えて掲示されており、
術科学校長が指をさして

「このお宅です」

「どうしてそのことがわかったのですか」

「作業をしていたら向こうからお礼とともにそのことを言って来られました」

そこで術科学校長はその方にこう言ったそうです。

「100年経ってやっとご恩返しができました」

 

 

夜の赤煉瓦生徒館は、まだあちこち電気がついています。
候補生がまだ勉強しているのかもしれません。

相変わらず歩きながら適当にシャッターを切ったので残念な画質ですが、
二階の幹部校長室と応接室の電気が消えているというレアな光景。

「一つ、至誠に悖るなかりしか」

で始まる「五省」を候補生が唱える時間にはまだもう少し間がありそうです。

夜の教育参考館。

「何か写るかもしれませんよ」

わたしがせっせとカメラを向けていると、そんなことを言われました。
「何か」というのはもちろん、幽霊とかのことです。

幽霊といえば昔、江田島の「怪談話」について少し書いたことがあります。

どれもあまりその前提が怪しすぎて、怖がろうにも今ひとつリアリティに欠ける、
というネタだったので、いちいちツッコミを入れてしまったものですが、
その後耳に入ってきた話によると、やはりそれらとは全く別に、

「江田島には出る」

のだそうですね。
もとい、誤解を招いてはいけないので、出るという噂は絶えない、としましょう。

硫黄島では「見える人」に言わせると出るのがほぼ当たり前で、
ご飯を食べていたら目の端に
旧軍軍人が腰掛けてやはり何か食べていたりするとか。
(もちろん何も感じない人もいる)
ここでもやはり出そうなところ、特にここ教育参考館では
いるはずのない人の気配を感じた、
などという話はしょっちゅうあるのだそうです。

でもそんな幽霊を見たとか見ないとかの話なんて、仲間内で
ヒソヒソささやかれるくらいであくまでも噂にすぎないとされるのが
一般社会の表向きの姿じゃないですか。

それが、この霊現象に対し、海上自衛隊が組織として「対処」をしていたとすれば?

そう、本当に・・・・あったんですよ・・・・

ある内部の方から聞いた「本当の話」をしましょう。
かつてここ第一術科学校では、お祓いが実際に行われたことがあります。

内部職員からの、(候補生もいたかどうかは聞きそびれた)

「あそこに行くと必ず何か出る」

「ここで寝ると必ず夜中に・・・」

という「報告」が上に上がってきたことを受けての作戦発動でした。

具体的には、おそらく内部の人ならご存知だと思いますが、
長らく物置になっている
古ーいあの建物と、あとは個別の寝台など。

近隣の神社からゴーストバスターズ、じゃなくて神職が召喚され、
個別具体的にお祓いを実地し、塩を撒きお清めを行いました。

「だから今は大丈夫です」

それを語ってくれた方の、このあまりにもきっぱりとした言葉を聞き、
逆に、そんなもんなの?と
不安になったわたしですが、この日の夜、
暗がりも含めて
撮った一連の写真には何の不審なものも写っていませんでした。

ピントが甘すぎて写っていてもわからないだけでは?という説もありますが。

しかしここに出るからには、それはここを魂の故郷として座(おわ)す
海軍の、
あるいは海上自衛隊関係者の御霊に決まっています。
というわけで、わたしのような者は

「お会いできれば光栄!いつでもご遠慮なくお出ましください!

と割とマジで考えていたりするわけですが、そんな奴の前には
幽霊の皆さんというのは、案外出てきてくれないもののようです。

 


続く。



総短艇用意・・・?〜海上自衛隊幹部候補生学校訪問

2019-03-08 | 自衛隊

かつて海軍兵学校があった広島の江田島は、現在でも第一術科学校と
それに併設される幹部候補生学校があり、海上自衛官の「原点」です。

わたしが海軍の史跡を求めて最初にこの地に訪れてから、何度目になるでしょうか。
またしても江田島にやってまいりました。

今現在、地図を見ると、旧海軍兵学校の敷地の住所は「無番地」、
「第一術科学校」が正式名称になっています。
江田島には第一術科学校と幹部候補生学校があり、どちらにも
校長が一人ずついて、つまり「別の組織」ということになるのですが、
今回幹部候補生学校の校長に伺ったところ、第一術科学校と称しているのは

「幹部候補生学校が間借りしている形」

だからなんだそうです。
メインたる第一術科学校は艦艇職域の術科の教育をする組織です。

しかし、赤煉瓦の校舎や海軍兵学校と同じ卒業式を行うことから、
一般には江田島=「幹部候補生学校」のイメージで捉えられていそうです。

広島空港から車で江田島まで。
アレイからすこじまを見ながら行く道はいつも渋滞するということで、
高速を降りてから音戸の瀬戸まで東の海岸沿いを走りました。

この眺めがなかなかのものです。
重なり合って見える瀬戸内の島々と波のない穏やかな海。

車の窓からガラス越しに撮った写真ですが、よく見ると画面中央下に
かなり大きな白い「エイ」らしい影が写っていますね。

そういえば、知り合いが瀬戸内海でウィンドサーフィンをしていた時、
自分の真下を4畳半くらいの大きさのエイが横切ってゾッとした、
と言っていたことがあります。

大きな島は「情島」。

右側の半島の先にあるのも情島で、「大情島」「小情島」と呼び分けます。
どちらも離島で、面積は0.69km。
大情島の方は有人島で、グーグルアースで見たところ、建物は
せいぜい10軒といったところ(2010年現在では6世帯9人)。

戦後は引き揚げ者とその家族が200名ほど住んでいたのがピークで、
その後は減る一方だそうです。

実は、この島、大東亜戦争中には「海軍さんの島」と呼ばれていて、
特四式内火艇を使った奇襲作戦、あの黒島亀人が発案したという
「竜巻作戦」の訓練基地「Q基地」ここに置かれていたそうですが、
輸送船が攻撃されたりして、
結局作戦の実行には至っていません。

有名な呉空襲の写真にもこの大小の「情島」が写っています。

上の写真ではちょうど角度的に見えませんが、この写真の
島の北側に写っている船は浮き砲台になっていた戦艦「日向」です。

呉大空襲では「日向」はアメリカ軍の波状攻撃によって艦長は戦死、
乗組員約1000中204名が戦死、重軽傷者600名、着底大破しました。

wikiに上がっている米軍の撮影した「日向」の艦橋の写真を見ると、
むしろよくこれで死者が200名余で済んだなという印象です。

現在、かつて「日向」を望んだ島の北側には
(少し凹んだように見えるところ。Googleアースでも確認できる)

“日向殉忠碑” “軍艦日向戦没碑”

という慰霊碑が建立されているということです。

海辺に人影あり。
両手に海藻を持っていますが、これも「漁」なのでしょうか。

何れにしても、2019年現在見られるとは思わなかった風景です。

さて、広島空港から2時間弱のドライブで江田島に到着しました。
車のまま構内に入っていくと、作業服を着た幹部候補生の一団が
目を引くくらいの勢いで、「表門」のある岸壁に向かって走っていきます。

それはもうほとんど全力疾走。

非常呼集がかかったようなこの勢い。何があったのでしょうか。

「総短艇がかかったのかもしれません」

「総短艇」という言葉は海軍兵学校のことを書いたような本や資料で
目にすることもあった単語ですが、一緒にいた自衛官に聞いてみると、

「『総短艇用意』の号令がかかると、何をしていても中断して、
ダビッドまで走っていき、短艇を下ろしてコースを回って帰ってくるのです」

グラウンドを左回りしてダビッドのあるところまでやってきました。
わたしたちにはわかりませんが、ちょっといつもと様子が違うようです。

「ちょっと降りて見てみましょう」

「ええっ、皆さんの邪魔になりませんか」

「大丈夫ですよ」

車から降りて後ろから回り込む感じで岸壁に近づいていきました。

「総短艇ではなかったようです」

なんでも総短艇とは、

「予告なく開始される競技であり、号令を出す方と出される方の
『腹の探り合い』の丁々発止があるんですよ」

「腹の探り合い、とは?」

「時間を選ばず行うというものの、そろそろ来そうだなとか、
号令を出す側もその予想の裏をかいたりするんです」

思わぬ時に発動して「ハットトリック」をかますと、
それは「かました側の勝ち」ということになるんでしょうか。

最近では流石に「いつでも」というようなことはなく、
やはり中断できない作業とかもあるわけなので、
以前より予想は立ちやすくなっているのではと思われますが。

Wikipediaによると、

かつては時間を選ばず行われていたが、近年は起床後や昼休み、
もしくは「別課」と呼ばれる時間に行われる傾向にある。
また、金曜日の外出点検時や、入隊予定者見学のような
広報実施時に行われることもある。

だそうです。

もちろんネーミングもその内容も、ここ江田島の海軍兵学校伝統で、
だいたい月3回といったペースで行われることになっています。

なぜそんなことをするのかというと、それはもちろん、いつ何時でも
「出撃」する戦闘準備態勢をいつも身体に染み込ませるため。

「総短艇」といっても、全ての幹部候補生が行うのではなく、
学生隊1隊の中の分隊が競い合うことになります。

ちなみに第1学生隊は「A幹」といい、防大卒と一般大卒。
第2は「B幹」、いわゆる「部内」か航空学生、公募幹部。
そして第3がC幹、部内選抜の海曹長以上准尉以下となります。

C幹になると、年齢はA幹の2倍くらいの人もいるのでしょうか。
若者と同じように「いきなりダッシュ」して心臓発作とか脳梗塞とか大丈夫なのか?
と心配してしまいますが、自衛官だけあって日頃鍛えているのでしょう。 

「総短艇用意」でカッターを降ろした場合は、沖を回ってくると
表桟橋を目指し、終わると櫂を立てます。

戦前の「海軍」という真珠湾の軍神の一人を主人公にした映画で
総短艇がかかり、主人公と同じカッターの生徒が櫂を立てるときに
ばったりと死んでしまうというシーンがあったのを思い出します。

そのシーンが撮られたのももちろん海軍兵学校時代のこの同じ場所です。

ここに立って周りを観察して気づきましたが、彼らは
グラウンドからこのコンクリート部分に上がるとき、
靴を脱いで裸足になり、そのまま作業を行なっていました。

つまりカッターは裸足で漕ぐんですね。当たり前か。

でも冬とか寒いだろうなあ。

それでは「総短艇用意」ではないのにどうしてあの一団が走っていたかと聞くと、
つまりその発動に備えて練習をしていた、ということらしいです。

走っていった一団はボートを降ろすところまでは行なっていないようでした。


この写真を見ると、舵取りをしているのは女子候補生のようです。
今では兵学校と違い、女子自衛官が普通に混じっているわけですが、
男性と全く同じ作業をこなすのは、口で言うほど簡単ではなさそうです。

女の子は冷え性も多いし、裸足の作業は辛いだろうなあ・・・。

さて、その日の晩は、江田島の料亭で食事をいただく予定になっていました。
夕日の沈む江田内を眺めながら走っていきます。

これも海軍兵学校時代からの伝統である遠泳はこの江田内で行われ、
だいたいこの辺りまでは泳いでくることになっているようです。

防衛大学校でも遠泳は行われますが、太平洋の荒波を受けるこちらの方が
波のない江田内と違って色々と大変そうな気がします。

また、このとき聞いたのですが、江田島は昔Yの字の形の右側
(江田島)と左側の能美島と言う別の島に分かれていて、
浅瀬で隔てられていたのですが、昭和の初めに埋め立てられて
現在の地続きになりました。

こんな大掛かりな工事をしたのは海軍ではないか?と思うのですが、
その辺りについてはネットでは検索できませんでした。

この日のお食事処は、これも海軍時代に「レス」だった「坪希」でした。

創業約130年で海軍御用達、と言うことは当然ながら、
兵学校勤務の軍人もここで盃を傾けたということです。
昔は「エス」(芸者)さんもきたかもしれません。

そもそも江田島に兵学校ができたのは、俗世から離れ、
ネオンの巷の誘惑がないような僻地だったからと言うのも理由の一つで、
兵学校の映画を撮りにきたクルーなどは撮影中あまりの「無菌」ぶりに耐えかね、

「もとの田沼の濁り恋しき」

とばかりに不便を承知で呉・広島から通っていたと言う話があります。

外部の人はそれでいいですが、問題は兵学校に勤務している士官たち。
たまには羽目を外したいではないですか。
というわけでそのニーズに答えたのがここ坪希だったのではないでしょうか。

130年くらい前というと、1888年頃、つまり明治21年ごろです。
ちょうどこの年、海軍兵学校は東京の築地から移転してきており、
明らかにこれは「兵学校関係者の要望に応じて」か、「関係者狙い」
のどちらかで開業した料亭だと思われます。

現在の料亭のHPにはその歴史については何も触れておらず、
ちょっと残念な気がします。

呉の「五月荘」(隠語;メイ)のように、当時の写真などがあるなら
ぜひ見たいものですが・・・。

古い木造の和室の宴会場に通されました。
前菜としてもうすでに新鮮なお刺身が並んでいます。

これだけでもわたし一人なら十分、という量ですが・・・。

どおおおお〜〜ん。

思わず嘆声を上げてしまったカワハギのお造り。
羽を広げた鳥の姿を刺身でかたどっていて、外人さんなら
マーヴェラス!となってしまう美しさ。

カワハギの肝も付いてきて、これを醤油に溶かし、
白身をちょいとつけて食べるとヘヴンリーな味わいです。

そしてこれは外人さんならかなーり引いてしまうかもしれない、海老の踊り。

女将が見せてくれたざるの上では、海老の皆さんが、よくよく見ると
口から泡など出しながらまだ元気に動いています。

決してこういうのは平気ではないですが、生で食べるかと聞かれると
一も二もなくイエスと答えてしまうのが日本人のDNAってやつですね。

すると女将さんが海老の頭を取り、皮を剥いて小皿にヒョイっと入れてくれます。

「ひえ〜まだ動いてる・・」

口の中で暴れられたらちょっといやだなあと思いましたが、それはなく、
新鮮すぎる海老はとろけるような甘さ、プリプリした歯ごたえ。

生が苦手な人もいるわけですが、ナマ食を逃れた海老も、
揚げられて
頭から尻尾まで食べ尽くされる運命です。

当料亭の名物でもある鯛の塩釜焼。

自衛官ばかりだと、塩を卓で豪快に「かち割る」そうですが、
今日は前もって塩を割ってから持って来られました。
鯛には塩が染み込んで、何も付けず食べることができます。

皮は取ってしまうのですが、同席の方が一人

「皮が美味しいんだから!」

といって皮だけを所望し、一口食べて

「やっぱり辛かった(´・ω・`)」

となっていました。
いかに辛党でもちょっと無理だったぽい。

天ぷらや肉の小鍋の〆は、じゃこご飯です。
たっぷりのチリメンジャコに野沢菜を入れて炊き上げたご飯。

お腹がいっぱいでしたが、食べられてしまいました。
残った分はおもたせにしてもらい、次の朝ご飯にしました。

 

江田島には料亭と呼べる料亭はほぼここだけらしく、
江田島の自衛隊関係者はよく行く人ならシーズンに3回は来るそうですが、
女将は日を分かたず来た人に決して同じものを出さないそうです。

お昼はランチもやっていて、自衛官の奥様軍団が昼食会に訪れることもあるとか。

全国にあった「海軍御用達のレス」は、戦後もとりあえず
自衛官などが贔屓にして存続してきたようですが、やはり代替わりしたり
客足が昔ほどではなくなり、ほとんどが閉店してしまいました。

最後に残っていた超有名店、横須賀のパインこと「小松」も
何年か前の火事で全焼してしまい、廃業。

今残っている「レス」は呉の「メイ」とここぐらいではないか、
という話でした。

ご覧に入れたような昔ながらの新鮮な海の幸を使った料理が
その豪華さからは信じられない値段でいただけますので、
みなさま、江田島にお出かけの際には宿泊もできる「坪貴」にぜひどうぞ。

今年中には宿泊施設の改装も完了するそうです。

 

続く。

 


ルネ・マグリット展@ サンフランシスコ近代美術館

2019-03-06 | アメリカ

今日は息抜きに美術展のお話です。

アメリカ滞在最後の日、わたしはサンフランシスコの中心街を
目に刻んでおこうとダウンタウンに車を向けました。

アメリカ在住の友人から、ホームレスが増えすぎて
この写真左側に見えているコンベンションホール、「モスコーネセンター」も、
最近は会議を申し込みも減っている、という悲しい噂を聞いたので、
現状を確認する意味もありました。

とりあえずこの辺りは渋滞が相変わらずひどいです。

まあ確かにホームレスは増えたかもしれません。
しかし、初めてここに来た17年前も路上生活者は普通にいましたし、
いうほどひどくなっているとは思えません。

中国人は多いですが、それ以上に全米から人を集まっているらしいのも
昔と全く変わっていません。

このビルは昔確か「ジャパニーズ・スィーツ」(和菓子)の店だったような。
いつの間には居酒屋になっていました。

「銀兎」と書いて「GINTO」というセンスはともかく、
おそらくこれは日本人のオーナーであろうと思われる店名です。

ここに来たらいつもウィンドショッピングするモールに行ってみました。
高級デパートが二軒、有名ブランドも軒を並べるおしゃれなモールに、
なんだかものすごく既視感のある造形物が・・。

マーケットストリートを歩いていると、アメリカ基準で言うところの
長蛇の列ができているピンクのお店がありました。
ここは昔、ニーマン・マーカスのアウトレットだったはずなのですが、
いつの間にかキャンディ屋さんに代わったのかな、と思ったら、

Candytopia offers a sweet time in San Francisco

キャンディーのテーマパークでした。
キャンディでできた絵画とか彫刻、マシュマロのお風呂・・。

なんか速攻飽きられそうな気もしますが・・・。

その道向かいにあるのは「アイスクリーム博物館」。
2016年にニューヨークに第1号店ができて以来増殖中。

Look Inside San Francisco's Museum of Ice Cream 

こんな立派な(多分築100年くらい)建物の中で何をやってるんだか・・・。

アメリカで日本のラーメンを有名にした一風堂。

街中を車で走っていてサンフランシスコ近代美術館、
SFMOMAで行われているマグリット展のポスターに気がつき、
行ってみることにしました。

断片的に作品を観たことはありますが、
マグリット一人の展覧会は初めてです。

常設展の入場券にマグリット展は別料金が必要です。
展示が行われている4階には専用チケットがないと入れません。

会場入り口にいきなり壁一面に作品を描き出してありました。

ちなみにこちらが本物ですが、こう言う画風なので本物と変わりありません。

こうもり傘の上のグラス。(水入り)

マグリットと言う人は一つのことを思いついて気に入ったら
しつこくしつこく同じものを描き続ける傾向があったようです。

そのモチーフの一つ、窓。

最初の絵もそうですが、窓と絵画をシンクロさせるのがお気に入り。

このアイデアがウケたので「しばらくこればっかり描いてやろ」と思ったんだろうなあ。

チューバ炎上中。

銃が血まみれ。
ちなみにこのタイトルは「Le suivivant」。
英語で「The survivor」サバイバーってことですが、作者はこの絵について
全ての説明を放棄していて、見る者の想像に任せているそうです。

って、どう見てもこれは反戦メッセージだと思うんだが。

「La voix du sang」という原題の意味は「血の声」。
英語のタイトルは「Blood Will Tell」=血が語る。

絵はともかく、それにこの題はないんじゃない?

これを全く理解できないのはわたしだけでしょうか。
マグリットってもしかして中二病か?(ああっ、言ってはいけないことを)

これもマグリットお気にのモチーフ。
自分の顔をりんごで隠しちゃうっていう。照れ屋さんなんだからー。

これも自分だけど後ろ姿。

ベビカから指差す赤ちゃんに赤ちゃん目線で解説してあげる
英才教育な母。

このぬりかべが右手に持っている変なものを覚えていてくださいね。

上半身が人間なら人魚、下半身が人間だと・・・半魚人?

半魚人と帆船のシルエットもお気に入りのテーマだったようです。
っていうかさあ、この人人間の顔が描けなかったんじゃないのかな。

波の模様をした帆船だけの絵もありました。

わたしがマグリットで好きなモチーフを挙げるならこれ。
なんでも彼の実際に住んでいた家なんだそうですが、日本で言うところの
3LDKで、銀行員だった彼の慎ましい暮らしを彷彿とさせます。

空は晴れているのに景色は夜。

木を強調してみました。

上とほぼ同じ。何回描いても飽きなかったのね。気持ちはわかる。

で、このモチーフの絵の題名なんですが、

L'empire des lumieres「光の帝国」

ひかりの・・・・・ていこくだとお?

やっぱり中二だ。
普通っぽい絵に変なタイトルをつけて観る人に首を傾げさせる、
わたしも中学2年の時にはそんな絵を描いたものですよ。

今でも覚えてる。阪神総美展で特賞をもらったあの絵の題を。

「平穏なる時空の矛盾」

うっわー恥ずかしいー!
でも今思い出した。あの時の美術主任め、出品する時わたしに無断で

「空間の矛盾」

って題に変えてやがったのよね。
デパートに展示されたのを観にいったら別の題名になっていたんだ。
いくら中二の作品でも題を変えるな。ずっと恨んでるぞ、久保先生。

大きさや木の形、雲の形や空の色を変えてこれでもかこれでもかと。

この部屋の絵全部が光の帝国ですわ。

光の帝国と自分の肖像画のコンボ。

光の帝国が巨大マグリット帝国に。

唐突に岩がある、と言うのも気に入っていた模様。

マグリットの絵は人を困惑させる。
その困惑こそが観る人をして彼の世界を理解しようとする鍵なのではないか、
とこういう光景を見るとそんなことを考えてしまいます。

今回もアメリカらしくたった一つの作品を除いて全て写真撮影可、
という気前のいい展覧会でした。

その写真禁止の作品の前には、終始係員が立っていて、カメラを構えると
これは写真撮影禁止です、と1日に100回以上注意していました。

しかし、その作品と他の作品の何が違うのか、わたしには全くわかりませんでした。

最後のコーナーはいわば「お遊びコーナー」です。

前に立つと、カメラが作動して月が上っていってしまうとか。

マグリットの絵の中に写り込むことができるとか。

写っているのは彼の友達(多分恋人)で、友達は
別のところに立っています。

せっかくなのでわたしも参加してみました。

これ、さっき赤ちゃんが指差していたぬりかべの持っていた燭台?ですよ。
自分の目と唇を利用して燭台を再現できるというわけ。

ちなみにこの絵のタイトルは「The Liberator」。
解放者。はいはい。

美術館を出て高速に向かう途中に市役所があります。

アメリカの役所は結婚式もしてくれるので、
(SATCでキャリーがビッグとしてたでしょ)
お役所の前にこんな人たちがいることがあります。

別のカップルと友人たち。
これから中華街で披露パーティかしら。

高速に乗る手前にあった「街中のマグリット風」。

昔このブログで一度紹介したことがあるこの景色です

その時には今よりずっと木が小さかったので、後ろの

「ONE WAY」(一方通行)

の標識に見せかけた、

「ONE TREE」

というペイントがよく見えたのですが、肝心のTREEの字を
そのツリーが覆い隠してしまっていました。

このツリーは説明するまでもないですが、前に立つ大きな木のことです。

 

終わり。 

 

 


欧州大陸海軍 模型展

2019-03-05 | つれづれなるままに

前回見学してここで紹介した艦船模型のクラブ、
ミンダナオ会の模型展示会がまたありました。

前回、会場で住所を書いたところ、年賀はがきをいただき
そこには2月に行われる展示会の通知が書かれていたのですが、
わたし自身は所用のため(一日しかやらない)伺うことができず、
その代わり、当日わたしと同じように自衛隊イベントを掛け持ちした
Kさんが写真を送ってくださったので紹介します。

今回は欧州、イギリスはもちろんですがドイツ、フランス、
ソ連などの古今の軍艦がテーマになっています。

冒頭写真はナチスドイツ海軍の戦艦なのは確か。
実際にこの目で見たわけではないので、船の名前は表示がなければお手上げです。

有名どころでとりあえず戦艦「ビスマルク」ではないかと想像してみる。

ビスマルクというと、ゆで卵の輪切りが乗ったピザのことですが、
(あれ美味しいんだよね)あの鉄血宰相のビスマルクから来た名前です。

ピザがなぜ鉄血宰相なのかというと、ビスマルクの時代、
イタリアとドイツは友好関係にあり(その後も枢軸国だったし)
宰相自身が美食家でいくつもの「ビスマルク風」料理を開発し、
その一つがこのピザだったかららしいです。

戦艦「ビスマルク」は1941年、デンマークでの海戦で英海軍の「フッド」を沈め、
「プリンス・オブ・ウェールズ」をいいところまで追い詰めたのですが
(その「プリンス」はその後日本海軍に沈没させられたのはご存知の通り)
その直後、英国艦隊との砲撃戦に破れて撃沈されました。

艦長のエルンスト・リンデマンは、激しい砲撃の中最後まで生きていましたが、
沈む「ビスマルク」と運命を共にしています。

最後に目撃された時、リンデマン艦長は艦首甲板に、2〜30名と共に立っていて、
艦長しか着用しない白い帽子を被っていました。
また別の生存者は、前部甲板にある38センチ砲の近くに艦長が立っていて、
伝令である一等兵(従兵だったのかも)に、艦が沈んだら泳いで逃げるように、
と説得しているようだったと証言しています。

一等兵が艦長の手を取り、一緒に前方に歩いて行った時艦が傾き出し、
二人は素早く気をつけの姿勢を取ったかと思うと、敬礼をしました。

その後、「ビスマルク」は左舷に向かって急激に傾き、伝令は
そのまま海に転落していきましたが、艦長はマストにしがみついて
身体を支え、敬礼をしながら艦とともに海中に消えました。

リンデマン艦長の遺体は最後まで発見されなかったということです。

ナチスドイツの旗の上にはドイツ海軍の艦船が展示されています。
人からもらった画像なので、拡大しても文字が読めないと全くその正体がわかりません。

この辺りは艦体の形状から見てもかなり古いとわかります。
日露戦争の頃の船だというくらいは理解できるようになりました。

手前の黒い台に乗ったのは

「オストフリースラント」

「ヘルゴランド」級超弩級戦艦の2番艦で、1911年から就役しています。

これらの時代の軍艦が飾ってあるこの旗ですが、プロイセン王国の旗ですね。
この黒鷲がプロイセンのシンボルで、1918年まではドイツ海軍は
正式にはプロイセン王国海軍であったわけです。

 

1918年、11月革命とも言われるドイツ革命が起きました。
この革命の指導者の一人にあのローザ・ルクセンブルクがいます。

ところで、この革命のきっかけが海軍の水兵の反乱だったことをご存知でしょうか。

その時ドイツ海軍は、第一次世界大戦の休戦交渉に反対しており、
イギリス艦隊に決戦を挑もうと大洋艦隊主力の出撃を命じました。

しかし、水兵約1000人がその作戦を無謀なものとして出撃命令を拒絶し、
海軍司令部は兵士たちを逮捕し、キール軍港に送り収監しました。

キールの水兵たちは仲間の釈放を求め、司令部が拒絶したため、
水兵・兵士、さらに労働者によるデモが起こり、これを鎮圧しようと
官憲が発砲したことで一挙に蜂起へと拡大してしまうのです。

映画「戦艦ポチョムキン」がそうであったように、当時のドイツ海軍も
将校が貴族・教養市民層出身者で占められているのに対して、
一般兵員は労働者で占められていたため、階級闘争に発展してしまったのです。

ともあれこれがきっかけて独立運動が起こり、プロイセン王国は瓦解。
帝政が打倒され、ドイツは共和国となったのでした。

 

つまりこのプロイセン海軍の旗の上にあるのは、旧態時の海軍で、
いつ水兵が反乱を起こしても不思議ではなかった頃の軍艦ということになります。

これはドイツ国旗の上にありますので、共和国となってからの軍艦ですね。

装甲艦「ドイッチェランド」(前列左)「ザクセンヴァルト」「ケルン」

など、1920年代から第二次世界大戦中の艦船です。

今のドイツ海軍もネーミングの傾向は全く変わっていません。
これはフリゲート艦「ザクセン」。

ドイツ海軍には全くご縁がないらしい我が海上自衛隊ですが、
フランス海軍を呼んでこれるのだから、一度くらいドイツ海軍を
観艦式におよびしてはどうでしょうか。

手前のメダカみたいなのは全部アンダーゼーボート、Uボートです。
これ、皆タイプが違ってたりするんですかね・・・。

ところで、この写真の中央ラインにある船の中に

「チンタオ」

という名前を見つけました。(ドイツ国旗から5隻目)
その船についての情報は出てこなかったのですが、これはおそらく
第一次世界大戦中、ドイツが日英同盟と戦った

「青島の戦い」

から付けられたものだと思われます。
この時、ドイツ軍は日英軍の包囲戦と航空戦になすすべなく、
降伏しているわけですが、ドイツでは敗戦した場所も
艦船の名前にしてしまうんでしょうかね。

ところで、この戦いを、先日ここでご紹介した映画、
「今日もわれ大空にあり」の古澤憲吾監督、須崎勝彌脚本、
俳優は加山雄三の主人公以外は、夏木陽介、佐藤充など、
ほとんど同じメンバーで

「青島要塞爆撃命令」

というのがあり、わたしはこのDVDを所持していることがわかりました。
(買うだけ買って棚ざらしになっていたのを発見)

これも古澤=須崎コンビの映画ということですが、あの奇想天外の展開に
期待して、これもちゃんと観てみることにします。
面白かったら(ある意味絶対面白いはず)またここでご紹介しますね。

ドイツ海軍の大きな潜水艦模型が。

艦橋部分を大アップで。

映画「Uボート」に出ていたみたいな人がたくさんいるー。
艦橋右側部分で手すりに手をついているのは艦長でしょうか。

「高速戦艦脱出せよ!」

という本は、ドイツの戦艦「シャルンホルスト、」「グナイゼナウ」そして
「プリンツ・オイゲン」が、フランスからドーバー海峡を抜けて
ドイツに帰還に成功した「ツェルベルス作戦」を描いたものです。

あーしかし、ドイツの軍艦の名前って基本的にかっこよさが異常。

その上にUボートならぬ「Rボート」というのがありますが、これは
ドイツ海軍の掃海艇のことです。

Rは「Räum」=スペースという意味らしいですがなぜスペースかはわかりませんでした。

ちょうど艦名が隠れているのでどこの何かが全くわからないのですが、
なんとなくこの「土色」がソ連っぽい気がして画像検索したら、
この甲板にとってつけたような飛行甲板が

「キエフ」級航空巡洋艦

に似ている気がしました。
艦番号に相当するのがないので正否は不明です。

ほら、これですよね。
飛行甲板の形が途中でカーブを描いているので、「キエフ」が正解かな?

前回の「巡洋艦シリーズ」で紹介した覚えのある「アドミラル・ナヒーモフ」、
そして「キーロフ」。

ソ連のフネが海上で土色を甲板に使うのはどういう意味があるのでしょう。

ロシアの潜水艦群。
「ホテル」「ゴルフ」「チャーリー」「エコー」「ジュリエット」、
そして「ズールー」というのはフォネティックコードなので、
調べずに断言してしまいますが、西側がつけたコードネームでしょう。

確かソ連軍は冷戦時代も潜水艦に番号だけをつけていたはず。

前回の巡洋艦シリーズで勉強させていただいたので、パッと見ただけで
イタリアとソ連の軍艦はわかるようになりました。

さすがはデザインの国、紅白の斜めストライプを甲板に施しているのがイタリア海軍。

「ヴィットリオ・ベネト」「リットリオ」はワシントン軍縮条約時代の戦艦です。

当時の我が帝国海軍の情報によると、このことを

二、主力艦 昭和十一年末倫敦條約ノ終焉ヲ轉期トシ、
列國ノ建艦ハ主力艦ヲ中心トシテ展開セラレタリ 
昭和十一年ニ於ケル主力艦建造ハ専ラ佛獨伊三國間ニ於テ行ハレタリ 
即チ獨國ノ「ポケツト」戰艦「ドイツチエランド」ニヨリテ切ラレタル火蓋ハ
佛國ノ「ダンケルク」級二隻トナリ 
伊國ノ三五,〇〇〇噸「リトリヲ」級二隻ノ起工ニ依リ
佛國ノ第三艦「リツシユリウ」ハ三五,〇〇〇噸三八糎砲ニ計畫變更セラレ、
獨國亦艦型増大ノ趨勢ニ應ジ二六,〇〇〇噸「シヤルンホルスト」級二隻ニ引續キ
昨年起工セラレタル戰艦ハ遂ニ 三五,〇〇〇噸トナレリ(以下略)』

つまりドイツの「シャルンホルスト」と同様、フランス海軍の
ダンケルク級戦艦リシュリュー級戦艦への対抗として作られた、とあります。

 

戦艦「ローマ」も「ヴィットリオ・ベネト」の4番艦です。

43年9月にイタリアが連合国に降伏したのを受けて移動中、
昨日までの同盟国だった同一軍の爆撃航空群に直撃を受け戦没しました。


向こうはジオラマ付きの飛行船模型。
ツェッペリン型のように見えますが、このタイプの全長は個体差があって、
長いものは140m、最短は120mだったそうです。

手前は「イタリーヒューマントルピード マイアーレイタレリ」とあります。

ヒューマントルピード=人間魚雷・・・・?

あのイタリア人が人間魚雷とは、かなりの違和感がありますが、
調べてみると、特殊潜航艇には違いないようです。

うーん、わたしは今の今までイタリア海軍を少しなめていたかもしれん。

魚雷っちうよりもこれはスクーター(シールズが使ってるみたいな)
なのではないかこれ。

と思ったら案の定、

「泊地に破壊工作員を隠密侵入させる水中スクーターみたいな役割を果たす」

とありました。
泊地に侵入し、敵艦船底部分に魚雷弾頭を磁器吸着設置して
あとはさっさと逃げてくる、というコンセプトなんですね。

というとどうしても思い出してしまうのが、ちばてつや先生の
「紫電改のタカ」で、紫電改搭乗員である人たちばかりが
ひみつきちに集められ、謎の老人に指示されて特殊ボートで
アメリカ軍艦の艦体に磁石と釘で爆弾を装着、離脱するという
ミッションを課せられ、米田二飛曹が死んでしまうというシーケンス。

あの作戦はもしかしたらこの「マイアーレ・イタレリ」がモデルだったのかな。
細かな説明をしているサイトを見つけました。

マイアーレ S.L.C 200 Maiale

 

フランス海軍の戦艦「リシュリュー」と「ジャン・バール」。

「ジャン・バール」といえば、戦艦「マサチューセッツ」を見学した時、
甲板で「トーチ作戦」の時に40.6センチ砲をお見舞いしてやったぜ!
的な展示で名前を見た覚えがあります。

その時、「ジャン・バール」は確か着底までしたのですが、
その後修復され、1970年まで海軍籍にありました。

フランス海軍の軍艦が新旧全てこのテーブルに展示されているようです。

左の方にはフランス初、かつアメリカ海軍以外が所有する唯一の原子力空母、
「シャルル・ド・ゴール」がおります。

前級「クレマンソー」級の「クレマンソー」と比べるとその大きさがよくわかります。

 左に見えている「スルクフ」は、昔アメリカに寄港した際
アメリカの海軍画家によってその姿が残されました。
絵のコピーをアメリカの潜水艦博物館で見たことがあります。
 
 
甲板を見るとヘリコプター搭載型空母なのがわかります。
2010年に除籍になったヘリ空母「ジャンヌ・ダルク」。

防御機能としてはエグゾセミサイルなどを積んでいたとか。

テーマが「欧州の軍艦」のはずなのに・・・・。

アオシマの宣伝スペースでしょうか(笑)

 

というわけで、写真だけで楽しませて頂いた模型店。
素敵な写真を提供していただいたKさんにお礼を申し上げます。

 

 


海上自衛隊 横須賀音楽隊 第53回定期演奏会 @ 横須賀みなとみらいホール

2019-03-04 | 自衛隊

音楽隊の定期演奏会シーズン、わたしにとって最後となる横須賀音楽隊の
第53回定期演奏会に行ってまいりました。

会場はいつもの横浜みなとみらいホール。
とてつもなく立派なオルガンを備え、吹奏楽の音響が特に好きなホールです。

会場の写真を見ていただくとわかりますが、オルガンの左右に下げられた
ホールのバナー、つまりシンボルマークは会場を進む大型船の姿を表し、
「ルーシー」という愛称のアメリカ製パイプオルガンには、よく見ると
マホガニー部分にカモメの彫刻が施されています。

この会場のステージに、カモメと竪琴、そして波を切る護衛艦を象徴化した
横須賀音楽隊のバナーがあることの統一感にうっとり。

 

会場に早めに入った人たちには、いつものように横須賀音楽隊から
素敵なプレコンサートのプレゼントがありました。

ホワイエに待機していた六人ほどの奏者が、
この中央扉からディキシーランド風「線路は続くよどこまでも」
演奏しながら乱入(嘘)し、会場中央の通路で演奏を始めました。

クラリネット、サックス、打楽器、バンジョー、トロンボーン、テューバ
という典型的なディキシーランドスタイルで、楽しさ満点。

ステージに移動しながら「オールドマンズクロック」(おじいさんの古時計)
メンバー紹介をしてからは「12番街のラグ」を演奏しました。

12番街のラグでは、なんというのか知りませんが、振ると
「ほへ〜」と二音がなるホイッスルみたいなのを観客に渡し、
演奏に参加?させるという楽しい趣向もあり。

すっかり会場が「暖まった」ところで、コンサートが始まりました。

 

♪ シンフォニア・ノビリッシマ ロバート・ジェイガー

Sinfonia Nobilissima (シンフォニア・ノビリッシマ)

一曲目が終わった時、ステージに現れ挨拶に立った横須賀地方総監、
渡邊剛次郎海将によると、この日3月1日は三月の「マーチ」にかけた
「行進曲の日」だそうで、横須賀音楽隊は、
吹奏楽の定番曲であるジェイガーでコンサートの幕を開けました。

「ノビリッシマ」というのは最もノーブルな、という解釈で間違ってないと思いますが、
その通り、

「吹奏楽のための高貴なる楽章」

という副題が付いています。
わたしはこの曲の緩徐部分のオーボエのメロディ(4:17より)が大好き。
この日のソロにも期待は裏切られませんでした。

最初に挙げた動画は佐渡裕の指揮によるものですが、動画に
なんと作曲者ロバート・ジェイガー自身がコメントしております。

Domo arigato for such a beautiful and exciting performance. Robert Jager
(こんなに美しくエキサイティングな演奏を『ドウモアリガトウ』)

それに対して他の人が、

「The legend himself」(レジェンド本人が・・・)

「What was your inspiration to compose such a powerful piece?」
(こんなパワフルな作品を作るインスピレーションはどこから?」

本人への質問ですが、レジェンドからの返事はいまだ無いようです。

 

先ほども言ったように、ここで横須賀地方総監がステージに上がりました。
三月の「マーチ」とは「時が春に向かって進んでいく」ことから付いた、
という蘊蓄に続き、今までセレモニーなどの場で受けてきた印象よりも
ずっとソフトで気さくな印象で、総監としてのご挨拶をされました。

吹奏楽といえば、この日の司会からも説明があったように、
ここ横浜にある
妙香寺は、昔日本初の軍楽隊ができたときの
「練習場」だったため、横浜そのものが

「吹奏楽発祥の地」「君が代生誕の地」

とされています。
横浜にはそのほかにもたくさんの「発祥の地」があって、

「日本テニス発祥の地」横浜山手

「スパゲティナポリタン発祥の地」(ニューグランドホテル)

「牛鍋発祥の地」「アイスクリーム発祥の地」

「パン発祥の地」(横浜山手)

「ビール発祥の地」(キリンビールの工場だったところがある)

「鉄道発祥の地」(桜木町近く)「ガス灯発祥の地」

「電話交換創始の地」(日本大通り)「ボウリング発祥の地」

ほかにもとにかく数え切れないくらいあります。

「横浜が発祥の地」一覧

 

♪ 小栗のまなざしー小栗上野介公に捧ぐー 福田洋介

横須賀で行われた防衛セミナーで、東京音楽隊が演奏したのを初めて聞いたとき、
大河ドラマのような、と表現したドラマティックで壮大な曲です。

挙げた動画の中頃には、小栗の偉大な功績の一つである
横須賀のドライドックが映し出されます。

その時も説明しましたが、小栗が斬首された群馬県の河原に近い菩提寺、
東善寺(小栗の首はここに運ばれ葬られたという)の住職が依頼し、
地元の中学校が初演を行いました。

一抹の物悲しさと4度跳躍の音程を効果的に使ったメロディ、
壮大なエンディングも、一幕のドラマを観ているような気分になれます。

今後も、特に横須賀で末長く演奏される定番曲になることでしょう。

 

 

♪ すみれの花のように 八木澤教司

 

昨年の横須賀音楽隊定演で初演された

「鳥山頭〜東洋一のダム建設物語」

の作曲者である八木澤氏が陸自中央音楽隊の委嘱により作曲した作品です。

ほら、足元に咲く花 君のこと見上げてる
ほら、小さなすみれの花 いつもここで見てる
固い土打ち砕き 芽を出したよ この場所に
踏まれる数だけ強く 雨にうたれても
ひかり求め 大空、見上げよう
ひとりじゃないと そっとささやく 
君の足元で 広い空に 心をあずけよう
涙の後は 笑顔がひらく 君の花が咲く

作曲に当たっては新しく作詞家まはる氏に作詞依頼されました。

これを横須賀音楽隊の歌手、中川麻梨子三等海曹が歌いました。

 

♪ パガニーニの主題による幻想変奏曲 ジェイムズ・バーンズ

 

 

19世紀のレジェンド(というかデモーニッシュな)ヴァイオリニスト、
ニコロ・パガニーニの作品
「二十四のカプリース(奇想曲)」の最終章は、
何人かの作曲家が
変奏曲(一つのテーマを形式や調などを変えて繰り返す)
を手がけています。

リスト、ブラームス、ラフマニノフという超有名どころのが有名ですが、
おそらく
この変奏曲を作った人はアマチュアを含めてたくさんいたでしょう。

既存のテーマで変奏曲を作ることは作曲技法の勉強で最初に行う方法ですが、
それだけこの奇想曲のテーマは素材として扱いやすく、魅力があるのです。

近年の作曲家(というかまだご存命ですが)ジェイムズ・バーンズも
吹奏楽のためにこの変奏にチャレンジし、それがこの夜演奏されました。

変奏曲なので、テーマの繰り返しですが、そこはそれ、盛り上がりに向けての
密度や緊張感は連続して、一つの楽曲としてまとまっています。

この緊張感の連続を維持するのは演奏者の力量でもあるのですが、
特に打楽器群がこの牽引となって指揮者の統率に力を与えていました。


この曲を聴いていて、演奏会前にこの日会場で会った知人が

この演奏会で、横須賀隊員の個人技量が査定?されるらしいですよ」

と言ったことを思い出しました。
音楽隊員は一般のプロオケと違い自衛官としての昇進もあるので、
この演奏会が試験を兼ねているということなんでしょうか。

「誰がそれをチェックするんですか?」

というと、

「横須賀地方総監・・・?」

「総監が音楽隊員に『よし!』とか『だめ!』とかいうんですか」

まさかそれで横監が会場におられたなんてことは・・・・。

それを思い出したのは、この曲がそれこそ、技量査定するのに
これをおいてないという、いたるところソロだらけの曲だからです。

万が一知人の言うことが本当だったとしても、この日の演奏は
全員に「よし」が出たはず(笑)


♪ ヴォカリーズ セルゲイ・ラフマニノフ

Dame Kiri Te Kanawa sings "Vocalise" - Rachmaninoff

キリ・テ・カナワの歌う「ヴォカリーズ 」が見つかりました。
名前の前に Dameとあるのは、彼女が大英帝国の勲位を持っているからです。
男性で言うところの「サー」ですね。

音楽家で「サー」と言うと、「サー・ゲオルグ・ショルティ」が浮かびますが、
他にも「キャッツ」のアンドリュー・ロイド・ウェーバーはバロン(男爵)、
「青少年のための管弦楽入門」のブリテンもバロン、ポップスでは
エルトン・ジョン、ポール・マッカートニーがナイトの称号を持ちます。

休憩時間にあらためてプログラムを見たところ、この曲があったので、
中川三曹のヴォーカルによる演奏を楽しみにしていましたが、
いやーもう、とても素晴らしかったです。

細かいことを言えば、最後の伴奏がメロディーを奏で、それに乗せる
オブリガードの音形が最高音まで上がり切ったあとの旋律に
(カナワの演奏でいうと4:30から)もう少しキレというか
明確さが欲しかったですが、まああくまで好みの問題です。

この日の彼女には、何か一種の凄みのようなものさえ感じましたが、
選曲の妙が彼女の資質と特性を活かし切ったからでしょう。

もしかしたら他にも何か理由があるのかと思ったくらいです。


♪ バレエ組曲 「火の鳥」1919年版 イーゴリ・ストラヴィンスキー

 

この日の横須賀音楽隊には一般からのエキストラが三名いただけでなく、
「火の鳥」に必要なハープとピアノに東京音楽隊から、
長らく呉音楽隊のコンサートマスターだったクラリネット奏者が
この日のコンサートマスター席にいました。
(先日の呉でお見かけしたのですが、そちらがトラだったようです)

東京音楽隊からは全部で五人、舞鶴音楽隊から二人、大湊からも三人と、
応援が多く混成音楽隊のようになっていたのは、全てこの日の最終曲に
この大曲を選んだからだったのかもしれません。

「火の鳥」は、当時無名だったストラヴィンスキーを一躍有名にした曲で、
ロシアバレエ団のディアギレフからの依頼を受けて作曲されました。

わたしがぞくぞくするのは、「王女たちのロンド」のオーボエで始まるメロディ、
ファゴット吹きなら誰でも憧れる?「子守唄」のソロ、
何と言ってもソチオリンピックの聖火点灯の瞬間使われた「終曲」ですね。

 

あまり音楽が聴こえませんが(笑)

それから今回聴いていてふと思ったのですが、昔ディズニー・シーの
「ブラビッシーモ!」という夜のショーに使われていた曲、
あのクライマックスの部分、「火の鳥」の終曲になんか似てませんかね。

「ブラビッシーモ」は、いまだにあれを超える音楽を持つショーはないと
わたしは個人的に思っているのですが、「火の鳥」に似ていたらすごいはずだ。

曲が終わってコールされたのはホルン、そしてオーボエ、ファゴットでした。
ちなみに横須賀音楽隊のコンサートマスターは第1ファゴットです。

  

そして、鳴り止まないコールに応えて2回目にステージに現れた
音楽隊長、植田哲生三等海佐が伴ってきたのが、中川三曹。

アンコールを彼女の歌でキメるのが、ここ何回かの横須賀音楽隊の定番です。


♪ わたしのお父さん「ジャンニ・スキッキ」より ジャコモ・プッチーニ

前奏の最初の音で曲名がわかり、その途端鳥肌が立ちました。

「わたしの大好きなお父さん、わたしは彼が好きなの
もし一緒になれないのならポンテベッキオ橋から飛び降りて死んでしまうわ」

という、実にわがままそうな(笑)娘が歌う、あまりにも有名な歌。
彼女が歌うのにこれほど相応しい曲もあるまいと思いました。

Montserrat Caballé - O mio babbino caro

モンセラート・カバリエの堂々たる体躯とその割に?繊細な声をお楽しみください。

それからついでに、カバリエつながりでおまけ。
フレディ・マーキュリーとカバリエのデュエット、「バルセロナ」。

Freddie Mercury & Montserrat Caballé - Barcelona (Live at Ku Club Ibiza, 1987)

これこそが「鳥肌モノ」です。お時間があればぜひ。

この日、シンプルな構成でありながら、ドラマチックな展開によって、
歌手の技量が遺憾無く発揮されるこの佳曲を中川三曹が歌い終えると、
間髪入れず会場からブラボーの声がかかりました。
それが彼女に対するこの日の観客全員の賞賛を代弁していると感じたのは
おそらくわたしだけではなかったと思います。

 

♪ 行進曲「軍艦

そして「軍艦」でこの日は終了。
みなとみらいホールの観客はあまり「軍艦」で拍手をする人はおらず、
周りを見る限り、だいたい全体の3分の1という感じ。

皆手拍子より、このホール独特の広がりの柔らかい響きを楽しんでいる感じです。


「吹奏楽の日」に相応しく、ブラスの響きを堪能し、歌声に酔いしれた一夜でした。

最後になりましたが、演奏会参加に際してご配慮をいただきました皆様に
心からのお礼を申し上げます。
ありがとうございました。

 



 


アジア太平洋諸国海軍大学セミナー〜質疑応答

2019-03-02 | 自衛隊

さて、目黒の海上自衛隊幹部学校で例年行われている海軍大学セミナーに
こっそり参加したわたしですが、行きは恵比寿駅前からシャトルバスに乗り、
幹部学校前まで輸送してもらえました。

帰りは久しぶりの幹部学校内を歩いて門に向かったのですが、なんと
戦前からあるこの建物がどうやら解体工事中のようです。

ここに新しく施設を建て直すのでしょうか。
もうここを使って映画撮影もできないなあと一抹の寂しさを感じましたが、
建物の外観をそのまま残し、躯体を工事するというようなことは
自衛隊の建物に限って許される「贅沢」ではなく、致し方ないのでしょう。

 


さて、兼原信克氏による基調講演が終了し、質疑応答に入りました。

質問者は手をあげて指名されると立ち上がって質問を行うのですが、
最初の質問者は名乗らなかったので、どこの国かわかりませんでした。

当日の産經新聞のニュース、

韓国軍、海自セミナー出席 レーダー照射後 初の交流

という記事の写真に写っている右から6番目の人だったとしたら
インドネシア海軍からの参加者だったかもしれません。

ちなみにこの記事の写真に写っている韓国海軍の中佐の後ろに
退官された前々幹部学校長がおられ、その後ろの席が空いていますが、
実はわたしはここに座って基調講演を聴きました。

写真が撮られたとき、わたしはまだ受付をしていたため、
画面に写り込むのを間一髪で逃れたというわけです。
あぶねー(笑)


それはさておき、その最初の質問者、

「海洋支配による資源の所有権の問題をどう考えるか」

いきなり来ましたねズバッと。

兼原氏の回答は

「国連条約によって定められた領海内の資源はともかく、
その他のものについては共有はしなくてはならない。
線引きは各国ごとに違うので、200海里(FEZ)の場合も
重複する海域が出てきて、その合意については平和的解決は難しい。

しかし、我々は対話によってそれを克服しなければいけない。
200年かけて築き上げてきたルールを瓦解することになっては、
19世紀に世界は逆戻りしてしまうことになる」

というものでした。
以降、次々と質問が上がりましたので、これも要約しておきます。

●ロシア海軍

「少々哲学的な問題になるかもしれないのですが、ある国の
海軍の目的が海を開くことだとすれば、その隣の国にとっては
海がクローズされるということでもあります。
このことから武力衝突への発展が起こり、海軍の衝突が
第三次世界大戦を起こすという可能性はあるでしょうか。
海軍もまた政府の一機関であるという面もあると思いますがどう思いますか」

答え

「はっきり言いますが、核がある限り第三次世界大戦は起こりません。
核を持たない小国もまた同盟によってその一員に含まれることになります。
国際社会において、もし核を実際に使用するようなことがあった場合、
その後その国は世界で生きていくことはできないでしょう。
トップに立つ国は尊敬されなくてはいけません

力で問題を解決しようとする国は大国にはなり得ません」

●ニュージーランド海軍

「海面が上昇することによってフレーミング、つまり沿岸で
陸の形が変わっていくという懸念があるようですが」

答え

「グリーンランドは裸になりつつあり、北極の氷は溶けている、
という問題は確かにあります。
沿岸や島の小さな国にそのリスク、例えば津波などによる
被害が大きくなるなどの危険はあるでしょう。

CO2の削減を検討するとともにエネルギー効率を上げるなど
それに対する検討もなされており、これを推し進めることが重要です」

●マレーシア海軍

「南シナ海の領有権問題について日本の立場をお聞かせください」

♪───O(≧∇≦)O────♪

答え

「わが国の立場は明快です。
いかなる国も海洋法を守り、平和に問題を解決(UNCROSSという言葉を使った)
することを要求します。
この問題について、お互い戦うのか?脅かすのか?
それは決して生産的な解決とは思えません。対話が必要です」

●インド海軍(海自幹部学校の留学生)

「わたしは核の抑止力というのを信じていません。
ならず者の国がこれを持つことによってそのルールはなくなり、
核攻撃を実際に行うことによって応酬が始まってしまうこともあると思う」

答え

「戦略的核兵器の所有によって、70年間この状態が維持されてきました。
もしならず者が持つとすればそれは『小さな核』でしょう。
小さな核については世界で注視してならず者の手に渡らないようにすることです」

(そのならず者が日本の隣にいたりするわけですが、あの国の持っているのは
小さな核なんでしょうか)

●インド海軍

「今世界ではナショナリズムが高まっているように思いますが」

答え

「ナショナリズムというのはグローバリズムがあって初めて起こるものです。
日本は昔薩英戦争で、薩摩という一地方とイギリスが戦争をしました。
この時日本の他の藩は何をしていたかというと、これを見ていたのです。
日本が一つにまとまって国としての意識を持ったのは明治維新の後です。
国として他国に囲まれて初めて生まれてきた概念がナショナリズムです。
他者との接触がなければ、ナショナリズムというのは生まれません。
世界に国という境界が生まれた時からこれは存在するものであって、
昨日今日初めて高まったとはわたしは思いません。

最近のブリグジットなどはナショナリズムの摩擦によるものですが、
コミニュケーションの果てには摩擦が不可避であるのも事実です。
しかし、これらは成熟していき、やがて一つになるのが人類の到達点でしょう」

(この『一つになる』の意味がわかりませんでした。
もしかしたらジョンレノンの『イマジン』的な?)

●女王陛下の海軍

「支配欲を切り離すことができないのが人類の性だと思う。
海においてこの問題を解決し協力し合うことは可能だと思いますか」

答え

「アダムスミスは、市場経済は『神の見えざる手』によって
自然とバランスを取ると国富論で述べました。
欧米人はこの考えにより経済はアニマルスピリット(ケインズの言葉)
を取り入れたマクロ経済が必要だと考えたが、アジア人はそうではありません。
お金はないよりあったほうが幸せには違いないが、倫理がそれに勝ることもあり、
それが阻害されれば武器を持って戦うことを厭わなかった。

世界は産業革命から200年後にバランスを取ることを
ようやく学んだと言える。
我々はもはや戦争によって問題を乗り越えるということはしない」

 

なお、基調講演の追加として・・・

科学技術の革新によって、AI、サイバー技術、ロボットなど
以前はなかったものが生まれ、戦争のあり方も変わっています。

昔日本はモンゴルを神風で撃退したが、これは海に守られたが、
今、海の有無は全く戦争に影響を与えません。

コンピューターのハッカーは楽々と軍のファイアウォールを乗り越える。

これからサイバー空間における新しいルール作りをしなければならないのです。
10年、20年後の量子計算できるコンピュータの開発については
企業はすでに投資を始めている。

例えば攻撃もドローンがこれを行うようになるでしょう。
しかしこれにもルール作りが必要となってきます。
なぜならロボットは考えないのです。
ターゲットが小さな女の子で、彼女が銃を持っている時、人間なら
お父さんの銃を弄んでいるのかが瞬時にわかるが、ロボットは
銃を持った人間を認識しただけで消し去ってしまうでしょう。

そこに、倫理というものを注入していくことが求められます。

また、ニューロンレベルでの攻撃、例えば脳をハイジャックする、
などということも技術的には可能となってくるが、
人間がその領域を許すかどうかです。

これらの倫理を無視して科学技術を進めていくと、人類は
再びジャングルの中に戻っていってしまいます。

●海自一等海佐

「司会の特権として一つ質問させていただきます。
冷戦後の新しい冷戦に突入した時、我々は

歴史から教訓を得ることができるのでしょうか」

答え

「お互い人は理由がなければ戦うこともありません。
しかし、メジャーパワーの国益のあり方が変わることで
富のシフトが起こったとき、異なった価値観を持つ国同士で
争いが起きるのは歴史を見れば明らかです。

戦いを避けるためにはとにかくルールを作ること。
そしてルールは守られねばなりません

 

以上がこの日聴講した大体の内容ですが、いかがでしたでしょうか。

基調講演のなかで歴史を紐解きながら、そこに普遍的な
海軍の役割についての理想と海軍が目指すものを結びつけていくとき、
兼原氏は、各国の権益や支配被支配といった関係性を善悪ではなく
歴史の過程として捉え、その解決を「成熟」と位置付けました。

さらにわたしが注目したのは、その後の質疑応答において、氏が
歴史的な問題にしても、最近の事件に対しても、さりげなく
赤字で記したような、「我が国の立場からの主張」に対する
世界的なコンセンサスを得るための試みを行なっているように見えたことです。

まさか兼原氏ほどの人が、これらの言葉を無自覚に使うはずがありませんし、
トップレベルの軍人たちが、この意図に気づかないわけがありません。

先のレーダー照射事件が現場の軍人の間に起こったことから、
現場の自衛官やOBの間にも動揺が起こっているらしいと聞きますが、
それでも海上自衛隊と韓国海軍について尋ねられると、全ての自衛官は
きっぱりと両軍の仲は良好であり問題はない、と答えるのです。
これはわたしが見聞きしたごく僅かな例からとはいえ断言できることです。

かつて帝国海軍とアメリカ海軍もまた、世界のブルーウォーターネイビー同士、
互いに人的交流を行い、その後政情が両国の関係を悪くしても、
戦争に突入するその瞬間まで変わることはありませんでした。
この日の質問にもあった

「海軍は政府の一機関なのか」

という問いは、この世界の海軍共通の意識から見ると正しくない部分があります。
海軍は同じ海で繋がれた「同族」意識によって、他のいかなる組織にも存在しない
強い連帯感で結ばれており、それは日韓海軍も例外ではありません。

それでは日中海軍はどうかというと・・現役時代、退官後と交流を持った経験を持つ
かつての将官によると、あそこはツンデレというかそれほどでもないようですが(笑)
それでも関係者はお互い「顔を見せあう」高次元の交流を努めて保とうとしています。

 

正直わたしも連日聞こえてくる韓国という国のトンデモ国家ぶり、特に、
天皇陛下への謝罪要求のニュースなどには心底うんざりしています。

わたしのかかりつけの歯医者はタフツ大学で学んだ優秀な韓国人女医で
(留学中日本人歯科医と結婚した)彼女のことは信頼していますし、
息子が日本の学校にいた時には何人かの韓国人の母親と交流がありましたが、
個人的な好悪と国家への嫌悪は全く別のものであり、
やっぱりああいう異常な国を好きかといわれると答えに窮します。

韓流とやらのゴリ押し文化や地域ぐるみの強制的な交流行事など、
特に今は懲罰的にやめてしまっても全く構わないと思っていますし、
国家ぐるみで日本に無理難題をふっかけてくる厄介なあの国に対しては、
あくまでも毅然とわが国の立場を主張し続け、時には戦略的無視や、
あるいは懲罰的措置の行使さえも止むを得ないという考えですが、
軍は別です。

国家間の関係が難しければ難しいほど、不慮の軍事的暴発を防ぐ意味でも
軍同士は交流を絶やしてはいけないものだという考えに変わりはありません。

それは決して相手の要求を飲んだことにも、甘やかしていることにも、
ましてや丸め込まれたことにもなりません。

最悪の場合には国家の総意を受けて互いに戦う事になる両国の軍隊の間に、
万が一不測の事態による偶発的な接触が起きたとき、それがエスカレートし

戦闘に、そして戦争に拡大するような最悪の事態にならないためにも、自衛隊は
今まで通り韓国海軍と、交流という名の互いの存在確認を行うべきなのです。

 

しかしながら、わたしは今回のセミナーに参加して、それが必ずしも
世界の海軍の予定調和的な仲良し懇親会ではないことを、各国軍人の質問や、

特に兼原氏が随所に交えた言葉に含む鋭い示唆から感じました。

特に最後の

「ルールは守られるべき」

というシンプルな言葉が、今回のレーダー照射問題において、
海軍として決してしてはいけないことをした韓国海軍への抗議であり、
この場における全ての海軍関係者に訴えた、あの事件における

我が国の立場だったように聞こえてならなかったのですが、
その点を他の参加者がどのように捉えたか、非常に興味があります。

 



 


アジア太平洋諸国海軍大学セミナー 基調講演

2019-03-01 | 自衛隊

少し前、ネット界隈でこんなニュースを目にした方はおられるでしょうか。

海上自衛隊の防衛交流の会合に韓国と中国も参加へ

海上自衛隊がアジア太平洋地域の各国海軍の幹部を招いて毎年開いている会合に、
レーダー照射問題などで関係が悪化する韓国から幹部が参加するほか、
中国も6年ぶりに参加することになりました。
海上自衛隊は「信頼関係の構築を図っていきたい」としています。 


この会合はアジア太平洋地域の各国海軍と互いに理解を深めようと、
海上自衛隊が各国から大佐級の教官を招いて、毎年開いているもので、
ことしは今月25日から都内の海上自衛隊幹部学校で始まります。 


こうした部隊の交流をめぐって、日本と韓国の間では
レーダー照射問題が起きて以降、護衛艦の韓国への寄港が見送りになったほか、
韓国海軍の司令官の来日が延期されるなどの影響が出ていますが、
海上自衛隊によりますと、今回の会合には韓国海軍から中佐1人が
例年どおり参加することになったということです。 


また、中国海軍からも6年ぶりに大佐1人が参加することになったということで、
会合では人道支援や災害救助への関わり方について意見を交わすことになっています。 


これについて、海上自衛隊トップの村川豊海上幕僚長は
「両国の参加は地域の安全保障に資するものだ。
信頼関係の構築を引き続き図っていきたい」と話しています。


このニュースに対するネット民の意見は軒並み否定的で、

レーダー照射事件もカタがついていないのに呼ぶべきではない
もはや敵国なのに招待はおかしい
こういうことをやるからナメられる

などという意見ばかり。

ジャーナリストの有本香氏などもネットニュースでこれに触れ、

「韓国を呼ぶなら防衛大臣が説明する必要がある」

と、韓国軍の参加に反対を唱えているかのような口調を隠しませんでした。

 

上の意見はまともな方で、中には

呼んどいて吊し上げられるのならまだしも、相手から一方的にまくし立てられて
黙り込んでしまう日本側、がいつものパターン

という、明らかに国際裁判所と勘違いしているものや、

関係改善のために招待したのにわざわざ中佐とか微妙なところをよこされる日本

など、セミナーのタイトルになぜ「海軍大学」と付いているか知りもせず
「火のないところに煙」「ストローマン理論」による誹謗を繰り広げるもの・・・。

有本氏の非難も含め、これらのネットに渦巻く意見のようなものは、
過去何度も行われてきた(今年で22回目)海軍大学セミナーの意義と目的について
何も知らなければ、当然出てくる種類のものだろうなあと感じます。


ところでわたしが何故如此く「中の人」であるかのような物言いをするかというと、
海軍大学主催のセミナーには、昨年度身内が参加したことから、
その内容についてもある程度の知識があり、
さらにはこのニュースが出た時、
このセミナーを聴講させていただくことが決まっていたからでした。

 

非常に限られたスペースでの催しであり、参加対象者が
学校側の招待した「関係者中の関係者」に限られていたのにも拘らず、
どうしてわたしごときがそこに行くことができたかについては
諸事情によりここでは説明できません<(_ _)>

しかし、その内容と意義について、世間のほとんどの人々、そして
有本氏のような保守系ジャーナリストと呼ばれる人達ですら
全く理解していないらしいのを、ニュースやその他媒体によって知り、
やはりここはその内容について少し書くべきだと考えました。

 

海大の防衛セミナーは、3日間に渡って行われます。

初日にテーマに基づく基調講演が行われ、それに続いて同日のうちに
研究会ごとに決められたテーマについて数カ国が発表を行います。

研究会では一人のディスカッサントがファシリテーター(調整役)と協力して
テーマについて討議を行うという形式で進んでいくことになっています。

例えば、三日目の研究会IV(4回目)、問題の韓国軍の中佐が
発表を行うことになっていたセッションのテーマはこのようなもの。

「主要な海上交通路における海賊対処および
海上テロ対策のための海軍間の相互協力」

韓国以外の発表国はロシア連邦、ベトナム、シンガポール、インドネシアの5カ国です。

 

これらも全部聴ければよかったのですが、わたしが聴講を申し込んだのは
事情により最初の基調講演だけでした。
そのころはまだセミナーの開催はニュースに上がっていませんでしたが、
参加を申し込んだとき、対応してくださった方にプログラムを見ながら

「韓国海軍も来るんですね」

というと、

「韓国は毎年来ていますし、海自との関係はずっと良好なので、
おそらく今回も例年通り、テーマに則した普通の(当たり障りのない?)
ことを言うのではないかと思います」

と答えられました。

「海軍大学にも韓国からの留学生がいますしね」


それでは今年6年ぶりに参加する中国海軍はどうかというと、
かつて中国からの参加者が基調講演の演者に議論をふっかけ?
険悪な雰囲気になったとかいう噂をどこからともなく聞いたことがありますが、

それで参加が6年途絶えたというわけではなさそうです(笑)

中国海軍は予定表によると二日目、仏、豪、ニュージーランド、ブルネイと共に

「相互理解(異文化理解)促進のための各国海軍間の取り組み」

について発表を行うことになっていました。

ここは思い切って、中国を南シナ海沿岸国のフィリピン、シンガポール、
マレーシア、インドシナの中に放り込んで同じテーマでやって欲しかった。

険悪な雰囲気は避けられなかったかもしれませんけど(笑)


さて、開式に先立ち、オープニングとして海軍大学・・・じゃなくて
海上自衛隊幹部学校校長である湯浅秀樹海将が壇上で

アジア太平洋諸国海軍大学セミナー、「APNCS」は

「Asia Pacific Naval College Seminar」

のことであり、参加対象国は現在27カ国であること
中華人民共和国解放人民海軍の参加は6年ぶりであること
インド太平洋地域においては

”Oceans are a highway of logistics."

海洋は物流の中心であり、各国に繁栄をもたらすためには
そこにおける秩序が守られねばならないこと
そのためにも
「Navy law」に基づき各国海軍が理解と交流を深めることが大事である

というようなことを挨拶されました。

各国から来た海軍士官たちは自国の海大に在籍する中、大佐クラス。
海軍士官の中から選抜された超エリート軍人ばかりです。

彼らはこの三日間のディスカッションを終えてから、横須賀地方総監部を訪問、
さらには箱根と甲府での文化ツアーに参加することになっているそうです。

湯浅校長の挨拶の中にも、日本が来年のオリンピック開催地、そして
ラグビーの世界大会開催地になることに続いて、日本独特の文化について
是非とも理解を深めていただきたい、というような言葉がありましたが、
文化ツァーとはその一環として箱根の温泉にでも連れて行くのかもしれません。
甲府ではワインとニンジャ体験とか?

 

さて、わたしの聴講した基調講演の演者は元外交官であり、現在は

内閣官房副長官補兼国家安全保障局次長

であり、安倍総理のブレーンである兼原信克氏です。


「開かれたインド太平洋に向けて」

というタイトルで、映像や画像、説明のためのパワーポイントなどを使わず、
流暢な英語だけで最後まで演説されましたが、わたしは
世の中にはこんな知的な英語を喋る人がいるのかと感動しました。

おそらく日本語でも同じように明快で論理的な言葉を使う方なのでしょう。

以降ごく大まかな内容です。


古代文明は大河のほとりに生まれたが、産業革命は文明国となる力となり、
イギリスを強国にすることでパワーバランスが書き換えられることになります。

そこから世界の権力のせめぎ合いによる混乱の時代が始まり、
200年経って、ようやく平等な世界のコンセンサスを得るまでの間、
二つの世界大戦を含む権力闘争によって多くの血が流されることになるのですが、
戦後、一度も植民地化されたことのない日本とタイ以外のアジア諸国が
全て独立し、小国も大国と平等な意見を持つに至りました。

アメリカではキング牧師などの公民権運動によって、それまでの
憲法の理念が法理念と整合性を持つようになり、つまり
本当の意味での民主化が行われ、韓国でも軍事政権が瓦解し
真に民主化されたのは実は1987年のことです。

シンガポールなどアセアン諸国も「ASEANウェイ」によって
経路を積み上げて互いに発展しようとしています。

(このASEANウェイの下りは当方不見識でちょっと理解できず。
それそのものの意味は『内政不干渉』だと思うのですが)

 

それでは、海軍の存在意義、目的とはなんでしょうか。

それは自国の防衛のみならず、開かれ、自由であるべき海洋において
その秩序が維持されるように活動することです。

海上交通がシルクロードで運ばれてきたアジアの物質を
イタリアがヨーロッパにもたらし、スペインはアメリカ大陸を発見し、
支配することで大国に踊り出ました。
ヨーロッパを支配していたスペインの無敵艦隊を破り、次世代の
世界の覇者となったのはイギリスです。
つまり、海はこのように世界の勢力地図が書き換わる時に
常に重大な役目を果たしてきました。

海上交通によってものが運ばれ、文明をつなぐことができたのです。

 

インターネットがこの世に現れてからは、情報については瞬時に
世界とこれを共有することが可能になりましたが、
海が物流に大きな役割を持っていることは昔と変わっていません。

日本では今、どんな人でもヨーロッパのワインやチーズを楽しむことができます。
世界は自由貿易の競争の場となり、日本は今や対外貿易赤字のが最大、
かつて1ドルが360円だった国は、今や豊かな投資国となりました。

アメリカ国内で日本企業の雇用者は今80万人います。
日本企業は海外に工場を持ち、経済的な絆を保っています。

あの東日本大震災が起こった時、世界で唯一のパーツ企業が壊滅しました。
その時その企業に助けの手を述べたのはタイでした。

日本はまたフェアトレードを行い、技術支援やインフラの整備を行うことで
発展途上国との絆を築いてきた歴史を持ちます。

 

海は開かれていなければならない、というのは、例えばオイルなどの
液体を運ぶことを考えればわかりやすいでしょう。
産油国ではない日本は、毎日15隻のタンカーがもしこなくなれば
経済がたちまち成り立たなくなってしまいます。

それは日本だけに限ったことではありません。
ですから各国は海軍同士で連携して海賊対策にあたり、
シーレーンの安全を確保するのです。

 

海賊は組織化され、それ自体が国のようになっていた時期があるのですが、
これを打ち砕くために各国海軍が協力し、現在に至ります。

かつてマラッカ海峡は「マラッカの海賊」が跋扈し、民間船は
ここを迂回しなければならなかったのですが、各国海軍が
海賊対処に協力し、現在では
国際海事局(IMB)の主導により、
劇的に減少して海路の安全はほぼ確保されています。

マラッカ海峡の航路確保については、利益を被っていた中国も
その時には海軍を派遣して海賊対処行動に参加しました。

 

リベラルな国際秩序では各国海軍間で戦い合うことはあってはならないし、
その目的が昔と違い、各国の権益を削り合うのではなく、
共通の敵に立ち向かうことであれば、その必要もありません。

開かれた海の秩序を守る。

ブルーウォーターネイビーである皆さんたちこそが
それを達成することができるのです。

 

録音することができず、全て走り書きのメモをつなぎ合わせたので、
ところどころ自分で補足しなくてはならなくなったのと、
間違って理解している部分があるかもしれず、もし兼原氏が読んだら
「こんなことは言っていない」と
おっしゃるかもしれませんが、
まあだいたいこんな感じだったってことでご勘弁ください。


さて、この後、お待ちかね?質疑応答の時間となりました。

 

 

後半に続く。