ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「素晴らしき戦争」と「1917 」〜ウィーン軍事史博物館・第一次世界大戦

2019-10-08 | 博物館・資料館・テーマパーク

 

さて、サラエボ事件が起こったところまで無事(?)たどり着いたので、
ここからはそれを原因に起こった第一次世界大戦のコーナーです。

 

リチャード・アッテンボローの「素晴らしき戦争」(OH, What a Lovely War)
をご覧になったことがあるでしょうか。

この映画でも描かれていたように、戦争というものを長らく経験してなかった
ヨーロッパの人々は、セルビア事件のあと起こった戦争に付いて、
なにかスリリングでロマンチックな冒険のように考えていたようです。

あの映画の、綺麗な女性がステージで「戦争に行って」と媚態を見せれば、その場で
ホイホイと徴兵に応募する若者のように、イギリスの若者も、ドイツの若者も、
こぞって軍隊を志願し、そうでもしなければ仲間に顔向けができないし、
女の子にいい格好できない、と競うように志願を決めたものだそうです。

そして皆が戦争は何ヶ月かで終わると考えており、戦線に赴く際には
クリスマスには帰って来るよ、というのがおきまりの挨拶でした。

Good Bye-ee From Oh What A Lovely War!

映画のこの楽しげな出征シーンなど、彼らの当初のピクニック気分を
皮肉に表していますが、もちろん戦争に息子を送り出す母の本能的な懸念は

どんなに楽観的な世相であっても皆同じ。

最後に彼女が見せる表情が、当時の兵士たちの母親の心情そのものです。

ここに見られる写真と私物は、オーストリア=ハンガリー帝国が、
サラエボ事件発生後宣戦布告した7月28日以降、戦地に赴いた
当初のオーストリアの人々の「出征記念パーティ」の集合写真だったり、
戦地に持ち運ばれたものであろうと思われます。

帽子を花や羽で飾り立てるのが当時の「出征兵士へのはなむけ」だったようですね。

ハーモニカやまだヴァイオリンはわかるとしても、戦地に持ち運ぶのに
この大きなオルガンは一体、と不思議に思ってよく見ると、鍵盤には
実音と関係のないアルファベットが記入されていました。

(黒鍵に長短がなく、左からABCD〜並びに1234)

鍵盤の前にリールがあることから見ても、通信機のようです。

よく見ると?周りに置いてあるのは楽譜ではなく「戦闘報告書」。
戦場で本部に通信を送るための機械だったようです。

この頃のヨーロッパの革製品というのはとにかく鞣しと仕立てが丁寧で、
フランツ・フェルディナンドの靴もそうでしたが、100年経っても
完璧な形とツヤを保っているので感心するばかりです。

ここにあるのはオーストリア軍の鉄帽のようですが、第一次世界大戦開始時、
連合国兵士は信じられないくらい軽装備で戦争に臨みました。

しかし、この戦争から本格的に登場した機関銃によって様相は一変します。
革製のヘルメットで(ステッキをついている人もいた)銃剣を持って突撃しても
生身で相手の陣地にたどり着くことは不可能であることに、彼らはやっと気づくのです。

突撃していった人々がマシンガンでなぎ倒されて初めて、彼らは
身を隠すためのシェルターや塹壕を構築し始めました。

そうして第一次世界対戦は「塹壕戦」となった経緯があります。

 

彼らがお祭り気分で浮かれて参加した戦争が、やはり映画でも描かれていたように、
毒ガスと機関銃、巨大砲の登場で洒落にならない大量抹殺の現場となり、
数ヶ月で終戦どころか、戦場でクリスマスを4回も迎えなければならなくなるとは、
平和ボケしていた当時のヨーロッパ人には想像もできなかったのでした。

英語では「キューポラ」と説明されているこのドームは、塹壕の弾除けに使われた
シェルターの「蓋」で、アントワープ付近の戦場に設置されていました。

砲弾が弾着してできた金属の裂け目が戦闘の様子を物語ります。

立てて展示してある砲弾は1911年モデルです。

キューポラの内部に入って天井を見上げることもできます。
展示では何本もの柱で支えられていますが、現場では
地下壕の上に蓋をするように置かれていたものと思われます。

 


実は今これを作成しているのはニューヨークで借りているAirbnbなのですが、
サンフランシスコに続き、今度のエアビーにもネットTVが装備されており、
Huluなどは個人で登録していなければ観られませんが(日本のhuluとは別)
その代わり、Tubiなどの無料映画チャンネルがあって、なぜかどのチャンネルでも
第一次世界大戦ものと第三帝国もののドキュメンタリー映画が異常に充実していたので、
此れ幸いと毎日大画面で勉強させてもらっています。

第一次世界大戦ものには「The First World War」というシリーズがあって、
ネットには上がっていない映像や画像もタイムリーに観ることが出来ます。

「The First World War」より。
ちょうどこのシェルターのエピソードが紹介されていました。

ベルギーでのシェルター&壕の建造中の写真です。

元軍人の談話を引用して、シェルター戦について現場の声を紹介していましたが、
どうも空調設備はうまく行かなかったようなことを言っています。

ジェネレーターの空調すら閉鎖されてしまった、とのことです。

そんなところに砲弾が直撃したら中の人はどうなるでしょうか。

一度壕に直撃弾があると、やすやすとそれは破壊され、同時に下に居る
250名の人員はほとんどが死傷することになりました。

空調の悪いシェルターの中は、コンクリートのダストが立ち込め、
惨憺たる有様になったそうです。

「彼らはもはや人間の様相をしていなかった」

この写真は、当時地下壕に展開した部隊の指揮官だそうです。
直撃弾を受けて亡くなりました。

ちなみにドイツが参戦後、ベルギーに侵攻して、8月16日までには
リエージュにあった全ての防空壕は砲弾によって破壊し尽くされました。

もう少し小型の壕のドーム。
おそらくここから砲撃が行われたのだと思われます。
ここに砲弾が直撃し、分厚い鋼鉄が抉られ、ひびが入りました。

ポーランドのプシェムイシルという都市にあった装甲キューポラです。
この真下にいた人々は果たして無事だったのでしょうか。

生存者はゾッとするような火傷を負うことになった」

この戦争は、ちょうどこの頃発明された大量殺人兵器になんの予備知識もないまま、
いきなり人間が生身で対峙して、多くが命や健康な身体を奪われた最初の戦争でもありました。

その空前の戦死傷率は、ヨーロッパ全体に後々まで残るトラウマとなり、
自らを「ロスト・ゼネレーション」(失われた時代)と呼ぶ向きもあったほどです。

発明されてまもない飛行機が兵器として初めて登場したのも、
この第一次世界大戦でした。

KuKで広く用いられていたのがこの複葉機のプロトタイプ、

アルバトロス(Albatros )B II

です。

木製のプロペラ、まるで自転車のそれのようなタイヤ、こんなもので
空を飛ぶに止まらず、機銃を持ち込んで銃撃戦を行っていました。

その中で撃墜王レッドバロンことマンフレート・リヒトホーヘン男爵のように
技量に秀でた空の英雄も現れましたが、大抵は飛行機に乗って数ヶ月で
パイロットは墜落死する運命にありました。

そのリヒトホーヘン自身も、常に自分が死の隣り合わせであると感じながら
飛び続け、わずか26歳で撃墜されて死亡しています。

誰かも言っていましたが、人間はまだ空を飛ぶのに不慣れだったのです。

木の幹に取り付けて銃座を回転させる銃なども発明されました。

ダイムラー社の開発した航空エンジンです。
ちなみにこのダイムラーでエンジン開発を行ったのが、オーストリアの生んだ
天才技術者、フェルディナンド・ポルシェでした。

(ポルシェをドイツ人だと思っていた人はいませんか?)

それまで飛行機のなかったオーストリアに開発が始まったのは、
飛行機の将来性にいち早く気づいたポルシェの主張によるもので、
第一次世界大戦前からダイムラーの航空用エンジンの優秀性は
すでに世界に知れ渡っていたのです。

プロペラ回転の隙間を縫って機上から弾が発射されるという設計も、
ポルシェによって発明されたアイデアでした。

ポルシェはオーストリア皇帝よりフランツ・ヨーゼフ十字勲章と軍功労十字勲章、
1917年にウィーン工科大学から名誉博士号を授与されています。

ポルシェはたたき上げの技術者で大学を出ていませんが、しばしば
「ドクトル」と
称されるのは、この名誉学位授与によるものです。


ハウザー砲、

Škoda(シュコダ) 380 mm
Model 1916 howitzer

です。

日本、アメリカでいろんな軍事博物館に行きましたが、艦砲を除いて
こんな巨大な砲を間近で観たのは初めてです。

現場で撮った写真ではどうも近すぎて全体像がよくわからないので、
wikiの写真をご覧ください。

こんなものを撃ち込まれたら、鋼鉄のシェルターの下もひとたまりもありません。

オーストリア=ハンガリーの誇るこの包囲砲は、1916年5月、
南チロル攻勢に投入するために、開発されました。

38センチの砲弾の重さは750kg。
油圧空気圧で発射し、発射頻度は5分に1度。
最大射程は1万5千メートルといいますから、15キロ、
東京から撃ったら千葉くらいの感じですか。

問題は精度ですが、これはろくなものではなかったと思われます。

このメガトン砲の組み立てから装填までの写真が展示してありました。
 

弾砲は、砲身、架台、および発射プラットフォームの半分ずつ、つまり
4つに分けて輸送されました。

これらは8輪の電動トレーラーで運ばれました。(写真右側)

その電力も、ポルシェが設計した砲兵発電機M. 16によって供給され、
ガソリンエンジンで最高速度時速14キロで移動することができました。


右側がセッティング済みの砲で、レールに乗っています。
レールに乗せるときにはソリッドゴムタイヤは取り外し、トラックでレール上を牽引しました。

運搬する距離が長ければ、普通の機関車が牽引することができます。

弾薬を牽引し持ち上げるためのアームと鎖は標準装備。
これに人力で砲弾を乗せて装填口まで運び、(左)
トレイルに砲弾を乗せて装填を行うというわけです。

しかしながら、実際にこの武器がどの程度の戦果をあげたかについては
どこにも書かれていません。
戦後までに8基は製造されたということですが・・・。

Tubiの番組では、もう少し小型の砲が装填から発射を行う様子が
動画で紹介されていました。
こんな至近距離で砲撃を行うのに、なんの装備もしていません。


近代兵器が人間の体に与える影響に対してあまりにも無知だったこの時代、
戦地から帰った多くの者に、「シェルショック」症状が現れました。

The Effects of Shell Shock: WWI Nueroses | War Archives

 

もう誰も戦争を「ロマンチックでスリリングな冒険」と考える人はいませんでした。

 

と、ここまで制作してから、MKに、今年12月アメリカで公開になる
本格的な第一次世界大戦映画、

「1917」

のことを教えられ、驚愕しました。

1917 - Official Trailer [HD]

わたしがウィーンに行き、サラエボ事件に始まる第一次世界大戦について
勉強しだした途端にこれですよ。
過去、何度かあったブログと現実との不思議な符合が再び?

偶然といえば、使用されているテーマ曲がわたしの死ぬほど好きな
アメリカ民謡、

Wayfaring Stranger(彷徨える異邦人)

であることで、これも符合の一つのように感じています。
わたしが大大絶賛中のピーター・ホレンスのバージョンをぜひお聴きください。

Poor Wayfaring Stranger - Peter Hollens feat. Swingle Singers
 

完全アカペラです。
ドラムのように聴こえるのも『口三味線』ですので念のため。


1917 - In Theaters December (Behind The Scenes Featurette) [HD]

メイキング映像も興味深いですね。
日本で公開されたら何をおいても観にいくつもりです。

 


続く。

 

 

 


日系人執事タガ・テイキチ〜ファイロリガーデン・サンフランシスコ

2019-10-06 | アメリカ

今回は当初の予定を途中で大幅に変更したため、6月に日本を出発して
帰国が10月という異例の長さになりました。

ビザで海外滞在できるギリギリまで海外にいたことになります。

今いるのは最終地のニューヨークで、来週には帰国しますが、こちらは
先週まで日中は暑かったのに、雨が振ってからは急に気温が下がり、
日本のクリスマスくらいの寒さになって、風邪をひいてしまいました。

幸いこちらの薬はドラッグストアで買えるものでも大変強力なので、
二日でなんとか直し、観艦式に臨む予定です。


というわけで今となっては遥か昔のことのような気がしますが、
サンフランシスコでの出来事をご報告します。

今回はアメリカでの宿泊先を全てAirbnbで調達しました。
特にサンフランシスコは最近ホテル代がとんでもなく値上がりし、
キッチン付きというだけでオンボロホテルでも一泊200ドル近く取るので、
比較的短い滞在期間でも泊まれる部屋を探したら、これが大当たり。

サンフランシスコ空港に近い閑静な住宅街の一軒家の
独立した一室が借りられることになったのです。

冒頭写真は今回借りた家の全景ですが、借りた部屋には、右側のドアから入り、
中庭に面したところにある専用のドアから入室します。

オーナーの家とはテラスを通じて隣り合っているので、顔を合わせるのが嫌、
という人には向きませんが、向こうも気を遣って全く干渉してきません。

Airbnbのプロフィールによるとオーナーは若い女性でしたが、到着した時に迎えてくれ、
その後のケアをしてくれたのは彼女のお母さんでした。

彼女は英語にヒスパニック系の移民らしい訛りがある美人で、そういう人が
ベイエリアでも屈指の高級住宅街のプール付きの家の主になっていることは
わたしにいろんな人生のストーリーを想像させました。

今まで、このような地域を通過するたび、立ち並ぶ家の中はどんなのだろう、
と想像していただけだったので、今回その一つに泊まれたのは
わたしのアメリカ体験でも特記すべき出来事の一つになりました。

サンフランシスコといっても空港近くのバーリンゲームという街は、
市内のように霧で寒いということもなく、普通にカリフォルニアです。

しかし気候的には今年はいつもより暑く、アリがキッチンに出没するので
ごめんなさいね、とオーナーは最初に済まなそうに言いました。

予想外の単語を出された時に、英語の苦手な人は聞き取れないのが常で、
わたしはこの時彼女の「ants」(しかも発音が’エアンツ’でなく”アンツ”)
が理解できず、なんども聞き返してしまいました(´・ω・`)

アメリカの豪邸に欠かせないのがプール。
アメリカ人の豊かさの象徴みたいなもので、広い敷地があればアメリカ人は
庭園ではなく、プールを作るのがデフォです。

このお宅はプールサイドのパティオに大画面の薄型テレビまで設置してあります。
水面は使っていない時には全面的にカバーしていますが、この日は週末で
息子さんがパーティをするからということでお母さんが掃除をしていました。

「今日パーティをするのでもしうるさかったらごめんなさい」

彼女はそういっていましたが、パーティといってもその日のは
プールサイドでバーベキューをしてビールを飲むという定番のもので、
はしゃいで泳いだりしている人はいなかったようです。

アメリカ人にとっての自宅のプールは、あくまでも「舞台装置」で
真面目に泳ぐものではないのかもしれません。

着いた次の日、アメリカ在住の友人と連絡が取れたので部屋に来てもらい、
どこかに行くことになったので彼女が知らなかったという
「FAILOLIガーデン」に連れて行きました。

前にもここで紹介したファイロリは、金鉱の持ち主である大金持ちが
ちょうど第一次世界大戦の頃建設した庭園付きの豪邸です。
その後売却され、今では国の史跡に制定されているということです。

今回は裏から入っていったので、キッチンから見学することになりました。

前回来た時と明らかに展示が変わっています。
サーバント、使用人の個室が公開されていました。

わたしたちが邸に入った時、ピアノの生演奏が聴こえていたのですが、
ピアニストはわたしたちが部屋に入った途端、演奏をさっさとやめて
部屋を出て行ってしまいました。

初老の白人女性で、最後に弾いていたのはキャッツの「メモリー」。
腕前からいってプロではなく、ボランティアではないかと思われました。

これも前回はなかった展示です。
籐でできた車椅子とナースの制服。
車椅子の座席には持ち主の愛読書がさりげなく置かれています。

当邸でナースをしていた人が紹介されていました。
1921年ごろ、脳卒中で歩行ができなくなった当主ウィリアム・ボーンは
フルタイムで勤務する看護師を二人雇いましたが、そのうち一人が
マリ・ダンレヴィというミズーリ出身の女性で、彼女は結局15年間ずっと
ボーン氏の看護をしていたことになります。

ボーン氏は大変プライドの高い人物で、ベッドや車椅子にいるところを親しい友人、
家族、そして看護師以外には見られるのを嫌がったので、フォーマルな席では
彼の腕の届く距離でスタッフがいつもスタンバイしていなくてはならなかったそうです。

ボーン氏が庭を見たいとなると、スタッフは彼を車椅子ごと庭に降ろし、
金属の鳥かごのようなものにネットを張ったものを彼の周りに置いて虫除けにしたそうです。

 

ボーンし、無理やり手を伸ばして犬の頭を触っているの図。

どうしてたくさんいたナースのうち彼女だけが紹介されているかというと、
ボーン氏の最後を看取った看護師の一人で、特に気に入られていたからでしょう。

彼女には、ボーン氏の遺言によって終生(彼女が死ぬまで)
年間600ドル(現在の9千ドルなので、100万円くらい?)
が支払われていたということです。

わたしはこの日本人バトラー、タガ・テイキチさんの説明には
日本人として無関心ではいられませんでした。

「テイキチ・タガは使用人というだけでなく、夫であり、父親であり、
日本人捕虜のサバイバー(生還者)となりました。
1906年、タガは日本からサンフランシスコに移民としてやってきて、
洗濯屋の仕事を始めます。」

「二つの祖国」の主人公の父(NHKでは三船敏郎が演じていた)もそうですが、
日本人移民の多くは手先の器用さとこまめさを活かせるクリーニングで生計を立てました。
そして丁寧で誠実な仕事ぶりがアメリカ人にも信頼されていたのです。

ちなみに現在のアメリカでコリアンのクリーニング屋が多いのは、このころの
日系人の評判をちゃっかり利用してきたということのようです。

 

「1912年、タガはマットソンーロス家に雇われ、彼らのために働きました」

「第二次世界大戦の間、米国政府は11万人もの日本人を
故郷から追放し、連行して
強制収容所に収容しました。
二世、三世もその対象となったので、アメリカで生まれた彼の娘も対象となりました。

投獄されたときタガは62歳であり、マトソン・ローズ家のために20年間働いていました」

収容所から解放された後、タガ夫妻はロス家所有のサンフランシスコのアパートで
管理人の仕事をして暮らし、引退後にはゴールデンゲートパーク近くの家で
夫婦ともに余生を静かに過ごしたそうです」

収容所に送られる彼に対して何もできなかった雇い主でしたが、解放された後、
70近い老人にアパートの管理人という仕事を与え迎え入れたのです。

多くの日本人が同じ目にあったのですが、タガさんはその中でも
心のある主人に仕えられたわけで、非常に幸運だったと言えましょう。

 
 

東洋趣味の置物なども前回はなかった気がします。

友人は、

「お金があるのはわかったけど、なんだか成金って感じ」

とセンスを全く評価していない風でしたが、特にこの絵を見て、

「えらく美男美女に描かれてるけど・・あー、サージェントか」

わたしは前回サインをちゃんと見なかったので気づかなかったのですが、
なんとお金持ちだけあって、当時上流社会の人々の肖像画を描かせたら
当代一の人気画家だったサー・シンガー・サージェント
増し増しで描かせた肖像画であったことがわかりました。

「サージェント好きだけど・・・誰を描いても”サージェント風”だよね」

「その人をモデルにサージジェント風味に描きましたみたいな」

ちなみに彼女は絵本作家で、彼女の作品は日本でも輸入盤が売られており、
ついでながら夫は有名なゲームのビジュアルデザイナーです。

そんな彼女のいうことは、特に絵画関係に関してはわたしはいつも
「ははー」と意見を拝聴するのが常ですが、今回も彼女が、かねてからわたしが
散々心の中で貶しまくっていたこの部屋の暖炉の上の絵を
ちらっと見るなり、

「酷いね」

と言い放ったので安心しました。

「なんでこんなの飾ってるんだろう」

「孫がプレゼントで描いたとかじゃないの」

もう言いたい放題です。

 足元の犬も初めてお目見えします。
というか床全体がリニューアルされてないか?

スタインウェイのフルコンピアノが小さく見える大理石のステージ。
なんと今回、当家にはあのバデレフスキーが訪れていたことがわかりました。

IgnacyJanPaderewski.jpg

特に髪型が女性のハートを鷲掴みにし、当時アイドル並みの人気があった
イグナツィ・パデレフスキー(1860−1941)

「パレデフスキーのメヌエット」という曲をご存知の方もおられるでしょうか。

ピアニストで有名になりながら政治活動に身を投じ、
第一次世界大戦終了後の1919年にはポーランドの初代首相になりました。

おそらくパデレフスキーもここで演奏をしたと思われます。
後、有名どころでは、あのアメリア・イヤハートも当家の客となっています。

時間が少しだけあったので、庭も見てみることにしました。

木の枝が傘のように全周囲に伸びて地面に垂れている木。
内側には写真の真っ黒黒助の色違いみたいなのが吊り下げられていました。

鳥が巣を作るために用意されたものでしょうか。

庭園の様式はイギリス風を取り入れた「アングロアメリカン」風だそうです。

「でもあまり洗練されてるって感じじゃないよね」

あくまでも辛辣なわたしたち。

その後庭を歩いていたら物陰に動くものが・・・。
ワイルドターキーです。

「庭園に孔雀じゃなくてワイルドターキーがいるあたりがアメリカだねえ」

その時反対側にやはり動くものを認め振り向くと、そこには鹿が。

猛烈にお食事中。
鹿って、今回思ったんですが、写真に撮ると可愛くないのね。

先ほどのワイルドターキーが飛び上がって柵の向こうに消えました。

のぞいてみてびっくり、そこにはワイルドターキーの大群が・・・。

ちなみに彼らの歩いている所の向こうからが敷地外になります。
カリフォルニアの気候では何も手入れをしなければ土地はこうなってしまいます、
という見本が見られるというわけです。

「こんな所にこんな庭園を作ること自体場違いだったのでは・・・・」

放っておいたらこうなるわけですから、この庭園を維持し続けるのが
いかに大変かがわかるというものです。

ところで、このワイルドターキーですが、ググると「七面鳥」となります。

Gall-dindi.jpg

七面鳥ってこれだろ?と思うでしょ?

今回ショックだったのは、これは七面鳥のオスが「ディスプレー」
しているところで、常態はここで見た皆さんと同じだと知ったことです。

今の今までワイルドターキーと七面鳥は別の種類だと思っていたぜ。

それともこれは全部メスだってこと?
扇子みたいに尾っぽを開いているのを見たことないんですけど・・・。

その日は友人と、海沿いのレストランで食事をしました。
彼女の提案で、何品か頼んで全てをシェアします、とオーダーすると、
スープは最初から二皿に分けて持ってきてくれました。

真ん中にあるのはカマンベールチーズのフライ、こちらがグリンピースのサラダ。
向こうは「テリヤキライス」なる謎の料理ですが、どれも美味しかったです。

 友人を連れてAirbnbの部屋に戻ると、オーナーの猫がお出迎え。
猫好きには最高のAirbnb体験でした。

 

 

 


最後通牒とクルーザー上の皇帝ヨーゼフ1世〜TV番組『第一次世界大戦』

2019-10-05 | 歴史

今回ウィーン軍事史博物館でサラエボ事件で皇太子夫妻が凶弾に倒れたとき
乗っていた車の実物を見たばかりのわたし、どうもこういう銃痕は記憶にないので、
不思議に思って観ていたのですが、ふと気がつきました。

銃弾を受けたばかりの車の塗装がこのように剥落することはありません。
つまり、ここに展示されている間に次第に剥がれてきてしまったもので、
わたしがアメリカで観たこの番組が撮られた頃はこのような状態だったのを、
その後出来るだけ事件当時の姿に戻すための修復が行われたのでしょう。

フロントガラスを取り外したり、塗装を当時のままに塗り直したり、
保存のための努力がなされているということのようです。

わたしに言わせるとこの事件のきっかけを作ったに等しいセルビア総督、
ポティオレックの日記には事件の瞬間のことがこう書かれています。

「その瞬間、わたしはピストルの破裂音を聞いた。続けざまにもう一度。
そのときわたしの右手前方で立っていた男が人々に地面に押さえつけられ、
警備の光るサーベルが彼に突きつけられているのが見えた」

この番組製作時にはこれがプリンツィプだとされていたようですが、その後
彼の学友が連座の疑いをかけられて連行されているところだと判明しました。

インターネットの発達って素晴らしいですね。

「閣下の口から右の頬に血が吹き飛んだ。
公爵夫人はそれを見てこう叫んだ。

『ああ神様、あなたに何が起こったの』
(In heaven's name, what was happend to you?)

「彼女の体はシートから滑り落ちて車のフロアに横たわった」

「おそらく彼女はこのときもう意識を失っていただろう」

彼らはフェルディナンドとゾフィーの子供たちです。

「そしてわたしは閣下がこういうのを聴いた。

『ゾフィー、ゾフィー、死んではダメだ。子供達のために生きてくれ』

わたしは閣下に痛みはあるかと尋ねたところ、彼はとても静かに落ち着いて

『なんでもない』

と答えた」

自分も銃弾を受けながら妃の身だけを心配していた皇太子の言葉は
ポティオレック総督の日記によって後世に残されたということですね。

総督の日記によると、彼らはまず病院に運ばれたということです。

ここからは事件後サラエボを襲ったセルビア人に対する虐殺と
民衆の暴動の写真です。

サラエボは多民族国家だったので、この事件は日頃の
民族間の対立を一夜にして浮き彫りにさせたと言えるかもしれません。

いたるところで車がひっくりがえっていて凄まじい様相です。
繰り返しますが、この暴動を組織、扇動していたのは
他ならぬポティオレック総督であったことが明らかになっています。

考えようによっては、警備を手薄にした時から総督はセルビア系の犯罪を
誘発し、その報復までを意図していたのではないかと取れる行動ですね。

民衆のセルビア系に対する怒りは膨れ上がり、暴動に発展しました。

セルビア人の店、学校、協会に至るまでが破壊され、
彼らの家具が、衣類が、本が、積み重ねられられ、歩くこともできなくなりました。

そして200人以上のセルビア人が、セルビア人というだけで逮捕されました。
地方公務員は絞首刑になり、そうでない人も投獄されました。

「Pogrom」という言葉はロシアにおける「ホロコースト」のことで、
ユダヤ人に対する大量虐殺を意味しますが、ここでは
セルビア人に対する虐殺をさしています。

これを見て思ったのですが、ここまでされた民族の怒りというのは凄まじく、
おそらく100年経った今でも根底には尾を引いているものではないでしょうか。

現在の大統領がプリンツィプを「英雄」というのもまあ仕方がないかなと。

フランツ・フェルディナンドとゾフィーの棺は、まず総督公邸から
壮麗な馬車に乗せられ、オーストリア=ハンガリー海軍の軍港があった
トリエステまで運ばれました。

それは7月4日であったということですが、この時期にポティオレク総督は
各国政府に向けてオーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに
報復措置を取ることを宣言していました。

「我々はセルビアを叩くたことができる最初の機会を利用して、
君主制に穏やかな内的発展を与えなければなりません。
セルビアは今一度思い知らねばならんのです」

当然ですが、セルビア総督は完璧に帝国側の人間だったわけです。

棺は海軍軍人の手で戦艦「フィリブス・ウニティス」に乗せられ、
プーラまで、そのあとは汽車でウィーンまで運ばれました。

特にこの戦艦が役目を引き受けたのは、このラテン語である

「フィリブス・ウニティス(SMS Viribus Unitis)」

は「力を合わせて」という意味であり、この言葉が
ヨーゼフ1世のモットーであったことと関係あったかもしれません。

ウィーンにははハプスブルグ家の人々が眠る

「カプツィーナー納骨堂」

がありますが、ゾフィーはここに葬られることが許されていなかったため、
二人が死後一緒に眠ることを希望していたアルトシュテッテン城に運ばれました。

ナレーションは、

「彼は生きている間戴冠を待つ皇太子だったが、その死が戦争の原因となった」

と言っています。

オーストリア=ハンガリーの軍人、フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ
ポティオレク総督に同意しました。

「今回の事件は一人の狂信的な者による犯罪ではない。
セルビアのオーストリア=ハンガリーへの宣戦布告だ。

この機会を逃せば、君主政治は民族主義の暴発による被害を受けることになる。

我が国は政治的理由で開戦するべきである。
平和の象徴であるセルビアと共存していくためにも。」

敵の有利な戦争開始を防ぐためにこちらが先に戦争を仕掛けることを
「予防戦争」と言いますが、ヘッツェンドルフは、サラエボ事件を受けて
セルビアに対しこの予防戦争を仕掛けることを提唱した人間となりました。

「彼は死すことで開戦の理由を作った」

国際的な緊張は7月初頭まではまだ高まっていませんでしたが、ウィーンで
オーストリア=ハンガリー帝国首脳はセルビアに対し、その強力な友好関係を
刺激せずに報復を行う方法が模索されていました。

再びポティオレク日記。

「セルビアとの開戦は避けられない、とわたしは皇帝閣下に奏上した。
すると閣下はこう御下問された。

『しかしどうやって?
もしそうなればヨーロッパ中が、特にロシアが攻撃してくるのではないか』

するとヘッツェンドルフ閣下がそれに答えて、

『私たちにはドイツが付いております』

皇帝閣下はわたしに探るような視線を向け、

『それは確かなのか?』

と再び問うた」

 

オーストリアはすぐさまドイツにこのことを確認しました。

「ドイツ政府は友好国である帝国の側に常に立っており、
帝国との同盟に対し常に忠実であろうとするだろう」

これがドイツ側の返答であり、バルカン半島で起こった戦争が
世界大戦に発展した瞬間だったのです。

バルカン半島というのは大国に挟まれて小国がひしめく地域で、
ここの諸国は大国に支配されるのが宿命となっていたのですが、
サラエボ事件の少し前にロシアがクリミア戦争で負けていたので、
オーストリア=ハンガリーに吸収されるか、トルコに吸収されるか、
というところだったのですが、民族的にはセルビアはスラブ系なので
オーストリアには反感を持っていたという事情がありました。

バルカン半島が「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれていたのは
こういうことだったのです。

当時ヨーロッパは二大勢力に分かれていました。

一方がドイツ、オーストリア、ハンガリー、そしてイタリアであり、
対してフランスとロシア。
このどちらかで戦争が起これば、それに呼応するのが当然の構図だったのです。

しかし、バルカン半島の国に何か起こった時、ロシアがどう反応するか、
つまりセルビアを守るためと言う理由でオーストリアに挙兵するのか、
そうなるとドイツがオーストリアを守るために宣戦布告するのか、
今でこそ明らかなこの対立構図ですが、当時の当事者にはわかっていなかったのです。

サラエボ事件の犯人を裁く裁判の様子です。

裁判では、彼らを幇助したのがセルビア軍の将校だったと言う証拠が出され、
軍人が4人銃殺刑に処せられました。

実行犯となったプリンツィプは20歳未満だったため死刑を逃れましたが、
事件の首謀者のうち5名が銃殺刑の宣告を受け、そのうち3名が刑を執行されています。


 最後通牒が発令されたのは1914年の7月23日でした。
その途端街は騒然とし、街は不安な市民で溢れました。

政府は戦争を回避するつもりがあるのだろうか。

これに対し、世界の外交官たちは呑気にもバカンス中で街におらず、
パリは絶賛街がもぬけの殻状態。
イタリアの外交官はアイルランドに旅行中という状態でした。

そしてもっとも驚くことに、皇帝はこの時予定通りバカンスに出かけています。

ロシア駐在の外交官は、ロシアは革命のことがあったのでそれどころではないし、
また、セルビアがロシアの挙兵に対し拒否感を示すだろうから
おそらくそれを考慮してもロシアが宣戦してくることはないだろう、と報告していたため、
皇帝は戦争は起こらないだろうと楽観していたのではないかと言われています。

(前回の、報復の戦争を起こしたのは『皇帝が』『筋を通した』とした
わたしの考察は微妙に間違いで、暗殺事件を理由に、軍人たちが戦争を煽った、
というのが真実により近いように思われます)

このときオーストリアがセルビアに突きつけた最後通牒は、
セルビアにとっては受け入れ難いほどに極端で屈辱的な要求でした。
あえて受け入れられない要求をし、相手に拒否させて開戦に踏み切ることを
最初から目的としたもの、そう、ハルノートみたいなものだったのです。


最後通牒が届けられた時、ヨーゼフ1世はノルウェイでクルーザーに乗っていました。
映像ではこの時デッキで皇帝が愛犬をかわいがっている様子が映し出されています。

側近の一人が最後通牒について皇帝に報告したときのことをこう証言しています。

「皇帝はいつもの通り朝食を終えるとデッキでわたしにこういった。

『それ(最後通牒)はたまたまそんなに強い表現になったのだね』

『そうかもしれません』

わたしは答えた。

『しかしこれは戦争を意味します』

しかし皇帝は、此の期に及んでも、セルビアが戦争という危険を冒すとは
考えていなかったと思われる」

 

その後の展開は、歴史の示す通りです。

セルビアがロシアに助けを求め、それに呼応して世界中が参戦を決め、
多くの国が同盟国の戦争に参加し拡大して第一次世界大戦へと繋がっていくのです。

 

サラエボ事件シリーズ終わり

 

 

 


サラエボ事件と暗殺者プリンツィプの記念碑〜TVシリーズ「第一次世界大戦」より

2019-10-04 | 歴史

前にも書いたことがありますが、アメリカ滞在の最終地、ニューヨークで
借りているAirbnbの部屋です。

一体いつまでアメリカにいるんだ?と知り合いに言われてしまいましたが、
観艦式にはなんとか間に合うように帰る予定です。

ここで観ていたインターネットTVの見放題映画チャンネルでは、
あまり人気がないと思われる歴史ドキュメンタリーや戦争映画が見放題。

20年ぶりくらいにアウシュビッツの音楽隊を描いた「プレイング・フォータイム」
(バネッサ・ウィリアムズ主演)を観ましたし、今作業の合間に流しているのが
「ヒトラーズ・チルドレン」というテレビシリーズ(全5回)。

第一次世界大戦関係の映像も豊富で、今回のウィーン軍事史博物館の
サラエボ事件を書くのに大いに勉強させてもらいました。

今日は、その番組でキャプチャした映像とナレーションをご紹介します。
一度説明したことも繰り返すことになりますがご了承ください。

サラエボ事件で暗殺されたフランツ・フェルディナンドの説明です。
繰り返しになりますが、父親である皇太子が病死したので、次の継承権を持つ
フェルディナンドがその地位を継ぐことになっていました。

これは写真に残る皇太子の胸の勲章のアップ。

ところがその頃、ハプスブルグ家の女官だったチェコ生まれの貴族、ゾフィーと
フェルディナンドは熱烈な恋愛をしていました。

フェルディナンドは反対する周りを押し切り、彼女を皇族扱いせず、
子供達にも帝位継承はさせないという条件で結婚を果たします。

フェルディナンドはゾフィーとの結婚を一度として後悔したことはありませんでした。

「私のしたことでもっとも賢明だったと思われるのはゾフィーとの結婚だった。
妻は私のよき助言者であり、私の主治医であり、守護天使だ」

 フェルディナンドは最後までこのように妻を絶賛していたのです。

サラエボの市庁舎に向かう彼らの車に暗殺グループの爆弾が投げられました。

画面右側に見えているのがサラエボ市庁舎です。

画面手前の橋袂が、皇太子夫妻の車に最初に爆弾が投擲されたチュムリヤ橋です。
車はスピードを上げて右側の車路を市庁舎に向かいました。

この字幕の意味は、この日セルヴィアが「聖ヴィトゥオスの日」という祝祭日で、
民族的に重要な宗教行事が行われる日を選んだのはフェルディナンドのミスだ、
というような意味です。

日にちの指定を皇太子本人がするはずがねえ、と思うんですが、この日、
二人の記念日だったことを思い起こせば、もしかしたら二人は、
軍事視察という、二人が堂々と公式行事に並んで出席できる機会と
結婚記念日が重なることを密かに企画していたという可能性もあります。

さらに、フェルディナンド自身がいっていたように、ゾフィーが彼の助言者で、
このことも彼女が提案したという可能性だって無きにしも非ずです。

何れにしても、彼らにとっての絶好の日が、運悪く統治先の民族派の
聖祭日であることは「バッドリー」なことだったのです。


この日のサラエボは聖祭日のため旗が通りの軒にはためいていました。

 

この日が1300年代オスマン帝国がコソボにした日とも重なっていた、
ということを反感の理由の一つとして述べている媒体(wiki)もありますが、
これはグレゴリオ暦に換算したもので、正確な日付はこの日ではありません。

民衆の間にはこのことが不満となっていた、というわけですね。

「そして彼の銃は火を噴いたのである」

二人はまずサラエボ駅に汽車で到着しました。

懸念される要素があるにも関わらず、警備は大変薄いものでした。
前に書いたように総督が言うところの

「併合に融和的な人々を刺激する」

と言うこともあったでしょうが、それよりもわたしはこの日が
聖祭日であったからではなかったかと思います。

皇太子夫妻を乗せて運んだのはグラーフ&シュティフト「ドッペルフェートン」でした。

幌を開けてオープンカー状態で車を走らせたのは、他ならぬ
フランツ・フェルナンドの要求であったそうです。

しかし、ここでまたしても思うのですが、爆弾投擲の後は
安全を考えてせめて幌を畳んで走行すればよかったのに・・・。

これはウィーン軍事史博物館の展示ですが、わたしが観たときには
このような荷物はありませんでした。


出たよポティオレック総督。
わたしに言わせるとこのおっさんが元凶を作りまくっていたわけですが。

ポティオレックは日記をつけていて、その日記によると、皇太子は
最初の爆弾投擲テロが起こり、車が急発進してその場を離れた時、静かに
提督に向かってこういったそうです。

「わたしは常にこういったことが起こりかねないと思っていたよ」

そして彼らを乗せた車がセルビア市庁舎に到着しました。

このときに、歓迎側が普通に祝辞を行なったので、興奮した皇太子が、

「あんなことがあったのに普通に祝辞をするなんてどうなんだ」

と食ってかかりました。
当然ですが、皇太子は皇太子妃に諌められて黙ってしまいました。

犯人のガブリロ・プリンツィプ。
裁判では

「私はユーゴスラビアの民族主義者であり、ユーゴスラビアの統一を目指している。
どのような形態の国家も気にしないが、オーストリアから解放されなければならない」

と述べています。

彼はこの事件の首謀となった急進的な民族団体「ブラックハンド」のメンバーで、
最初は背が低いのを理由に入会を断られたにも関わらず、熱心にテロの練習を行い
この日に及んだと言う人物でした。

ただし、テロのために公園で銃撃の練習をしていたメンバーの中では、彼は
もっとも下手で、仲間に笑われていたということです。

プリンツィプは最初の爆弾投擲の時に、側道に立って、他の暗殺グループと
行動を共にしていましたが、この時の爆弾は外れ目的を達しなかったので、
とりあえず自分は無関係のふりをして現場を離れ、この日の実行を諦めて
帰宅するつもりでたまたまデリカ
(カフェと最初に書いたのですがこの説もあり)で
サンドウィッチを買っていたところ(食べていたという説もあり)

目の前に路を間違えた皇太子夫妻の車が止まったのです。

この時車が完全にギアがロックされ、静止した状態になったので、
それを知るや彼は駆け寄って銃を撃ちました。

おそらく彼は考えるより先に行動を起こしていたのでしょう。

ブラックハンドに入団する前から、彼は学生にして熱烈な闘士でしたから、
昨日今日暗殺を思いついたようなものではなく、その思想は筋金入りで、
これまでの人生はこの瞬間のためにあったと感じたに違いありません。

ここがドキュメンタリーでの事件現場の橋のたもとです。
画面右から皇太子の車はやってきて間違えて右折し、静止したところ、
右側の角にあったデリカテッセンから出てきたプリンツィプが
車に向かって銃弾を放ったのでした。

ちなみに現在のグーグルマップで見た付近の様子。

画面奥から来た車は、青い車の位置で停止し、そこで
銃撃を受けたと言うことになりますが、今ここは駐車場になっていて、
ドキュメンタリーが作られた頃とも全く違う様相になってしまっています。

非常に荒廃した感じの街並みで、この国が近年になって
内戦という激しい戦火に見舞われていたと言う事実を思い出させます。

ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦は約4年間続き、サラエボ包囲では、
死亡者12,000人が、負傷者50,000人、うち85%は一般市民でした。

ミリャツカ河の付近には河を挟んでセルビア軍の戦車が並び、対岸の
スナイパー通りでは、女子供も全てが狙われたといいます。

建物が無くなっているのはNATO軍の爆撃によるものかもしれません。

第一次世界大戦のきっかけとなった街角は、それから100年も経たぬ間に
第二次世界大戦後最悪の戦場となったのでした。

しかしわたしの予想通り、ここ暗殺現場には、何度も記念碑が置かれては
その都度すぐさま撤去されるということが繰り返されているのだそうです。

まずは事件直後の1917年、柱が建てられましたが翌年破壊され、
第二次世界大戦が終わってから、

「ガブリロ・プリンツィプがドイツの侵略者を追い払った」

という碑が現れましたが、もちろんこれもすぐに撤去。

事件の際、プリンツィプが歴史的な銃撃を放った場所に、
足跡がエンボスされていた時期もありましたが、こちらは
ボスニア戦争においてたまたま爆弾が命中し、破壊されています。

事件から100年が近づくと、暗殺現場にはこんな碑が設置されました。

「1914年6月28日、この場所からガブリロ・プリンツィプは、
オーストリア=ハンガリーの皇太子フランツ・フェルディナンドと彼の妻
ゾフィーを暗殺しました」

そして、同年4月にはプリンツィプの胸像がベオグラードで除幕され、
セルビア大統領は

「プリンツィプは英雄であり、解放思想の象徴であり、
また暴虐なる殺人者でもあり、ヨーロッパを長らく覆っていた
隷属社会からの
解放の思想を持つものであった」

とスピーチを行なったということです。

支配されていた側から見ると、こうなるんですね。

 

続く。

 

 


写真集「軍艦香取征戦記念」〜”日独交戦状態ニ入ル”

2019-10-02 | 軍艦

以前ここで大正13年度の帝国海軍遠洋練習航海について、
新橋の古本市で手に入れた記念アルバムを元にお話ししたことがあります。

それを買った古本屋の主人が、何万円もする旧軍の写真集をほとんど
即決でお買い上げしたわたしを、戦史研究家か、あるいは

ノンフィクション作家だとでも勘違いしたのか、
他のブースを物色し立ち読みしているわたしのところにこっそりやってきて、
横から

「もしよろしかったらこんなのもありますが・・・・」

と差し出したのが、この写真集、

「軍艦香取征戦記念」

でした。

「買ってくれるんなら半額にしますよ」

という巧みなセールストークについ乗せられ、こちらも
その場でお買い上げとなったわけですが、新シリーズとして
この写真集をご紹介していくことにしました。

前回の練習航海アルバムの写真をブログ用にアップしたとき、
一枚一枚ファクシミリ機でキャプチャして、それを取り込み、
写真ソフトで加工するという面倒な方法でやっていたのですが、
「香取」のアルバムになかなか手をつけられなかったのは、
この作業をするのが家でないとならず、さらに面倒臭すぎて、
億劫が勝ってしまっていたことにあります。

ところが、今回それをやろうとしていたところ、帰国していた息子が、
「カムスキャナー」というデータ読み込みソフトを使用すると
iPadから写真を撮ることでデータ化し、取り込むことができる、と
教えてくれました。

コピー機に挟めないくらい大きな地図のようなものでも、
椅子の上に立つとかして、全体をとにかく撮影さえできれば、
歪みも修正でき、写真としての色もそのまま残すことができます。

「はあー便利になったものだのう」

感心しながらパシャパシャやっていたら、MK、

「でもさ、なんかこないだ撮影してデータにする道具買ってなかったっけ?」

あーそういえばスタンドライト型オーバーヘッドスキャナ買って、
ソフトのダウンロードをしないまま放置してたんでした。

「あれ、ダウンロード用のCDがサイズ小さくて」

「オンラインでダウンロードできるはずだけど」

でも、こんな簡単な方法でスキャンできるのがわかったら、
今更面倒くさいセッティングなんてする気も起こらないよね。

まあただ、どんな贔屓目に見ても画質はそんなに良くありません。
本シリーズ掲載の写真で、画像が甘いものがあったら、それは
このスキャナで撮ったものだとご理解くださいますようお願い申し上げます。


それはともかく、そういう理由で中身を無事ダウンロードし、
ここで紹介していくことになったわけです。

ここでもう一度アルバムの写真を見ていただくと、黒地に金文字が打たれた
大変立派な紙を使用してはいますが、綴じ方はページに穴を開け、
当時は黄色であったらしい紐で結わえて束ねるという手作業です。

黒の表紙は、エンボス加工がしており、それは椰子の木に島という、
「香取」が「征戦」を行なった南の島をあしらったデザインとなっています。


さて、ところで今更ですが、ここでいう「征戦」とはなんでしょうか。
いきなりですが、アルバム巻末には、

「大戦日誌」

なる年表があります。

大正3年(1914年)6月28日

墺国皇太子および同妃塞国一兇漢の為めに射殺さる

そう、つい最近ウィーン軍事史博物館で見た資料をもとに
ここでも詳しくお話ししたばかりのラエボ事件ですね。

つまり「香取」が第一次世界大戦に征戦したという記録なのです。

塞国はセルビアのことで、セルビアは

塞爾維亜
塞爾維
塞耳維
塞爾浜

などと漢字表記されます。

ところで、どうしてオーストリア皇太子がセルビアで暗殺されると、
それが世界規模の大戦になるのか、不思議ではありませんでしたか?

それを考察する前に年表を見てみましょう。
ここには事件1ヶ月後からの世界の動きが実に端的に書き表されています。

7月28日 オーストリア、セルビアに宣戦す

8月1日 ドイツ、ロシアに対し宣戦す

8月2日 ロシア、ドイツに対し宣戦す

8月4日 イギリス、ドイツに対し宣戦す

8月9日 セルビア、ドイツに対し宣戦す

8月10日 フランス、オーストリアに対し宣戦す

8月13日 イギリス、オーストリアに対し宣戦す

8月15日 帝国、ドイツに対し最後通牒を送る

8月23日 日独交戦状態に入る

 

帝国とはもちろん我が大日本帝国のことです。
一応参戦前に通牒を送って確認をしているわけですね。

 

ここでもお話ししたように、皇太子の貴賤結婚に反対し、暗殺されたことを
『神による秩序の回復』とまで言ったオーストリア皇帝ヨーゼフ二世でしたが、
皇太子暗殺に対しては筋として?報復のため宣戦布告を行いました。

これはわかります。

問題はサラエボ事件から三日後になぜドイツがロシアに宣戦したかです。

これは、ロシアが領土的野心を持つセルビアを支持する側に立ち、
ニコライ二世はオーストリアに対して兵士を総動員したことに端を発しており、
ドイツはこれを取りやめるよう要求して断られ、武力で報復をすることにしたのです。

そしてそんなドイツに対立する形でイギリスが参戦、と、
瞬く間にワールドワイドな規模になってしまったわけですが、
もっとわかりやすくいうと、この大戦の構図は

「ドイツ・オーストリア対英仏米日露その他大勢」

ということでいいと思います。
当時は国同士がなんらかの形で同盟となっていましたから、
ヨーロッパ中が呼応する形で名乗りを上げていったのは自然の成り行きでした。


それは日本についても言えることでした。

今これを製作しているニューヨークの家には、Huluなどのネット番組が見られる
ROKUというテレビを導入してくれているので、おかげでわたしは久しぶりに
どこかの中国人がアップした「映像の世紀」「新映像の世紀」を通して観ました。

(いちいち中国語字幕が入っているのがうざいんですが、中国が映像に映ると
途端にシーン・・となってしまうのが露骨でちょっと笑えます)

そして気がついたのですが、もう20年以上前に制作された元祖たる
「映像の世紀」では、日本が第一次世界大戦に参加した理由を

「中国の青島での権益が目的だった」

としか説明していないのです。

今回久しぶりに観て、昔はなんの疑問も感じず言葉どおり受け取っていたこの部分が
明らかに大事な事実を意図的に伝えていないのに気がつきました。

それだけでなく「映像の世紀」制作陣は、日本の第一次大戦参戦が、あたかも
中国大陸だけに向けて行われたことしか伝えていませんが、ことの経緯を見ると、
決してそれが「中国の権益が第一目的」ではなかったことが見えてくるのですが。


それはこういうことです。

当初、日本は遠いところで始まったこの紛争に高みの見物だったのですが、
戦闘が始まり、ドイツ軍が無制限潜水艦作戦と称して、
Uボートで連合国の輸送船をそれこそ無制限に攻撃し始めるようになると、
手を焼いた英国が日英同盟の締結国である日本に、
輸送船の護衛作戦に参入するように、と再三要請をしてきたのです。

 

ところで、湾岸戦争の時、お金だけ出して日本は汗をかかない、と非難されたとか、
感謝広告に日本だけ国名がなかったとかいう話がありましたね。

あの日本に対する冷たい扱いは、実は裏でアメリカが画策していたいう噂もありますが、
その真偽はともかく、自分の国と関係ないところで起こっている戦争について
ギリギリまで静観を決め込むのは、国家としてまったく普通の態度だと思います。

しかし、その戦争に巻き込まれているのが同盟を結んだ国となると話は別です。

同盟国が危害を加えられたとあらば、トランプ大統領に言われるまでもなく
双務的義務を果たすべく、こちらも血を流す覚悟を決めなくてはいけません。

その覚悟がないなら最初から同盟など結んではいけないし、日本はアメリカと
同盟国である以上、アメリカに守ってもらうだけというのは「契約違反」となります。


アメリカ側がこの現状に言及したことは、日本がアメリカに守られながら、
その一方で、

「アメリカの戦争に巻き込まれる!」

などという国内の意見を利して実質軍隊の手足を自ら縛ってきた戦後体制を、
あらためて正す、そのための憲法改正のきっかけになっていくのかもしれません。


話を元に戻しましょう。

野党や左派、メディアやアンチ安倍な人たちから散々非難されたことが
記憶に新しい集団的自衛権ですが、
皆さんは、この第一次世界大戦において、
当時の日本が
いわゆる集団的自衛権による出動を要請され、当初これを断って
連合国から非難されていたという史実があったのをご存知だったでしょうか。

 

サラエボ事件後、欧州中が宣戦布告のエンドレスサークル状態になった時、
日本はイギリスから陸軍のヨーロッパ戦線への投入を要請されましたが、
先ほども言いましたようにこのときはこれを断っています。

もしこの時に日本政府が陸軍派兵を行なっていたら、

「西部戦線異常なし」

の日本版が誰か日本の文学者によって書かれたかもしれません。
第一次世界大戦の陸戦はわたしたち日本人にとって遠い世界の出来事のようですが、
当時の政府の対応次第では当事者となっていた可能性もあったということなのです。


しかしそれだけではありません。
ドイツのUボートに手を焼いたイギリスは、
なんと日本に対し、

「金剛型戦艦をイギリス軍に貸せ」

と言ってきて、日本はこれをはねのけているのです。

Kongo 1925-28.jpg

個人的に腹がたつのは、「第三戦隊を派遣せよ」ではなく、
「金剛型を貸せ」
という上から目線のイギリスの態度ですね(笑)

これらを建造したのは確かにイギリスのヴィッカースでしたが、だからと言って
我々が使うから貸せ、というのはあまりにも日本に対し失礼と言えます。

もっともイギリス海軍、帝国海軍のことは大東亜戦争が始まって
「レパルス」「プリンス・オブ・ウェールズ」がマレー沖で
沈められるまで見くびり切っていたと思われるので、仕方ないでしょう。

このとき陸軍と金剛型の貸与を断ったことは、日英同盟の観点から
連合国、イギリス側からおそらく非難されたと思われます(調べてません)。

 

しかし、結局のところ、同盟の契約を無視することなどできなくなり、
ついに日本はドイツに宣戦布告を行い、参戦することを余儀なくされました。

なぜドイツかというと、イギリスがドイツと戦争していたからです。

ちなみに、今世紀に入って新たに制作された「新・映像の世紀」でも、
サラエボ事件を扱っていますが、続く各国の参戦についての説明において、
連鎖的に各国が参戦に雪崩を打って突入したことは、

「列強は安全保障のため軍事同盟を結んでいた。
イギリスはフランスとロシア、ドイツはオーストリア、オスマン帝国と結び、
二大陣営に分かれた。
政争を望まない他の国々も、軍事同盟に縛られ、
30カ国を超える国々が戦火に巻き込まれていく」(ナレーション)

なるほど、戦火の拡大は軍事同盟の縛りがあったからで、
望まない国も参戦せざるを得なかったと・・・。

わかってるじゃん!

ところが、日本についてはこうです。

「日本はイギリスとの同盟を理由に連合国として参戦。」

「映像の世紀」を制作したのって、本当に日本人なんですかね。
なんなんでしょうか、この一行に感じる違和感。


他の国には「望まない」という情緒的な言葉すら使って、軍事同盟に縛られ
参戦せざるを得なかった、と同情的に言いながら、日本だけは
『軍事同盟を中国大陸の権益を得るための口実にした』とでも言いたげです。

最近のNHKについてその左傾化、反日本的な態度を糾弾する人も、
「NHKにはいい番組もある」ということを付け足すのが常です。
わたしもそれは否定しませんが、少なくとも彼らが挙げるいい番組に
この「映像の世紀シリーズ」は入れるべきではないと思います。

歴史的事実を伝えているようで、彼らの意図はある方向への誘導は明らか、
特に日本が登場する箇所には中立とは言えない視点の”歪み”が目につきます。

 もし、昔この番組を観ていい番組だと思っていた人がいたら、もう一度
youtubeで観てみてください。

もしわたしの感じたように、前回気がつかなかったNHKの巧妙な、一種の
「角度」に気がつくことがあったら、この期間にあなたを変えたものは、
それはおそらく
インターネットという新たなツールのもたらした情報です。


 

8月23日 宣戦の詔書発せらる

さて、ドイツと交戦することになった日本、開戦4日後には
あの第二艦隊が出動し、早速膠州湾(山東省)を閉鎖。
陸軍が上陸してドイツの租借地だった即墨区を占領することに成功しました。


我らが軍艦「香取」が出動したのはこの頃、9月19日です。
「香取」の任務は、マリアナ諸島サイパンを占領することでした。

年表によるとマリアナ群島占領は10月14日となっていまんす。

このアルバムは、まさにその一連の出征を、無事勝利を収めて帰ってきてから
思い出の写真を編集し参加者に配られた記念品であった、というわけです。

ついでにこの年表について、最後まで説明しておくと、

10月19日 「高千穂」敵駆逐艦「エス」九十号の水雷を受け沈没す

Japanese cruiser Takechiho.jpg

防護巡洋艦「高千穂」は、あの映画にもなった「青島攻略戦」において、
当時すでに老朽艦でありながら参加し、補給用の魚雷を輸送している時に
小型駆逐艇「S90」に魚雷2発を受け、轟沈しました。

「高千穂」は海軍創設以来、敵との交戦で最初に沈没した軍艦になりました。

11月1日 南米チリコロネル沖において、独艦隊のため
英艦「グッドホープ」
「モンマス」の両艦撃沈せらる

HMS Good Hope.jpgグッドホープ

いわゆる「コロネル沖海戦」です。
「グッドホープ」を指揮していたのは、あの

マキシミリアン・フォン・シュペー中将

でした。

11月9日 敵巡洋艦「エムデン」、英艦「シドニー」のために
インド洋ココス島に撃破せらる

「エムデン」艦長 カール・フォン・ミュラー

この頃のドイツ軍の士官は皆名前に「フォン」がついていますが、
貴族でなかった者も戦功を挙げ貴族を叙されることもありました。


「エムデン」は「シドニー」からのフルボッコ状態になり、
ミュラー艦長は「エムデン」をわざと座礁させ白旗を揚げました。

座礁したボロボロの「エムデン」。

そして日本における第一次世界大戦派出は終わりました。

12月4日 加藤定吉第二艦隊司令長官東京に凱旋す

12月5日 香取着

12月8日 栃内司令官東京に凱旋す

第二特務艦隊は任務において多くの戦死者を出し、しかも
敵に怯まず任務を遂行したため、英議会ではこれを称えて
『万歳」が日本語で行われ、英国人をして彼らを

「地中海の守護神」

と呼ばしめた、という事実はもちろん「映像の世紀」では決して扱われません。
彼らにとって日本の戦争は領土拡大と権益獲得のための野心だけが理由であり、
国際貢献を認められ世界に賞賛されたなどという事実はおそらく都合が悪いのでしょう。


同日 スタディ中将の率いる英国艦隊はフォークランド島沖において
独艦「シャルンフォールスト」「グナイゼナウ」「ライプチヒ」を撃沈す

いわゆるフォークランド沖海戦です。

沈没する「シャルンホルスト」と「グナイゼナウ」。
コロネル沖海戦でイギリス軍に打ち勝ったシュペー大佐は
やはり同じ海戦に参加していた二人の息子と共に戦死しました。

この海戦で「シャルンホルスト」の乗員は全員が戦死しています。

さて、この年表は、キャプチャしなかった次のページの

12月8日 青島攻撃軍司令官神尾中将東京に凱旋す

で終わっています。

 

 

続く。