人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

(インタビューとレビュー編) ホセ・クーラ 自作オラトリオ「この人を見よ」を世界初演 / José Cura "Ecce homo" world premiere

2017-04-02 | プラハ交響楽団と指揮・作曲・歌 ~2017



チェコのプラハ交響楽団のコンサートの続報です。3月8、9日のコンサートについては、(リハーサル編)でも紹介しました。
今回は、コンサート本番の様子を、プラハ交響楽団子ども合唱団のホームページ、フェイスブックに掲載された沢山の写真のなかから、いくつかお借りして紹介するとともに、クーラのプラハでのインタビュー、そしてコンサートのレビューなどを抜粋して掲載したいと思います。
いつものことですが、チェコ語やスペイン語からの翻訳がたいへん不十分であることについてはご容赦ください。

今回、コンサートの前半は、プラハ交響楽団をクーラが指揮して、サティとレスピーギの曲を演奏しました。

後半は、クーラ作曲のオラトリオ「ECCE HOMO(この人を見よ)」の世界初演。指揮は友人のマリオ・デ・ローズ。
オケはプラハ響、そしてソリスト男声2人、女声2人、混声合唱合唱団と子どもの合唱団、さらにクーラ自身が、キリスト役の声として歌いました。

≪曲目・出演≫

エリック・サティ 「ジムノペディ」 (クーラ指揮)
レスピーギ 「教会の窓」 (クーラ指揮)
クーラ作曲 オラトリオ「ECCE HOMO(この人を見よ)」 (マリオ・デ・ローズ指揮)

Smetana Hall, Municipal House  8.3.2017 19:30 、9.3.2017 19:30
ERIK SATIE Gymnopédie (orch. Claude Debussy)
OTTORINO RESPIGHI Church Windows
JOSÉ CURA Ecce homo, oratorio (world premiere)
José CURA = tenor
Lucie SILKENOVÁ = soprano, Sylva ČMUGROVÁ = alto, Aleš VORÁČEK = tenor, Jaromír NOSEK = bass
PRAŽSKÝ FILHARMONICKÝ SBOR / PRAGUE PHILHARMONIC CHOIR , JAROSLAV BRYCH = choirmaster
KRÁLOVÉHRADECKÝ DĚTSKÝ SBOR JITRO / CZECH CHILDREN'S CHOIR JITRO , Jiří SKOPAL = choirmaster

SYMFONICKÝ ORCHESTR HL. M. PRAHY FOK / PRAGUE SYMPHONY ORCHESTRA
José CURA = conductor , Mario DE ROSE = conductor




クーラの「この人を見よ」世界初演をはじめ、コンサートは大きく成功したようです。
喝采を受けて、やや涙ぐみながら、感に堪えない表情のクーラの写真もアップされていました。ちょっと枚数が多くて恐縮ですが、掲載しました。
少年のころから作曲家、指揮者を夢見て、そのために自己研さんを積んできたクーラ。プラハ響とともに、着実に自作の作品の初演を迎えることができて、本当に喜びと誇りにいっぱいだったことと思います。














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――レビューより

●クーラのオラトリオ 興味深い世界初演

アルゼンチンの歌手、指揮者、作曲家のホセ・クーラは、彼のオラトリオ「Ecce homo(この人を見よ)」の世界初演の場として、プラハを選んだ。クーラは今シーズン、プラハ交響楽団のレジデント・アーティストであり、それは驚きではない。プラハ交響楽団とプラハの聴衆は、クーラの初めての歌のコンサート以来、彼を愛している。
3月8日と9日、完売の市民会館のスメタナホールの聴衆は、その晩、クーラが、その活動のすべての分野で秀でていることを直接、目撃した。

クーラは、前半のプログラムで、プラハ交響楽団を指揮しただけでなく、第2部では、彼の作品のオラトリオで、他のソリストと合唱団とともに、歌でも出演した。
そのためオラトリオの装置は本当に巨大で、指揮者のマリオ・デ・ローズ、クーラのアルゼンチンの友人は、ステージの棚に対して指揮しなければならなかった。

若いクーラが1989年に書いたオラトリオは、その後、彼が主に歌の活動に焦点を当てていたため、引き出しに残されていた。
今、復活祭の前に、過去の有名な作品に描かれたキリストの情熱のテーマは、再び音楽的に描き出され、クーラの新たな展望は、確かに彼らと一緒に名誉の場所を取るだろう。
クーラは、キリストと、その磔刑による死の前の最後の瞬間に焦点を当てている。伝統的な栄光の代わりに、人間としてのイエス・キリストを明らかにする瞬間をピックアップした。

クーラ自身が、キリストの役割を巧みに想定し、他の歌手とともに、福音書からの様々な人物を演じた。
全体として、クーラは、伝統的でわかりやすい音楽言語と、グレゴリオ聖歌の知識を使っている。伝統的な日本のものを含む多くの打楽器を使用し、いくつかはバルコニーに置いた。悲痛さは完璧だった。歌詞は、主に詩篇とスターバト・マーテルによっている。

クーラが音楽的に実現させた聖書の場面は、感嘆すべき成功をおさめ、そしてそれに関わるすべての人びとが最善をつくした。
聴衆から受け取った反応は巨大で、特に作者としてクーラは、プラハの聴衆の二重のスタンディング・オベーションを受けた。
(「Novinky.cz」)




――2017年3月、プラハでのラジオインタビューより

●子どもの痛み、母の痛みを描いたEcce Homo

私がプラハ交響楽団(FOK)のレジデント・アーティストとして持っている関係では、その合意の中でとりわけ、私が作曲した作品を毎年1つ、デビューさせることを含んでいる。昨年は「マニフィカト(Magnificat)」、今年は「この人を見よ(Ecce Homo)」で、それはより大きく、より重要な仕事だ。
Magnificatは長さが12から13分、一方、Ecce Homoはオラトリオで、まだ初演されていないが、予想される期間は、約35分から40分となるだろう。

この作品は私の好奇心から生まれた。時には私の周りの人々と、これらについて議論したことがある。私の妻、近所の司祭と一緒に...。それは神との関係における「人間」的な要素だ。
キリストの生涯と彼の最後の数時間において、いつも私の心に触れてきたことの1つであり、最も注目してきたのは、キリストの人間的次元だ。・・・

私の「Ecce Hom」に新しさがあるとしたら、それは神学的ではなく、音楽的に2つのテーマを挿入したこと。つまり、一方では子どもの痛み、もう一方は母親の痛みであり、それらを同じ作品にまとめたことだ。





●クーラとチェコとの間の優れたケミストリー、オラトリオ世界初演に加え、チェコのファンに驚きを

私たちはiTuneとの販売契約を結んだばかりで、15年前に録音したドヴォルザークの歌曲を公開する。当時はプライベートコレクションだった。
これらの曲はiTunesでまもなくリリースされる。(すでにリリース済み、アマゾンなどでも購入可 → 紹介ページ

それは、私がチェコ語で歌った、人生で最初で最後の時だ。私は今も、その美しい音楽を、私にとっての完全な外国語で正しく歌うための闘いを覚えている。

チェコ語で私を援助してくれた人に、私はこう言ったことを思い出す――この言葉では、4つの音符を歌わなければならないが、母音は2つしかない。何かが欠けているか、何か残っている――と。残りはすべて子音であり、ラテン系の人には子音を歌うことができないためだ。
その答えはとてもシンプルだった――「子音を歌い、歩く」。





●ピアノからラグビーへ――スポーツへの熱中が音楽活動に貢献

私が7〜8歳の時、父は私にピアノを勉強するように言った。当時、60年代から70年代の話だが、私たちはピアノを勉強しなければならなかった。私の父は、当時の中産階級の良き息子として、ピアノを演奏していた。
そして、数日後、いくつかのレッスンの後、ピアノ教師は、私にノートを持たせて家に帰らせた。そこには、「ホセは音楽には興味がない。彼は別の趣味を見つけるべきだ」とあった。それから、私はラグビーを始めた。
何の関係もないようだが、つながりがある。それらは、ステージにたつ人間として、私のキャリアに対する基本的な方法だ。 
当時、それは目新しかった。オペラを歌うアスリートは、非常に珍しかった。

インタビューにこたえるクーラ



●懸念――人間に起こっている全てのことに無関心ではいられない

人間は、まず、すべてがユニークだ。しかし今起こっていることは、これまで以上に、非常な混乱であり、グローバリゼーションと大衆化によって、人々のアイデンティティが脅かされている。

今度は誰もが同じ服を着て、同じものを食べ、同じ音楽を聴き、同じ香りをつけ、同じことをする。
これはいいこと? ノー、これは悪い? ノー、それは残念なことだ。個人として、ジャンルとして、私たちを犠牲にしているのであり、残念だ。





●誰もが皆、神からの賜物を持っている――肯定的エネルギー、コミュニケーションの手段としての芸術への全面的関与

私はこれまで何度も言ってきたが、信念がある。そしてこれは、私を理解するうえで、すべてを説明するものだ。
私は、私たち全員が、何らかの才能に恵まれていると信じている。私は本当に、私たちのすべてが同じだけのものを持っていると思っている。
しかし、何が起こるかは、私たち全員がそれらを発見する能力が同じではないということ。運がある場合、不幸を抱えている場合、または内向的な人物である場合など、自分ができることを発見するのには、人生で2つの選択肢がある――それらを隠すのか、それとも、自分ができるすべてを示すのか。
もし自分に与えられた才能を隠すならば、最後に、神の前で、「あなたは私が与えたもので何をしたのか?」という問いに答えなければならない。
もし才能を隠さなければ、まわりからたたかれるだろう。しかし、私は、神からよりも、仲間からたたかれる方を選ぶ。神からの方がもっと痛いからだ。





●指揮者として受けた最大の賛辞

オペラの費用が5ユーロや10ユーロの場合、普通の人々はそれを気にしない。またステージで見ようとしていることが本当にあなたを興奮させるなら、10や20ユーロを支払う。問題は金額だけではなく、ステージで何が行われているかだ。

私が指揮者として受け取った最も美しい賛辞の1つは、数ヶ月前にプラハから来た。前回のコンサートの機会に。
誰かがソーシャルメディアに書いた。
「プラハ交響楽団(FOK)の舞台でクーラを見て、バーンスタインのコンサートを思い出した。オーケストラは彼のために演奏し、彼はオーケストラのために指揮するという絶対的な確信を持っていた。ここで起こっていたことはラブストーリーであり、私たちは幸運にも、参加し、それを目撃することができた... 」






クーラが子ども合唱団に送ったメッセージ


現地の報道


子ども合唱団、指揮者、合唱指揮者との記念撮影


終演後、晴れやかな笑顔のクーラと、友人で同郷の指揮者マリオ・デ・ローズ。彼がクーラの作曲作品の公開を後押ししてくれた。




プラハ・スメタナホールの正面に掲げられた、チェコの偉大な作曲家スメタナのレリーフ。

*画像は、プラハ響のHPや合唱団のFBなどからお借りしました。
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