人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

(インタビュー編)ホセ・クーラ、2019プッチーニ・フェスティバルのトスカに出演

2019-08-21 | 2019年プッチーニ音楽祭

 

 

 

ホセ・クーラは、夏の音楽祭のひとつ、イタリアの伝統あるプッチーニフェスティバルに出演中に、いくつかインタビューにこたえ、現地の新聞、ネットなどで報道されています。今回は、そのインタビューから、抜粋して紹介したいと思います。

クーラの出演は、トスカのカヴァラドッシで、2019年8月2、11、18日の3公演でした。フェスティバルについて詳しくは(告知編)を。また終了した公演の様子は、いずれ近いうちに紹介したいと思います。

 

 

 


 

 

 

 

 

≪ホセ・クーラ 「決して屈服しない人の誇り」≫

 ーー20年後、アルゼンチンのテノールは、トスカと共にプッチーニフェスティバルに戻る

 

アルゼンチンのテノール、ホセ・クーラ。20年後、彼は、トーレ・デル・ラーゴのプッチーニフェスティバルに戻る。有名なアルゼンチンのテノールは、トスカで今夜8月2日、そして11日と18日に主演する。トスカのパートナー、マリア・グレギーナと、偉大なバトン、指揮者のドミトリー・ユロフスキーとともに。

1995年、クーラは、トーレ・デル・ラーゴで、カヴァラドッシの役でデビューした。現在と同じ舞台ではなく、古い劇場がまだあった時で、彼は感慨深く、現在イゴール・ミトラジの彫刻が立っている場所を指した。

  

ーートスカのカヴァラドッシは?

(クーラ)カヴァラドッシは、私にとっては、特に一体感を抱くことができるプッチーニの男性キャラクター。決して屈服しない。名誉と尊厳を売り渡さず、理想を守るために死を選ぶ人物。


ーーレパートリーとして多くの役割を歌ってきたが?

(クーラ)私のような好奇心旺盛で落ち着きのないアーティストには、解釈する特権を持っていた多くの中から、ひとつの役だけを選ぶことはできない。しかし、私が、オテロ、サムソン、カニオ(道化師)、カヴァラドッシ(トスカ)、ジョンソン(西部の娘)を愛し、今でも愛していることは明らかだ。だが最近、ブリテンのピーター・グライムズに挑戦することができ、それ以来、私はこの役に心を奪われた。


ーー良き落ち着きのない魂、クーラは、テノール、指揮者、演出家、プロデューサーであり、彼をレオナルド・ダ・ヴィンチの折衷主義と比較する者もいたが?

(クーラ)映画業界では、俳優が監督、脚本家、プロデューサーでもある場合でも、彼に対し、何をしたいのかなどと誰も尋ねはしない。クリント・イーストウッドやロバート・レッドフォードなど、非常によく知られている2つの名前を思い起こすだけでわかるはずだ。一方、クラシック音楽では、そういう多面的なやり方で取り組むことは、常に義務的に質問を引き起こす。

私はアーティストとして、自分が受けた贈り物(才能)を隠さないことを選択した。これには批判されるリスクがある。しかし卓越したアーティストになるには、 「美しい」方法で自己を表現するだけでは不十分だ。あらゆる美しさ、観点とともに 、自分の信念を守る勇気が必要となる。

私はベストを尽くしている。いつの日か、この素晴らしい仕事にむかってすすむ私の軌跡が、何らかの、または誰かに、特に将来の世代に役立ったと言えることを願っている。

 

ーートッレデルラーゴのプッチーニフェスティバルのトスカの後、あなたは28日にオマーンのマスカットに向けて出発する。ブエノスアイレスのコロン劇場とともに、カルメンに出演し、ベートーヴェンの第九を指揮するために。その後、中国・上海でのコンサート、そして11月には・・?


(クーラ)ブダペストで、ハンガリー放送交響楽団や合唱団と一緒に、私が作曲したEcce Homoのオラトリオを録音する。私はハンガリー放送文化協会のメインゲストアーティストであり、このアンサンブルで、2020年1月に私の作曲したオペラ「モンテズマと赤毛の司祭」の世界初演を行う。

 

ーー イタリアのヴェローナで何年かの訓練を受けた?

私が住んだ当時、法律が非EU市民を保護しなかった時代であり、私はヴェローナを去るように促された。現在の状況については、新聞だけでしか知らないのでコメントはできない。

しかし、間違いなく言えることの1つは、全世界が非常に深刻な価値の危機にさらされており、緊急にその是正を求めなければ、それがどのような終焉をもたらすのかわからないということだ


●記事を紹介したフェスティバルの公式FB




その他にも、いくつかインタビュー動画や記事がありました。

 

●リハーサルの合間に、湖畔の劇場から、古い劇場の跡地を指して、初めてプッチーニフェスティバルに出演した1995年、その後の97年、99年の出演の思い出などを語っているようです。そして今回、20年ぶりの出演で、再びトスカに出演することの感慨など。イタリア語。


●8/2の初日の後に公開されたTVニュース映像。初日の舞台の様子、クーラが歌う「星は光りぬ」の一部と、拍手を受ける様子などがあります。クーラのインタビューも。


●こちらは新聞の記事。

イタリア語で私は全く読めませんが、語学に堪能な方が大変ご親切にも、内容を教えてくださいました。感謝です。一部、紹介すると、「トスカは愛の物語にみえるが、あくまでも革命の本質を伝えるもの」「自分の声はもう若くない自覚はあるが、たくさんの経験を積んだ人間としての確信もあり、プッチーニがマリオ役を通じて伝えたかった自由というメッセージの深い部分をよく理解している」「役者の責務は、役を心理学的に掘り下げて解釈し、一節一節の美しさに身を捧げること」・・など。まだまだこの他にも、アーティストとしてのキャリアや今後についてなど、たくさんのことを語っているそうです。ありがとうございます。

 




初出演から24年、最後の出演からも20年ぶりのプッチーニ音楽祭。クーラの出演を、地元メディアや劇場関係者も大歓迎して、温かく迎えられたようです。初出演の時からのスタッフ、初出演を鑑賞したという地元の観客もたくさんいたようで、久しぶりの再会を喜び合う様子が、SNSにもたくさんアップされていました。クーラが、現地の人々に本当に愛されていることがよく伝わってきました。

繰り返しになりますが、クーラは1991年にアルゼンチンから、祖母の地を訪ねてイタリアに移住、イタリア北部のヴェローナ近郊に住み、様々な仕事をして生計をたてながら、歌手としてデビュー。そこから国際的なキャリアへの飛躍を果たしました。そのためクーラの歌手としての出発点ともいえるごく初期のキャリアは、ヴェローナやミラノをはじめ、トリノやジェノアなどイタリア北部が中心でした。だからこそかつての若いクーラの姿を覚えて応援してくれる観客が多くいるのだと思います。 → ホセ・クーラ これまでの軌跡 ~ 主な舞台出演の一覧

クーラもふれていますが、当時、移民排斥を訴える北部同盟が勢力を広げるなかで、アルゼンチンからの「移民」であったクーラは、住み続けることができなくなり、フランスへ渡りました。多くの友人がいて、祖母の生まれた自分のルーツのひとつでもある土地と別れざるを得なかったのは、本当に無念だったことと思います。現在では、北部同盟は伊政権につくまでに伸長しています。クーラが繰り返し危惧を表明している、これらの問題は、イタリアだけでなく、世界的な課題となっています。

文化的にも、財政難などから多くの劇場が苦境にあるといわれています。少し前の記事でカーディフのマスタークラスでの発言も紹介しましたが、イタリアオペラを継承する責任をつよく感じているクーラ。今後、イタリアでの出演が増えてゆくのでしょうか。

 

*画像は、劇場FBや動画などからお借りしました。

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