ホセ・クーラが脚本・作曲した新作オペラ「モンテズマと赤毛の司祭」は、2020年1月29日、ハンガリーのリスト音楽院大ホールで、クーラ指揮による世界初演が実現、大成功となりました。
今回は、この新作オペラ初演にむけて、クーラがハンガリーで受けたインタビューから、興味深い内容について抜粋して紹介したいと思います。
この間、欧州諸国、ハンガリーでは、移民問題が政治的にも社会的にも大きな焦点となってきました。そうしたなかで、これまでもクーラは、インタビューなどの機会で、自身のルーツ、体験を語り、移民の尊厳と権利を守ることを訴えてきました。今回も、「モンテズマ」をめぐる話題とともに、こうした社会的な課題についても語っています。
私は移民に関する希望と懸念を共有する
作曲家、指揮者、テノールであるホセ・クーラの最初のオペラが、ブダペストのリスト・フェレンツ音楽アカデミーで上演される(2020年1月29日に終了)。
「モンテズマと赤毛の司祭 オペラブッファ マ・ノン・トロッポ(しかし、はなはだしくなく)」ーーそのタイトルが示すように、視聴者を笑わせるだけでなく、平等な機会のためのたたかいなどの深刻な問題も提起する。アルゼンチン生まれのアーティスト自身、ヨーロッパ市民になるための困難な道を歩んできた。
Q、なぜこの作品の世界初演の会場としてハンガリーを選んだ?
A(クーラ)、私は現在、ハンガリー放送芸術協会と一緒に働いている(2019-2020年シーズンから、クーラは3年間の常設ゲストアーティスト)。だから作品の初演をしようという時、最初に彼らにそれについてどう思うかを問いかけた。私のアイデアはすぐに賛同を得たので、一緒に「モンテスマ」を上演した。
Q、ハンガリー放送交響楽団と合唱団のミュージシャンとの協力は何ですか?
A、ハンガリー人との仕事は非常に興味深い。「危険」と「炎」という言葉で説明できる。彼らは非常に感情の起伏が激く、私はそれが本当に好きだ。オーケストラとは別に、彼らは教育など他の仕事も持っているので、非常に忙しく、時にはリハーサルに疲れてしまうので、それを頭の片隅においておかなければならない。
これは私たちによる2回目の仕事であり、彼らをもっと知るようになるーー私はすでに、誰が結婚し、誰が子どもを持ち、誰が問題を抱えているのか・・知っている。私は彼らに対して、マエストロとしてではなく、友人として向き合う。私はこのことがコミュニティにおいて不可欠だと考える。
Q、ショーをより生き生きとさせるために、キャラクターは母国語を話す。あなたはキャラクターの言葉を話す?
A、多かれ少なかれ、イエス。私の母国語はスペイン語で、私は英語も話す。 私はイタリア・ヴェローナに4年間住んでいて、ナポリではなかったが、ヴェネツィア方言を学んだ。もちろん、公演中には字幕があるので、観客は登場人物のすべての言葉を理解することができる。
Q、あなたは、30年前に初めて読んだアレホ・カルペンティエールの小説「バロック協奏曲」にもとづいて「モンテズマ」を書いたが、なぜ作品が上演されるのにそんなに長く?
A、当時も、この本が素晴らしい文学作品であると考え、脚本化の可能性を見出していたが、私はまだ27歳で、どう始めたらよいのかわからなかった。それからずっと後になって、過去数十年の経験のおかげで、すべてが明らかになった。ストーリーの重要なキャラクターは作曲家なので、映画ではなくオペラに変えるのが論理的だった。
Q、コメディのジャンルであるにもかかわらず、モンテスマは悲劇から始まる。主人公の従者であるフランシスキーリョは伝染病で亡くなる。後の場面では、ヴィヴァルディ、ヘンデル、スカルラッティが墓地で語り合い、そこでワーグナーに別れを告げる。死とコミックをどのように組み合わせる?
A、人はユーモアで死ぬことができる(笑)。死をただ悲しい出来事と見なすなら、コミックオペラの中に探すべきものは何もない。しかし私はそれを、発展、変容と考えている。ロマンチックな要素の代わりに。
フランシスキーリョの死は、幼い子どものメタモルフォーゼ(転身)の象徴だ。この幕では、若い男の子で始まり、彼より年上の男フィロメーノで終わっる。そして従者は彼の魂の中で生まれ変わる。後に、フィロメーノは物語の道徳的な脈絡を変えるため、彼が登場する前に、フランチェスキーリョは死ななければならなかった。
Q、6番目のシーンでは、男爵が、ヴィヴァルディに対し、歴史的に信頼できないとして彼のオペラに疑問を投げかける。しかし作曲家は、事実を述べることよりも、詩的な幻想の優位性を宣言する。あなたは、芸術において、どちらをより重要だと思う?
A、私は「黄金の中庸」にいると信じている。私たちは、現実をゆがめることなく、ファンタジーの空間を確保しなければならない。
個人的に、舞台ではリアリズムを愛するが、このオペラでは状況が異なっていた。原作の小説が、ラテンアメリカ文学に典型的な魔術的リアリズムのジャンルで書かれていたためだ。原作者のカルペンティエールは、女性が多くの歌を歌うなど、バロック時代の流行をパロディ化して、ヴィヴァルディが現代に何を書くかというアイデアを思い付いた。
Q、脚本に他の資料を使用した?
A、カルペンティエールは、ボリュームの制限のため、モンテズマが誰であるかについて詳しく説明していない。そのため、ベルナル・ディアス・デル・カスティリョやフランシスコ会の修道士アギラールなど、アステカの支配者の歴史的な文献や記録を読んだが、これらはひとつの見解であり、真実全体を明らかにするものではない。
私は最も劇的なアプローチをストーリーに取り入れた。ドラマを書くときは、ステージ上で異なるキャラクターが必要だ。論争のあるテキストの代わりに、私は絵と想像力に頼って登場人物のキャラクターを作成した。写真を見て、私は彼らが誰であるかを理解しようとした。これに基づいて、私はふっくらしたヘンデルはやさしく愛らしい人柄だと想像したが、一方で、ヴィヴァルディは、エレガントで洗練された外観が魅力的な性格を隠していると思った。
Q、好きなキャラクターは?
A、フランシスキーリョの死後、彼に代わって主人公の従者となったフィロメーノは、ピノキオの小さなカウンセラーのように(*映画ピノキオに登場するコオロギのジミニー・クリケットのことか。ピノキオに忠告、助け、励まし、ストーリーテラー役も)、すべてのことを見続け、コメントし続ける。 音楽的にではないが、しかし道徳的な観点から、彼は最も重要なキャラクターであり、物語の展開方法は彼の手にかかっている。
フィロメーノは有色人種なので、オペラでは人権の問題が何度も提起されている。これが、この作品のタイトルに「オペラブッファ マ・ノン・トロッポ(喜劇、しかし、それほどではない)」とつけた理由だ。
Q、物語は、主人公の男爵が、メキシコのへの帰国と、フランスで幸運を得ようとしているフィロメーノの解放を決断して終わる。彼は黒人の有名なトランペット奏者としてそこで活躍できる?
A、従者は、「ニグロ」ではなく、「ムッシュ・フィロメーノ」と呼ばれることを期待してパリに行く。彼の願いを聞いた男爵は「いつかはそうなる」と言い、それに対してフィロメーノは「あなたがそう言うなら...」と答える。これは質問を未解決のまま残す。それに答えるのは私ではなく、聴衆が自分の結論を出さなければならない。
著者が結末を説明してしまうのは良い考えではない。それでは、視聴者は家に帰り、コーヒーを飲み、見たものを忘れてしまうだけ。自分自身で判断しなければならないと、それはより刺激的になる。この場合、それについて長く考え、みんながその舞台をどのように解釈したかについて会話を始める。
Q、人権問題をどう見ている?
A、人種差別は今日でも存在しており、移民の問題はハンガリーとヨーロッパ全体で多くの議論を引き起こしている。政治家たちは、社会を分断するために、すべてを白か黒かに塗り分けようとするが、これははるかに複雑な問題だ。
私はそれについて何も言うことはないが、私はコインの両面を知っているーー私の祖父母は、イタリア、スペイン、レバノンからの移民だった。彼らは前世紀の初めにアルゼンチンに移住し、私はそこで生まれた。30年前、私はヨーロッパに来た。大陸間の移住は自然なサイクルだ。私たちはある地点から別の地点へと出発し、それゆえ100年後に自分たちがどこにいるのかを言うことはできない。
私は、より良い生活をめざして道を歩む人々の状況に同情するとともに、自分の国にやって来る人々の集団を恐れているヨーロッパ人の懸念も理解している。移民の無制限の入国は、誰にも利益をもたらさない。彼らに将来と仕事を提供し、希望と尊厳を与える必要がある。路上で変化を懇願しなければならないのは尊厳を欠き、移民に対する公然の攻撃だ。私が容認できない唯一のことは、教育と思いやりの欠如だ。暴力では、どちらの側も目的を達成できない。
Q、ヨーロッパに来た時のことは?
A、1991年、私はたびたび、アフリカ人の一団と一緒に、警察で3か月間の居住許可を取得するのを待っていた。その後も3か月ごとに、新しいものを申請するために戻らなければならなかった。ヨーロッパのパスポートを取得することを含め、ここで私の人生の基礎を築くのに15年以上かかった。
これらの経験は、私のキャリアにも影響を与えた。シェンゲン協定が成立する前、イギリスに旅行したかったが、アルゼンチンのパスポートに問題があった。(当時住んでいた)イタリアに戻りたいと思ったとき、国境では、警察からかなり無礼な扱いを受けた。移民たちが食べるお金を持たず、仕事を見つけることができないとき、それがどのようなものかを私は知っている。ある時、すべてのアルゼンチン人を泥棒と思い込んでいた人によって、道端に置いてきぼりにされたことを私は忘れることができない。
私の人生の過去57年間、ドラマティックで美しい瞬間をたくさん経験してきた。そしてこれらの経験が、今の私をつくった。
Q、南米の文化はあなたの人生にとってどれほど重要?
A、良いアーティストになりたいのなら、すべての文化が重要だ。もちろん、すべてを自分自身のものにすることは不可能だが、少なくとも私たちを取り巻く文化、またはキャラクターによって表される文化を知るよう努めなければならない。私はそうしたバックグラウンドのため、スペイン語とイタリア語だけでなく、アラビア語、レバノン語も理解できる。
Q,、ハンガリー文化との関係は?
A、これまで20年間にわたり、ハンガリーを訪れてきたが、ここでの滞在時間は短く、観光する機会がなかった。今は、リスト音楽院とハンガリー放送芸術協会の間を行き来しているので、国立博物館はすぐ近くにあるが、私たちは1日10時間働いているので、終わる頃には閉まっている。しかし、数か月後には、質問に対して別の答えを出すことができるかもしれない。
ハンガリー放送芸術協会のゲストアーティストとして、初めて私はハンガリーと密接な関係を築いているので、ハンガリーの文化とライフスタイルを徐々に理解してきた。そのためもうゲストとは見なされなくなった。
(「kepmas.hu」)
常に率直で、社会的問題へのコミットメントもまたアーティストとしての責任だと考えるクーラ。つねに社会的正義とヒューマニズムの立場にたった発言をしています。
とりわけ移民問題、人種差別の問題については、現代の社会においても大きな課題であり、解決が迫られている問題です。クーラ自身の出自と移住の経験を語っていますが、これまでも、渡欧後の仕事を探す大変さ、家を借りられずガレージでの暮らし、生活のために皿洗いや路上で歌うなど、苦労した話は何度か読んだことがありましたが、3か月ごとに更新必要な滞在許可、国境での警察によるひどい扱い、泥棒扱いなどの、さらに辛い体験が数多くあったことは、初めて知ることでした。こうした体験が自分を作ったと語っていますが、困難な経験と苦労を経て、そして努力によって、アーティストとしての国際的な地位を得てからも、このようにヒューマニズムの立場で発言し続けている姿勢は、クーラの人柄と人間性をよく表しているように感じました。