ホセ・クーラの新作オペラ「モンテズマと赤毛の司祭」の世界初演まで、あと10日余(2020年1月29日、於リスト音楽院)となりました。クーラやハンガリー放送芸術協会のFBで、オペラの内容や背景、登場人物などに関する紹介記事がアップされはじめています。
初演の日まで、引き続きこうした記事が出されていくと思いますが、(告知編)に続き、まず1回目の(解説編)として、現時点でのいくつかの記事を紹介してみました。
もともとのヴィバルディのオペラがあり、それを題材にしたカルペンティエールの空想的な小説があり、クーラはそれらを題材にして、史実も加えて脚本・オペラ化したということで、少々、話が込み入っています。クーラやハンガリー放送芸術協会などによる解説を、そのままざっくり訳して掲載していますので、分かりにくいかもしれません。ダブりや訳文の不十分さと合わせ、ご容赦ください。
今のところ、まだ放送予定の情報は出てきていません。ライブ中継、または録画やラジオ放送など、ぜひ、何らかの形で公開してほしいと切に願います。
≪クーラのFBより≫
●オペラ脚本のきっかけとなった、友人からのプレゼントの小説『バロック協奏曲』と献辞の写真。そして完成までの経過などについて
「モンテズマと赤毛の司祭」世界初演開始へのカウントダウン
ー長い構想の物語
1988年、私の友人であるディエゴ・ヴィデラ・グティエレスーー若いセットデザイナー(当時私たちは皆、非常に若かった)が、私の26歳の誕生日にアレホ・カルペンティエールの『バロック協奏曲』の本をプレゼントしてくれた。著者がメキシコ皇帝モンテズマとベネチアの巨匠アントニオ・ヴィヴァルディとのありそうもない出会いを想像するファンタジー小説。カルペンティエールはその物語の中で、ヴィヴァルディに彼のオペラ「モテズマ=Motezuma 」を書くことを促す。
本の内側に記されたディエゴの私への手書きメッセージは、この素晴らしい小説からオペラを作るというアイデアの種を私に植えつけてくれた。そこで私はすべてのページを読み、記録した。しかし当時、私はすでにレクイエムを書き、オラトリオ「Ecce Homo」を制作中だったが、オペラを書くとなるとどこから始めたらよいのかわからなかった。
この本は、2017年に家族の蔵書整理を決断するまで、29年にわたって私の図書室で「眠った」。2世代のクーラが収集したかなり濃密な品揃えの蔵書で、私の母が50年以上前にその始まりを手がけたものだった。その過程で『バロック協奏曲』は棚から落ち、私の膝に戻った。今回は友人の予言がここに留まった。
私は小説を読み直し、それがコミックオペラの台本に完璧に収まることに感銘を受けた。「喜劇」が、意図的に笑いを誘うという意味だけでなく、無鉄砲な風でありながら、展開に沿っていくつかの興味深いモラルが見つかるという物語の構成の方法においても。私が副題をつけたように、”An opera buffa, ma non troppo”(「オペラ・ブッファ、マ・ノン・トロッポ」=音楽用語「しかし、甚だしくなく」)。
ある午後に台本の最初の草案を書き(もしくは30年がかりで?)、2017年の夏に音楽をつけた。それから1年半の間、この作品を「休ませ」、時々「香り」をかいで熟成プロセスをチェックし、そして最終的に2019年にオーケストレーションを行った。
≪ハンガリー放送芸術協会FBより≫
●クーラの写真をシェアして、初演までの2週間に、脚本、制作方法、作品のあらすじ、登場人物などについて詳細な情報提供を行うと告げた記事
2020年1月29日、ハンガリー放送芸術協会の最初の常設ゲスト・アーティストであるホセ・クーラが、作曲家および指揮者として再び、音楽アカデミー(リスト音楽院)に迎えられる。初演されるのは、ホセ・クーラの新しいコメディ・オペラ、「モンテスマと赤毛の司祭」。「モンテズマ」の物語、オペラのプロットは、ハンガリーでも出版されたアレホ・カルペンティエールの「バロック協奏曲」にもとづいている。
初演までの間、私たちは非常に興味深く、また難しいリハーサルを行う。これがオペラの最初の舞台であり、ハーフステージのパフォーマンスになるためだ。次の2週間、劇、その起源、あらすじ、キャラクターについての詳細な情報を提供するために取り組み、この特別なショーに皆様を迎えられることを楽しみにしている。
写真は、ホセ・クーラ所蔵「バロック協奏曲」スペイン語版、1988年。
●ヴィヴァルディの「モンテズマ」の楽譜と再発見の様子を紹介する記事
「モンテズマと赤毛の司祭」ーー これは、1月29日に音楽アカデミーで紹介する、ホセ・クーラの新しいコメディオペラのタイトル。約束どおり、オペラの初演まで、劇の背景について多くの詳細を共有する。
オペラのタイトルは、実在の2人の名前を指す。アステカ帝国の第9代の王であるモンテズマ2世(1466-1520)と、赤毛の司祭は有名なバロック作曲家のアントニオ・ヴィバルディ。
1733年、ヴィバルディはオペラ全体をモンテスマに捧げたが、作品の音楽は失われ、テキストだけが残された。しかしソビエト連邦の崩壊後、ベルリン・ジングアカデミーの貴重な楽譜がドイツに返還された時、ヴィバルディの作品であることが音楽学者ステフェン・ヴォスによって特定され、数年後、そのオペラの音楽はロッテルダムのコンサートで演奏された。そう、ホセ・クーラの新作オペラの出発点は、そのオペラ ーーつまり、オペラ、音楽、バロック音楽の誕生である。
写真は、オリジナルの作者ヴィバルディによって書かれた、オペラ「モテズマ」の楽譜(1733)。
●原作「バロック協奏曲」のあらすじ紹介
1733年、アントニオ・ヴィバルディは新しいオペラに特別なテーマを選択したーーアステカのモンテズマ王。そして、このエキゾチックなテーマについて作曲家にインスピレーションを与えたものとは?奇妙な出会いではないか?キューバの作家アレホ・カルペンティエールのファンタジーと彼の小説「バロック協奏曲」のなかに、まさに答えがある。
1709年、ヴェネツィアのカーニバルに、多色の鳥の羽の特徴的な衣装を着たメキシコの支配者モンテズマが現れる。キューバ人の従者フィロメノとともに。運命の気まぐれは、2人の旅行者を、赤毛の友人ヴィヴァルディ、ナポリ人のスカルラッティ、そしてたくましいヘンデルに巡り合わせた。
陽気な一行は、ピエタ慈善院の夜の静寂に反響させ、3人のミュージシャンは初心者のバンドと見事なバロックコンサートを即興演奏する。これが、アレホ・カルパンティエールの空想小説において3人の作曲家が出会った方法であり、こうしてアントニオ・ヴィバルディのオペラ「モンテスマ」は生まれた!
この短編小説のプロットに基づくホセ・クーラのコメディオペラは、1月29日に音楽アカデミーで初演される。
写真はハンガリー版「バロック協奏曲」の表紙。
≪ハンガリーでのインタビューより≫
Q、これは初めてのオペラ?
A(クーラ)、厳密に言えば3番目だが、実際には最初のもの。これをどう理解する?
とても若かった頃ーーあえて思い出したいとは思わないが(笑)、子ども向けのオペラを書いた。時が経つにつれて、私はその作品に非常に批判的になり、最終的に原稿を破ってしまった。最初の元の形では何も残っていない。もちろん、その時書いたフレーズの多くは、後に使用したけれど。その後まもなく、「Ecce homo」というオラトリオを書いた。ミュージシャンは、ジャンルとしてのオラトリオがオペラと見なすことができることを知っているが、ステージプレイはない。それゆえ私の本当の最初のオペラは、初演されようとしている「モンテズマと赤毛の司祭」だ。
Q、ストーリーは?
A、ヴィバルディが「モンテズマ」という題名のオペラを書いたことを知っている人は多くない。「モンテズマ」は1733年にヴェネツィアで初演された。台本は、タイトルキャラクターのアステカのルールに暗に従っているのみで、元のオペラの歴史でさえほとんどフィクションだ。非常に特別なことは、台本は最初の演奏の後も生き残ったが、音楽は失われたこと。2002年までそれが再び見つかることはなかった。長い再構成プロセスの後、2005年にステージにかけられた。最初はコンサート形式のようなパフォーマンスで、後にステージングされた。
私のオペラはほぼ完全にファンタジーの結果だ。物語では、メキシコの旅行者がヴェネツィアのカーニバルに予期せずに登場する。モンテズマのコスチュームに身を包んだ異邦人は、彼のアイデンティティを隠し、旋風を起こす。彼は偶然ヴィバルディに出会う。その場所でメキシコ人はモンテズマの物語を語り、ビバルディを感銘させた。その結果、巨匠はオペラを書く。その続きは教えられないが、エキサイティングなものになることを保証する。
ヘンデルやスカルラッティなどのキャラクターも登場する。ヴィバルディの時代の音楽やスタイルだけでなく、未来の、ストラヴィンスキーやワーグナーなどについても多くの会話を聞くだろう。
Q、そのメキシコの旅行者がモンテズマについてあなたに教えてくれた?
A、ほとんど、そうだ。 ただ、私は元のプロットに従っていたが、それ自体は刺激的なオペラには十分でないと感じた。私は既存のフレームに、リアルな歴史的な断片と対話を加えた。 私の情報源は通信と文書であり、それらを研究し、勉強することに多くの時間を費やした。たとえば、フェルナンド・コルテス(アステカを征服したスペインの植民者)の手紙から、オペラを美しく補完する情報を使うことができた。
もちろん、物語のすべてのキャラクターはおそらく同じイベントを異なる方法と異なる重みで伝えるため、そのような情報源がどれくらい古いと信じられるかは常に疑問がある。一定の時点で、私は取り組みのアプローチを決定する必要があった。したがって、私はそれが歴史的なオペラであると主張することも、また、すべてが確かにありのままに起こったと主張することもできない。
(「zene-kar.hu」)