長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

全国城めぐり宣言 第7回「下総国 佐倉城」 フィーチャリング ほとけさま

2011年08月23日 14時43分11秒 | 全国城めぐり宣言
 サマサマサマ~。どうもこんにちは、そうだいで~す。陽気な夏が戻ってまいりました!
 今しがたラジオから流れていた天気予報によると、南関東の今日の気温はだいたい30℃未満ぐらいになるのだそうで。ちょうどいいくらいの好天ですね~。
 夕べは夜遅くまで雨がしとしと降っていたんで、また今日も寒い日になるのかなぁと思っていたんですが、久々の夏日とあいなりました。

 とはいえ、甲子園も終わったことだし、夏もそろそろおしまいが近づいてきたわけでして。
 まぁ……今年もたいした夏の思い出はなかったね。いいんだいいんだ、まずそのための努力をしてないんだから。五体満足で秋を迎えられたらそれでいいんじゃね~の?
 夏だから恋だ愛だをどうこうしたい、なんてね~ぇ? ガキンチョじゃないんですから。

 もういい加減にそういった未練はなしにs ン夏じゃなくてもォ! 恋だ愛だどうこうしったいぃィ~!!!

 うむむ。やはり本心は隠しようがなかったか……個人ブログで虚勢をはってどうすんだって話ですからね。まだまだ私も、生への執着は残っておるんだにゃ~。当たり前です。


 そんなこんなで今回も、私が恋するヒマもおしんで打ちこんでいる全国城めぐり宣言への愛情を知っていただきたいと……あの、読んでる方、いらっしゃる!? いるよね?
 佐倉城のお話、もうすぐ終わりますから! ほんのちょっとだけガマンしてちょーだいませ。

 徳川家の関東移封以来、下総国佐倉の地は江戸城の「東の守り」として要衝の役割をになってきていました。
 そして、いよいよ江戸幕府の天下が確定的となってきた1610年代にいたり、時の佐倉藩主・土井利勝はその首都防衛の任務をさらに強化させるべく、政庁としては手狭で不便だった戦国時代臭ぷんぷんの本佐倉城から、新しい時代の政治的中心地としての佐倉城への移転という偉業をなしとげたのです。

 とまぁそんな感じで、しょっぱなから(徳川支配下の領主としては通算4代目ですが)土井利勝という偉大な藩主をむかえてしまった佐倉藩だったのですが、江戸幕府250年の歴史の中でもっとも有名な佐倉藩主は実のところその利勝さんではなく、幕末も近づいてきた19世紀前半に佐倉藩主となった(通算22代目)、堀田正睦(まさよし)ではないでしょうか。ちなみに、この方の息子さんの堀田正倫(まさとも)が、佐倉藩最後の藩主となっています。

 堀田正睦さんって、どのくらい有名な方なんでしょうかね? 最近はNHK大河ドラマ『篤姫』で辰巳琢郎さんが好演していたことで知名度がアップしたような気がします。
 前回にも名前が出てきた井伊直弼が大老に就任し幕府大権を独占する直前まで、「老中首座」として政務を担当していたのがこの正睦さんだったのですが、

「開国シナッサ~イ。」

 と日本にせまるアメリカなどの諸外国列強と、

「外国人なんぞをこの日本に入れるなどけがらわしい! とっとと追い出してたもれ。」

 と徹底的な拒否反応をしめす京の朝廷を中心とした国内の尊王攘夷勢力とのどうしようもない板ばさみにあった正睦さんは疲労困憊し、挙げ句の果てには朝廷説得のために京に出張していた最中、交渉難航を理由に江戸城から「あんた老中クビ!」と言い渡されるしまつ。
 おれ、こんなに西へ東へがんばってんのに……カンベンしてよ~! とひどい目に遭ってしまった正睦さんだったのですが、こういったあたりの幕府の混乱ぶりを象徴する立場となってしまった彼は、幕末をテーマとした大河ドラマにはほぼ必ず登場するものの、「なんら有効な手だてをうつことのできなかったダメ政治家」のような役回りを演じさせられています。比較的、徳川幕府側というか江戸城側を擁護する視点だった『篤姫』のみ(『徳川慶喜』はまた江戸城側とは違った派閥にある)がそんな正睦さんにスポットライトを当てたということになるでしょうか。またその後の『龍馬伝』でいつもの感じに戻っちゃったけど。

 そんなあたりのイメージとはまた別の一面として、佐倉藩主としての堀田正睦は非常に開明的なお殿様だったということでつとに有名です。
 どちらかというと、まず「外国に強い堀田どの」という定評があって老中首座になったのかも知れませんが、正睦さんは単なる「蘭癖(らんぺき 外国好き)」といった趣味の範疇を超えて西洋文化の導入に力を入れており、有名なところでは家臣に英語の研究を進めさせたこと、佐倉藩内に本格的な西洋医学塾兼病院の「順天堂」を開設させたことが知られています。順天堂はもちのろん、現在の順天堂大学の前身であります。このため、西洋文明に対して寛容な立場をとっていた当時の佐倉は「西の長崎、東の佐倉」と呼ばれる文化都市に成長していました。
 そういった正睦さんなんですから、もともと本心としては、

「攘夷攘夷って……こんな文明もってる国に勝てるわけねぇじゃん!」

 と痛感していた開国派だったのですが、あまりにも急進的すぎる国内の突き上げに強硬的に対抗するすべを持っていなかったその理性が、正睦さんの乱世における政治家としての弱点となってしまいました。
 まぁ、そのおかげで正睦さんは井伊直弼のように暗殺されて生首をアメフトのようにパスされまくるという末路をたどらずに済んだわけで……人生、いったいなにが成功でなにが失敗なのかわからんもんですなぁ~。

 ともあれ、こういった堀田正睦という魅力的な殿様を後半にまねいて明治時代に入っていくこととなった佐倉なのですが、何回か前にもふれたように、明治以降の佐倉はなにかと政治的中心地という立場は千葉市にゆずっていくこととなりました。時代はすでに、「下総国」でなく「千葉県」へとシフトしつつあったのです。

 だが! しかし。

 佐倉の町は、「政治」や「文化」といった部分とはまた違った意味あいで重要な役割をになう都市になりました。
 それこそが、「軍都」。うおお!

 要するに、明治時代に入って佐倉藩の政庁という機能がなくなり、広大な土地をもてあますこととなった佐倉城は、大日本帝国陸軍の兵営(基地)としてリサイクルされるというはこびとなったのです。
 このため、佐倉は終戦にいたるまで陸軍にとって大切な意味を持つ土地となり、佐倉城跡は帝国陸軍歩兵第2連隊・歩兵第57連隊が長年にわたって訓練を重ねる関東有数の兵営となったのです。


 さぁ~。これでお膳立てはそろいました。
 ここまでの情報を知っているといないとでは、同じ目の前に広がる佐倉城の風景でも味わいがまるで違ってくるんじゃなかろうかと思うんですねぇ~。
 ま、別にそんなことを知っていなくてもいいんでしょうけど! なんか損した気持ちになるのよね~、知らないと。

 以上! いろいろと前情報をくっちゃべってきたわけなんですが。

 とにかく記憶しておきたいのは、現在の佐倉城が「戦国時代の基本構造」と「江戸時代のアレンジ」と「戦前の軍隊基地」という3つの要素が混在しているスポットになっているということ! ここが大事。
 ここらへんをふまえた上で、さっそく現場に行ってみることにいたしましょう。

 前に「ハンバーグみたいな台地」と言い表した鹿島山なのですが、地形は比較的東西に横長になっており、簡単に言うと佐倉城の敷地は西半分、塚本美術館などのあった一般の住宅地は東半分といった配分になっています。
 現在、その佐倉城の敷地には有名な「国立歴史民俗博物館」がデ~ンとできていますが、そこはかつて佐倉城につとめる家臣たちの武家屋敷が建ち並んでいた区画だったため、そことは別に佐倉城の城郭部分をしのぶ「佐倉城址公園」が開放されています。

 えっ、佐倉城を「しのぶ」!? 「城址公園」!?

 そうなんすよぉ~。実は今現在、佐倉城時代に使用されていた建造物はほぼすべて撤去されてしまっていて、その後には緑なす大地しか残ってないんですよ。たったひとつだけ、敷地のはずれの水堀ぎわにささやかな瓦葺きの門が残っているのですが、これはこれで立派ではあるものの、かつて首都防衛ラインの東をになった名城の威容を語るものにはなっていません。

 確かに、明治時代に入ってから全国各地の名城はかなりひどいあつかいを受けてしまっており、天守閣・大手門・多聞櫓などといった数々の歴史ある建造物がガンラガンラと取り壊されていったという悲劇はあったものの、こと、この佐倉城の破壊っぷりは徹底的なものがあります。

 なぜなのか!?
 それはねぇ、他ならぬ明治政府が陸軍兵営をおくために気合いを入れすぎちゃったから。そんなに「脱亜入欧」じゃなくてもいいじゃなっすか~。
 そのため、現在の佐倉城址公園のあちこちには、軍隊物資やトラックの出入りを簡便にするために兵営時代になってからブチ抜かれた大通りやコンクリート製のトイレ跡などが残っており、確かに広い土地ということもあいまって「城跡」というよりも「基地跡」といったほうがいいような雰囲気を持っているところがあります。

 私は今回、いったん台地の上を通る県道256線に沿って北に向かい鹿島山を降り、裏にまわるような形で佐倉城跡に入ることとしました。そこからの長い坂道が現在もっとも利用の多い「歴博」の入り口(佐倉城の旧・田町門口)になっていたからです。
 キッツイなぁ! その坂を汗をかきかきヒーヒー言いながらのぼると、ちょっといったところになぜか高さ約3メートルの巨大な仏像が!
 なんでこんな所に……まぁいいや、ありがてぇからお参りしていこう。

 坂道から右にそれた木陰の涼しい場所に鎮座ましましていたのは、大分県臼杵市にある国宝「臼杵磨崖仏・古園(ふるぞの)大日如来」!! ……の、レプリカ。といってもれっきとした石像なので迫力は満点です。
 いやぁ~、ありがたかったねぇ。よく見ると、お顔がもんのすごく恐い。100%無表情なんですが、よ~っく見ると薄くあけた眼で見ていらっしゃるんですよ、こっちを。ばっちり。
 まさに宇宙の創造者。なにもかもすべてお見通しってわけか……レプリカとはいえ、いーいもの見させていただきました。
 いわゆる「丈六仏」というやつで、座ったお姿の大きさが約3メートルなんですから、立ち上がったら5メートルということになるでしょうか。
 やっぱりね、仏像というものはただ愛情たっぷりであたたかい表情をしていればいいってものじゃあない。何を考えているのかわからない、見る者の心の奥底の、なるべくならば隠しておきたい部分までをも容赦なくあばくかのような、冷徹な「ツン」の一面も必要なのですねぇ。

 宇宙を統べるホトケさまのことはいいとして、坂をのぼりきってドデ~ンと巨大な四角い箱に「歴博」という2文字の看板がついているマンガみたいな建物(ほんとにでかいよ!)を横目に進んでいきますと、いよいよ佐倉城址公園のフィールドとなります。

 さて、ここからなんだなぁ。

 先ほども言ったように、現在の佐倉城には「往事の建造物」はほぼなんにも残っていません。
 それなのに、なぜ佐倉城は「日本100名城」の20番目に名をつらねているのか!?

 それは、佐倉城の「建造物」は残っていなくとも、「構造物」の保存状態が素晴らしいからなのです。

 なぬ? 構造物とはナンジャラホイ! という話になるわけなのですが……

 まぁ~、この続きはまた次回にしますか。ゆっくり落ち着いていきましょうよ~。たぶん、次回でやっとおしまいになりますね。
 つうことで、まったね~! 佐倉城址公園名物の「戦慄! トマソン階段」も出てくるヨ。
コメント
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