ちぇーすとぉー!! どうもこんにちは、そうだいでございます。今日も涼しいですねぇ。
なんか、あの知る人ぞしる東京・赤羽の低予算アイドルグループ「AKBN 0(エーケービーエヌ・ゼロ)」に大きな動きがあったみたいですね!
イベント集客やグッズ販売で得た収入のみで活動していくというグループの資金が、今月17日をもってついに1千万円を突破したようです。うおお~。
その結果、彼女たちにとっての次の活動目標となっていた「1千500万円たまったら新宿の日本青年館でコンサート」が、にわかに現実味をおびてきたようですね。
これはもしかしたら、年内の目標達成も……どうかしらねぇ~! とにかく、「現役最年長センター」との異名をとる茜チュインあいさんが20代であるうちにひと花咲かせていただきたいと。がんばってくだしゃ~い。
さてさて、前回に続いて「塚本美術館」と日本刀の話題でございます。
私、そこの「日本刀ができるまで」展示で恥ずかしながら初めて知ったんですけど、まぁ~日本刀の製作技術はとてつもないんだ。
まず「日本刀づくり」という言葉を聞くと、ほとんどの方は「相撲の行司さんみたいな格好をした職人さんが、真っ赤に熱せられた鉄をトンカチみたいなものでたたいて延ばして刀をつくる」というイメージを思い起こされるのではないでしょうか。
私もそんな映像を観たことがある、という記憶しかなかったので、てっきり日本刀とは、鋼鉄のかたまりをただ高熱で日本刀の形にすればできあがり!というものかと思っていたのですが……
甘い!! 「きゃりーぱみゅぱみゅ」というネーミングセンスくらい甘い。
日本刀はねぇ、ざっくり言っちゃうと、「ものすご~く斬れる硬度の高い外側」で「しなやかに衝撃を吸収する比較的やわらかい芯」をつつんだ構造になっているのです。だからこそ、名刀は「よく斬れる」のに「丈夫」というミラクルの域に達しているのですね。
どちらの部分も、日本古来の「たたら製法」で砂鉄から錬成していく「玉鋼(たまはがね)」によってつくられた鋼鉄であることに違いはないのですが、芯となる「心鉄(しんがね)」はやわらかいままにしておいて、いっぽうで外側をつつむことになる「皮鉄(かわがね)」はも~う鍛える鍛える。
皮鉄にする玉鋼は、加熱して延ばしては折りたたみ、また延ばしては折りたたみをおよそ10回程度は繰り返し、これによって皮鉄は1層が2層、2層が4層、4層が8層、8層が16層といったぐあいで見る見るうちに鋼鉄のミルフィーユを構成していくこととなり、これがのちの切れ味につながっていくこととなります。
そして、できあがった皮鉄でどうやって心鉄をつつむのかは流派によって違っているらしいのですが、おもなものとしては、
・皮鉄を2つ折りにしてパニーニ風に心鉄をサンドする「眞甲伏(シンノコウブセ)」
・2枚の皮鉄で心鉄をサンドウィッチする「本三枚(ホンサンマイ)」
・4枚の皮鉄で心鉄を全方位からサンドする「四方詰(シホウヅメ)」
といったものがあるんですって。うわ~一生に一度でも口に出せたらラッキーだね! でもなんとなくおぼえておきたい。
で! やっと、あの映像でよく見るトンテンカンカンの作業に入っていくわけなのです。ここから、ビデオテープみたいな四角四面の形の鋼鉄を日本刀の形にしていくわけなんですね。
はぁ~大変だわ。
日本刀の製作はまさにデリケートそのもので、皮鉄がはげて心鉄が露出しないように注意しながら! あの細さをつくっていくわけなのです。
しかも、最終的に日本刀の切れ味を左右することになる最終段階の「焼き入れ」に関しては、鋼鉄の耐えられる限界の高温までにもっていくために、刀身には熱の伝わりを急激にさせないために特殊な土を塗ってコーティングしてから加熱します。この時に刃の部分の土を薄く塗ることによって、あの極限までに鍛えられた白刃ができあがるというわけなんですね。『トリビアの泉』で拳銃の弾を真っ二つにした実力はこの努力から生まれていたんですね。まぁ、弾は斬っても、持ち主にできる傷が1コから2コに増えるってだけなんでしょうけど。意味ねぇ!
いやぁ~、勉強になりました! 世界一の武器なのかどうかは使い手次第だと思うんですが、日本刀に流れるおそろしいまでに洗練された技術の数々の片鱗を垣間見ることができたような気がします。日本人のこだわりって……ちょっぴり病的。
ただ、今回はやっていた企画展示が平和な時代の大坂新刀だったということもあってか、どちらかというと美術的な良さや技術の洗練具合がクローズアップされた感じがあったのですが、私としてはもっとより実践的な戦国時代以前、特に南北朝時代あたりの「斬るより叩く!」みたいな剛刀も観てみたいんですよね。あと、大陸の武器の雰囲気も残していながら日本刀の原型にもなっている平安時代の「太刀(たち)」もいいですよねぇ、エキゾチックで。まぁそれはまた、別の機会に。
まま、そんな感じで大いに堪能した塚本美術館だったのですが、残念ながら1時間ほどで早めにきりあげて移動しなければなりませんでした。
そりゃもうあなた、日が出ているうちに近所の佐倉城めぐりを楽しむためでございますよ! なにはなくともここはおさえていかねば。
おお、佐倉城!!
今でこそ、歴史の教科書の中では「江戸時代の民衆の英雄・佐倉惣五郎がいたところ」という程度のあつかいしかなされていない佐倉なのですが、実は江戸時代には間違いなく、下総国(千葉県北西部)の首都としての重要な意味合いを持っていました。
つまり、佐倉藩は幕府の首都・江戸の東を守る最大の防衛基地である佐倉城を擁しており、それが逆にあだとなって、江戸幕府終焉後の明治以降は千葉県の主要都市としては政治的な意義を敬遠されるようになってしまったともいえるのです。結果、下総国のあった土地の中心都市は江戸時代には目立たない存在だった千葉市、県名も千葉県になってしまい現在にいたるっちゅうことなんですな。あぁ、歴史のおもてうら。
ところで、佐倉といえば「佐倉城」があり、千葉といえば「千葉城」があるわけなのですが……
実は! どちらも戦国時代にはまともな「城郭」としての機能を果たしておりませんでした!!
あれ? ちょっと待てそうだい、おめぇ前回、ゲームの『信長の野望』に佐倉城が出てきてたって言ったじゃねぇか! と思う方、いらっしゃるでしょ?
そうなんですよ。10作以上ある『信長の野望』シリーズの中には、確かに「佐倉城」という名前のお城がちょいちょい出てくるんですね。こりゃいってぇどうしたことなんでい!?
はい~、これはですねぇ、現在ある「佐倉城」のほかに、戦国時代に大名・千葉家の居城として機能していた「第一佐倉城」とも言うべき「本佐倉(もとさくら)城」というお城があったからなんですねぇ! だから、『信長の野望』に登場する佐倉城は今ある佐倉城ではないんです。
へへへ……ややこしいだろう! でも、このややこしさを楽しく思わないと本当の城めぐりの醍醐味を味わうことはできないわけなんですよ~。ホント!
時代をおって説明していきますと、下総国には、なんと平安時代の昔からこの地をおさめる名族・千葉家が戦国時代にいたるまでのおよそ500年間、領主としての絶対的地位を守り続けていました。
千葉家はまさしく、あの平安時代を切り開いた、つまりはあの平安京を創始した、つまりはつまりはあのあの長岡京を創始しようとして途中でやめちゃった桓武(かんむ)天皇の直接の子孫にあたる由緒正しい血筋で、しかも平安時代最大の反乱ともいえた「承平・天慶の大乱」の関東地方での主役となった平将門(まさかど)のいとこの流れでもあるという、武人としてのほまれも高い一族なのでした。つまりはりっぱな「平家」の子孫だったのですね。「武士」という概念のできる前から豪族として存在していたとは……
ところが、千葉家は平安時代の終わりを告げるきっかけとなった源平の大乱では、遠い親類である京都の平家に味方することはせず、関東武士団の気持ちをくんでくれた源頼朝の強力なスポンサーとなって地方守護家としての確固たる地位を築いたわけなのです。
で! そのころの創業期からの千葉家の本拠となっていたのが現在の千葉市にある千葉城(旧名・亥鼻城)だったのですが、戦国時代も間近にさし迫った15世紀なかば、千葉家では一族間で大変な抗争が勃発してしまいました。
1455年、当時の当主だった千葉胤直と、叔父の馬加康胤(まくわり・やすたね 馬加は現在の「幕張」の旧名)とのあいだで戦乱が発生してしまい、康胤が胤直を攻め滅ぼして千葉家当主の座を乗っ取るという大事件が発生。
ここで乗っ取られた千葉家本家の訴えを聞いた京の室町幕府の将軍・足利義政は大規模な康胤追討軍を関東に派遣(総司令官は義政の歌道友だちの東常縁:とう・つねより)、文武両道に通じ意外にも名将だった常縁の攻撃に一時は康胤の野望もここまでかと思われたのですが、タイミングの悪いことに京で応仁大乱が!! 「こりゃあ千葉家どころじゃねぇ!」とあわてた常縁軍は京に引き上げてしまったため、なし崩し的に千葉家は康胤一族のものとなってしまいました。もうね~、このグダグダ感が室町時代のいいところなのよねぇ!! だいっすき。
この戦乱の中で、戦時用の城郭としてはやや手狭だった千葉城に不安を感じた康胤の次男・千葉輔胤(すけたね 康胤の弟との説もある)は、チャッチャと未練げもなく一族伝来の千葉城を放棄し、そこから北東20キロにいったところにある佐倉の地に本拠を移してしまいました。東京湾に面して開けた場所にあった(今はだいぶ開拓されて海は遠くなっていますが)千葉城に対して、山奥に分け入った佐倉の城は、当時大規模な沼地となっていた印旛沼を天然の水堀とした戦争用に特化した難攻不落の名城となりました。
これこそが現在「本佐倉城」と呼ばれているお城のことで、だいたい1480年代半ばには完成して千葉家の新しい居城となり、結果的に1590年の豊臣秀吉の小田原遠征の巻き添えをくらって戦国大名としての千葉家が滅亡するまでの100年間をともにすることとなりました。
こちらの本佐倉城は現在の地名でいうと、千葉県の佐倉市と印旛郡酒々井(しすい)町の境にあり、建造物はあとかたもないのですが、空堀や土塁などの戦国時代前期の城郭特有の縄張り(構造物配置)はかなり良好に残っているのだそうです。近いうちに必ず観にいきますよ!
ギャ~!! ぜんっぜん私が行った佐倉城の話が始まってねぇよ!
とにかくですね、簡単に言ってしまえば平安~室町時代の千葉家のお城が千葉城で、戦国時代のお城が本佐倉城だったというわけなんですよ。
それで、じゃあ本題の佐倉城はすっかり平和になった江戸時代になってつくられたお城なのかと言いますと……そう簡単な話でもないんですよ~。
本佐倉城についての詳しい解説は、またいつかそこを探訪したときにあらためてちゃんとやりたいのですが、間近に迫った敵軍の攻撃に耐えるために選ばれた本佐倉城は、戦争には最適な城郭だったものの時代の流れにはさからえず。
平安時代から続いた名族・千葉家も、戦国時代に入ってマルマルモリモリと相模国・小田原から同心円状に勢力を拡大してきた北条家の前に屈せざるをえない状況を呈してきました。
もともと戦国時代の千葉家が、それまでの千葉本家を追い落として当主を名乗った親戚だったことからもわかるとおり、千葉家は常に本家と親類とのあいだに対立の火種をくすぶらせており、それに加えて房総半島の南からやってくる新興勢力の里見家と西からの北条家の圧迫ときたもんで、もはや歴史ある千葉の家も内憂外患で風前の灯火という状態となっていました。
で、その中で苦肉の策として発案されたのがふたたびの「本城移転策」で、戦国時代半ば以降の1550~80年代に、歴代の千葉家当主は当時の佐倉城よりもより堅固な「第二佐倉城」の建造を最大懸案事項としてきました。
そこで選ばれたのが! 本佐倉城の西南5キロに位置する台地、つまり私の行ったあの「鹿島山」だったわけなのですね。やっときました~。ちなみに鹿島山の名前の由来は、最初に千葉家の命を受けてこの地への新城建造を担当した武将の名前が「鹿島幹胤(みきたね やはり千葉家一族)」だったことによります。
だが、時すでに遅し……
千葉家の新城建築を明らかな敵対行為とみなした北条家は圧力を加え、千葉家の中で北条家に内通した有力者が幹胤を暗殺してしまったために、建築は中断されてしまいます。ただし、この時にだいたいの基礎工事はできあがっていたようです。
その後、当時の千葉家当主・千葉邦胤(くにたね)みずからが鹿島山の築城を再開するという時期もあったのですが、今度はその邦胤が、「宴会中におならをしたことを怒られて恥をかいた」ということから彼に個人的な恨みを持っていた家来に暗殺されるという悲劇が起きてしまい、ここにいたって新城建築と千葉家復活の可能性は完全についえてしまいました。そりゃおならをした家来がいちばん悪いんだろうけど、そんなことで復讐されちゃった邦胤さんも戦国大名としてどうだろうか。
そんな経緯があったもので、現在「佐倉城」と呼ばれているお城が戦国時代に誕生することはなかったのですが、いちおう「いい城ができそうな土地である。」という認識はされていたらしいんですね。
で、結果的にそんな千葉家の遺志を継ぐ形であらためて第二の佐倉城を完成させることとなったのが、江戸時代初期、幕府の重鎮として活躍することとなった佐倉藩初代藩主・土井利勝(としかつ)さんだったというわけなんですねェ~。
……
あの~、なかば確信犯的にやってるんですけど、ここまで話が進まないとは思ってもみませんでした……
申し訳ないんですが、具体的な佐倉城リポートはまた次回ということで。
いや、ホントすんません、次回で終わりますから!! 次……いや、次の次の回? いや、ひょっとしたら……
え~……
1ヶ月は続かないから、安心してください!!
なんか、あの知る人ぞしる東京・赤羽の低予算アイドルグループ「AKBN 0(エーケービーエヌ・ゼロ)」に大きな動きがあったみたいですね!
イベント集客やグッズ販売で得た収入のみで活動していくというグループの資金が、今月17日をもってついに1千万円を突破したようです。うおお~。
その結果、彼女たちにとっての次の活動目標となっていた「1千500万円たまったら新宿の日本青年館でコンサート」が、にわかに現実味をおびてきたようですね。
これはもしかしたら、年内の目標達成も……どうかしらねぇ~! とにかく、「現役最年長センター」との異名をとる茜チュインあいさんが20代であるうちにひと花咲かせていただきたいと。がんばってくだしゃ~い。
さてさて、前回に続いて「塚本美術館」と日本刀の話題でございます。
私、そこの「日本刀ができるまで」展示で恥ずかしながら初めて知ったんですけど、まぁ~日本刀の製作技術はとてつもないんだ。
まず「日本刀づくり」という言葉を聞くと、ほとんどの方は「相撲の行司さんみたいな格好をした職人さんが、真っ赤に熱せられた鉄をトンカチみたいなものでたたいて延ばして刀をつくる」というイメージを思い起こされるのではないでしょうか。
私もそんな映像を観たことがある、という記憶しかなかったので、てっきり日本刀とは、鋼鉄のかたまりをただ高熱で日本刀の形にすればできあがり!というものかと思っていたのですが……
甘い!! 「きゃりーぱみゅぱみゅ」というネーミングセンスくらい甘い。
日本刀はねぇ、ざっくり言っちゃうと、「ものすご~く斬れる硬度の高い外側」で「しなやかに衝撃を吸収する比較的やわらかい芯」をつつんだ構造になっているのです。だからこそ、名刀は「よく斬れる」のに「丈夫」というミラクルの域に達しているのですね。
どちらの部分も、日本古来の「たたら製法」で砂鉄から錬成していく「玉鋼(たまはがね)」によってつくられた鋼鉄であることに違いはないのですが、芯となる「心鉄(しんがね)」はやわらかいままにしておいて、いっぽうで外側をつつむことになる「皮鉄(かわがね)」はも~う鍛える鍛える。
皮鉄にする玉鋼は、加熱して延ばしては折りたたみ、また延ばしては折りたたみをおよそ10回程度は繰り返し、これによって皮鉄は1層が2層、2層が4層、4層が8層、8層が16層といったぐあいで見る見るうちに鋼鉄のミルフィーユを構成していくこととなり、これがのちの切れ味につながっていくこととなります。
そして、できあがった皮鉄でどうやって心鉄をつつむのかは流派によって違っているらしいのですが、おもなものとしては、
・皮鉄を2つ折りにしてパニーニ風に心鉄をサンドする「眞甲伏(シンノコウブセ)」
・2枚の皮鉄で心鉄をサンドウィッチする「本三枚(ホンサンマイ)」
・4枚の皮鉄で心鉄を全方位からサンドする「四方詰(シホウヅメ)」
といったものがあるんですって。うわ~一生に一度でも口に出せたらラッキーだね! でもなんとなくおぼえておきたい。
で! やっと、あの映像でよく見るトンテンカンカンの作業に入っていくわけなのです。ここから、ビデオテープみたいな四角四面の形の鋼鉄を日本刀の形にしていくわけなんですね。
はぁ~大変だわ。
日本刀の製作はまさにデリケートそのもので、皮鉄がはげて心鉄が露出しないように注意しながら! あの細さをつくっていくわけなのです。
しかも、最終的に日本刀の切れ味を左右することになる最終段階の「焼き入れ」に関しては、鋼鉄の耐えられる限界の高温までにもっていくために、刀身には熱の伝わりを急激にさせないために特殊な土を塗ってコーティングしてから加熱します。この時に刃の部分の土を薄く塗ることによって、あの極限までに鍛えられた白刃ができあがるというわけなんですね。『トリビアの泉』で拳銃の弾を真っ二つにした実力はこの努力から生まれていたんですね。まぁ、弾は斬っても、持ち主にできる傷が1コから2コに増えるってだけなんでしょうけど。意味ねぇ!
いやぁ~、勉強になりました! 世界一の武器なのかどうかは使い手次第だと思うんですが、日本刀に流れるおそろしいまでに洗練された技術の数々の片鱗を垣間見ることができたような気がします。日本人のこだわりって……ちょっぴり病的。
ただ、今回はやっていた企画展示が平和な時代の大坂新刀だったということもあってか、どちらかというと美術的な良さや技術の洗練具合がクローズアップされた感じがあったのですが、私としてはもっとより実践的な戦国時代以前、特に南北朝時代あたりの「斬るより叩く!」みたいな剛刀も観てみたいんですよね。あと、大陸の武器の雰囲気も残していながら日本刀の原型にもなっている平安時代の「太刀(たち)」もいいですよねぇ、エキゾチックで。まぁそれはまた、別の機会に。
まま、そんな感じで大いに堪能した塚本美術館だったのですが、残念ながら1時間ほどで早めにきりあげて移動しなければなりませんでした。
そりゃもうあなた、日が出ているうちに近所の佐倉城めぐりを楽しむためでございますよ! なにはなくともここはおさえていかねば。
おお、佐倉城!!
今でこそ、歴史の教科書の中では「江戸時代の民衆の英雄・佐倉惣五郎がいたところ」という程度のあつかいしかなされていない佐倉なのですが、実は江戸時代には間違いなく、下総国(千葉県北西部)の首都としての重要な意味合いを持っていました。
つまり、佐倉藩は幕府の首都・江戸の東を守る最大の防衛基地である佐倉城を擁しており、それが逆にあだとなって、江戸幕府終焉後の明治以降は千葉県の主要都市としては政治的な意義を敬遠されるようになってしまったともいえるのです。結果、下総国のあった土地の中心都市は江戸時代には目立たない存在だった千葉市、県名も千葉県になってしまい現在にいたるっちゅうことなんですな。あぁ、歴史のおもてうら。
ところで、佐倉といえば「佐倉城」があり、千葉といえば「千葉城」があるわけなのですが……
実は! どちらも戦国時代にはまともな「城郭」としての機能を果たしておりませんでした!!
あれ? ちょっと待てそうだい、おめぇ前回、ゲームの『信長の野望』に佐倉城が出てきてたって言ったじゃねぇか! と思う方、いらっしゃるでしょ?
そうなんですよ。10作以上ある『信長の野望』シリーズの中には、確かに「佐倉城」という名前のお城がちょいちょい出てくるんですね。こりゃいってぇどうしたことなんでい!?
はい~、これはですねぇ、現在ある「佐倉城」のほかに、戦国時代に大名・千葉家の居城として機能していた「第一佐倉城」とも言うべき「本佐倉(もとさくら)城」というお城があったからなんですねぇ! だから、『信長の野望』に登場する佐倉城は今ある佐倉城ではないんです。
へへへ……ややこしいだろう! でも、このややこしさを楽しく思わないと本当の城めぐりの醍醐味を味わうことはできないわけなんですよ~。ホント!
時代をおって説明していきますと、下総国には、なんと平安時代の昔からこの地をおさめる名族・千葉家が戦国時代にいたるまでのおよそ500年間、領主としての絶対的地位を守り続けていました。
千葉家はまさしく、あの平安時代を切り開いた、つまりはあの平安京を創始した、つまりはつまりはあのあの長岡京を創始しようとして途中でやめちゃった桓武(かんむ)天皇の直接の子孫にあたる由緒正しい血筋で、しかも平安時代最大の反乱ともいえた「承平・天慶の大乱」の関東地方での主役となった平将門(まさかど)のいとこの流れでもあるという、武人としてのほまれも高い一族なのでした。つまりはりっぱな「平家」の子孫だったのですね。「武士」という概念のできる前から豪族として存在していたとは……
ところが、千葉家は平安時代の終わりを告げるきっかけとなった源平の大乱では、遠い親類である京都の平家に味方することはせず、関東武士団の気持ちをくんでくれた源頼朝の強力なスポンサーとなって地方守護家としての確固たる地位を築いたわけなのです。
で! そのころの創業期からの千葉家の本拠となっていたのが現在の千葉市にある千葉城(旧名・亥鼻城)だったのですが、戦国時代も間近にさし迫った15世紀なかば、千葉家では一族間で大変な抗争が勃発してしまいました。
1455年、当時の当主だった千葉胤直と、叔父の馬加康胤(まくわり・やすたね 馬加は現在の「幕張」の旧名)とのあいだで戦乱が発生してしまい、康胤が胤直を攻め滅ぼして千葉家当主の座を乗っ取るという大事件が発生。
ここで乗っ取られた千葉家本家の訴えを聞いた京の室町幕府の将軍・足利義政は大規模な康胤追討軍を関東に派遣(総司令官は義政の歌道友だちの東常縁:とう・つねより)、文武両道に通じ意外にも名将だった常縁の攻撃に一時は康胤の野望もここまでかと思われたのですが、タイミングの悪いことに京で応仁大乱が!! 「こりゃあ千葉家どころじゃねぇ!」とあわてた常縁軍は京に引き上げてしまったため、なし崩し的に千葉家は康胤一族のものとなってしまいました。もうね~、このグダグダ感が室町時代のいいところなのよねぇ!! だいっすき。
この戦乱の中で、戦時用の城郭としてはやや手狭だった千葉城に不安を感じた康胤の次男・千葉輔胤(すけたね 康胤の弟との説もある)は、チャッチャと未練げもなく一族伝来の千葉城を放棄し、そこから北東20キロにいったところにある佐倉の地に本拠を移してしまいました。東京湾に面して開けた場所にあった(今はだいぶ開拓されて海は遠くなっていますが)千葉城に対して、山奥に分け入った佐倉の城は、当時大規模な沼地となっていた印旛沼を天然の水堀とした戦争用に特化した難攻不落の名城となりました。
これこそが現在「本佐倉城」と呼ばれているお城のことで、だいたい1480年代半ばには完成して千葉家の新しい居城となり、結果的に1590年の豊臣秀吉の小田原遠征の巻き添えをくらって戦国大名としての千葉家が滅亡するまでの100年間をともにすることとなりました。
こちらの本佐倉城は現在の地名でいうと、千葉県の佐倉市と印旛郡酒々井(しすい)町の境にあり、建造物はあとかたもないのですが、空堀や土塁などの戦国時代前期の城郭特有の縄張り(構造物配置)はかなり良好に残っているのだそうです。近いうちに必ず観にいきますよ!
ギャ~!! ぜんっぜん私が行った佐倉城の話が始まってねぇよ!
とにかくですね、簡単に言ってしまえば平安~室町時代の千葉家のお城が千葉城で、戦国時代のお城が本佐倉城だったというわけなんですよ。
それで、じゃあ本題の佐倉城はすっかり平和になった江戸時代になってつくられたお城なのかと言いますと……そう簡単な話でもないんですよ~。
本佐倉城についての詳しい解説は、またいつかそこを探訪したときにあらためてちゃんとやりたいのですが、間近に迫った敵軍の攻撃に耐えるために選ばれた本佐倉城は、戦争には最適な城郭だったものの時代の流れにはさからえず。
平安時代から続いた名族・千葉家も、戦国時代に入ってマルマルモリモリと相模国・小田原から同心円状に勢力を拡大してきた北条家の前に屈せざるをえない状況を呈してきました。
もともと戦国時代の千葉家が、それまでの千葉本家を追い落として当主を名乗った親戚だったことからもわかるとおり、千葉家は常に本家と親類とのあいだに対立の火種をくすぶらせており、それに加えて房総半島の南からやってくる新興勢力の里見家と西からの北条家の圧迫ときたもんで、もはや歴史ある千葉の家も内憂外患で風前の灯火という状態となっていました。
で、その中で苦肉の策として発案されたのがふたたびの「本城移転策」で、戦国時代半ば以降の1550~80年代に、歴代の千葉家当主は当時の佐倉城よりもより堅固な「第二佐倉城」の建造を最大懸案事項としてきました。
そこで選ばれたのが! 本佐倉城の西南5キロに位置する台地、つまり私の行ったあの「鹿島山」だったわけなのですね。やっときました~。ちなみに鹿島山の名前の由来は、最初に千葉家の命を受けてこの地への新城建造を担当した武将の名前が「鹿島幹胤(みきたね やはり千葉家一族)」だったことによります。
だが、時すでに遅し……
千葉家の新城建築を明らかな敵対行為とみなした北条家は圧力を加え、千葉家の中で北条家に内通した有力者が幹胤を暗殺してしまったために、建築は中断されてしまいます。ただし、この時にだいたいの基礎工事はできあがっていたようです。
その後、当時の千葉家当主・千葉邦胤(くにたね)みずからが鹿島山の築城を再開するという時期もあったのですが、今度はその邦胤が、「宴会中におならをしたことを怒られて恥をかいた」ということから彼に個人的な恨みを持っていた家来に暗殺されるという悲劇が起きてしまい、ここにいたって新城建築と千葉家復活の可能性は完全についえてしまいました。そりゃおならをした家来がいちばん悪いんだろうけど、そんなことで復讐されちゃった邦胤さんも戦国大名としてどうだろうか。
そんな経緯があったもので、現在「佐倉城」と呼ばれているお城が戦国時代に誕生することはなかったのですが、いちおう「いい城ができそうな土地である。」という認識はされていたらしいんですね。
で、結果的にそんな千葉家の遺志を継ぐ形であらためて第二の佐倉城を完成させることとなったのが、江戸時代初期、幕府の重鎮として活躍することとなった佐倉藩初代藩主・土井利勝(としかつ)さんだったというわけなんですねェ~。
……
あの~、なかば確信犯的にやってるんですけど、ここまで話が進まないとは思ってもみませんでした……
申し訳ないんですが、具体的な佐倉城リポートはまた次回ということで。
いや、ホントすんません、次回で終わりますから!! 次……いや、次の次の回? いや、ひょっとしたら……
え~……
1ヶ月は続かないから、安心してください!!