さくぅらぁ~はァ~、まだかいなァ~♪ どうもこんばんは、そうだいでございます~。みなさま、今日も一日お疲れさまでした!
いやぁ、千葉は実にいいお天気が続いているんですけど、まだまだ日が暮れると寒いですねぇ。気温も桜も、花見はまだちょっと遠いようですな。
基本的にTV と縁のない生活をしておりますと、占い師だスピード違反だといったファッキンどうでもいい話題とも距離をおけるので非常に快適なのですが、さすがに AKB48の前田さんの発言の反響はラジオでももちきりになっていますねぇ。
でもこれ、具体的な期限は言っていないんでしょう? じゃあニュースじゃありませんよねぇ。アイドルグループの世界で言うのならば、たとえは適当じゃないかも知れませんが、「私はいつか、寿命がきたら死んでしまいます。」と同じくらいのごくごく普遍的な発言ですよね。
これはあれですか? 今月いっぱいで活動を終了するっていう、 AKB48のお姉さんグループにあたる SDN48だけに哀しい想いをさせたくはないっていう前田さんのはからいなんですか? むしろ思いっきりかすませてしまって相当よくない影響を与えてしまった気がしなくもないんですが。
私が去年やった「ざっくりすぎるアイドルグループ史」の最終章からもだいぶ時がうつろって、当時は予想だにしなかったような新しい項目もワンサカ増えてきましたね~。
ただ、よくよく振り返ってみると、人々の心に残る多くのアイドルが「メンバー卒業」という花道をあゆんで第一線を去っていくというトピックはあったものの、おおむね AKB48の覇権はゆるがず、全体的にアイドルグループ業界の雨後のたけのこのようなフィーバーぶりがじょじょに落ち着きを取り戻すようになってきた、ゆるやか~な変化ですぎた1年間だったような気がします。最も大きかったのは、やっぱりなんといっても高橋愛さんのモーニング娘。卒業でしょうか。愛称や形式上の話でなく10年間「職業トップアイドル」だったなんて! とんでもないことですよ。
なんとなくではあるのですが、「嵐はこれからだ……」っていう予感もするんですよねぇ。
前田さんの発言は、もちろんご本人の強い意思からきたものであることは間違いないのでしょうが、どことなく、「アイドルグループのメンバーではない自分としてやりたいことがある!」というよりも、「わたしの戦友や将来有望な後輩たちのためのことを考えると、わたしはここにいるよりも……」といったニュアンスが感じられるような気がします。こっちのほうが、周辺の人々がよく語る前田敦子さんという人間の魅力に非常にリンクしているような気がするのですが、どうでしょうか。
とにかくさぁ、若干20歳でこんなに後進のことをおもんぱからなきゃいけないんだぜ!? 大変な人生ですよね。
そういえば、同じアイドルグループのことでも、それとは別に最近私が非常に気になっていることがありまして。
『数学♥女子学園』のここ数週の展開が思いっっっっきり不満!!
確か私、先月にハロプロ総出演のこのドラマを毎週たのしみにしているっていう内容のことをくっちゃべっていましたよね?
あれはだいたい放送の第6~7回くらいまでを観た時点での雑感だったのですが……そのあとあたりから、ねぇ。
これはもう、本当に臓腑の底から声を振り絞って叫びたい感情がふつふつと沸き上がっておるのですが、あさっての深夜に最終回をむかえるということなので、まずはそれを見届けてからゆっくりとあつかうことにいたしましょう。
私が言いたいのは、「真野恵里菜さんをそんなに粗末にあつかうほどあなたがたは左うちわなんですか?」ということなんですけど。真野さんにかぎらず、豪華すぎる食材をあれほどまでにもったいなく調理できる作り手の神経は信じがたいですね! 無駄遣いのし放題にもほどがありますよ。徳川宗春かお前はっての。
と、いうことで、歴史上の人物のお名前が出てきましたので、そろそろ本題の「岡山城入城記」のほうに入っていくことといたしましょう。強引っていう以前に、つなげる気がさらさらありません。
今現在、岡山市にある岡山城本丸公園は、その名のさししめす通り、かつて江戸時代に1キロ四方という広大な城域を持っていた岡山藩政庁・岡山城のうち、その中核部分に当たる「本丸」のみを保存、一部再現したものとなっています。前回にもふれた5重にめぐらされた水堀の中でも、最終防衛ラインとなる内堀だけが残って公園を囲んでいますね。現在、何羽もの白鳥がみなもにただよっているお堀がこれです。
余談ですけど、白鳥って近づいてよく見てみると、こわいね……思ったよりも身体のサイズが大きくて、美しい鳥というよりも、「お堀最強の生物!」といったイメージなんです。ヒマさえあれば水中に首をつっこんで何かをガツガツ食べてましたよ。
岡山城本丸、つまり現在の本丸公園は、だいたい200メートル四方、4万平方メートルの広さを持つ土地になっています。
こう聞くと、みなさんはどういった印象を持つでしょうか。広い? 狭い?
このへんの感覚が私も自分でとっても楽しかったんですが、歩く前は「広い」、歩いてみると「狭い」にだんだんとシフトしていくんですよねぇ。
これをもっと具体的に言うのならば、「散策する公園としては広い」、けれども、「人間が藩政の運営のために毎日何百人も行き来して、かつ殿様とその家族が常に居住しているお城としては狭い」ということになるのです。
岡山城本丸は、西側と南側が内堀できれいにカットされていて、北から東にかけては「旭川」という、川幅50~100メートルほどの大河をそのまま天然の堀として活用した、四方を水に取り囲まれた標高10数メートルほどの丘「岡山」を利用して建造されています。上空から見ると真四角じゃなくてロールケーキを4分の1に切ったような、直線と曲線で構成された区画なんですね。「D」を上下で真っぷたつにしたうちの上のほうのかたちって言うとわかりやすいでしょうか? いちょう切りのダイコンみたいな。ダイコンじゃなくてもいいんですけど、そこはダイコンで。
で、実はこの本丸の中でも区画はさらに「3つ」に分かれており、これは標高にあわせた区別になっております。
まず、岡山駅から向かった場合の公園の正面入り口になる、再現された「内下馬橋(うちげばばし 物騒なネーミングですが私1人しかいなかったので実に静かな橋でした)」で内堀をわたって入城すると、公園の敷地は丘をぐるりと取り囲んだ「下段」という土地になっています。当時はもちろん正門「大手門」のほか、「隅櫓(すみやぐら)」「太鼓櫓」「油蔵櫓」などといった有事の防衛ポイントと平時の倉庫をかねた櫓が10棟も立ち並ぶ部分だったのですが、現在はなにも再現されておらず、絶好の散歩コースとなっているようです。ただ、東端にあたる「旗櫓」「弓櫓」跡地ではなにやら修復工事がおこなわれている様子でしたね。休日だったので作業員の方はおられませんでしたが、もしかしたらそこで往時の様子を再現する復旧プロジェクトが進んでいるのかもしれません。もう、どんどんやってちょうだい!
そして、そこから南側の「鉄門(くろがねもん 文字通り鉄板の張られた城門)」があった階段をのぼって行った丘部分が、2番目の区画にあたる「表書院(おもてしょいん、表向御殿ともいう)」スペースです。「中段」という呼称も使用されていたようですね。
ここは本丸の中にある丘(「岡山」という名前だった)の西半分を利用した部分で、その名の通り「おもてのお仕事」、つまりは江戸時代の岡山藩の藩政を執行していた現在の「市役所」や「県庁」にあたる超重要空間だったのです。
この表書院には現在、そのあたりを思い起こさせる上で非常にありがたい展示となる、地面に「大広間」「台所」「詰所(つめしょ)」などといった名称と部屋割りラインとが詳細に表示された、実寸大の「表書院間取り平面図」がもうけられているのです。
これはいいですね……建物をたて直す資金がなくとも、想像力さえあれば誰もがここでの当時の様子を眼前にありありと再現させることができるのです。いい仕事されてます!
「イヤ~、昨日呑みすぎちゃってさぁ。ムリするもんじゃねぇなぁ!」
「田中くん、今夜久しぶりにちょっとどうかね? いいお店があるんだが。」
「部長、もうこういうの、終わりにしませんか……まわりの人たちもうわさしてて、私これ以上耐えられそうにありません。」
「ごめんください、わたくし部長の山岸左近の妻でございますが、総務課の田中トメというお方は今、おられますか。」
逃げて! トメさん逃げて~!! っていうか、江戸時代にOL はいねぇか。
そういった妄想が無尽蔵にわきあがるわけなのですが、そんなことを考えながら早朝にマシュマロとばかうけを交互に食べている私の姿が、あの日あそこにはありました。気持ちわるい。
この表書院をながめていちばん大きく感じたのは、やっぱり当時の日本の建築物の「サイズの小ささ」ね! 実際に部屋あとに立ったり廊下あとを歩いてみたりして実感するんですけど、ひと部屋ひと部屋がほんとにコンパクト、っていうか、現代の日本人から見ると明らかに寸法が小さいんです。
これは実におもしろい感覚でしたねぇ~!
ガリヴァー旅行記とまではいきませんけれども、現在21世紀の日本人の平均身長は男性が171cm で女性が158cm 。それにたいして江戸時代の平均身長は、遺骨などの調査から見て男性が155~58cm で女性が143~46cm だったのだそうです。縄文時代以来の長い日本の歴史の中でも、どうやら江戸時代の平均身長がもっとも低かったみたいなんですよ。これはやっぱり、肉だとか牛乳だとかいう動物性たんぱく質・カルシウムを摂取する機会がいちばん少なかったことが原因なんでしょうかね。日本史上もっとも平和だった250年間は、そのまんま国民の食生活の規制がもっとも厳しい250年間だったということにもなるのかしら。
なんと10cm 以上も差があったというんですからね。これは居住空間のサイズが大きく違っていても仕方ありませんやね。
そういった事情に加えて、表書院はだいたい20m ×50m ほどの屋敷の中に「役人の事務室」「会議室」「ガードマンの控え室」「藩主の執務室」「藩主一家のための食事調理室」といった65もの部屋がギュウギュウにつまっているため、ちょっとお世辞にも広いとは言えない空間になっていたようです。
んで、本丸の丘のうち西半分を占めているのがこの「表書院」で、そこからさらに南の「不明門(あかずのもん)」もしくは北の「廊下門」を通って階段を10m ほどのぼった上にある東側、丘の頂上にあたるスペースこそが! 天下にその威容をとどろかす「岡山城天守閣」をいただく「本段」部分なんですね~。
ちなみにこの2ヶ所の門は現在どちらもコンクリート造りで復元されているのですが、名前の由来はそれぞれ、「不明門」がふだん使用されることがめったに無かったことから、「廊下門」が門の上部に殿様が移動するための渡り廊下があったことからとられています。他のお城でもよく見られる使用形式ですよね。
いや~しかし、下段にいたときにはあんまり気にならなかったんですけど、さすがに中段・表書院にのぼっちゃうと、上の本段にある漆黒の天守閣がチラホラ視界に入ってきちゃうんですよねぇ。ウヒョ~! そんなにせかさないでくださいよ~。
要するに、岡山城本丸はまず平地と変わらない高さの「下段」の中央に丘があり、そのうちの低い西半分が「中段・表書院」、高い東半分が「本段」となっているわけなのです。こうなっちゃうと、いくら4万平方メートルといえども自然に使える空間は限られてきちゃいますよね。
いや~。ついに眼前におがんでしまいましたよ、岡山城天守閣!! ありがてぇありがてぇ。パン、パン。
高さおよそ20m 、大・中・小3つの二階建ての棟を積み上げたかたちの重厚な六階建て。外壁は全体に黒漆をぬった下見板(したみいた)が張りめぐらされており、「烏城(うじょう)」の別名にたがわないツヤ消しブラックのシルエットに、真っ白の破風(はふ 中腹の屋根の上についている三角形の構造物)とキンキラキンのしゃちほことが絶妙なアクセントをほどこしています。かっけぇなぁ~、やっぱ!
また、見た当日がほんとに天気のいい日だったんでねぇ。暖かいというよりも、むしろ暑いに近くなってきた晴天のもとにそびえたつ黒い城は、すばらしいインパクトをもって私の眼に飛び込んできました。う~ん、やっぱり美人だわ! 和風のなでしこ美人じゃなくてエキゾチックな南国の美女に見えるのがほんとにふしぎです。あいつのビンタはきっくぜぇ~!
前回にも触れたように、戦国時代末期(桃山時代)の1597年いらい、太平洋戦争末期の1945年6月29日の「岡山大空襲」で焼失してしまうまで
約350年もの長きにわたって屹立していた天守閣は写真資料も多く残っていたので、1966年にコンクリート造りで再建された現在の2代目天守閣は、外見は初代を忠実に復活させたものとなっています。そのさい、初代天守閣の礎石は2代目の建造前に本段の離れた広場に移して展示されています。本段の広場はもちろん、江戸時代には歴代藩主のプライベートな邸宅が建っていた区画です。
そのため岡山城天守閣は、姫路城や彦根城といった白壁が特徴的な「江戸時代の城」とは一線を画した「戦国~豊臣政権時代の城」のカラーを色濃く残した外観を保っており、熊本城や松本城の系統に属する威圧感のあるバトルヒロイン的な魅力をはなっています。
戦国の豊臣城と江戸時代の徳川城との違いについて考える上で、「黒いか白いか?」という基準以外にもうひとつ、「最上階の間取りが正方形か矩形(長方形)か?」というものがあります。つまり、最上階のお顔がどこから見ても同じ形なのが豊臣城で、見る地点によって顔が大きくなったり細くなったりするのが徳川城なわけなんですね。
これはおそらく、お城の建築技術が進化して間取りを拡大することができるようになったことのあらわれなのではないかと思われるのですが、やぁっぱり私は無骨で実直で小顔なブラック豊臣城のほうが好きだな!!
岡山城の場合はそれに加えて、一階部分が天守閣と「塩蔵」との複合になったすそ野の広い構成になっているため、ずっしりした下半身と天をつきさす小顔の最上階とのバランスが見れば見るほど絶妙なお姿になっているのです。ワ~オ、グラマラス! バレーボールやらせたらアタックサーブをバンバンやりそう。同性の後輩にモテモテのタイプだ!
岡山城といえばどうしても、この美しすぎる天守閣のことが先に立ってしまうのですが、なかなかどうして無視できないのが「表書院」と「本段」とを上に乗せている豪壮な石垣と、そのへりを囲う白塗りの塀ですね。
塀は、現在の平和な時代に世間でよく見かけられるような普通のブロック塀とは比較にならないようなぶ厚さでつくられており、各所に城の内部から外に向けて火縄銃を撃ち出すための小穴「銃眼石」がもうけられています。ここから外をのぞくと、足元の石垣をよじのぼってくる足軽どもや、数十m 先で采配をふるっている馬上の敵将の姿が自然と浮かび上がってくるような気がして、マシュマロをつまむ指にもついつい力が入ってしまいます。ロマンですねい。
だいたいフラフラしながらここらへんまで見てくるとわかってくるのですが、岡山城にはボンヤリとながらも、お互い相容れない「2つの顔」があるような気がしてきます。
それはつまり、「戦争用の実用的な要塞」としての顔と、「平和時の外観の華麗さを重視した政庁」としての顔なんですね。
まず、「要塞」としての岡山城を象徴するのはなんといっても漆黒の天守閣なんですが、よく見てみると、天守閣を上にのっけている石垣とそこ以外の表書院などをのっけている石垣とで、石の積み方と石自体の形がまるで違っていることがわかります。
詳しく言いますと、天守閣の石垣は丸い形の自然石をそのまんま積みあげた「野面積(のづらづみ)」という古い形式でつくられており、そこ以外の石垣は実に精巧に平らに加工された巨大な割り石と、それらの間に小さな石を敷き詰めて強度を高めた「打込萩(うちこみはぎ)」という華麗な江戸時代最新式の形式になっているのです。
これは簡単に言うと、天守閣の建造された時期とそこ以外の本丸部分が建造された時期に大きなずれがあったからなんですね。
要するに、「まだまだ戦争の可能性を考えなければならなかった時代」につくられたのが天守閣で、「当面の危険が去って、ちょっとは見てくれに気を使う余裕も出てきた時代」につくられたのがその他の本丸部分だったというわけなんですね。
岡山城は、ひとつのスペースに「2つの時代」がいっしょくたに混在した実に興味深い地になっていたんですねぇ。
しかも! よくよく調べてみると、現在ある本丸の地下にはあの豊臣時代の天守閣に「本来ついてくるはずだった本丸」がまるごと埋まっているのだとか!? しかもしかも、岡山城の近所にはその天守閣さえもが生まれる以前に存在していた「旧・岡山城」の影までもが……
謎が謎よぶ岡山キャッスル~。なんか、この記事も終わりが見えなくなってきてしまいました。予定の4分の1も書けてねぇ!!
なんでしょうか、この進みのおそさ。でも、この際なので心ゆくまで岡山城探訪記をのこさせていただくことにいたします。
もうちょっとガマンしてくださ~い! 次回! 次回こそ岡山後楽園に行きますからね~!!
いやぁ、千葉は実にいいお天気が続いているんですけど、まだまだ日が暮れると寒いですねぇ。気温も桜も、花見はまだちょっと遠いようですな。
基本的にTV と縁のない生活をしておりますと、占い師だスピード違反だといったファッキンどうでもいい話題とも距離をおけるので非常に快適なのですが、さすがに AKB48の前田さんの発言の反響はラジオでももちきりになっていますねぇ。
でもこれ、具体的な期限は言っていないんでしょう? じゃあニュースじゃありませんよねぇ。アイドルグループの世界で言うのならば、たとえは適当じゃないかも知れませんが、「私はいつか、寿命がきたら死んでしまいます。」と同じくらいのごくごく普遍的な発言ですよね。
これはあれですか? 今月いっぱいで活動を終了するっていう、 AKB48のお姉さんグループにあたる SDN48だけに哀しい想いをさせたくはないっていう前田さんのはからいなんですか? むしろ思いっきりかすませてしまって相当よくない影響を与えてしまった気がしなくもないんですが。
私が去年やった「ざっくりすぎるアイドルグループ史」の最終章からもだいぶ時がうつろって、当時は予想だにしなかったような新しい項目もワンサカ増えてきましたね~。
ただ、よくよく振り返ってみると、人々の心に残る多くのアイドルが「メンバー卒業」という花道をあゆんで第一線を去っていくというトピックはあったものの、おおむね AKB48の覇権はゆるがず、全体的にアイドルグループ業界の雨後のたけのこのようなフィーバーぶりがじょじょに落ち着きを取り戻すようになってきた、ゆるやか~な変化ですぎた1年間だったような気がします。最も大きかったのは、やっぱりなんといっても高橋愛さんのモーニング娘。卒業でしょうか。愛称や形式上の話でなく10年間「職業トップアイドル」だったなんて! とんでもないことですよ。
なんとなくではあるのですが、「嵐はこれからだ……」っていう予感もするんですよねぇ。
前田さんの発言は、もちろんご本人の強い意思からきたものであることは間違いないのでしょうが、どことなく、「アイドルグループのメンバーではない自分としてやりたいことがある!」というよりも、「わたしの戦友や将来有望な後輩たちのためのことを考えると、わたしはここにいるよりも……」といったニュアンスが感じられるような気がします。こっちのほうが、周辺の人々がよく語る前田敦子さんという人間の魅力に非常にリンクしているような気がするのですが、どうでしょうか。
とにかくさぁ、若干20歳でこんなに後進のことをおもんぱからなきゃいけないんだぜ!? 大変な人生ですよね。
そういえば、同じアイドルグループのことでも、それとは別に最近私が非常に気になっていることがありまして。
『数学♥女子学園』のここ数週の展開が思いっっっっきり不満!!
確か私、先月にハロプロ総出演のこのドラマを毎週たのしみにしているっていう内容のことをくっちゃべっていましたよね?
あれはだいたい放送の第6~7回くらいまでを観た時点での雑感だったのですが……そのあとあたりから、ねぇ。
これはもう、本当に臓腑の底から声を振り絞って叫びたい感情がふつふつと沸き上がっておるのですが、あさっての深夜に最終回をむかえるということなので、まずはそれを見届けてからゆっくりとあつかうことにいたしましょう。
私が言いたいのは、「真野恵里菜さんをそんなに粗末にあつかうほどあなたがたは左うちわなんですか?」ということなんですけど。真野さんにかぎらず、豪華すぎる食材をあれほどまでにもったいなく調理できる作り手の神経は信じがたいですね! 無駄遣いのし放題にもほどがありますよ。徳川宗春かお前はっての。
と、いうことで、歴史上の人物のお名前が出てきましたので、そろそろ本題の「岡山城入城記」のほうに入っていくことといたしましょう。強引っていう以前に、つなげる気がさらさらありません。
今現在、岡山市にある岡山城本丸公園は、その名のさししめす通り、かつて江戸時代に1キロ四方という広大な城域を持っていた岡山藩政庁・岡山城のうち、その中核部分に当たる「本丸」のみを保存、一部再現したものとなっています。前回にもふれた5重にめぐらされた水堀の中でも、最終防衛ラインとなる内堀だけが残って公園を囲んでいますね。現在、何羽もの白鳥がみなもにただよっているお堀がこれです。
余談ですけど、白鳥って近づいてよく見てみると、こわいね……思ったよりも身体のサイズが大きくて、美しい鳥というよりも、「お堀最強の生物!」といったイメージなんです。ヒマさえあれば水中に首をつっこんで何かをガツガツ食べてましたよ。
岡山城本丸、つまり現在の本丸公園は、だいたい200メートル四方、4万平方メートルの広さを持つ土地になっています。
こう聞くと、みなさんはどういった印象を持つでしょうか。広い? 狭い?
このへんの感覚が私も自分でとっても楽しかったんですが、歩く前は「広い」、歩いてみると「狭い」にだんだんとシフトしていくんですよねぇ。
これをもっと具体的に言うのならば、「散策する公園としては広い」、けれども、「人間が藩政の運営のために毎日何百人も行き来して、かつ殿様とその家族が常に居住しているお城としては狭い」ということになるのです。
岡山城本丸は、西側と南側が内堀できれいにカットされていて、北から東にかけては「旭川」という、川幅50~100メートルほどの大河をそのまま天然の堀として活用した、四方を水に取り囲まれた標高10数メートルほどの丘「岡山」を利用して建造されています。上空から見ると真四角じゃなくてロールケーキを4分の1に切ったような、直線と曲線で構成された区画なんですね。「D」を上下で真っぷたつにしたうちの上のほうのかたちって言うとわかりやすいでしょうか? いちょう切りのダイコンみたいな。ダイコンじゃなくてもいいんですけど、そこはダイコンで。
で、実はこの本丸の中でも区画はさらに「3つ」に分かれており、これは標高にあわせた区別になっております。
まず、岡山駅から向かった場合の公園の正面入り口になる、再現された「内下馬橋(うちげばばし 物騒なネーミングですが私1人しかいなかったので実に静かな橋でした)」で内堀をわたって入城すると、公園の敷地は丘をぐるりと取り囲んだ「下段」という土地になっています。当時はもちろん正門「大手門」のほか、「隅櫓(すみやぐら)」「太鼓櫓」「油蔵櫓」などといった有事の防衛ポイントと平時の倉庫をかねた櫓が10棟も立ち並ぶ部分だったのですが、現在はなにも再現されておらず、絶好の散歩コースとなっているようです。ただ、東端にあたる「旗櫓」「弓櫓」跡地ではなにやら修復工事がおこなわれている様子でしたね。休日だったので作業員の方はおられませんでしたが、もしかしたらそこで往時の様子を再現する復旧プロジェクトが進んでいるのかもしれません。もう、どんどんやってちょうだい!
そして、そこから南側の「鉄門(くろがねもん 文字通り鉄板の張られた城門)」があった階段をのぼって行った丘部分が、2番目の区画にあたる「表書院(おもてしょいん、表向御殿ともいう)」スペースです。「中段」という呼称も使用されていたようですね。
ここは本丸の中にある丘(「岡山」という名前だった)の西半分を利用した部分で、その名の通り「おもてのお仕事」、つまりは江戸時代の岡山藩の藩政を執行していた現在の「市役所」や「県庁」にあたる超重要空間だったのです。
この表書院には現在、そのあたりを思い起こさせる上で非常にありがたい展示となる、地面に「大広間」「台所」「詰所(つめしょ)」などといった名称と部屋割りラインとが詳細に表示された、実寸大の「表書院間取り平面図」がもうけられているのです。
これはいいですね……建物をたて直す資金がなくとも、想像力さえあれば誰もがここでの当時の様子を眼前にありありと再現させることができるのです。いい仕事されてます!
「イヤ~、昨日呑みすぎちゃってさぁ。ムリするもんじゃねぇなぁ!」
「田中くん、今夜久しぶりにちょっとどうかね? いいお店があるんだが。」
「部長、もうこういうの、終わりにしませんか……まわりの人たちもうわさしてて、私これ以上耐えられそうにありません。」
「ごめんください、わたくし部長の山岸左近の妻でございますが、総務課の田中トメというお方は今、おられますか。」
逃げて! トメさん逃げて~!! っていうか、江戸時代にOL はいねぇか。
そういった妄想が無尽蔵にわきあがるわけなのですが、そんなことを考えながら早朝にマシュマロとばかうけを交互に食べている私の姿が、あの日あそこにはありました。気持ちわるい。
この表書院をながめていちばん大きく感じたのは、やっぱり当時の日本の建築物の「サイズの小ささ」ね! 実際に部屋あとに立ったり廊下あとを歩いてみたりして実感するんですけど、ひと部屋ひと部屋がほんとにコンパクト、っていうか、現代の日本人から見ると明らかに寸法が小さいんです。
これは実におもしろい感覚でしたねぇ~!
ガリヴァー旅行記とまではいきませんけれども、現在21世紀の日本人の平均身長は男性が171cm で女性が158cm 。それにたいして江戸時代の平均身長は、遺骨などの調査から見て男性が155~58cm で女性が143~46cm だったのだそうです。縄文時代以来の長い日本の歴史の中でも、どうやら江戸時代の平均身長がもっとも低かったみたいなんですよ。これはやっぱり、肉だとか牛乳だとかいう動物性たんぱく質・カルシウムを摂取する機会がいちばん少なかったことが原因なんでしょうかね。日本史上もっとも平和だった250年間は、そのまんま国民の食生活の規制がもっとも厳しい250年間だったということにもなるのかしら。
なんと10cm 以上も差があったというんですからね。これは居住空間のサイズが大きく違っていても仕方ありませんやね。
そういった事情に加えて、表書院はだいたい20m ×50m ほどの屋敷の中に「役人の事務室」「会議室」「ガードマンの控え室」「藩主の執務室」「藩主一家のための食事調理室」といった65もの部屋がギュウギュウにつまっているため、ちょっとお世辞にも広いとは言えない空間になっていたようです。
んで、本丸の丘のうち西半分を占めているのがこの「表書院」で、そこからさらに南の「不明門(あかずのもん)」もしくは北の「廊下門」を通って階段を10m ほどのぼった上にある東側、丘の頂上にあたるスペースこそが! 天下にその威容をとどろかす「岡山城天守閣」をいただく「本段」部分なんですね~。
ちなみにこの2ヶ所の門は現在どちらもコンクリート造りで復元されているのですが、名前の由来はそれぞれ、「不明門」がふだん使用されることがめったに無かったことから、「廊下門」が門の上部に殿様が移動するための渡り廊下があったことからとられています。他のお城でもよく見られる使用形式ですよね。
いや~しかし、下段にいたときにはあんまり気にならなかったんですけど、さすがに中段・表書院にのぼっちゃうと、上の本段にある漆黒の天守閣がチラホラ視界に入ってきちゃうんですよねぇ。ウヒョ~! そんなにせかさないでくださいよ~。
要するに、岡山城本丸はまず平地と変わらない高さの「下段」の中央に丘があり、そのうちの低い西半分が「中段・表書院」、高い東半分が「本段」となっているわけなのです。こうなっちゃうと、いくら4万平方メートルといえども自然に使える空間は限られてきちゃいますよね。
いや~。ついに眼前におがんでしまいましたよ、岡山城天守閣!! ありがてぇありがてぇ。パン、パン。
高さおよそ20m 、大・中・小3つの二階建ての棟を積み上げたかたちの重厚な六階建て。外壁は全体に黒漆をぬった下見板(したみいた)が張りめぐらされており、「烏城(うじょう)」の別名にたがわないツヤ消しブラックのシルエットに、真っ白の破風(はふ 中腹の屋根の上についている三角形の構造物)とキンキラキンのしゃちほことが絶妙なアクセントをほどこしています。かっけぇなぁ~、やっぱ!
また、見た当日がほんとに天気のいい日だったんでねぇ。暖かいというよりも、むしろ暑いに近くなってきた晴天のもとにそびえたつ黒い城は、すばらしいインパクトをもって私の眼に飛び込んできました。う~ん、やっぱり美人だわ! 和風のなでしこ美人じゃなくてエキゾチックな南国の美女に見えるのがほんとにふしぎです。あいつのビンタはきっくぜぇ~!
前回にも触れたように、戦国時代末期(桃山時代)の1597年いらい、太平洋戦争末期の1945年6月29日の「岡山大空襲」で焼失してしまうまで
約350年もの長きにわたって屹立していた天守閣は写真資料も多く残っていたので、1966年にコンクリート造りで再建された現在の2代目天守閣は、外見は初代を忠実に復活させたものとなっています。そのさい、初代天守閣の礎石は2代目の建造前に本段の離れた広場に移して展示されています。本段の広場はもちろん、江戸時代には歴代藩主のプライベートな邸宅が建っていた区画です。
そのため岡山城天守閣は、姫路城や彦根城といった白壁が特徴的な「江戸時代の城」とは一線を画した「戦国~豊臣政権時代の城」のカラーを色濃く残した外観を保っており、熊本城や松本城の系統に属する威圧感のあるバトルヒロイン的な魅力をはなっています。
戦国の豊臣城と江戸時代の徳川城との違いについて考える上で、「黒いか白いか?」という基準以外にもうひとつ、「最上階の間取りが正方形か矩形(長方形)か?」というものがあります。つまり、最上階のお顔がどこから見ても同じ形なのが豊臣城で、見る地点によって顔が大きくなったり細くなったりするのが徳川城なわけなんですね。
これはおそらく、お城の建築技術が進化して間取りを拡大することができるようになったことのあらわれなのではないかと思われるのですが、やぁっぱり私は無骨で実直で小顔なブラック豊臣城のほうが好きだな!!
岡山城の場合はそれに加えて、一階部分が天守閣と「塩蔵」との複合になったすそ野の広い構成になっているため、ずっしりした下半身と天をつきさす小顔の最上階とのバランスが見れば見るほど絶妙なお姿になっているのです。ワ~オ、グラマラス! バレーボールやらせたらアタックサーブをバンバンやりそう。同性の後輩にモテモテのタイプだ!
岡山城といえばどうしても、この美しすぎる天守閣のことが先に立ってしまうのですが、なかなかどうして無視できないのが「表書院」と「本段」とを上に乗せている豪壮な石垣と、そのへりを囲う白塗りの塀ですね。
塀は、現在の平和な時代に世間でよく見かけられるような普通のブロック塀とは比較にならないようなぶ厚さでつくられており、各所に城の内部から外に向けて火縄銃を撃ち出すための小穴「銃眼石」がもうけられています。ここから外をのぞくと、足元の石垣をよじのぼってくる足軽どもや、数十m 先で采配をふるっている馬上の敵将の姿が自然と浮かび上がってくるような気がして、マシュマロをつまむ指にもついつい力が入ってしまいます。ロマンですねい。
だいたいフラフラしながらここらへんまで見てくるとわかってくるのですが、岡山城にはボンヤリとながらも、お互い相容れない「2つの顔」があるような気がしてきます。
それはつまり、「戦争用の実用的な要塞」としての顔と、「平和時の外観の華麗さを重視した政庁」としての顔なんですね。
まず、「要塞」としての岡山城を象徴するのはなんといっても漆黒の天守閣なんですが、よく見てみると、天守閣を上にのっけている石垣とそこ以外の表書院などをのっけている石垣とで、石の積み方と石自体の形がまるで違っていることがわかります。
詳しく言いますと、天守閣の石垣は丸い形の自然石をそのまんま積みあげた「野面積(のづらづみ)」という古い形式でつくられており、そこ以外の石垣は実に精巧に平らに加工された巨大な割り石と、それらの間に小さな石を敷き詰めて強度を高めた「打込萩(うちこみはぎ)」という華麗な江戸時代最新式の形式になっているのです。
これは簡単に言うと、天守閣の建造された時期とそこ以外の本丸部分が建造された時期に大きなずれがあったからなんですね。
要するに、「まだまだ戦争の可能性を考えなければならなかった時代」につくられたのが天守閣で、「当面の危険が去って、ちょっとは見てくれに気を使う余裕も出てきた時代」につくられたのがその他の本丸部分だったというわけなんですね。
岡山城は、ひとつのスペースに「2つの時代」がいっしょくたに混在した実に興味深い地になっていたんですねぇ。
しかも! よくよく調べてみると、現在ある本丸の地下にはあの豊臣時代の天守閣に「本来ついてくるはずだった本丸」がまるごと埋まっているのだとか!? しかもしかも、岡山城の近所にはその天守閣さえもが生まれる以前に存在していた「旧・岡山城」の影までもが……
謎が謎よぶ岡山キャッスル~。なんか、この記事も終わりが見えなくなってきてしまいました。予定の4分の1も書けてねぇ!!
なんでしょうか、この進みのおそさ。でも、この際なので心ゆくまで岡山城探訪記をのこさせていただくことにいたします。
もうちょっとガマンしてくださ~い! 次回! 次回こそ岡山後楽園に行きますからね~!!