長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

全国城めぐり宣言 第19回 「備中国 鬼ノ城」と思ったら……スウィート鬼ホームへようこそ!

2013年04月06日 23時19分05秒 | 全国城めぐり宣言
《前回までのあらすじ》
 勢い込んで鬼ノ城の徒歩探訪に乗り出したそうだいだったが、多少は予想していたけどそんなにキツいとは思わなかった急角度の坂道と、まったく聞いていなかった鬼ノ城のお隣さんの城・経山城との遭遇に、おもしろいように出鼻をくじかれてしまった。
 しかし、小兵ながらも典型的な戦国時代の山城としての遺構を今に残していた経山城はなかなか見ごたえのある城跡で、山頂にたどり着いたころには天候も、春先にふさわしい陽気をたたえる快晴に転じた。
 やった! 私は運がいい。もうこの時点で足はけっこうキてるんだけど、この流れに乗じてちゃっちゃとメインの鬼ノ城もクリアして下山しよう。あとは岡山の市街地でいくらでも休んでればいいんだし。
 そういった甘い考えをいだくそうだいだったのだが……果たして目指す「鬼の本拠地」は、そんなにやすやすと制覇されてしまうようなヤワい土地なのだろうか!?


 確かに経山城の主郭に登ったときの、ちょっとだけ近い感じになったお天道さまからさんさんと降り注ぐ陽光のあたたかみは格別のものがあったのですが、実は同時に、北の吉備高原の山々から吹きすさぶ風の勢いのハンパなものではなく、ついさっきまで急激な坂道のために汗だくになってなっていたことがウソのように、たったの10分程度頂上にいただけで汗は乾き、むしろ涼しく感じるくらいにまで体温は降下。
 うむ、確かに天気はいいのですが、この、場所によっての温度の乱高下は注意しなければなりませんね。それに、「山の天気は変わりやすい」っていうし……まぁいいや、とにかく先を急ぐことにしましょう!

 さっそく、経山城でのメモを終えてから来た道をまた戻っていったのですが、このぐらいの時間帯から鬼城山を下山する最後のときまで、私はしきりに未舗装の山道で、私が歩くたびに地面のほうぼうから聞こえる「かさかさっ」という音と、目にもとまらぬ速さで道から草むらの中へ疾走していく体長10~20センチほどの細長い物体に出遭うことになります。
 Oh, イッツァ、かなへび!! とかげなのにかなへび! 西日本だからニホントカゲかもしれないけど。
 なつかしいなぁ~……かなへびを見るのなんて、もしかしたら小学生時代以来かも。ぽかぽか陽気になってきたので山道でひなたぼっこをしているんですねぇ~。ここでは完全に人間のほうがよそ者なんですねぇ~。

 さくさくっと軽快にくだって、最初の登城口から鬼ノ城駐車場へのアスファルト道に戻りました。さぁ、駐車場までもう1キロもありません。はりきってがんばりましょ~。

 このぐらいになると傾斜はだいぶゆるくなるのですが、道は大きく右に曲がりながら鬼城山を西から北へ、つまりは鬼城山の裏にまわりこんでいくというかたちになります。
 そして、道沿いにはとんとご無沙汰だった人家と田んぼが。家はまばらで多くはないのですが、一軒一軒がかなり重厚な瓦葺きの日本家屋で、かなり昔から住んでおられる歴史を感じさせます。
 同時に田んぼも、山と山との間を川が流れ、そこにできたわずかな土地を有効に活用して耕作地にする「棚田(たなだ)」が段々に連なっているという、今となってはかなりめずらしくなっている風景を間近に見ることができ、のんびりした陽気もあいまってかなりステキな徒歩ルートになっていました。たぶん、夏ごろに田んぼに放して雑草を食べさせるために農家の方が飼っているらしい大量のカルガモが柵の中にスタンバッていたのですが、そこが私が来たタイミングでいっせいにガーガーやかましくなったお約束の反応も含めて、実にいいひとときでしたねぇ~。実際に住むとなったら大変なんだろうけどね~。
 ただ、鬼ノ城の駐車場まで1キロ近くえんえんと続いていた棚田の土地も、実際に現在も耕作されているのは農家に近い田んぼ数枚分ほどだけのようで、あとはうっそうと雑草が生い茂る「もと棚田」という状況になっていました。まぁ、棚田を必要としなくてもいいほどに日本が豊かになった、と解釈すれば聞こえはいいんですが……無責任な立場から「寂しい」って言うのは簡単なんですけどね!

 棚田にも目を取られたのですが、もうひとつ私が気になったこととして、経山城に引き続いて、この一帯の農家の敷地や棚田の段差などでも、ちょっと驚くくらいの大盤振る舞いモードで石垣が多用されているのが見逃せませんでした。しかも、見た目はかなり歴史のある風合いになっていて、最近取り付けられたコンクリート製の模造石垣とは明らかに次元の違う重厚な雰囲気をはなっています。
 ここでもこんなに石垣が……この地域は良質な石材がそんなに手に入りやすいのだろうか!? 私の興味のボルテージはいやがうえにも上がっていきます。こだなの、山形じゃあちぃっと考えられねぇこんだずぁ……

 そんな中、鬼ノ城に向かう前にチェックしなければいけない「第2関門」として私の前に立ちはだかったものは人家のすぐ近くに鎮座ましましていました。唐突に道ばたにあるもんだからビックリ!


総社市指定工芸文化財「鬼の釜」!! なんちゅうストレートなネーミング!

 これは、経山城登城口と鬼ノ城駐車場とのちょうど真ん中あたり、道の左手にある「あずまや」というにはちょっと重厚な瓦葺きの屋根つき建屋の中におさまっているのですが、口の直径185cm 、深さ105cm という文字通り規格外な巨大さを誇る鉄製の大釜であります。ふつうの大人でも、立った姿勢だったら軽く10人は入ることができるサイズ!

 今でこそ全体的にサビに覆われていて、底にも大きな穴があいている状態になっているのですが、なんでもこの大釜は、付近の新山(にいやま)の谷で江戸時代の享保七(1722)年十月に出土したものなのだそうで、以来、新山の人々はこの大釜のことを、

「古い言い伝えにある、その昔この一帯にはびこっていたという鬼の王『ウラ』が、捕まえた人間たちを煮て食うために使っていた大釜なのではなかろうか。」

 と解釈して畏れていたのだとか。
 うをを!! さっそく鬼の実在を証明する超貴重な遺物が!? こんなの、宇宙人の話だったら矢追さんと東スポがだまっちゃいませんぞ!!

 さぁここで、この地方に今現在も伝わっている、「鬼の王」ことウラの伝説についてサッとさらってみましょう。


温羅(うら)伝説

 温羅伝説とは、吉備地方に残る、昔話『桃太郎』のモチーフとなったといわれる伝説である。
 古代、吉備国(主に現在の岡山県と広島県東部を指す)には温羅という鬼の王が住んでおり、鬼ノ城を拠点にこの地方を支配していた。吉備の人々はヤマトの都へ出向いて窮状を訴えたため、これを救うべく第10代崇神天皇(すじんてんのう 3世紀から4世紀前期のあいだに実在?)は、第7代孝霊天皇の第3皇子で四道将軍(よつのみちのいくさのきみ)の一人・吉備津彦命(きびつひこのみこと 3世紀初頭から中期に活躍? 第8代孝元天皇の異母弟)を派遣した。命は現在の吉備津神社の地に本陣を構えた。命は温羅に対して矢を射たが、温羅の投げる岩に当たってさまたげられた。そこで命は次の矢を2本同時に射て、投げた岩に当たらなかったほうの矢が温羅の左眼を射抜いた。負傷した温羅がキジに化けて逃げたので命はタカに化けて追った。さらに温羅は鯉に化けて逃げたので吉備津彦命は鵜に化けて追い、ついに温羅を捕らえ、首をはねたという。
 温羅は、製鉄技術をもたらして吉備国を治めた豪族がモデルではないかとされている。また、血吸川の水質・土壌の赤さは鉄分によるものであると推測され、吉備地方は古くから鉄の産地として知られていた。

伝説の伝承地

・鬼の岩屋&鬼の差し上げ岩(岩屋寺の裏に存在する洞窟)…… 鬼王・温羅の住居とされる

・鬼の釜(鬼ノ城への登山道脇に所在)…… 温羅が生け贄を茹でたとされる鉄製の巨大な釜

・吉備津神社(岡山市北区吉備津)  …… 備中国の一宮。吉備津彦命が温羅討伐のための本陣を置いた地とされ、命を祀る
 矢置岩(吉備津神社境内)     …… 吉備津彦命が準備した射る矢を置いたとされる
 吉備津神社御釜殿(吉備津神社境内)…… 討ち取られた温羅の首がうなり続けるため首村(後述)から移し、土中に埋められたとされる。温羅伝説にまつわる特殊神事「鳴釜神事」が金曜日以外の毎日行われている

・吉備津彦神社 (岡山市北区一宮)…… 備前国の一宮。吉備津彦命を祀る

・楯築遺跡(倉敷市矢部)…… 弥生時代の墳丘墓。吉備津彦命が石楯を築き防戦準備をしたとされる。頂上の5つの平らな岩が石の楯とされる

・矢喰宮(やぐいのみや 岡山市北区高塚)…… 温羅が投げた岩石が吉備津彦命の放った矢と当たって落ちた地

・血吸川(総社市~岡山市)…… 鬼城山の北から東に流れ、南流して足守川に合流する川。吉備津彦命が2本同時に放った矢のうちの1本が温羅の左目に突き刺さり、血が激しく噴出して川となったとされる

・赤浜(矢喰宮の南1キロほど)…… 土地名。温羅の血により一帯が真っ赤に染まったことに由来する

・鯉喰神社(こいくいじんじゃ 倉敷市矢部)…… 鯉に化けて逃げた温羅を、鵜に化けた吉備津彦命が捕まえた地

・白山神社(岡山市北区首部) …… 温羅が首をはねられた地。首が串に刺されてさらされ、村名「首(こうべ)村」の由来になった

・中山茶臼山古墳(現在の岡山市北区吉備津)…… 吉備津彦命の陵墓


 ね! すごいでしょ!? この鬼王・温羅に関する広範囲な伝承地の数々!! その中にちゃんと、くだんの「鬼の釜」もエントリーされているわけなんです。
 この、『桃太郎』の起源になったという、「温羅 VS 吉備津彦命」の一大決戦……スゴいですねぇ。大迫力ですねぇ。3つの市を股にかけちゃってますねぇ。
 岡山市の吉備津神社にいた吉備津彦命が、総社市の岩屋にいる温羅に矢を射るってあんた、10km くらい離れてるんですけど!? 吉備津彦命の矢はミサイルかポジトロンスナイパーライフルか!? 古代の話なのに想像するとミョ~に近代戦チックになってしまうのが素晴らしいですね!

 話はそれますが、1980年代後半の『週刊少年ジャンプ』につかった私は、「2本の矢」のくだりを読むと、この辺の設定もかなりしっかりとストーリーに組み込んでいた、にわのまこと大先生の名作プロレスギャグマンガ『ザ・モモタロウ』を思い出さずにはいられません。今をときめく小畑健先生のお師匠にあたるお方ですよね。この作品は桃太郎にかぎらず『浦島太郎』『かぐや姫』『牛若丸』などといった日本の伝承・伝説を本当にうまく調理した傑作でした。適度にエロかったしねぇ~。

 蛇足ですが、この「温羅伝説」ではフォローされていない桃太郎の「鬼ヶ島」という孤島の要素は、どうやら鬼ノ城のすぐ近く、瀬戸内海の女木島(めぎしま 香川県高松市)の鬼伝説がモデルになっているようです。ともあれ、この付近が桃太郎伝説の起源になっているらしいことは間違いないんですね。

 鬼王・温羅は確かにいたのだろうか……吉備津彦命がいたとされる時代は、たとえば時の大王(天皇)の寿命が100歳を超えるのは当たり前だったり(吉備津彦命の享年は「281歳」)して、日本の神話と史実とがいい感じにないまぜになった実に神秘的なゾーンであり、今なお解明されていない謎も多いのですが、吉備津彦命に温羅討伐を命じたという崇神天皇が3世紀中盤~4世紀前半に崩御した実在の人物であるらしいことは確からしく、そうなると、温羅の鬼王国は3世紀ごろに吉備津彦命の討伐によって崩壊した、ということになるわけです。
 3世紀っちゅうたら日本は弥生時代よね……でも、そんな時代に大陸からあの「三国志」あたりのスーパー技術をたずさえた集団が移住してきたとしたのならば、確かに当時の住民は「人じゃない奴らが来た!」と理解するかも知れません。そして、ヤマト地方の王権もその存在を非常に危険視するだろうし、同時にそのへんのテクノロジーをなんとか自分のものに吸収したいとも思うでしょう。
 現実味を帯びさせたいと思ったら、いくらでも想像の羽根を広げられる自由な世界なんですなぁ~。まさにロマン!


 ところが、そんなモヤ~ンを頭上に展開させている私を鼻で笑い飛ばすかのように、「鬼の釜」の解説板はこんな現実的解釈を補足していました。

「近隣の新山寺で使用されていた湯釜が廃棄されたものと思われる。」

 ウヒョ~大人!! ハードボイルドにもほどがあるわ! もうちょっと夢を見させてほしかった。

 この鬼の釜は鉄板を鋳あわせた工法で製作されているのですが、この地区の裏手にある新山(標高406m 経山の北、鬼城山の西)のどこかに存在していた「新山寺」という寺院で使用されていた入浴用の湯釜か、もしくは鎌倉時代にこの新山寺を訪れて伽藍を修築したあの俊乗房重源(しゅんじょうぼう ちょうげん 1121~1206年)が新山の人々に下げ渡した炊き出し用の大釜なのではないかとも伝わっているようです。
 いずれにせよ新山寺という寺院は、前回の解説文でも触れられていたように、鬼ノ城一帯で繁栄していた山岳仏教の聖地のひとつとして存在していたものだったらしいのですが、平安時代にはすでにそうとう有名な寺院としてその名が広まってはいたものの、数多くの戦乱に巻き込まれて戦国時代までには消滅してしまっていたようです。だからこそ、江戸時代の時点ですでに鬼の釜は「なんだかよくわからないでっかい釜」になってしまっていたんですね。

 なんだ、3世紀にいた鬼の王が「ガハハハ! 灰汁はちゃんとすくえよ!! 弱火でコトコト!!」とか言って大笑いしながら使った大釜じゃなかったんだ……いやいやそれにしても、歴史の奥深さを証明する貴重なアイテムであることに間違いはないんですな。ありがてぇありがてぇ。

 さぁ、この鬼の釜を過ぎてしばらく歩くと、いよいよついに鬼ノ城の駐車場に到着であります。
 ここまで坂道を徒歩、5.5km! プラス経山城よりみち(たぶん往復で1.5km くらい)!!
 実に感慨深い到着であるはずだったのですが、そこにあったのは、当たり前ながらも単なる駐車場と、道の駅よりもちょっと小さいサイズの休憩所。この休憩所は「鬼城山ビジターセンター」という資料館を兼ねている施設で、中には鬼ノ城に関する解説資料が展示されているようです。うん、ふつうよね。まだ観光客の人影はおひとりも見当たりません。

 実はこの駐車場からも、もうちょっと坂道を登っていって鬼ノ城の城域に入らなければならないわけなのですが、ま、とにかく、出発点にはたどり着くことができたわけなのです。
 よしっ、それじゃあ鬼ノ城へ潜入するぞ! と勇躍、敷地に入ろうとした私ではあったのですが……

 右手に鬼ノ城へと続く駐車場があったのですが、あれ、左手にもどこかへの入り口があるぞ。入り口の前には、なにやら大きな案内板が。

 ……なにか、非常に嫌な予感がする……あの案内板は見ないほうがいいんじゃないのだろうか。あの入り口はないことにすればいいんじゃないだろうか……いや、でも、見るだけは見というたほうがいいんじゃ……アレだ、あんまり興味をくすぐらないルートだったら行かなきゃいい話なんだから! うん……

 外国の古いことわざに「猫の死因は『好奇心』」というものがあるそうなんですが、私そうだいの死因も好奇心だ!
 おそるおそる、おそるおそるその、左手の案内板をのぞくと、そこには……


「総社ふるさと自然のみち 岩屋三十三観音みちコース 徒歩距離6.5km(所要時間3時間半ほど)」


 ……膝からカックン。
 なんていうか、「ゴールの1マス手前で別のすごろくコースにすっ飛ばし」ですよね、これ。こんな超絶トラップが現実に存在していたとは。

 無視など……できるはずにはない! 鬼城山から見て北西の方角にある山々を「いくつかまたいで」ぐるっと一回りしてまた戻ってくるという、恐怖の円環コースの途上には、「鬼の岩屋」「岩屋寺」「皇(おう)の墓」などといった実に興味深いネーミングの数々が……なんと、鬼の「真のマイホーム」は鬼ノ城ではなく、この裏手の山々であったのか!! これぞ「秘境」。

 行かいでか、行かいでか、行かいでかァア!!

 え~っと、今が午前9時半すぎだろ……じゃあ、まぁ時間的には無理なことはないよな。でも、問題はタイムスケジュールよりも体力なんですけど。

 いや、もうこれは逡巡してるだけ時間の無駄ですよ。

「やらずに後悔するよりも やって後悔したほうがいい」(山本よしふみ『トライアルかおる!』より いちいち古い)

 この精神で突撃だ!! 迷わず左の登山口へ GO~。


 はぁ~。鬼ノ城はまたおあずけかいな。いやでも、すぐにでもまた戻ってくるぞ、わしゃあ!! うぇいた、みにっつ!

 6.5km て……今までヒ~ヒ~言ってきた距離を、鬼ノ城探訪の前にもう一回ってことっすか!? まいったねコリャ。

 え~っと、まわらなきゃいけない山々はというと……全部で4つですか。名前は?


「犬墓山」「岩屋山」「実僧坊山」「登龍山」


 ……ネーミングがもう、私を呼んでるよね。バッター1番、犬墓。
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