長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

これは……ジョーカーなのか? ~映画『ジョーカー』~

2019年10月10日 09時29分23秒 | ふつうじゃない映画
 みなさま、どうもこんにちは! そうだいでございます。

 いや~、もう世の中どうなっとるんでありましょうか!? つい先日に日本の悪役キャラを代表するおぬら様が大復活を遂げられたかと思ってたら、それに呼応するかのように、海を越えたアメリカの超有名ヴィランまでもがリニューアル登板ときたもんでい! 今年の秋も忙しいなぁ~。

 というわけでありまして、私も観てきました、この映画! 楽しみにしてたんですよぉ。
 あいや~……えらいもん観てもうた。


映画『ジョーカー』(2019年10月4日公開 122分 アメリカ)
 『ジョーカー(原題:Joker)』は、DCコミックスの『バットマン』シリーズに登場するスーパーヴィランであるジョーカーを主人公とするサイコスリラー映画。R15+ 指定作品。
 本作は、「DC エクステンデッド・ユニバース」シリーズ作品をはじめ、過去に製作された『バットマン』の映画・TVドラマ・アニメ作品のいずれとも世界観を共有しない、完全に独立した作品である。ジョーカーの原点を描いた内容ではあるが、本作以前の映像作品に登場しているどのジョーカーの過去にも当たらない。
 公開時のキャッチコピーは、「本当の悪は笑顔の中にある」。

 本作の主人公であるジョーカーは、DCコミックスのアメコミ『バットマン』に登場するスーパーヴィランで、主人公のバットマン(ブルース=ウェイン)の対極に位置づけられる最悪の悪役として活躍している。ジョーカーの明確なオリジンは確立されておらず、またジョーカー自身が狂人であるため、語る度に発言が変化すると設定されている。それらの中でも最も有名なエピソードとして、「元々は売れないコメディアンで、強盗を犯したところをバットマンから逃げる途中に化学薬品の溶液に落下し、白い肌、赤い唇、緑の髪、常に笑みをたたえる裂けた口の姿に変貌した」という説が一般に浸透している。
 しかし本作では、このエピソードや他のメディアミックス作品などとの関連性は撤廃され、脚本を手がけたトッド=フィリップスとスコット=シルヴァーによって、ゴッサムシティで母と暮らす「アーサー=フレック」というまったく新たな前身が設定されたが、同時に本作のジョーカーを「信用できない語り手」とすることで、この設定もまた真実であるかどうかは全く不明という、原作コミック以来の伝統を踏襲している。

 監督を務めたトッド=フィリップスは、本作がアメリカの社会格差を風刺する作品として話題を集めたことを認めつつ、映画の目標はあくまでもアーサー=フレックという個人がいかにしてジョーカーという悪役へ変遷するかを描く人物研究であると語っている。この構想を立てたフィリップスは、スコット=シルヴァーと共におよそ1年をかけて脚本を執筆した。脚本は『タクシードライバー』(1976年)や『キング・オブ・コメディ』(1983年)などのマーティン=スコセッシ監督、ロバート=デ・ニーロ主演の作品群に影響を受け、原作コミックから大きく逸脱する内容に完成した。作品の舞台は原作コミックに共通するゴッサムシティであり、1981年当時のニューヨークをモチーフにして創造された。

 本作におけるジョーカーことアーサー=フレックには、個性派俳優として知られるホアキン=フェニックスがキャスティングされた。メガホンを取ったフィリップスは、脚本の執筆段階からフェニックスを意識してジョーカーのイメージを手がけ、彼以外の起用は考えられないと語っている。ジョーカーに次いで重要な役どころとなる TVの大物芸人のマレー=フランクリンにはロバート=デ・ニーロが起用された。

 本作に登場するジョーカーの姿は、原作コミックや先行する映像作品で見られる「白い肌」、「緑の髪」、「赤く笑ったように裂けた唇」といった特徴が踏襲されているが、これらはすべて、コメディアンになりたいジョーカーことアーサーが自ら手がけたメイクとして描かれている。衣装は原作コミックのようなスーツ姿ではあるもののカラーリングは一新され、赤系統色のジャケットが特徴となる。ジョーカーを演じるにあたって主演のフェニックスは、撮影開始前に80kg以上あった体重を「1日をりんご1個と少量の野菜のみで過ごす」過酷な食量制限によって58kgにまで減量した。

 本作は、アメリカでは公開初日からの3日間で約9,620万ドルを記録。日本では公開初週の土日を含めた3日間で動員49万8千人、興行収入7億5千万円を記録し、5日間で10億2千万円を記録した。
 このように興行的には大成功を収める一方で、本作は物語がマーティン=スコセッシ監督作品の『タクシードライバー』や『キング・オブ・コメディ』の影響が強い点、暴力や殺人を美化する内容、精神疾患に関する描写から、評論家による評価は賛否両論となった。


あらすじ
 1981年のゴッサムシティ。大都市でありながらも財政の崩壊により街には失業者や犯罪者があふれ、貧富の差は大きくなるばかりだった。そんな荒廃した街に住む道化師のアーサー=フレックは、派遣ピエロとしてわずかな金を稼ぎながら、年老いた母親ペニーとつつましい生活を送っていた。彼は緊張すると発作的に笑い出してしまう病気のため定期的にカウンセリングを受け、大量の精神安定剤を手放せない自身の現状に苦しんでいる。しかしアーサーには、一流のコメディアンになるという夢があった。ネタを思いつけばノートに書き記し、尊敬する TV界の大物芸人マレー=フランクリンが司会を務めるトークショーが始まれば、彼の横で脚光を浴びる自分の姿を夢想する。
 ある日、アーサーはピエロ姿で店の看板を持ちながらセールの宣伝をしていると、不良の若者たちに暴行を受けてしまう。後日、アーサーは派遣会社から看板を壊したことと仕事を途中で放棄したことを責められるが、アーサーを心から気にかけてくれるのは小人症の同僚ゲイリーだけだった。アーサーの生活は酷く困窮しており、母ペニーは30年ほど前に自分を雇っていた街の名士トーマス=ウェインへ救済を求める手紙を何度も送っていたが、一向に返事は届かない。不運が続くアーサーの心のよりどころは、同じアパートに住むシングルマザーのソフィー=デュモンド。アーサーはソフィーとは挨拶をする程度の関係だったが、アーサーは度々ソフィーの後をつけ、その姿を眺めていた。

 またある日、アーサーはピエロの仕事中、同僚のランドルから護身用にと強引に手渡されていた拳銃を子ども達の前で落としてしまい、上司からクビを宣告される。ランドルが保身のために自分は関係ないと嘘を吐いたことも分かり、絶望したアーサーが地下鉄に乗っていると、1人の女性が酔っ払ったスーツの男3人に絡まれていた。アーサーは見て見ぬふりをしようとするも神経症の発作が起きて笑いが止まらなくなり、気に障った3人から暴行を受けると、反射的に拳銃を取り出して全員を射殺してしまう。混乱と焦燥感に襲われ駅から駆け出すアーサーだが、次第に言い知れぬ高揚感が己を満たしていく。


おもなキャスティング(年齢は映画公開当時のもの)
アーサー=フレック / ジョーカー …… ホアキン=フェニックス(45歳)
マレー=フランクリン      …… ロバート=デ・ニーロ(76歳)
ソフィー=デュモンド      …… ザジー=ビーツ(28歳)
ペニー=フレック        …… フランセス=コンロイ(65歳)
トーマス=ウェイン       …… ブレット=カレン(63歳)
ギャリティ刑事         …… ビル=キャンプ(58歳)
バーク刑事           …… シェイ=ウィガム(50歳)
ランドル            …… グレン=フレシュラー(51歳)
ゲイリー            …… リー=ギル(?歳)
カール             …… ブライアン=タイリー・ヘンリー(37歳)
アルフレッド=ペニーワース   …… ダグラス=ホッジ(59歳)
ブルース=ウェイン       …… ダンテ=ペレイラ・オルソン(11歳)

おもなスタッフ(年齢は映画公開当時のもの)
監督 …… トッド=フィリップス(48歳)
脚本 …… トッド=フィリップス、スコット=シルヴァー(?歳)
音楽 …… ヒドゥル=グドナドッティル(37歳)
撮影 …… ローレンス=シャー(49歳)
配給 …… ワーナー・ブラザース・ピクチャーズ


 ものすごい映画でしたね~。湿度 MAX、タバコ臭さ MAX、そして観た後の激重だる感も MAX!!

 最初にこれは言っておかねば、とは思うのですが、本作の主人公アーサーが成り果ててしまう道化師のメイクをした連続殺人犯は、やっぱりどこからどう見ても、あの『バットマン』サーガでバットマンと丁々発止の名勝負を永遠に繰り広げるヴィランのジョーカーとは、まるで別人と言わざるを得ません。
 それはまぁ、作中に登場した大富豪の御曹司ブルース=ウェインと30歳以上の年の差があるという時系列から見ても明らかではあるのでしょうが、やっぱり「中身」というか、アーサーの「ギャグセンスが皆無」というところがずっと変わっていない以上、やはりあのジョーカーとは本質的に別の存在かと思うんですよね。
 たぶんフィリップス監督としては、本作でのアーサーの犯罪に影響されたゴッサムシティの若者の中のひとりがジョーカーになったという雰囲気をにおわせる程度で、あくまでもそのパンドラの匣を開けるトリガーとして、大都市の不条理と自身の冷酷な運命にボロ雑巾のようにめちゃくちゃにされたアーサーという名もなき中年男をいけにえに選んだのでしょう。

 この作品に登場するアーサーは、生活上の必要から大道芸人になったり、自身の夢を追ってスタンダップコメディアンを目指したりするわけですが、自分も他人も心の底から笑わせることができないという絶望的な苦境にあえぎながら生きている哀れな中年男です。彼の突発的な爆笑が、どうやら幼少期の DVの後遺症からきているらしい心理的な障害であるという設定も、あまりにも意地が悪すぎますよね……


 ここでちょっと話を脱線させまして、これまでの映像化されたバットマンシリーズにおける歴代ジョーカーの「笑いのスタイル」を振り返ってみましょう。私が好きなジョーカーは、こっち!

 シーザー=ロメロの初代ジョーカー(1966~68年)は何のてらいもない純粋なお騒がせ愉快犯として笑いを提供しており、いわば植木等~志村けん的なスタイルだったと思います。映画版『バットマン』(1966年)では悪人連合の使いっぱしりを笑って引き受けていたし、なんだったら調子に乗ったペンギンやリドラーの暴走を制止しようとする人の好さも露呈していましたからね。「お前、頭おかしいんじゃないの?」というセリフをジョーカーが言うとは……

 現代におけるサイコパスな犯罪者としてのエポックメイキングとなった、ご存じティム=バートン版『バットマン』(1989年)でジャック=ニコルソンが演じた2代目ジョーカーは、面白いんだか何だかよくわかんないけど、その強引すぎる狂気のハイテンションと言動の勢いを持って「面白いよな!? お前も笑えよ!!」と周囲をグイグイ巻き込んでいく1980年代ビートたけし的スタイルと言ってよいかと思います。まさに毒ガス!

 その一方で、なんとそのニコルソンジョーカーという高すぎる壁を跳び越えうる存在となった『ダークナイト』(2008年)のヒース=レジャー演じる3代目ジョーカーの笑いのスタイルはと言いますと、本人はひたすらムスッとして笑うことなんかほとんどないのに、そのローテンションな言動がなぜかキュートでハイセンスで面白いという、1990年代の松本人志的スタイルということになるのではないでしょうか。あの、言っときますけど、2000年代以降の、ゲストのたいして面白くもない発言にニャハニャハ笑ってる松本さんとは全然ちがいますからね? 今の松本さんはもう、面白いは面白いんだろうけど TVサイズの人間になっちゃったって感じですよ。1990年代は完全にジャンルや人間の領域を超えてましたからね。

 この3大ジョーカー俳優以後は、2015年から TVドラマシリーズ『ゴッサム』で4代目ジョーカーを好演しているキャメロン=モナハンと、映画『スーサイド・スクワッド』(2016年)で5代目ジョーカーを演じたジャレッド=レトが続くわけなのですが、モナハンジョーカーは私も大好きではあるのですが過去の映像版ジョーカー像を巧みに再編集したいいとこどりであるがゆえにオリジナリティがあるとは言い難いジレンマがあり(むしろ『ゴッサム』はハーレイ・クインが最高!!)、レトジョーカーは出演時間的にギャグを言う暇も無かったので判定不能です。
 まぁ、モナハンジョーカーは無理やりお笑いに変換すれば「コロッケ的笑い」ということになりますかね……とっつぁん坊や七変化!

 そんな感じの中で通算6代目ということになる今作のホアキンジョーカーはどうなのかと言いますと、とにかくその生き方のみじめさで人々の嘲笑を浴びるリアクション芸人的な笑いということになるでしょうか。まぁ、映画を観ても分かる通り、演じるホアキンさんもそうとう身体張ってますからね……
 でも、このスタイルってやっぱり、私の大好きな「犯罪道化師ジョーカー」とは違うような気がするんだよなぁ。カリスマ性のあるヴィランになるとは到底思えないのです。アーサーや彼の母親が憧れの対象としていた TV界の大御所司会者マレーを憎悪するようになる展開も、ある意味で過去のエンタメキャラとしてのジョーカー像を打ち砕くという下剋上の意味があるのでしょうが、アーサーのスタイルである「天然リアクション芸」というものが、祭り上げられ愛された途端に面白さを失う種類の笑いであることは間違いないのです。笑われていることを自覚したら終わり……それをずっと続けられている出川哲朗さんって、やっぱ天才なんだなぁ。

 お話を映画に戻しますが、この映画がバットマンシリーズのジョーカーを、そのまんまスピンオフさせた作品でないことは間違いありません。ひたすら暗く、テンションが低く、落ち込む展開が続く映画……でも、それなのに本作は異様に観る者を引き込む「面白い」映画になっているのです。
 それはどうしてなのかと言いますと、それはやはり、ジョーカーというブランド名にあぐらをかかない、というか徹底的に過去のジョーカー像を排斥した上で、純粋なひとつの映像作品として十二分に楽しめる「サイコサスペンス劇」になっているからだと思うのです。
 バットマンシリーズのキャラのスピンオフ作品としては、かつて2004年にオスカー女優のハル=ベリーを主演に擁した伝説の映画『キャットウーマン』があったのですが、あれがああなっちゃって今回の『ジョーカー』がああならなかったのは、ストイックなまでにジョーカーに頼らない「脱ジョーカー」な構成が功を奏したのではないでしょうか。もはや、ジョーカー関係なくてもおもしろいのです。

 ……え……じゃあ、この映画の主人公が「ジョーカー」である意味って……ま、ぶっちゃけ、無いっすね。

 ただ、ここで声を大にして言いたいのは、フィリップス監督とホアキンさんが「バットマンのジョーカーなんか出てこねぇよバーカ!」という姿勢を最後の1カットまで取り続けているということは、お客さんから「金返せバカヤロー!!」とゴミなり食べかけのリンゴなりバナナの皮なりを『バットマン・リターンズ』のペンギンみたいに投げつけられる覚悟をガン決まりに決めた上で、このとんでもなくアウェーな賭けに出ているということなのです。そしてその結果、この『ジョーカー』はかなり多くの方々の「ジョーカーじゃないけど、いいよ!!」という赦しと賞賛を得るという大勝利をつかみ取りました。これ、ものすごいことよ。
 実際に私も、私が愛してやまない、あの全身紫色のジョーカーが出てこないのはちと気になりはしましたが、今作のおいしいおいしい焼いもみたいな黄色シャツに真っ赤なジャケットの道化師が登場するシーンを見て満足してしまったのです。

 裏切られはしましたが、確かにこの映画は面白い。「だまされたと思って観てみてヨ。」なドッキリを、プロの才能が集まって頭おかしいくらいの本気度で取り組んで仕掛けた結果、ほんとに世界を騙す大傑作が爆誕しちゃったわけなんだな!


 ここからは、バットマンサーガうんぬんとは無関係の部分での本作の面白さを考えてみたいのですが、私が映画館で観た限り、その魅力のポイントは大きく分けて3つあったかと感じました。


1、「信頼できない語り手」としてのアーサー視点の可視化

 この作品は、ほんとはフィリップス監督じゃなくてリドラーが撮ったんじゃないかってくらいに、ボーっと見ていると「あれ、こことあのシーン、つながってなくない?」とか、「あのシーンってほんとにあったの? 想像?」みたいな違和感がじわじわ観客の脳内に侵食してくる謎、謎、謎だらけの映画となっております。おちおちチリドッグを食べてるヒマもありゃしねぇぜ!

 主人公のアーサーの精神状態がかなりヤバいことは明らかなわけなんですが、そのアーサーが実際に直面している現実世界のシーンなのか、それともアーサーがあまりの現実のつらさから自身の「こうであってほしい」願望に逃避している幻影のシーンなのかが、この作品はわざとはっきりボンヤリさせた上でさくさく話を進めていくので、観客の猜疑心を高めてアーサーの心理状態に近づけていくというテクニックがかなり成功しているのが、この映画の本当に恐ろしいところです。
 本作、上の情報で述べたように R指定になっている映画なのですが、作品自体を画づらだけで見ていくと、そりゃまぁ話の行きがかり上、残酷な殺人はあるにしても、適度な遠景で撮影しているので昨今のホラー映画ほどエグい描写にはなっていませんし、ましてやエッチな展開などまるで出てきやしません。ハーレイ・クインなんか出てくる気配もありゃしねぇや!

 それなのにがっつり R指定になっているというのは、明らかにこの作品が、残酷さやエロさとは別の「なにか」で危険なしろものになっているということなのです。それはやっぱり、観客の精神状態を直接的に不安定なものにしてしまう、ほとんどプロパガンダや催眠のような強制力なのではないでしょうか。そして、物語の大半でひどい目にばっかり遭わされ続けてきたアーサーが最終的に選び、一部の民衆が熱狂的に受け入れた自己救済の道は「殺人」だったのです。これは……倫理的にヤバいにもほどがあります!!

 たぶん、劇場で何度も集中して鑑賞したり、のちにリリースされるはずのソフト商品を繰り返し観たら、具体的にどこが現実パートでどこが妄想パートなのか、フィリップス監督はちゃんとわかるようにヒントなり解答なりをちりばめているのでしょうが……こんな映画、何回も観たくねぇ!!

 悪夢や……悪夢なんやけど、なんか惹かれるものがある悪夢なんや! なんか、個人的にはアンジェイ=ズラウスキー監督の『ポゼッション』(1981年)にかなり近いもののある酩酊感をもよおす作品だと思うんですよね、この『ジョーカー』って。
 そういや、あの映画も主演俳優さんにそ~と~なプレッシャーをかけてたな! 監督、こわすぎ……


2、ホアキン=フェニックスの入魂過ぎる役作り

 こりゃあもう、実際に観ていただくより他ないのですが、ホアキンさんの役作りがもう、頭おかしいとしか言いようのない熱の入れようなんですよね。ニコルソンジョーカーとヒースジョーカーという、絶対に相手にしたくない激高ハードルを前にしても、ホアキンさんは全く臆することなく真剣に真正面から、文字通り「身体一つ」でぶち当たっているのです。このうちの誰が一番すごいのかという議論は、もはや好みの問題なのでいちいち言及しませんが、ホアキンさんが負けているということは絶対に無いと断言できるでしょう。ほんと……身体をいたわれ!!

 だって、あの背中、観た!? つまりホアキンさんは、メイクも演出も CGも全く必要とせずに、正真正銘その肉体のみで、アーサーの歪んだ半生や心理状態、そしてその先に待ち受けている異形のものへの変身を、セリフすら使わずに数秒で表現しきっているのです。

 なんでも身体を張りゃいいってもんでもないけど、今回の主人公アーサーに限って言うのならば、ホアキンさんという依り代が無ければ絶対に成功しえないキャラクターだったのではないでしょうか。ふくよか系のニコルソンジョーカー、隠れマッチョ系のヒースジョーカーときて、今度はガリガリ系のホアキンジョーカーですか……う~ん、よりどりみどり!!


3、ヒドゥル=グドナドッティルの音楽のものすごい存在感&ジャストフィット感

 これもまぁ、四の五の言わずに作品を観てみてくださいって話なんですけれどもね。
 本作は劇中で流れる音楽に関して、フランク=シナトラやゲイリー=グリッターといった、作中の時代設定である1981年から見るとひと昔かふた昔にあたるなつかしの歌謡曲やジャズナンバーが多用されている部分が目立つのですが、それと同時に、アーサーの「堕ちていく」危機的状況を明示する音楽として、ヨーロッパ極北の島国アイスランド出身のチェリストであるヒドゥル=グドナドッティル女史の奏でる、異常に重力のあるナンバーが要所要所でその存在感を発揮しています。無理やり日本語で表現するのならば、まさに「ずぅぅ~ん」とか「どよよぉお~ん」としか言いようのない調べですよね……

 人生の中での「笑う / 笑われる」シーンをテーマにした、誰もが知っている有名なポップスが陽気に次々と流れていく一方で、あたかも車の両輪、陽と陰の関係にあるかのように、ふとした瞬間にアーサーの背後に現れ、首根っこをつかんで地面に叩きつける悪魔のような役割を果たしているグドナドッティルさんの音楽は、フィリップス監督の演出、ホアキンさんの演技と同程度に本作の完成度の高さに寄与している重要なファクターだと思います。サントラ買っちゃいますよ、こんなもん! まぁ、ドライブとかデートで流せるアルバムじゃないですけど……

 よく「笑いとは緊張と緩和のバランス効果である。」と言われますが、本作のフィリップス監督がコメディ映画で名を挙げたお人であるということからわかるように、この映画は非常に陰鬱な作品であるのに、さらにはまともな冗談すら全く思いつかないアーサーを主人公にしているというのに、なぜかその転落人生に時を忘れて見入ってしまうのは、フィリップス監督のバランスセンスの良さにあると思います。キツイ展開が続いて息が詰まりそうになると、アーサーの必死なあがきがなぜか滑稽に見えてしまう細やかな描写が差しはさまれるんですよね。この、ギャグ的な息継ぎが絶妙だから観ていられるのです。ここらへん、似たような感じの映画でも『ブラック・スワン』(2010年)や『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000年)には無かったアドバンテージだったように感じました。

 そして、そういった意味でも緩和がアメリカのオールディーズナンバーで、緊張がグドナドッティルさんのチェロの調べという白黒はっきりした采配が大成功していたのではないでしょうか。本当に、この映画は完成度が高い!


 以上、こんな感じで「ジョーカーの全く出てこない映画」なのに世界的な大ヒットを収めている『ジョーカー』を観た感想をつづってきたのですが、これ、やっぱ大ヒットしたってことは続編、出るんでしょうかね? でも、本作はラストのラストでアーサーが「全てはジョークさ……」と嘘いつわりのない微笑を浮かべた時点で充分すぎる程にオチていると思うので、続きを作るだけ野暮のような気もするんですが。

 続編を出すってことは、この世界におけるバットマンのデビューとか、アーサーに心酔した若者が「のちのジョーカー」になるっていう展開も観られるのでしょうか。う~ん、それ観たいか!?

 個人的な話になるのですが、私、『タクシードライバー』は観てるんですが、なんとも勉強不足なことにデ・ニーロの『キング・オブ・コメディ』をまだ観てないんですよ! あの、コサキンラジオで小堺さんが「気持ち悪すぎて吐いた。」って言ってた、伝説の作品です!!
 これ、ちゃんと観ないとなぁ。本作にかなり近い作品ですよね。

 そういえば、本作の最初に丸っこい「 W」の赤文字が迫ってくる1980年代のワーナーブラザースのロゴは、キューブリック監督の『シャイニング』(1980年)でも使われていたバージョンでしたよね。『ジョーカー』でも、『シャイニング』へのオマージュと思われるシチュエーションのシーン、ありましたよね! まさか、ブルースのおやじがあんなにいけ好かない奴だったとは……いや、あれも妄想なのか。

 いろいろ感じるところの多い大傑作ではありましたが、それはそれとして、DCコミックス陣営としてド正統なバットマンシリーズの映画新作も、早く出してほしいかな!? そして、新たなる若き7代目ジョーカーのご登場も、楽しみにしております! モナハンジョーカーの銀幕デビューでも全然いいけどね!!

 とりあえずは、ホアキンさん大変お疲れさまでございました! ごはん食べてね!!
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