どうもこんにちは! そうだいでございます~。今日も寒い秋の休日になりましたなぁ……もうそろそろ、半袖ものも片づけちゃっていい頃合いなんでしょうか。
いや~、最近のニュース、「他人のパソコンをウィルスで乗っ取り犯行予告メール」ね。
できる技術はもうとっくの昔に発見されていたんでしょうが、こう実際に世間を騒がせる事件に発展してしまうと、なんちゅうか……
21世紀よねェ~。
いや、私もこうやってオッサンはオッサンなりにパーソナルコンピウタを使用している者なので対岸の火事ではないわけなのですが、いよいよ『攻殻機動隊』みたいな世の中になり始めてきたってことなんでしょうか。でも、『攻殻機動隊』の世界って確か、物語がスタートする前に「第3次世界大戦」みたいな大戦争があったっていう設定ですよね……それだけは真っ平御免こうむります。
でも、やっぱあれですよね。よく、「いざ21世紀になってみたら、SF映画とかマンガみたいな感じじゃなくてフツーだよね。」とかっていう声も耳にしますけど、西暦2000年という21世紀最後の年だって、すでに10年以上昔の時代なんですよね。
他人のパソコン乗っ取り犯罪でしょ、スマートフォンでしょ、超薄型ハイビジョンテレビでしょ、自動掃除ロボットでしょ……
なんだかんだ言って、けっこう21世紀21世紀してますよね。こういう感じで、来たるべき2020年代もたぶん、新しいなにかがいつの間にか生活に入りこんでくるんでしょうねぇ。楽しい未来であるといいですなぁ~!
さてさて、そんな世間の未来派野郎なニュースはここまでにしておきまして、我が『長岡京エイリアン』は今日も今日とて、20世紀に制作された、14世紀のヨーロッパ世界を舞台にした宗教哲学ミステリー映画のことをつづっていきたいと思います。ふるくさ~!!
いやいや、でも、この映画はいちがいに「古臭い」とも言えない、時代を超えた魅力に満ち溢れている作品なんですなぁ。時代をへても色あせないオンリーワンというものは、「真似できない特有の空気」を持っている。こういう、当たり前だけどなかなか実現することが難しいポイントを如実に示しているのが、この映画『薔薇の名前』なのです。
この映画版の『薔薇の名前』にかんする情報は、あらかた先回の前段にまとめたので繰り返さないのですが、私自身、この映画はごく最近に初めて観ておもしろかったから今回のテーマにした、ということなのではなく、10年以上前から大好きで大好きでしかたない、他の作品にはかえられない思い出と愛着を持っています。
そもそも、私は小学校時代からミステリー小説というジャンルに味を占めていた薄気味悪い子どもだったのですが、小説から、それを映像化したミステリー方面の映画や TVドラマもこの目で観てみたいという欲求に駆られることは当然の流れでした。いうまでもなく、そのあらわれの主流が以前にも取りあげた「金田一耕助シリーズ」とか「明智小五郎シリーズ」とか、それからずいぶん昔にちょっとだけ触れた「イギリスのグラナダTV 版のシャーロック=ホームズ・シリーズ」であるわけです。「グラナダ・ホームズ」の話題は、ぜひともまた改めて本腰を入れてやってみたいですねぇ! 新しいホームズシリーズは映画にドラマに(日本ではとんでもないアニメにも)始まっているというのに、なぜ今さらグラナダ!? でも、そこが『長岡京エイリアン』品質。消費期限キレッキレです。
まぁそんな呪わしい青春を送っていたわたくしだったのですが、確か当時、文春文庫から出版されていた『読者が選ぶ世界のミステリー映画ベスト100 』みたいな本を手に入れて、それをテキストにレンタルビデオ店に通いつめて名作映画の数々を観ていくという、ベタでピュアな日々をすごしていました。勉強もしろよ!
ただねぇ、ここで問題になるのが、「なにをもってミステリーとするのか」ということなんですよね。
当時から、私はミステリー全体が好きではあるものの、その中では特に「読者も推理すれば犯人を当てることができる事件解決もの」という、いわゆる「本格もの」ミステリーが好きでした。でも、それだけがミステリーというジャンル全体を占めているわけではないのです。
現に、私が愛読したその文春文庫版の『ベスト100 』は、ランキングの上位のほとんどを「ヒッチコックのスリラー映画」が占めていたり、『007 シリーズ』(1962年~)や『恐怖の報酬』(1953年)や『フレンチ・コネクション』(1971年)や『ゴッドファーザー3部作』(1972~90年)がランクインしていたりしたのです。コン・ゲームものの大傑作といわれる『スティング』(1973年)もあったかしらねぇ。その本自体は10年以上前に実家に置いてきてしまったので私の手元にはなく確たることは言えないのですが、たしかあれ、『ジョーズ』(1975年)もランクインしてましたよね!? 『ジョーズ』ってあんた、サメが犯人に決まってるじゃねぇかァ!!
要するに、「観るものをドキドキさせる展開と驚きのラストを用意している映画」、これがこの本での「ミステリー」の基準となっていたわけなのです。当然そこには、私の愛する「本格もの」だけでなく「スリラー」も「サスペンス」も「冒険」も「サイコホラー」も入っていたということだし、私もそれは正しいことだと思います。そのうちのどれかだけに限定ってことになっちゃうと線引きが難しいし、つまんなくなっちゃうから。
ただ、そうなっちゃうと、「本格もの」の名作映画がいかに少ないかってことが目立つんですよね。日本では『犬神家の一族』(1976年)とか『悪魔の手毬唄』(1977年)といったあたりがランクインされていたのですが(実相寺昭雄監督の明智小五郎シリーズはまだ始まっていなかったと思います)、世界広しといえども、洋画で「本格もの」の作品がランクインされていたのは『オリエント急行殺人事件』(1974年)くらいしかなかったんじゃないでしょうか。「本格もの」とは言えないのですが、物語全体に「大きな謎」がわだかまって、クライマックスに衝撃的でありながらも非常に論理的なラストが襲いかかってくるという点では、『悪魔のような女』(1955年)も見逃せませんね。
そういう感じの中で、私の頭に強烈なインパクトを刻み込んでくれたのが、かの『薔薇の名前』だったというわけ。
「なぬなぬ、『中世ヨーロッパの閉鎖された修道院で発生する謎の連続殺人事件にショーン=コネリー演じる名探偵がいどむ』!? 洋画には珍しいどストライクの本格ものでねぇが。これはどうにがして観でぇな。」
こういう思いをいだいた当時の私でしたが、なぜか行動範囲の中にあるレンタル店ではどこに行っても『薔薇の名前』が置いておらず、結局、私が作品そのものを観るのは数年後、千葉に引っ越してからに持ちこしになってしまいました。
いや~、うれしかったですね、新宿の TSUTAYAでこれの VHSビデオを見つけて買ってきたときは。あの伝説の作品がついに解禁! みたいな。15年ちかく昔、首都圏での生活の何もかもに驚きの感情を隠せないでいた、挙動不審な「EVERYDAY おのぼりさん」だったころのことです。
そして、その時に私が目の当たりにした『薔薇の名前』の世界は、数年ごしの初見で自分の中での「名作ハードル」が最高レベルに高くなっていたのにもかかわらず、それを悠々と、陸上走り高跳び競技でいう「はさみ跳び」の要領で跳び越えるクオリティを誇っていたのです。「背面跳び」でも「ベリーロール」でもなく「はさみ跳び」でよ!? 超よゆー!!
映画『薔薇の名前』は、先ほども言ったとおりに「閉鎖された場所で発生する謎の連続殺人事件」というかっこうのミステリー仕立てになっており、「意外な真犯人」「意外な凶器」「意外な犯行動機」と三拍子がしっかりそろった、本格ものファンにとってはたまらない作品になっています。しかも、この事件が「中世ヨーロッパの修道院で発生する」ということの意味と説得力がちゃんとあるわけなんですよ。金田一耕助シリーズの傑作『本陣殺人事件』もそうでしたが、その時代にその事件が発生する悲劇性みたいなものが強くうち出されている作品というものは、なにか時間や社会を超えたルールの存在と、それに対しての人間のどうしようもない小ささみたいなものを感じさせるものがありますよね。
『薔薇の名前』のミステリー作品としてのおもしろさは、それだけに限定しても1回分の内容になってしまうような豊かさを持っているのですが、そっちのほうは今回はここまでにしておきまして、いっぽうでの「映画作品としての魅力」について、ここからは考えていきたいと思います。こっちもちゃんと成立してなきゃ、後世に名を残す名作映画にはならないんですよねェ~!
映画『薔薇の名前』の魅力。それはもうなんと言いましても、以下のような言葉に集約できるのではないでしょうか。
アメリカとヨーロッパ、大西洋と国境を越えた「実力派ものすごい顔アクター」たちの競演!!
ベタな観点になっちゃうんですけど、やっぱりこのポイントは見逃せない。
先回のスタッフとキャスト陣の国籍を見てもわかるように、この作品には本当に多くの国籍の方々が関わっています。
だいたいの感じをざっくり解析するのならば、まずドイツの国際派プロデューサーであるアイヒンガー氏が「アメリカのハリウッド級のクオリティを持った大作映画」の企画を立ち上げ、すでにハリウッドで活躍していたアノー監督の起用からコネリー、エイブラハムといった大スターのキャスティングまでをおこない、アノー監督の母国であるフランスの歴史学者ルゴフが詳細な時代考証を練り上げ、イタリア伝統の映画界を中心としたスタッフがあのリアルな修道院セットなどでの撮影を敢行したと、こうなりますでしょうか。
キャストの中にはこれら西欧諸国とはちょっと毛色の違う国出身の俳優さんもいらっしゃるのですが、紅一点のチリ出身のヴァレンティーナさんと、「高田純二さんから2割ぶん『男前』を抜いてかわりに『ディズニーアニメ風味』を入れたような顔つき」で有名なラトビア出身のイリヤ=バスキンさんはすでにアメリカで活躍していてオーディションに合格した方々です。
「70代で俳優デビュー」という、本編での外見と同じくらいに異色のプロフィールを持っていたフョードル=シャリアピンJr さんはその名の通り、20世紀前半に世界を股にかけて活躍したオペラ歌手のフョードル=シャリアピンの息子だったのですが、1921年にその親父さんがソヴィエト連邦からフランスに亡命したため、16歳のころはからずっと西欧で生活されていたようです。数奇な運命ね~。
ところで、今回のブログにこの『薔薇の名前』を取りあげた直接のきっかけは、私が最近になってやっと DVD版のソフトを購入したことでした。うちのテレビデオはすでに数年前に物故していたため、いいかげんにそろそろ『薔薇の名前』も観たくなってきちゃったなぁ、と思い立っての買い物でした。
そして今さらながら改めて感じたんですけど、 DVDは VHSにはない特典映像がいぃ~っぱい!! 2012年も後半に入ったという時期におめおめとこんな発言をしているわたくしって……バカ?
つまり、画像がよりクリアになった本編はもとより、私が手に入れた DVD版の特典映像には「公開当時に制作されたドイツの TV局による撮影背景ドキュメンタリー番組」と、「アノー監督によるオーディオコメンタリーとインタビュー」が収録されていたわけなのです。も~サービス特盛り!
そんなわけだったので、すでに映画本編の中での映像マジックに心酔していた私は、今回の DVD購入によって「舞台裏から見た『薔薇の名前』」といったあたりも初めて知ることとなり、思いを新たにするようになったのでした。
そして、これらの映像特典を観て「やっぱりそうだったのか……!!」と最も強く再認識したのが、アノー監督の「ものすごい顔の役者さん重視体制」なんですよ。
もしかして、まだこの映画『薔薇の名前』をご覧になっていないうちにこの文章を読んでいる方って、いますかね?
いるとしたら、声を「音量 MAX」にしてこう叫びたいです。「いいから観て! 出てくる役者さんの顔がいちいちすごいから!!」と。
もちろん、磐石の作品世界と役者自身の強固な演技力がなければ、「ヘンな顔」というものはただ悪目立ちするだけで物語に集中することに支障をきたしかねない邪魔な要素になってしまいます。しかも、本来ならば主要な部分は若々しい二枚目や美女でかためてワンポイントリリーフにお笑い役をさしこむというのが大方のセオリーなのですから、「ヘンな顔のおっさん俳優」を多量に投入するという手段は大きなリスクをともなう賭けになってしまうと断言してしまってもいいでしょう。
しかし、その賭けにアノー監督は打って出た!!
この物語の主人公である名探偵ウィリアムと助手のアドソくんは、ここはまぁやっぱり観客の感情移入を考慮してか、50代も半ばに入って渋みの増したショーン=コネリーと、一方で本格的な銀幕デビューとなる10代ピチピチのクリスチャン=スレーターが演じています。この2人は当然ながら二枚目と言ってさしつかえないわけなのですが、どちらも申し分ない演技力を作品の中で発揮しています。クリスチャンさんは子役出身ですから。まぁ、2012年現在の状況はかなりアレですけど……
ところが! 安心できる顔つきはこの2人と「名もなき村娘」役のヒロイン(外見がリアルに小汚いけど……)ヴァレンティーナさんにとどまり、それ以外の修道院の面々はまぁ~すごいすごい。
絶対に何かくわだてている修道院長、盲目で両目が真っ白ににごっている老師、ガリガリに痩せて常に上から目線で人を見くだしている図書館司書、丸々とふとって肌は蒼白、しかも頭髪も眉毛もまったく生えていないという「人間白玉だんご」みたいな副司書。そして、修道院の外には原始人みたいな顔で背中にコブのついた知恵の足りない下僕がうろうろ!
とんでもない修道院です。これで殺人事件が起こらないほうがおかしい。こういう状況で『らき☆すた』みたいな日常あるあるコメディしか展開しない映画であるわけがないんです。いや、そんなやつもあったら観てみたいけど。
中でも、私はやっぱり真っ白けっけの副司書ベレンガーリオを演じたマイケル=ハーベックさんと、下僕サルヴァトーレを演じたロン=パールマンさんに注目したいですね。
ロン=パールマンは現在でもハリウッドで大活躍している「すごい顔」界最高峰の役者さんであるわけなんですが、その長いキャリアの中でも、やっぱりこのサルヴァトーレ役はひときわギラッギラに輝いていると言っていいでしょう。愛さずにはいられないバカさと、実は異端派の信仰に手を染めているという禍々しさとを両立させている演技には脱帽ものです。「役者さんじゃなくて、この人……ホントにアレな人?」と思わせてしまう容貌がものすごいです。これほどまでに「ネズミが大好物」という情報にリアリティを持たせられる俳優さんがいるでしょうか。
いっぽうで、気持ち悪いにもほどがある白玉だんごを演じたハーベックさんもまったくひけをとってはおらず、「修道院の図書館」という本作最大のキーワードゾーンに隠された重大な秘密を握りながらも、物語中盤で事件第3の被害者として驚くべき死にっぷりを遂げてしまうその姿は、観る者に強い印象を刻み込んでくれます。
そしてあの、ある意味で『薔薇の名前』最大のインパクトともいえる、物語の前半になんの前ぶれもなく挿入される「深夜に自分ムチ打ち100回をやっているベレンガーリオ」のシーン!!
もちろん、これは趣味ではなく「なんらかの良心の呵責を背負っているベレンガーリオ」を描写している重要なヒントでもあるわけなのですが、その後にベレンガーリオ本人が被害者となってしまい、名探偵ウィリアムも特になんの推理も加えないでスルーしてしまっているため、この自分ムチ打ちシーンは完全なる「ベレンガーリオのやりすぎ」みたいな感じになってしまっています。
こういった感じで、はっきり言って「ふだんの20世紀の社会でちゃんとやっていけているのかが他人事ながら心配になってしまう」お2人であるわけなのですが、オーディオコメンタリーの中で、アノー監督は彼らを俳優としても人間としても激しく絶賛しています。
同時に、ロン=パールマンは背中のコブにちょっと鼻を大きく見せるメイク、マイケル=ハーベックは頭髪と眉毛を剃るという処置を施してはいるものの、他の俳優さんも全員含めて、なるべくそれぞれの顔をそのまま作品に生かすことによってそれぞれのキャラクターを強調させることを狙っている、ということも明言していたのです。
確かに、よくよく考えてみると、『薔薇の名前』の登場人物はほとんど全員、いつ何時でも黒かベージュ色の没個性な修道服に身を包んでいます。これはまったくもって当時の中世キリスト教世界では至極当然のことで、坊さん1人1人の個性を大事にする、なんていう宗教団体は現代の日本でもそうそうないでしょう。
つまり、普通の映画のように衣装でキャラクター分けができない以上、『薔薇の名前』が顔や挙動重視の人選になることはごくごくまっとうな判断だったというわけなのです。もっともやわ~。
余談ですが、『薔薇の名前』の中ではあんなに気持ち悪かった白玉だんごのハーベックさんは、ふだんの俳優としてのプロフィール写真を検索してみると、白髪にひげにふくよかな笑顔の似合う、とっても人のよさそうなおじさんでした。昨年に亡くなられていたのが残念で仕方ないのですが、本国ドイツでは俳優の他に声優としても著名な方だったようです。やっぱり頭髪と眉毛って、けっこうその人の印象をはかるうえで重要な要素なのねェ~。
そのほか、映像特典の中には、「聖歌の歌唱シーンのために歌唱指導を受ける国際ベテラン俳優たち」というひとこまもあり、ハリウッドのコネリーとフランスのマイケル=ロンズデール(この方は仏英ハーフ)とドイツのフォルカー=プレシュテルと例のシャリアピンJr おじいちゃんというとんでもない顔ぶれが、みなさん揃って裏声を出しながら苦戦しているというほほえましい国際交流のもようも展開されていました。聖歌は唄うの難しそうですねぇ!
今回のような撮影オフ時の俳優の姿というものは、実は本編と同じかそれ以上に興味深い味わいを持っているものが多くて、たとえばあの、『薔薇の名前』とならび立つ「怖い顔無双」映画として知られるスタンリー=キューブリック監督の至宝『シャイニング』(1980年)でも、鼻歌を唄いながらひげをそり、上機嫌なステップでスタッフに「ようっ☆」とか声をかけながら撮影現場に向かう舞台裏でのジャック=ニコルソンの姿がとらえられている特典映像を観てしまうと、たとえようもない幸せなお得感におそわれてしまいますね。その切りかえ力のハンパなさ!!
ただ、このような「作品外」のギャップの大きさを感じるにつけて改めて認識してしまうのが、そこまでのギャップを作りうる「作品内」のマジックの完璧さなんですよね。
『薔薇の名前』の場合で言うのならば、それはもうあの中世ヨーロッパの修道院という「結界」の強さでもあるわけです。あそこの中にいる坊さんたちは全員、アノー監督がヨーロッパ中にエージェントを派遣して集めてきた名もなき俳優たちであるそうなのですが、セリフのない役1人1人にいたるまで、それぞれの顔が語る情報量がものすごいです。20人くらいの人数がひしめいている図書室のシーンなんかもう、マンガみたいな顔の大図鑑ですよ! でも、それが単なる「ヘン顔の集合」ではなく、「奇怪な事件の容疑者たちの視線の飛び交うさま」にちゃんと見えているのだから素晴らしい。もちろん、そこには映画の撮影のために修道服を着ている20世紀の俳優という実情を思い起こさせるスキはまったくありません。みなさん、カメラの中では見事なまでの中世人になりおおせているのです。
『薔薇の名前』の撮影現場の時代考証完璧主義を物語るエピソードのひとつとして、アノー監督のオーディオコメンタリーで語られているのが、この映画の音声がほぼ100% 「アフレコ」で録音されている、という事実です。
これはまたどうしてなのかといいますと、国際的な映画美術家であるダンテ=フェレッティがヨーロッパ中の現存する修道院やそれに関する史料を研究し、腕によりをかけて作り上げたあの映画の中の修道院は、予算の許すかぎり中世当時の建材や建築工法を活用した大規模なセットでした。そのため、床もしっかりと木造になっていたということで、映画のスタッフや撮影カメラなどの重い機材が移動するたびにギッチギッチと板のきしむ音が響きわたってしまい、室内シーンでのセリフの同時録音は不可能という状況になっていたのです! やりおるわい。
それに加えて、修道院のセットは撮影時期が秋から冬にかけてだったために日を追うごとに寒くなっていったものの、現場に20世紀レベルの暖房器具が持ち込まれることは禁止されており、役者さんたちは粗末な僧服(粗末と言っても、その粗末な服の作り方は現代ではかなり貴重な伝統技術になっていたため服そのものは非常に高価)に、サンダルかうっすい革靴をはだしで直ばきという大変厳しい現場になっていたのだそうです。
もちろんこれも、「当時の寒さを実感していなければ中世の物語なんて再現できるわけもない!」というアノー監督のこだわりでした。実際に、監督は事前のオーディションでも、特別な暖房な医療器具などを用意しなければ撮影に入れなかった当時の大御所俳優からの出演希望の申し出を断っています。なんという体育会系な現場か!
そのほかにも、撮影中から現場で盗難事件が続出したという、中世伝統の技術で製作された100% 本物の羊皮紙による宗教書、日常の小道具、門を装飾する聖邪さまざまな偶像彫刻など、この映画の背景美術に賭ける気合いは生半可なものではありません。
でもそれは、すべてに万全を期すつもりではあったものの、スケジュールと予算の都合でアノー監督がしぶしぶセットに入れてしまった「中世らしくないある彫像」たった1つのために、映画公開後に全世界から2000通ほどの抗議を受けてしまったというエピソードが示すとおり、『薔薇の名前』という世界的なベストセラーの満を持しての映画化、そして、現代の西欧諸国の共通のルーツと言ってもいい世界を描くということの重大さを十二分に理解した上での、製作スタッフ側のプロとしての覚悟のあらわれだったのです。このくらいに規格外な執着を持たなければ、名作は生まれないんですねぇ。
これは、人をアッと言わせるミステリー小説ならばよくあることなのかも知れませんが、衝撃のトリックというものはフタを開けてみれば意外に単純明快なものが多く、映画『薔薇の名前』の連続殺人事件の真相も、観る人によっては「えぇ~、そんなことで殺すの?」「オレだったら、その凶器にはひっかからないけどなぁ。」などという思いをいだくものであるかも知れません。
しかし、とてつもないスタッフたちの気合いと役者陣の本気によって映像化された中世修道院の世界のリアルさは、そのあたりのフィクションの荒唐無稽さを見事にカヴァーしてあまりある魅力に満ち溢れているのです。ミステリー映画でありながらそこだけに頼らない別の見どころをふんだんに用意している。その大盤振る舞い感が、いいんですよね~。
映画『薔薇の名前』は、やっぱりいい!!
ところで、アフレコ映画になったもうひとつの理由としては、あの修道院セットがイタリアのローマの市街地から車で10分ほどの距離しかない場所に建てられていたために、近くを通る高速道路の車の音がうるさくてしかたなかったから、ということもあったのだとか!
えぇ~、あの現場、そんなに現代っぽい場所だったんすかぁ!? 完全にだまされておりました……あんな映像の雰囲気を見たら、そりゃあもう山の中の電気もひいてない陸の孤島みたいな土地しか想像できませんよね。役者の皆さんはローマのホテルからあの修道院にかよっておられたそうです。意外と都会っ子。
ウソの世界をウソっぽくなく作り上げるのがフィクション。こんな基本中の基本を楽しく教えてくれるのが、この映画『薔薇の名前』なんですね。おっもしれぇなぁ~、やっぱ!
いや~、最近のニュース、「他人のパソコンをウィルスで乗っ取り犯行予告メール」ね。
できる技術はもうとっくの昔に発見されていたんでしょうが、こう実際に世間を騒がせる事件に発展してしまうと、なんちゅうか……
21世紀よねェ~。
いや、私もこうやってオッサンはオッサンなりにパーソナルコンピウタを使用している者なので対岸の火事ではないわけなのですが、いよいよ『攻殻機動隊』みたいな世の中になり始めてきたってことなんでしょうか。でも、『攻殻機動隊』の世界って確か、物語がスタートする前に「第3次世界大戦」みたいな大戦争があったっていう設定ですよね……それだけは真っ平御免こうむります。
でも、やっぱあれですよね。よく、「いざ21世紀になってみたら、SF映画とかマンガみたいな感じじゃなくてフツーだよね。」とかっていう声も耳にしますけど、西暦2000年という21世紀最後の年だって、すでに10年以上昔の時代なんですよね。
他人のパソコン乗っ取り犯罪でしょ、スマートフォンでしょ、超薄型ハイビジョンテレビでしょ、自動掃除ロボットでしょ……
なんだかんだ言って、けっこう21世紀21世紀してますよね。こういう感じで、来たるべき2020年代もたぶん、新しいなにかがいつの間にか生活に入りこんでくるんでしょうねぇ。楽しい未来であるといいですなぁ~!
さてさて、そんな世間の未来派野郎なニュースはここまでにしておきまして、我が『長岡京エイリアン』は今日も今日とて、20世紀に制作された、14世紀のヨーロッパ世界を舞台にした宗教哲学ミステリー映画のことをつづっていきたいと思います。ふるくさ~!!
いやいや、でも、この映画はいちがいに「古臭い」とも言えない、時代を超えた魅力に満ち溢れている作品なんですなぁ。時代をへても色あせないオンリーワンというものは、「真似できない特有の空気」を持っている。こういう、当たり前だけどなかなか実現することが難しいポイントを如実に示しているのが、この映画『薔薇の名前』なのです。
この映画版の『薔薇の名前』にかんする情報は、あらかた先回の前段にまとめたので繰り返さないのですが、私自身、この映画はごく最近に初めて観ておもしろかったから今回のテーマにした、ということなのではなく、10年以上前から大好きで大好きでしかたない、他の作品にはかえられない思い出と愛着を持っています。
そもそも、私は小学校時代からミステリー小説というジャンルに味を占めていた薄気味悪い子どもだったのですが、小説から、それを映像化したミステリー方面の映画や TVドラマもこの目で観てみたいという欲求に駆られることは当然の流れでした。いうまでもなく、そのあらわれの主流が以前にも取りあげた「金田一耕助シリーズ」とか「明智小五郎シリーズ」とか、それからずいぶん昔にちょっとだけ触れた「イギリスのグラナダTV 版のシャーロック=ホームズ・シリーズ」であるわけです。「グラナダ・ホームズ」の話題は、ぜひともまた改めて本腰を入れてやってみたいですねぇ! 新しいホームズシリーズは映画にドラマに(日本ではとんでもないアニメにも)始まっているというのに、なぜ今さらグラナダ!? でも、そこが『長岡京エイリアン』品質。消費期限キレッキレです。
まぁそんな呪わしい青春を送っていたわたくしだったのですが、確か当時、文春文庫から出版されていた『読者が選ぶ世界のミステリー映画ベスト100 』みたいな本を手に入れて、それをテキストにレンタルビデオ店に通いつめて名作映画の数々を観ていくという、ベタでピュアな日々をすごしていました。勉強もしろよ!
ただねぇ、ここで問題になるのが、「なにをもってミステリーとするのか」ということなんですよね。
当時から、私はミステリー全体が好きではあるものの、その中では特に「読者も推理すれば犯人を当てることができる事件解決もの」という、いわゆる「本格もの」ミステリーが好きでした。でも、それだけがミステリーというジャンル全体を占めているわけではないのです。
現に、私が愛読したその文春文庫版の『ベスト100 』は、ランキングの上位のほとんどを「ヒッチコックのスリラー映画」が占めていたり、『007 シリーズ』(1962年~)や『恐怖の報酬』(1953年)や『フレンチ・コネクション』(1971年)や『ゴッドファーザー3部作』(1972~90年)がランクインしていたりしたのです。コン・ゲームものの大傑作といわれる『スティング』(1973年)もあったかしらねぇ。その本自体は10年以上前に実家に置いてきてしまったので私の手元にはなく確たることは言えないのですが、たしかあれ、『ジョーズ』(1975年)もランクインしてましたよね!? 『ジョーズ』ってあんた、サメが犯人に決まってるじゃねぇかァ!!
要するに、「観るものをドキドキさせる展開と驚きのラストを用意している映画」、これがこの本での「ミステリー」の基準となっていたわけなのです。当然そこには、私の愛する「本格もの」だけでなく「スリラー」も「サスペンス」も「冒険」も「サイコホラー」も入っていたということだし、私もそれは正しいことだと思います。そのうちのどれかだけに限定ってことになっちゃうと線引きが難しいし、つまんなくなっちゃうから。
ただ、そうなっちゃうと、「本格もの」の名作映画がいかに少ないかってことが目立つんですよね。日本では『犬神家の一族』(1976年)とか『悪魔の手毬唄』(1977年)といったあたりがランクインされていたのですが(実相寺昭雄監督の明智小五郎シリーズはまだ始まっていなかったと思います)、世界広しといえども、洋画で「本格もの」の作品がランクインされていたのは『オリエント急行殺人事件』(1974年)くらいしかなかったんじゃないでしょうか。「本格もの」とは言えないのですが、物語全体に「大きな謎」がわだかまって、クライマックスに衝撃的でありながらも非常に論理的なラストが襲いかかってくるという点では、『悪魔のような女』(1955年)も見逃せませんね。
そういう感じの中で、私の頭に強烈なインパクトを刻み込んでくれたのが、かの『薔薇の名前』だったというわけ。
「なぬなぬ、『中世ヨーロッパの閉鎖された修道院で発生する謎の連続殺人事件にショーン=コネリー演じる名探偵がいどむ』!? 洋画には珍しいどストライクの本格ものでねぇが。これはどうにがして観でぇな。」
こういう思いをいだいた当時の私でしたが、なぜか行動範囲の中にあるレンタル店ではどこに行っても『薔薇の名前』が置いておらず、結局、私が作品そのものを観るのは数年後、千葉に引っ越してからに持ちこしになってしまいました。
いや~、うれしかったですね、新宿の TSUTAYAでこれの VHSビデオを見つけて買ってきたときは。あの伝説の作品がついに解禁! みたいな。15年ちかく昔、首都圏での生活の何もかもに驚きの感情を隠せないでいた、挙動不審な「EVERYDAY おのぼりさん」だったころのことです。
そして、その時に私が目の当たりにした『薔薇の名前』の世界は、数年ごしの初見で自分の中での「名作ハードル」が最高レベルに高くなっていたのにもかかわらず、それを悠々と、陸上走り高跳び競技でいう「はさみ跳び」の要領で跳び越えるクオリティを誇っていたのです。「背面跳び」でも「ベリーロール」でもなく「はさみ跳び」でよ!? 超よゆー!!
映画『薔薇の名前』は、先ほども言ったとおりに「閉鎖された場所で発生する謎の連続殺人事件」というかっこうのミステリー仕立てになっており、「意外な真犯人」「意外な凶器」「意外な犯行動機」と三拍子がしっかりそろった、本格ものファンにとってはたまらない作品になっています。しかも、この事件が「中世ヨーロッパの修道院で発生する」ということの意味と説得力がちゃんとあるわけなんですよ。金田一耕助シリーズの傑作『本陣殺人事件』もそうでしたが、その時代にその事件が発生する悲劇性みたいなものが強くうち出されている作品というものは、なにか時間や社会を超えたルールの存在と、それに対しての人間のどうしようもない小ささみたいなものを感じさせるものがありますよね。
『薔薇の名前』のミステリー作品としてのおもしろさは、それだけに限定しても1回分の内容になってしまうような豊かさを持っているのですが、そっちのほうは今回はここまでにしておきまして、いっぽうでの「映画作品としての魅力」について、ここからは考えていきたいと思います。こっちもちゃんと成立してなきゃ、後世に名を残す名作映画にはならないんですよねェ~!
映画『薔薇の名前』の魅力。それはもうなんと言いましても、以下のような言葉に集約できるのではないでしょうか。
アメリカとヨーロッパ、大西洋と国境を越えた「実力派ものすごい顔アクター」たちの競演!!
ベタな観点になっちゃうんですけど、やっぱりこのポイントは見逃せない。
先回のスタッフとキャスト陣の国籍を見てもわかるように、この作品には本当に多くの国籍の方々が関わっています。
だいたいの感じをざっくり解析するのならば、まずドイツの国際派プロデューサーであるアイヒンガー氏が「アメリカのハリウッド級のクオリティを持った大作映画」の企画を立ち上げ、すでにハリウッドで活躍していたアノー監督の起用からコネリー、エイブラハムといった大スターのキャスティングまでをおこない、アノー監督の母国であるフランスの歴史学者ルゴフが詳細な時代考証を練り上げ、イタリア伝統の映画界を中心としたスタッフがあのリアルな修道院セットなどでの撮影を敢行したと、こうなりますでしょうか。
キャストの中にはこれら西欧諸国とはちょっと毛色の違う国出身の俳優さんもいらっしゃるのですが、紅一点のチリ出身のヴァレンティーナさんと、「高田純二さんから2割ぶん『男前』を抜いてかわりに『ディズニーアニメ風味』を入れたような顔つき」で有名なラトビア出身のイリヤ=バスキンさんはすでにアメリカで活躍していてオーディションに合格した方々です。
「70代で俳優デビュー」という、本編での外見と同じくらいに異色のプロフィールを持っていたフョードル=シャリアピンJr さんはその名の通り、20世紀前半に世界を股にかけて活躍したオペラ歌手のフョードル=シャリアピンの息子だったのですが、1921年にその親父さんがソヴィエト連邦からフランスに亡命したため、16歳のころはからずっと西欧で生活されていたようです。数奇な運命ね~。
ところで、今回のブログにこの『薔薇の名前』を取りあげた直接のきっかけは、私が最近になってやっと DVD版のソフトを購入したことでした。うちのテレビデオはすでに数年前に物故していたため、いいかげんにそろそろ『薔薇の名前』も観たくなってきちゃったなぁ、と思い立っての買い物でした。
そして今さらながら改めて感じたんですけど、 DVDは VHSにはない特典映像がいぃ~っぱい!! 2012年も後半に入ったという時期におめおめとこんな発言をしているわたくしって……バカ?
つまり、画像がよりクリアになった本編はもとより、私が手に入れた DVD版の特典映像には「公開当時に制作されたドイツの TV局による撮影背景ドキュメンタリー番組」と、「アノー監督によるオーディオコメンタリーとインタビュー」が収録されていたわけなのです。も~サービス特盛り!
そんなわけだったので、すでに映画本編の中での映像マジックに心酔していた私は、今回の DVD購入によって「舞台裏から見た『薔薇の名前』」といったあたりも初めて知ることとなり、思いを新たにするようになったのでした。
そして、これらの映像特典を観て「やっぱりそうだったのか……!!」と最も強く再認識したのが、アノー監督の「ものすごい顔の役者さん重視体制」なんですよ。
もしかして、まだこの映画『薔薇の名前』をご覧になっていないうちにこの文章を読んでいる方って、いますかね?
いるとしたら、声を「音量 MAX」にしてこう叫びたいです。「いいから観て! 出てくる役者さんの顔がいちいちすごいから!!」と。
もちろん、磐石の作品世界と役者自身の強固な演技力がなければ、「ヘンな顔」というものはただ悪目立ちするだけで物語に集中することに支障をきたしかねない邪魔な要素になってしまいます。しかも、本来ならば主要な部分は若々しい二枚目や美女でかためてワンポイントリリーフにお笑い役をさしこむというのが大方のセオリーなのですから、「ヘンな顔のおっさん俳優」を多量に投入するという手段は大きなリスクをともなう賭けになってしまうと断言してしまってもいいでしょう。
しかし、その賭けにアノー監督は打って出た!!
この物語の主人公である名探偵ウィリアムと助手のアドソくんは、ここはまぁやっぱり観客の感情移入を考慮してか、50代も半ばに入って渋みの増したショーン=コネリーと、一方で本格的な銀幕デビューとなる10代ピチピチのクリスチャン=スレーターが演じています。この2人は当然ながら二枚目と言ってさしつかえないわけなのですが、どちらも申し分ない演技力を作品の中で発揮しています。クリスチャンさんは子役出身ですから。まぁ、2012年現在の状況はかなりアレですけど……
ところが! 安心できる顔つきはこの2人と「名もなき村娘」役のヒロイン(外見がリアルに小汚いけど……)ヴァレンティーナさんにとどまり、それ以外の修道院の面々はまぁ~すごいすごい。
絶対に何かくわだてている修道院長、盲目で両目が真っ白ににごっている老師、ガリガリに痩せて常に上から目線で人を見くだしている図書館司書、丸々とふとって肌は蒼白、しかも頭髪も眉毛もまったく生えていないという「人間白玉だんご」みたいな副司書。そして、修道院の外には原始人みたいな顔で背中にコブのついた知恵の足りない下僕がうろうろ!
とんでもない修道院です。これで殺人事件が起こらないほうがおかしい。こういう状況で『らき☆すた』みたいな日常あるあるコメディしか展開しない映画であるわけがないんです。いや、そんなやつもあったら観てみたいけど。
中でも、私はやっぱり真っ白けっけの副司書ベレンガーリオを演じたマイケル=ハーベックさんと、下僕サルヴァトーレを演じたロン=パールマンさんに注目したいですね。
ロン=パールマンは現在でもハリウッドで大活躍している「すごい顔」界最高峰の役者さんであるわけなんですが、その長いキャリアの中でも、やっぱりこのサルヴァトーレ役はひときわギラッギラに輝いていると言っていいでしょう。愛さずにはいられないバカさと、実は異端派の信仰に手を染めているという禍々しさとを両立させている演技には脱帽ものです。「役者さんじゃなくて、この人……ホントにアレな人?」と思わせてしまう容貌がものすごいです。これほどまでに「ネズミが大好物」という情報にリアリティを持たせられる俳優さんがいるでしょうか。
いっぽうで、気持ち悪いにもほどがある白玉だんごを演じたハーベックさんもまったくひけをとってはおらず、「修道院の図書館」という本作最大のキーワードゾーンに隠された重大な秘密を握りながらも、物語中盤で事件第3の被害者として驚くべき死にっぷりを遂げてしまうその姿は、観る者に強い印象を刻み込んでくれます。
そしてあの、ある意味で『薔薇の名前』最大のインパクトともいえる、物語の前半になんの前ぶれもなく挿入される「深夜に自分ムチ打ち100回をやっているベレンガーリオ」のシーン!!
もちろん、これは趣味ではなく「なんらかの良心の呵責を背負っているベレンガーリオ」を描写している重要なヒントでもあるわけなのですが、その後にベレンガーリオ本人が被害者となってしまい、名探偵ウィリアムも特になんの推理も加えないでスルーしてしまっているため、この自分ムチ打ちシーンは完全なる「ベレンガーリオのやりすぎ」みたいな感じになってしまっています。
こういった感じで、はっきり言って「ふだんの20世紀の社会でちゃんとやっていけているのかが他人事ながら心配になってしまう」お2人であるわけなのですが、オーディオコメンタリーの中で、アノー監督は彼らを俳優としても人間としても激しく絶賛しています。
同時に、ロン=パールマンは背中のコブにちょっと鼻を大きく見せるメイク、マイケル=ハーベックは頭髪と眉毛を剃るという処置を施してはいるものの、他の俳優さんも全員含めて、なるべくそれぞれの顔をそのまま作品に生かすことによってそれぞれのキャラクターを強調させることを狙っている、ということも明言していたのです。
確かに、よくよく考えてみると、『薔薇の名前』の登場人物はほとんど全員、いつ何時でも黒かベージュ色の没個性な修道服に身を包んでいます。これはまったくもって当時の中世キリスト教世界では至極当然のことで、坊さん1人1人の個性を大事にする、なんていう宗教団体は現代の日本でもそうそうないでしょう。
つまり、普通の映画のように衣装でキャラクター分けができない以上、『薔薇の名前』が顔や挙動重視の人選になることはごくごくまっとうな判断だったというわけなのです。もっともやわ~。
余談ですが、『薔薇の名前』の中ではあんなに気持ち悪かった白玉だんごのハーベックさんは、ふだんの俳優としてのプロフィール写真を検索してみると、白髪にひげにふくよかな笑顔の似合う、とっても人のよさそうなおじさんでした。昨年に亡くなられていたのが残念で仕方ないのですが、本国ドイツでは俳優の他に声優としても著名な方だったようです。やっぱり頭髪と眉毛って、けっこうその人の印象をはかるうえで重要な要素なのねェ~。
そのほか、映像特典の中には、「聖歌の歌唱シーンのために歌唱指導を受ける国際ベテラン俳優たち」というひとこまもあり、ハリウッドのコネリーとフランスのマイケル=ロンズデール(この方は仏英ハーフ)とドイツのフォルカー=プレシュテルと例のシャリアピンJr おじいちゃんというとんでもない顔ぶれが、みなさん揃って裏声を出しながら苦戦しているというほほえましい国際交流のもようも展開されていました。聖歌は唄うの難しそうですねぇ!
今回のような撮影オフ時の俳優の姿というものは、実は本編と同じかそれ以上に興味深い味わいを持っているものが多くて、たとえばあの、『薔薇の名前』とならび立つ「怖い顔無双」映画として知られるスタンリー=キューブリック監督の至宝『シャイニング』(1980年)でも、鼻歌を唄いながらひげをそり、上機嫌なステップでスタッフに「ようっ☆」とか声をかけながら撮影現場に向かう舞台裏でのジャック=ニコルソンの姿がとらえられている特典映像を観てしまうと、たとえようもない幸せなお得感におそわれてしまいますね。その切りかえ力のハンパなさ!!
ただ、このような「作品外」のギャップの大きさを感じるにつけて改めて認識してしまうのが、そこまでのギャップを作りうる「作品内」のマジックの完璧さなんですよね。
『薔薇の名前』の場合で言うのならば、それはもうあの中世ヨーロッパの修道院という「結界」の強さでもあるわけです。あそこの中にいる坊さんたちは全員、アノー監督がヨーロッパ中にエージェントを派遣して集めてきた名もなき俳優たちであるそうなのですが、セリフのない役1人1人にいたるまで、それぞれの顔が語る情報量がものすごいです。20人くらいの人数がひしめいている図書室のシーンなんかもう、マンガみたいな顔の大図鑑ですよ! でも、それが単なる「ヘン顔の集合」ではなく、「奇怪な事件の容疑者たちの視線の飛び交うさま」にちゃんと見えているのだから素晴らしい。もちろん、そこには映画の撮影のために修道服を着ている20世紀の俳優という実情を思い起こさせるスキはまったくありません。みなさん、カメラの中では見事なまでの中世人になりおおせているのです。
『薔薇の名前』の撮影現場の時代考証完璧主義を物語るエピソードのひとつとして、アノー監督のオーディオコメンタリーで語られているのが、この映画の音声がほぼ100% 「アフレコ」で録音されている、という事実です。
これはまたどうしてなのかといいますと、国際的な映画美術家であるダンテ=フェレッティがヨーロッパ中の現存する修道院やそれに関する史料を研究し、腕によりをかけて作り上げたあの映画の中の修道院は、予算の許すかぎり中世当時の建材や建築工法を活用した大規模なセットでした。そのため、床もしっかりと木造になっていたということで、映画のスタッフや撮影カメラなどの重い機材が移動するたびにギッチギッチと板のきしむ音が響きわたってしまい、室内シーンでのセリフの同時録音は不可能という状況になっていたのです! やりおるわい。
それに加えて、修道院のセットは撮影時期が秋から冬にかけてだったために日を追うごとに寒くなっていったものの、現場に20世紀レベルの暖房器具が持ち込まれることは禁止されており、役者さんたちは粗末な僧服(粗末と言っても、その粗末な服の作り方は現代ではかなり貴重な伝統技術になっていたため服そのものは非常に高価)に、サンダルかうっすい革靴をはだしで直ばきという大変厳しい現場になっていたのだそうです。
もちろんこれも、「当時の寒さを実感していなければ中世の物語なんて再現できるわけもない!」というアノー監督のこだわりでした。実際に、監督は事前のオーディションでも、特別な暖房な医療器具などを用意しなければ撮影に入れなかった当時の大御所俳優からの出演希望の申し出を断っています。なんという体育会系な現場か!
そのほかにも、撮影中から現場で盗難事件が続出したという、中世伝統の技術で製作された100% 本物の羊皮紙による宗教書、日常の小道具、門を装飾する聖邪さまざまな偶像彫刻など、この映画の背景美術に賭ける気合いは生半可なものではありません。
でもそれは、すべてに万全を期すつもりではあったものの、スケジュールと予算の都合でアノー監督がしぶしぶセットに入れてしまった「中世らしくないある彫像」たった1つのために、映画公開後に全世界から2000通ほどの抗議を受けてしまったというエピソードが示すとおり、『薔薇の名前』という世界的なベストセラーの満を持しての映画化、そして、現代の西欧諸国の共通のルーツと言ってもいい世界を描くということの重大さを十二分に理解した上での、製作スタッフ側のプロとしての覚悟のあらわれだったのです。このくらいに規格外な執着を持たなければ、名作は生まれないんですねぇ。
これは、人をアッと言わせるミステリー小説ならばよくあることなのかも知れませんが、衝撃のトリックというものはフタを開けてみれば意外に単純明快なものが多く、映画『薔薇の名前』の連続殺人事件の真相も、観る人によっては「えぇ~、そんなことで殺すの?」「オレだったら、その凶器にはひっかからないけどなぁ。」などという思いをいだくものであるかも知れません。
しかし、とてつもないスタッフたちの気合いと役者陣の本気によって映像化された中世修道院の世界のリアルさは、そのあたりのフィクションの荒唐無稽さを見事にカヴァーしてあまりある魅力に満ち溢れているのです。ミステリー映画でありながらそこだけに頼らない別の見どころをふんだんに用意している。その大盤振る舞い感が、いいんですよね~。
映画『薔薇の名前』は、やっぱりいい!!
ところで、アフレコ映画になったもうひとつの理由としては、あの修道院セットがイタリアのローマの市街地から車で10分ほどの距離しかない場所に建てられていたために、近くを通る高速道路の車の音がうるさくてしかたなかったから、ということもあったのだとか!
えぇ~、あの現場、そんなに現代っぽい場所だったんすかぁ!? 完全にだまされておりました……あんな映像の雰囲気を見たら、そりゃあもう山の中の電気もひいてない陸の孤島みたいな土地しか想像できませんよね。役者の皆さんはローマのホテルからあの修道院にかよっておられたそうです。意外と都会っ子。
ウソの世界をウソっぽくなく作り上げるのがフィクション。こんな基本中の基本を楽しく教えてくれるのが、この映画『薔薇の名前』なんですね。おっもしれぇなぁ~、やっぱ!
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