長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

全国城めぐり宣言 第18回(たぶんそのくらい) 「備中国 経山城」かぁらぁの~「備中国 鬼ノ城」!

2013年04月03日 22時34分52秒 | 全国城めぐり宣言
《前回までのあらすじ》
 岡山県岡山市での演劇鑑賞にかこつけて、2ヶ月ぶりの城めぐりとしゃれこんだそうだいが今回挑戦したのは、岡山市に隣接する総社市(そうじゃし)に屹立する謎の巨城・鬼ノ城(きのじょう)!
 だが、しかし。どストレートな3.5キロもの山道の徒歩に早くも足腰が悲鳴をあげまくりだったそうだいの前に立ちはだかったのは、鬼ノ城とはまったく逆の方向を指す「← 経山城」という魅惑的な看板。
 なめるなよ!? たとえこの両の足が粉砕しようとも、「鬼ノ城だけを見て、要件だけ済ませたらちゃっちゃと下山する」という選択肢は、このワシには、ない!!(ちょっと頭をよぎったけど) 夕方まで時間はたっぷりあるんだ、ここまで来たら寄り道しまくってやろうじゃねぇかァア!!
 誰が聞いているわけでもないのにそう息巻くそうだいだったのだが、今回の鬼ノ城にまつわる「寄り道」の数と規模において、この経山城はまったくの序章に過ぎないのであった……



 それではまず、私が急遽むかうこととなった、鬼ノ城の「お隣さん」経山城と、その最後の城主となった武将・中島元行についてのあれこれをまとめてみましたので、ちょっと見ていただきましょう。


経山城(きょうやまじょう)とは

 吉備高原の南端に位置する経山(標高372.7m )の山頂付近に存在した、東西70m 、南北120m を城域とする小規模な城郭。北には新山(にいやま)・岩屋山・鬼城山(鬼ノ城)など標高400m 級の山が連なり、山頂部からは南に吉備総社平野が一望でき、西には高梁川(たかはしがわ)を視界に捉えることができる。背後の各峰は平安時代には山岳仏教の霊場であった。そして、近接した南のこの山に多数の経塚が築かれたことに由来して「経山」「経山城」と呼ばれた。
 この城は、天文年間(1532~55年)に大内義隆によって築かれたと、江戸時代に編纂された記録集『古戦場備中府志』に記されている。のちに毛利氏の所領となり、元亀年間(1570~73年)に毛利氏の重臣・小早川隆景の命により当時の城主・中島大炊介(おおいのすけ)元行が城郭を修築した。毛利氏の東部の押さえとして、この城は重要な位置をしめていた。
 この城をめぐる攻防戦は大きなものは二回あったとされ、第一回は天文十二(1543)年。この時期には播磨国守護・赤松晴政(はるまさ)の軍勢との攻防が熾烈を極めた。当時、大内義隆と出雲国守護・尼子晴久との激突はいよいよもって激しくなり、大内義隆は領国七ヶ国の軍勢十万を率いて出雲国の富田城を包囲した。備中国からも多くの兵士が出陣していたため、この隙をうかがい侵入を開始してきたのが播磨国白旗城主・赤松晴政であった。晴政は重臣の浦上宗景、宇喜多興家(おきいえ 直家の父)らを派遣し攻撃の陣を進めていたが、その最中に京の将軍・足利義晴から晴政のもとに三好長慶・細川氏綱らを討伐せよとの命が下ったため、赤松勢は撤退を余儀なくされた。
 ついで第二回の合戦は元亀二(1571)年、尼子家が兵一万で城を攻撃したものを城兵数百が撃退したと伝えられるのだが、戦国大名としての尼子家は永禄九(1566)年十一月にすでに毛利家の総攻撃によって滅亡しており、その残党も永禄十三(1570)年二月の布部山合戦で大敗を喫していったん壊滅していたため、実際にその規模の戦闘があったのかどうかはあやしい。
 廃城の時期は定かではないが、天文十(1582)年の備中高松城水攻めの後に羽柴秀吉と毛利氏が和睦し、それを機に経山城は宇喜多氏の領地となって家臣の延原土佐守秀正(ゲーム『信長の野望』に登場する延原弾正忠景能の一族)に与えられたが、おそらくその直後に城は破却されたと思われる。 ※『日本城郭体系』(新人物往来社)の記事などより

 現状は登城道が整備されており、比高も低く容易に城跡まで到達できる。登城口から15分ほど登ると城の主郭部分に到達できる。
 経山城は、山頂部に方形の主郭(東西40m 、南北30m )を置き、西から南側にはLの字状に最大幅15m の帯曲輪(おびくるわ)が二段もうけられている(二ノ段と三ノ段)。この外側三ノ段には空堀と土塁の遺構が残り、また主郭南端の切岸(きりぎし 人工の崖)部分には石垣(野面積み)の遺構が残存している。主郭の東から北側には中曲輪(東西40m 、南北40m )・北曲輪・東帯曲輪が配置され、北曲輪にも石垣の遺構がある。また、北曲輪はなだらかな尾根が続く北面防備のために、土塁の内側に「武者隠し(むしゃがくし 城兵側からの奇襲用の塹壕)」の機能を持つ空堀(箱堀)を設けていた。城の外側一帯には「犬走(いぬばしり 防御兵用の通路)」がめぐらされ、南西側には虎口(こぐち 城の出入り口)がある。それぞれの曲輪のあいだには1~3m の段差があったとみられる。
 曲輪、空堀、虎口などの遺構は比較的明瞭に残るが、石垣の遺構は破却されたため、所々に残存している状態である。それでも曲輪の配置や規模、戦国時代の山城の縄張り(建物や障害物の配置)がよく見て取ることができる。


 
中島 元行(なかしま もとゆき 1552~1614年)

 中島元行は、戦国時代の武将である。備中国賀陽郡阿曽郷(現在の岡山県総社市黒尾)に存在した経山城の城主。通称・大炊介。備中高松城城主・清水長左衛門宗治(むねはる)の娘婿で、従弟でもあった(元行の母は宗治の叔母)。父は同じく経山城主だった中島輝行。嫡男は中島義行。

 中島家は藤原南家工藤氏の末裔で、鎌倉幕府の政所別当・二階堂氏の子孫にあたる。
 室町幕府第10代将軍・足利義稙の近侍であった二階堂大蔵少輔政行のとき、義稙の命により備中国地頭として中国大名・大内義興(義隆の父)の家臣となった。初め備中国浅口郡片島(現在の岡山県倉敷市)の中島城に在城したため中島と改姓した。後に賀陽郡阿曽の経山城の城主となり、政行・氏行・輝行・元行と四代にわたって支配した。元行の父・輝行(1528?~67年)の代になると、備中国支配から撤退した大内家にかわって勢力を拡大した毛利家の傘下に入ったが、輝行は備中国松山城主・三村元親(もとちか)の同盟軍として参戦した永禄十(1567)年七月の備前国明禅寺合戦で宇喜多直家に敗れて討死した。
 中島元行は義父で従兄の清水宗治とともに毛利家一族・小早川隆景の配下となった。元亀二(1571)年には、経山城に籠城して尼子家の残党と交戦している。
 天正十(1582)年、織田信長の命により中国方面軍を率いる羽柴秀吉が備中国に侵攻し、備中国高松城は包囲された(備中高松城水攻め)。このとき、中島元行も副将として城主・清水宗治とともに籠城し抗戦する。この際には高松城の二ノ丸を守備し、何度も秀吉軍の陣地に攻めこんだ。宗治の切腹を条件に秀吉との和議が結ばれた後、元行は宗治の遺言により宗治の嫡男・五郎左衛門景治(かげはる)の後見となる。経山城は和議の条件により宇喜多領となったため、中島家は清水一族ともども旧領を去る。
 その後、豊臣政権下で大名となった小早川隆景が筑前国名島(現在の福岡県福岡市)に移ると、清水景治と元行、元行の嫡男・義行は隆景に同行する。元行は隆景から、時に家臣達に軍談を話すように命じられるなど、その扱いは特別なもので、清水家と共に手厚い待遇をうけていたという。
 隆景が死去すると小早川家を去り、清水景治は毛利輝元に仕え、元行と義行は備中国賀陽郡刑部郷小寺村(現在の岡山県総社市小寺)に戻り帰農した。さらにその後、義行は慶長五(1600)年の関ヶ原合戦後まもなく松平越前少将秀康に仕官し、家督は義行の嫡男・昌行が継いだ。
 元行は慶長十九(1614)年一月に死去、墓は備中国報恩寺(同じく総社市小寺)にある。当時の戦乱の模様を今に伝える軍記『中国兵乱記』は後年に中島元行が著したものである。

ゲーム『信長の野望』シリーズでのだいたいの評価
中島元行(『蒼天録』『革新』に登場)…… 政治・知略 54、統率・武勇 62、特技 弁舌
中島輝行(『蒼天録』に登場)    …… 政治・知略 34、統率・武勇 40、特技 城郭の改修
清水宗治(シリーズのほぼ全作に登場)…… 政治・知略 28、統率・武勇 71、特技 浪人の登用など


 まぁ、こんな具合なんですけどね。『信長の野望』関連はご愛嬌ですけど、要するに戦国武将としての中島家は全国的な知名度は親戚の清水宗治にだいぶおカブを奪われている現状なんですな。ところで、実際に経山城を上にあげたような戦国時代仕様にモデルチェンジしたのは息子の元行のはずなのに、なんで親父の輝行の特技のほうが「改修」になってるんだろうか……これぞ『信長の野望』名物、ざっくり采配!!

 上の説明に即していいますと、今現在もうけられている経山城の登城道は城の裏手に当たる北側から、なだらかな経山の尾根づたいに登っていくルートになっていまして、北曲輪、中曲輪、主郭という順番に山頂へ登っていくことになります。

 さぁ、それでまずは、鬼ノ城へ続くアスファルトの車道をそれて、道の左側にある登城道に入っていくわけなのですが……あぁ~、やっぱり傾斜はさらにキツくなりますよね~……だって、人間専用の登山道なんですもんね~。

 ところが! いざ覚悟を決めて登ってみますと、これがなぜか、これまでの道に比べてだいぶラクなんですわ! どこからどうみても急斜面の階段がところどころにある未舗装の山道なのに、なぜ?

 そう、この「未舗装」っていうのが決め手なんですよね~!
 未舗装とはつまり、アスファルトではなく秋の落ち葉が降り積もった柔らかい土の道であるということ。これ! この道の柔らかさが、安全ブーツごしの足のひらに非常にやさしいんですねぇ~!!
 もちろん、木の杭で組まれた階段やすべりやすい斜面の連続ではあるんですが、この着地点の衝撃吸収性が、足にかかる負担をだいぶ軽減してくれているんですね~。こいつぁありがてぇや!

 ……とは感じたんですが、尾根づたいに登るということは、いったんある山の頂上に登ってから、またさらに高い山に向かって登っていくということになります。
 「えぇ~、また登ってくの?……しかも、あの100メートルくらい向こうにある山に行くんだろ。カンベンしてよ……」
 山登りというものは、目標点である頂上が見えなくても疲れるし、見えても疲れるものは疲れる! どっちみち気楽なレジャーにはならんのね。
 ともかく、尾根になってだいぶ道の傾斜は楽になりまして、ついでに先ほどのおじさんの予言はさらに現実のものとなり、空は風がやや強めに吹き渡る快晴に変貌! いえ~い、あたしゃあ運がいい☆

 そして、尾根を渡りきるとそこは……うむっ、城があったともにわかには信じがたい、ただの山? ともかく先に目に入ってくるのは自由に伸びまくった木々のみで、何の変哲もない自然の山のようにしか……

 いやっ、よく地面を見てみろ!! なんだあの段差は、あの落とし穴のような窪みは!? そして、若干くずれつつも確かに残存している、あの立派な石垣は!! 立派っつったって、たかだか高さは2メートル弱くらいだけど。
 間違いなく、ここは城郭だった……どうやら、登山道沿いの整備以外には、廃城となった1582年いらい、実に500年以上の長きにわたって放置され続けているようで、日を追うごとにわずかずつ、まさに「磨耗」というべきゆるやかなスピードで経山城は母なる山に還りつつあるようなのですが、逆に言ってしまえば、それくらいの歳月、その地に住む者のなくなった現代においてさえも、経山城の当時最新鋭の縄張りは原型をとどめているのです。これは貴重だな~! 後世の人間の開発や自然災害で跡形もなく消滅してしまっている名城も無数にあるというのにねぇ。
 天文年間の築城で改修1回、そして1582年に廃城したというのですから、長くても50年ほどしか存在していなかった経山城であるはずなのですが、その10倍の時間が経過していてもしっかりその痕跡を残している……ロマンだなや~!!

 はっきり言って、この経山城は城域70m ×120m ということで、あの「備前国府」岡山城(城域1km 四方!)はもちろんのこと、清水宗治のいた備中高松城(城域100m ×300m )にくらべてもだいぶ小規模な城郭であり、広さだけを見れば、どちらかというと「城」というよりも「砦」に近いようなスケールに見えます。実際に、その地に立ってみると非常時でない時期にも城主の中島一族が年がら年中住み込んでいたとはとてもじゃないですが信じられない狭さと不便さがあり……おそらく、平時には城内の人員は必要最小限におさえられており、城主ら重臣一同はふもとの総社平野のどこかに屋敷をかまえていたのではないのでしょうか。

 ところが! この経山城を「城」たらしめているのは、まさにその狭い空間に石垣、空堀、土塁、虎口、切岸、犬走り、武者隠しと、これでもかというほどにテンコ盛りに満載された非常時用の高スペックの設備の豊富さで、情報の正確さに若干の不安は残るものの、赤松家、尼子家という2度に及ぶ大軍の来襲をはねのけた実績にも大きな説得力があります。まさしく「戦国時代の山城の教科書」みたいなお城なんですね。これはもう、今回、「天気が良くて、かつ木々の葉がまだ生い茂っていない春先」という、城の構造を見るには最高の季節に訪れたということに感謝せずにはいられないでしょう。ラッキーだったなぁオイ!

 ただしなんとも無念なのは、この経山城にとっての「最終決戦」となるはずだった備中戦役において、最終的にやっぱり規模の小ささがネックとなったためか、城主の中島元行が「経山城の放棄」を決断し、義父・清水宗治の加勢のために一族城兵をあげてふもとの備中高松城にうつっていってしまったということでしょうか。しかし、今までの攻撃軍とは比較にならないスケールで迫り来る織田政権の中国方面軍に対して、もし仮に籠城したとしても経山城がどれほど持ちこたえられたのか……やはりこれは、兵力を高松城に集中させた中島・清水ペアの策のほうが的を得ていたということなのでしょう。

 結局その後、中島家に代わって経山城を受け取ったという宇喜多家武将の延原秀正が城に移ったという記録もなく(秀正の居城はだいぶ遠い備前国赤磐郡にあった)、おそらく秀正は「不便」と「戦略的重要度の低下」という理由から、さっさと使えるものだけを移転させて経山城を廃棄させてしまったかと思われます。
 かつて大内家、毛利家の「東の国境防衛ライン」として重視された経山城ではありましたが……それだけ時代が変わったということなんですなぁ~。まさにこれは、「峻険な戦闘要塞」から「交通便利な政庁」へと、日本の城郭の重視すべきポイントがシフトしていった典型的な例かと思われます。勉強になるなぁ~オイ!

 さて、ついに城の主郭、つまり経山の頂上に立ってみますと、まぁ~見事に360°がステキなパノラマになっていました。とにかく南には総社平野、はるか南東には低い山に囲まれた備中高松城のあるべき高松盆地が見えます。それらのさらに南は……あれっ、もしかして海? 瀬戸内海!? じゃああれは、四国かよ! ウヒョ~、すげぇな、こりゃ!! 私は生まれも育ちも山形盆地の人間ですので、なにはなくとも海を見ると興奮してしまうのです。しかも、それに加えてまだその土を踏んだこともない四国島を目にしてしまったんですから……ヒエ~、三好 LOVE♡  こういう絶景が楽しめるからこそ、汗かき苦労して挑戦する山登りはいいんですよねぇ。
 そういった遠景も素晴らしいのですが、今現在、経山城の主郭のすぐ南に位置する二ノ段・三ノ段区域には高さ50m はあろうかという鉄塔がそびえ立っており、ぶっとい電線ケーブルを東西の山々にわたしています。
 このケーブルがねぇ、城の魅力とはぜんぜん関係ないんですけど、強風にあおられて「ギュヴ~ン、ギュヴ~ン!」っていうものすごいうなり声をあげているんですよ! う~ん、かっこいい!! なんか、ひとりで荒城を探訪している孤独感をあおってすごくいいですね。
 あのケーブルにつかまって、下の山までジブリアニメ的な要領ですべっていったらラクだろうなぁ……って思うけど、実際にやったら地面が50~100メートルくらい下なんだから……っていうか、一瞬で黒焦げになるか手がすべる摩擦で……ギャ~!! バカバカしい妄想は広がります。

 すがすがしい気分でミカンをつまみながら、視線を逆方向の北の吉備高原にめぐらせますと、北東の方角にはドド~ンと、今回の私の本来の目的であった、あのお城が!!
 これみよがしにそびえ立つ、日本の戦国時代のそれとはまったく建築様式の違う、異様な外観の城門と城壁!
 経山城のある経山の標高は372.7m で、鬼ノ城のある鬼城山は標高397m だそうですから、ほぼ私の目の高さの延長線上に目指す鬼ノ城はありました。経山城からのアングルはほんとに絶好の角度ですよ! まだ午前中だということもあってか、城門付近に人影は見当たりません。

 あれが鬼ノ城か……天気は快晴ですが、背後から聞こえる電線の「ギュヴ~ン、ギュヴ~ン!」といううなりがいやがおうにも、これから「鬼の城」に乗り込んでいくという雰囲気を盛り立ててくれます。

 っていうか、遠いな~……鬼ノ城は明瞭に見えるわけなんですけど、あれは直線距離にしても1キロはあるんじゃないだろうか。それをいったん経山城を下りてから、また鬼城山を登っていくっていうんだからよう……そりゃ山的には「お隣どうし」だけどよう!

 ここでちょっと整理しておきたいのですが、ここまできた時点で、私の中には2つの大きな疑問が浮かび上がっていました。

1、どうして経山城ほどの小規模な城郭にも、これほどまでにふんだんに石垣が使用されているのか? 東北地方生まれの私にとっては、この石垣の投入量はちょっとありえない。例えば、私の実家に最も近い城郭である「羽前国長谷堂城」は経山城よりも規模の大きい山城なのだが、石垣はいっさい使われていない

2、どうして鬼ノ城のような広い土地を持った山が近隣にあったのに、戦国時代の大名たちは狭い経山の方を城郭に使用したのか?

 この2つの疑問なんですが、これらは次第に、実際に足を使って探訪することによって、おもしろいように氷解していきました。それはまた後ほどの話なんですが、やっぱり「現場百遍」の精神は大事ねェ~!


 さてこのとき、経山城主郭跡に到着した時刻、午前9時。JR 吉備線の服部駅を出発したのが7時30分でしたから、1時間半かけてここまでたどり着いたということになります。だいたい5~6キロくらい歩いたことになるのかなぁ。

 うん、うん。ポテンシャルの低い私の体力にしては、けっこういいペースなんじゃないだろうか。このままいったら、いくらしんどいといっても、もしかしたらお昼過ぎくらいに鬼ノ城探訪は終わるかも知れないぞ。こりゃあ、夜のお芝居鑑賞までだいぶ時間が余っちゃうな~。どうやって時間をつぶそうかナ~♪

 山道がつらい割には予想以上にスイスイ進む探訪に、思わずそんな楽観的な気分におちいる経山城山頂の私だったのですが……


 あまい!! その思惑は森永マミーなみに甘い。

 それはもう、他ならぬ私自身とその両足が、これから身をもってじっくり味わっていくのでありました……
 なんてったって、「正体不明の鬼の城」なんですからね。そうは問屋が卸すかっつ~の!

 まさに鬼ノ城。そのスケールと厳しさ、そして悠大さは、文句なしの「鬼」だった……鬼パねぇ!!
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2013年3月度版 そうだい短期観測調査(そうだい短観)

2013年04月01日 23時14分40秒 | 日記
 みなさん、どうもこんばんは~。そうだいでございます。今日も一日お疲れさまでした!

 あの~、どうでもいいつぶやきなんですけど、「エイプリルフール」っていう日のことが怖くて仕方がないのって、やっぱ私だけですかね……
 なんかねぇ、だまされるかもしれない一日っていうのをまったく楽しめないんですよ、いつまでたっても! なんか、だまされることが嫌なんじゃなくて、その可能性を考えながらお仕事をしたりするのがなんかしんどいの。そして、最終的に誰もウソをつかなかったまま日は暮れて、「これぞ独り相撲」な疲労感をかかえて帰宅するという。
 バレンタインデーに結局チョコをもらえなかったなんていうのは完全に想定内だからたいしたことないんですけど、エイプリルフールは無差別だからなぁ。パソコンからでもラジオからでも、どこからでも襲いかかってくる可能性があるワケよぉ! でも、さすがに JRとかの公共交通機関がウソをつくことはできないかな……外国だったら笑って済ましてくれる国もありそうだけど(イタリアとか?)、日本じゃあまだまだムリだろうなぁ~! 今日も通勤しながらちょっと期待しちゃったじゃねぇか、コノヤロー!

 っつうことで、今日もこのまとめコーナー。


 2013年3月の『長岡京エイリアン』全10回。ラインナップは以下のようになりました。

全国城めぐり宣言
 備中高松城(書いてねぇっつうの!)
 備中国鬼ノ城のとっかかり
日本史好きがこじれるとこうなる
 勝手に大河ドラマ『洛炎戦国記』メモ(3クール目でまだ途中)
観たお芝居について
 ℃-ute主演『さくらの花束 さくらん少女』
 東京で観た3公演のまとめ
好きな人について
 俳優・納谷悟朗、死す
 ミステリー作家・今邑彩、死す
最近のつれづれ
 岡山に行ってきますの弁


 なんだかんだいってやっぱ3月は忙しかったのか!? 読んだ本はたったのこれだけ。

伊藤計劃  『虐殺器官』(2007年)                       早川書房ハヤカワ文庫
        『メタルギアソリッド ガンズ・オブ・ザ・パトリオット』(2008年)角川書店角川文庫
仁賀 克雄 『ドラキュラ誕生』(1995年)                    講談社現代新書  


 んも~電車通勤が眠くて眠くて……ぜんぜん本が読めませんでした!

 伊藤計劃さん、やっと読めた! そして、期待値を軽々と跳び越えてむ~っちゃくちゃおもしろい!!

 伊藤計劃という小説家はすでに2009年に34歳という若さで逝去されているのですが、出版デビューしたのが癌闘病中の2007年ということで……遺された長編作は3作しかないのですが、とにかく一文一文にこめられた魂の濃度がハンパない!

 これが死を「知った」人間の強さなのかと……
 残された私たちに託された課題は、死を知らずしていかにこの気合いに伍する生をおくるかということ。それが伊藤計劃さんに対するせめてもの礼と供花になるんじゃないのでしょうか。

 今月も楽しく全力で! がんばんべ~や~☆
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