・神聖ローマ帝国-1 古代ローマこそヨーロッパ人の理想https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/533c7414e9fa85b426143633f15f6078
・神聖ローマ帝国-2 『古代ローマ帝国の留学制度』と『ローズ留学制度』『フルブライト留学制度』
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/b9e783d4c5789e5a08f347e2241ab12a
・神聖ローマ帝国ー3 欧米人は古代ローマと神聖ローマ帝国(ハプスブルグ帝国)が大好き
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/b03362e35f9c226b7d9c4df7cff0dc73
・神聖ローマ帝国ー4 バチカン・ローマ教皇との関係-1
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/14d5a2bcbe5310633350895b9b96c6c4
からの続き
古代ローマ帝国とバチカンの関係を簡単にまとめると次のようになります。
・313 コンスタンティヌス帝 キリスト教公認
帝都移転 ローマ→コンスタンティノーブル(現イスタンブール)
『コンスタンティヌス大帝の寄進状』帝国西半分をローマ教皇に寄進
・391 テオドシウス帝 キリスト教国教化
キリスト教は飛躍的に発展、なかでも使徒の長であったペテロ殉教の地に建
てられた『サン・ピエトロ大聖堂』が揺るぎない地位を築く
・395 古代ローマ帝国東西に分裂
・476 親衛隊司令官オドアケル(ゲルマン・スキリオ族)宮廷クーデター
西ローマ帝国滅亡
・ 481 フランク人・サリ族のクローヴィス(メロヴィング家)がフランク人の各部族統一
ガリア(後のフランス)北部にフランク王国を建国(メロヴィング朝の始まり
・751 ピピン(カロリング家)フランク国王に就任、メロリング朝→カロリング朝
・800 ピピンの息子カール大帝12月25日、ローマのサン・ピエトロ大聖堂でローマ教皇レオ三世から皇帝戴冠式挙行。 事実上、バチカンによる西ローマ帝国の復活
『カール大帝は何人なのか? フランク王国内で、ドイツとフランスで出自争い』
ドイツは大帝をカール・デア・クローゼと呼び、フランスはシャルル
マーニュと呼び、それぞれ自らを大帝の後継ぎと主張。
・1273 ルドルフ・フォン・ハプスブルグが西ローマ皇帝カール大帝ゆかりの地アーヘン大聖堂でドイツ王としての戴冠式が行われる。
・1763 ハプスブルグ家・ヨーゼフ二世のローマ王(神聖ローマ帝国継承者の称号)の戴冠式がフランクフルトで行われる。 彼はハプスブルグ生んだ14番目のローマ皇帝で、18番目のドイツ王。
多くの人が勘違いしているのですが、必ずしも神聖ローマ帝国=ハプスブルグ帝国ではありません。
そもそも神聖ローマ帝国とは、962年から1806年まで844年間ドイツ王によって統治されていた諸地域の総称です。
ドイツ王がいかなる手続きもなしに、そのまま皇帝になるという習慣が出来上がったのは1508年から。」
ただ、このルドルフ一世が、同家ではじめて神聖ローマ皇帝選ばれ、後に中世ヨーロッパを支配する超巨大国家となるので、この期間は確かに神聖ローマ帝国=ハプスブルグ帝国といっても過言ではありません。
もともとハプスブルク家は10世紀にスイスで興り、1273年にルドルフ一世が同家で初めて神聖ローマ皇帝に即位し、後にヨーロッパの覇権を握る超巨大帝国へと変貌します。
「ハプスブルク家」という名は、同家の祖がスイスのアールガウ地方に築いた城「鷹の城(ハービヒツブルク城)」と呼ばれたことに由来しています。
12世紀初めにオットー2世が伯爵位を得てハプスブルク伯と名乗りました。それから5代目が名前のように鷲鼻だったといわれる始祖ルドルフです。
当時の神聖ローマ帝国は、ドイツ王が存在しない「大空位時代」を経ていたので、ドイツの有力諸侯は、裏から帝国を操ろうと考え、当時はスイス地方の一諸侯に過ぎなかったハプスブルク家のルドルフ一世を大抜擢したと言われています。
1278年、ルドルフ一世は自分の神聖ローマ皇帝即位を認めなかった「オットカール二世(オタカル二世)」を『マルヒフェルトの戦い』で破り、オーストリアの地を得ました。
領邦国家である神聖ローマ帝国は一つの統一された国家では無く、○○公とか△△公とかの集合体で、アメリカ合衆国が50州にそれぞれ分かれて独立しているのと似ています。