日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

世界観について

2024-03-23 17:17:07 | 日記

 最近、スピノザの本を読み始めた。スピノザは、神は世界だと言う。私もそう思う。もし、神が全能であれば、今あるこの世界が神が作った全てだろう。世界には、善と悪がある善悪二元論のようなものの見方があるが、世界には善も悪もなくただ世界があり、そこに人が善や悪を人の価値観から、見方からそう言っているだけだろう。世界は、人に対して関心はない。ただ、存在する。そういうものだと思う。
 読んでいて思ったのだが、デイヴィッドソンのスリングショット論法と世界観が似ている。スリングショット論法は、世界の真理は、グランドファクト、偉大な事実のようなものが一つある。どういう真理かというと、京都は大阪の北にある。これは真理だが、同時に京都は大津の西にある。同時に、京都には漬物がある。これも真理だ。延々と続けていけば、京都は大阪の北にあるという真理と同時に、あらゆる真理をつなげても、それは真理である。いつか、全ての真理が網羅され、真理かどうかは、それに含まれるか否かとなる。
 世界の真理が一つなら、神が真理なら、世界は神になるだろう。キリスト教でも、キリストは貧しい人、そこにキリストがいるというような言い方があったと思うのだが、もっと広い範囲であらゆるところに神があり、神でないものがない。
こういう世界観の方が、人間にそっくりな神様がいると考えるより神様っぽい気がする。
 しかし、この神は人間に対して興味をもつような人格的な存在ではないから、人を助けてくれたりはしないだろう。まだ、スピノザは読みかけなので、また感想を書こうと思う。
 


だらだらとした一日

2023-11-26 17:28:39 | 日記

  一人でひまな時間を過ごす。休日になってすることは飯を作ることくらい。それ以外はだらだらと過ごしている。
充実した一日と、だらだら過ごした一日、どちらも同じ一日、どちらが良いのだろうか。
  やること一杯の一日はしんどい、だらだらは楽、どちらが価値があるのだろうか。人生、全体についても、同じことが言える。だらだら過ごす人と、やること一杯の人、人と人の比較は難しい。自分の体験だけで比較しても、どちらが良いのかよく分からない。
  そもそも、価値というのは利用価値や交換価値を価値と言っているが、人生や、時間について利用価値とか、交換価値ということは成立しないだろう。自分の人生に価値があるのかとか、時々思うけど、価値とか、意味とか、人の視点、観点、ものの見方に過ぎなくて、価値、意味というものは、本当にあるのだろうか。人の見方の問題で、色があるかないかのような話で、物の方に色があるわけでなくて、例えば赤なら、人の方で赤く見えるだけのように。価値とか、意味も、一種の見方、解釈に過ぎないのであって決まったものではない。
 こう考えると、意味や価値は、実在ではなくて、一つの名前に過ぎない。唯名論の方があっていて、実在論は成立しないのではないかと思える。意味や価値が実在しないなら、何を目指して生きているのだろうと思うが、そんな事を考えなくても生きることはできるし、考えずに生きている人の方が多数派のように思う。
 職場とか、周りの人を見ると、何を楽しみに生きているのだろうと思うことが時々あるが、そういう見方をする方が少数派のような気がする。これも、意味を問うていることになるが、意味を問うことは止めることができないのだろう。


存在と本質について 感想

2023-06-03 16:18:01 | 日記

存在と本質から見る中世の形而上学(本間裕之)https://www.youtube.com/watch?v=wEQCaZb2kVY&t=1151s

ユーチューブで上の動画を見た感想です。直接、動画の内容と一致しないですが、漠然とこうなんだろうなと思っていたことを、少し、まとめてみました。

 存在と本質では、言葉の意味は違うように思う。存在は、あるということ。本質は、物事の核心、その物事がまさにそうだと言える性質だと思う。存在はあるということだが、何があるのかを考えると、そこには本質がからんでくる。存在は一つしかないと考えると、本質と言う言葉の意味も通常使っている意味とは違った感じになるだろう。世界に存在する物や物事は、実は一つしかなくて、世界には区分なんてなく世界そのものが存在するだけで、個物なんてものはない。こう考えると、そこの本質は、世界そのもの区分がないただ存在することになるだろう。

 世界の中には、いろんな物や物事があると考えると、個々のものが存在している。個々の物や物事があると考えると、個々を区分することが必要になる。動物と人は違うとか、人は動物の一種で、猿と人は違うとか、存在する物についての種名や名前が必要になるだろう。そうすると、名前に相応しているものは何か、それが本質になる。

 本質が定まれば、定義されると、そこに物が存在することになる。そう考えると、存在と本質は同じ物であり、物事の表裏、見方の違い、表現の違いのように思う。

 存在と本質が違うと考えると、本質は概念やイデア、形相なのだろうと思う。概念、イデア、形相が先にあって、そこに存在を与える一神教の神がいる。この考え方は、ユダヤ、キリスト教と相性が良いように思う。ただ、イデア論を信じることが出来る人であれば問題ないが、本質は存在と別にあると考えることは難しい。

 唯物論的な考え方に慣れていると、物があって、名前があって、正しく名前を呼ぶことが出来るなら、その物の本質をその人は理解していることになるだろう。物を名前で呼ぶことが出来るということは、物の存在を信じていて、また本質を理解していることになると思う。分ける意味はないように思う。本質があるが、存在がないもの、空想上の物だとか、歴史上の出来事とかこの場合の存在は、実在ではないとも言えるが、出来事は実在のとりようによっては実在であるし、空想上の存在も実在ではないがある意味で存在している。例えばアニメのキャラクターとか、ポケモンとかは現実に見ることもできるが空想ではある。本質があるものは、何らかの意味で存在がある。どんな意味でも存在しないものは、本質もないだろうと思う。

 

 

 

 


愛車のスターレット。

2023-05-04 21:02:05 | 日記

  愛車のスターレットを手塗りで全塗装した。初めて新車を買ったのがこの車だ。これ以前は赤のファミリア、いすゞのジェミニを中古で乗っていいた。ファミリアは特に思い入れのあった車で、今でも手放さないでもう少し乗ったら良かったと思う。パワーも今の車に比べると、全然ないけど、赤のファミリアってその当時は人気があって、自分が買った時はそのあとだったけど、それでも気に入っていた。

  スターレットは、自分が就職して失望の内に退社し、無職を経験して再就職して、結婚前に、初めて買った新車だ。この小さな車で家族で、信州、島根、いろんなところへ旅行に行った。ベビーシートに乗せた子供も大学生になり運転免許を取った。その子供が初めて乗る車になった。もらい事故はあったけど、人に迷惑をかけることもなく、無事にこの車を就職とともに私に返してくれた。

  廃車にしょうかと思ったけど、この車が動かなくなるまで乗ってみようと思う。どこかで、故障したら、ぶつけたりしたら、交換部品もなく修理できなくなるだろう、その時まで乗ることができれば、この車は最後まで乗ることができたと思えるだろう。

  

 


最近、不思議に思うこと。

2023-04-02 17:18:06 | 日記

  YouTubeを見るのだが、ウクライナの戦争でロシアの戦車やヘリコプターが爆発する動画、塹壕にドローンから小さな爆弾を落とす動画、多くの人が死んでいる。爆散する戦車の中には人がいると思うが、その人にも家族がいるだろうし、その人の人生には子供時代もあっただろうと思う。大人になって何をしようかと考えていた時期もあるだろうに、突然に戦争が始まって戦車に乗っていたら死んでしまう。この死に意味があるかと言えば、侵略戦争の一端を担ったことだろうか。とても理不尽な気がする。

  一方で、ベースボールをTVで中継していたが、一人で何千万ドルというような金額をもらっている。どうして、意味もなく死んでいくような人がいる一方で、一人で一生かかっても使いきれないようなお金をもらっている人がいるのだろうと思う。無駄死にと思われるような人が世界にはいる一方で、何十人分かの人生で稼ぐようなお金をもらう人がいる。このことは、ベースボールに限らないけど、この違いは何なんだろうと思う。そんなに人に違いがあるのだろうか。

  自分が置かれた位置は、偶然にここに生まれてきただけで、そこで生活するのも自然なことだ。自分の努力で、金を稼いでいると言うことだと思うが、自分の努力の結果で何十人分の人生で稼ぐお金を得ることがある、言い換えると相当することがあるのだろうか。

  なにかがおかしいと思うのだが、どこがおかしいと言えば良いのか分からない。