日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

追悼

2011-09-30 02:05:54 | 日記
   私のよく見ていたブログの作者が亡くなられたことが今日わかりました。
   このことは、なんとなく作者の詩の内容から予感していたことでした。ブログの更新がないので、少なくとも体調が相当に悪いのだろう。ブログの更新がいつかされる日を待っていたのですが、今日、更新があり彼が亡くなられたことを知りました。
   黙祷という行為の意味がこれまで、私には正直よく分かりませんでした。何故、皆が黙って祈る。そのことにどのような意味があるのか。私にはこれが理解できなかったのです。
   今日、黙祷の意味が分かったような気がします。私が彼のためにできることは、彼を記憶する他に何もないように思います。
 そして、私は彼が良い世界へ旅立ったと願いたいこのことが黙祷の意味でないかと思います。
   私は、宗教を信じないのですが、このようなときにこの世界と異なる世界で平和に過ごされること、そのような世界の存在を信じたく、また希望します。
   彼が、生き関係し、彼が創造した世界は、この世に、彼に関係した方々に多くの波紋を生み出したと思います。
そのうちのほんの一部を、ブログの世界でのみ私は垣間見たに過ぎません。それでいて彼のブログを訪問した時には、美しい映像と音楽、そしてユーモアのきいた彼自作の詩これらが私を驚かせ、楽しませました。
   彼の世界は、私の言葉の世界と大きな隔たりがあり、私が作り出すことができない言葉にユーモアがありました。毎日、彼のブログを見ること、これが続いたことは楽しみであり、私の小さな幸せでした。
   私がブログを始めたから頃から、幾たびかコメントをいただいたのですが、私のブログを読んで下さる方がいることを知り、それ以来記事を書くことにも読者がいること。私の私的なブログであっても公開すること、この意味を考えるようになりました。
(その時にいただいたコメントは残念ですが、消してしまいました。何となくですがコメントが残っていることが気恥ずかしいと言う気持ちがあり消してしまったのです。彼に褒めていただき私が返答したやりとりでした。)
 
   この記事を書くことは、私の気持ちの整理のためです。彼のブログの存在があったこと。このことを記念しておきたいからです。
   私のブログは、文字だけで構成していたのですが今日は、ここに曲を残したいと思います。曲はエドワード・エルガー作曲のエニグマ変奏曲よりNimrodです。この曲を見つけたのは、この9月の偶然の出来事からです。この偶然にも不思議さを感じるほかありません。彼の好きな音楽と私が好きな音楽がとても似ていたことも私が彼のブログを敬愛していたひとつです。彼がこの曲を気に入ってくれればと思います。
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/sUgoBb8m1eE?rel=0" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
 

父と子の対話 労働者の賃金について

2011-09-17 11:02:17 | 子との対話
   福島原発では今も、労働者が日給8千円程度で働いているよ。
   それに比べて東電元社長の退職金は5億とも10億とも言われているよ。
   何でこうなるの。どうして福島原発で働く労働者は、個人の危険手当をピンハネされて日給が8千円というようなこと起きるのだろう。
   この労働者が低賃金であるのは、何故か。それは労働者に教育がないからだ。
   教育がないから、抗議ができないの。
   抗議ができないから賃金が安いのでなく、その仕事しか労働者が選べないから。他に仕事がないからだ。
   労働者に教育があれば、仕事を選ぶことができる。その教育を十分に受けることができなかった人の賃金は安く評価されるということだ。
   賃金の評価は、xという人にfという機能をかけたところで評価される。xという人は変わりがないとしても外に表示される機能fによって、人はそのxを判断してしまう。
   人を雇用するときには、xそれ自体を見るような時間はない。fという機能に着目してその人が出力する力に期待をする。
   だから、fが東京大学卒業と○△高校卒業とでは期待がかわってしまう。fは1個だけでなく、たくさんのfがf’f’’としてその人に表示される。弁護士や何かの資格があればf’になって、f・f’(x)という具合になる。学歴がない人は、違うfを表示して学歴以上のものがあることを示す必要がある。だから、fはその人を文字変換するように、fが高い評価があれば、xという個人を高い評価へと変換するんだよ。
   このfの評価が低い人は安い賃金しか得ることができない。
   ただ、実際に仕事をすると、標準的なxという人でなく、Xという個人の能力が、期待されているxと比較して低い場合は、係数として0.5(半人前)や必要な数を係数としてかけることになる。そして出力された仕事があまりよくなければ、その人は首になってしまう。
   だから、fだけが高い評価があってもXという個人の能力が低ければ、結局は評価はされないよ。
 
   でも、東電の元社長は、退職してハワイに行ってたらしいよ。
   5億の退職金で福島の人がハワイに行くのが本当じゃないの。
 
対話はここで終わり。
   東電元社長というfは、5億円に相当するのだろうか。  原発多重下請け構造の下で、使命感をもって仕事をされている労働者への評価と比べると全く不当だと思う。東電の元社長の5億円は、彼の後始末をしている今後何十年と続く後処理を行う労働者が得るべきものではないか。なぜ、彼は退職金をもらう権利があるのだろうか。

スイスの気象台の放射能拡散予測

2011-09-11 11:50:02 | 原発問題
ドイツの気象台の予報がなくなって困っていたのですが、スイスの気象台が予測を公表してくれています。
 
日本で外国の予報をあてにしなくてはならないとは変ですが、気にされる方は利用してください。
私は、風向きを見て、窓を開けっぱなしにするか、洗濯を外で干すか決めています。
福島の原発は完全に収束したわけではなく、今後予想外の展開になった時、いざという時に日本政府は風向きを公表しない可能性があるので、風向きが分かるサイトを押さえておくことは保険になると思います。
リンクがうまくできていないかもしれませんが、コピーで対応してください。
 
スイスの気象台のページです。
 
 
 

唯私一人ということ

2011-09-11 07:46:04 | 日記
   前回の「父と子との対話」に続きとなるが、唯私一人ということを考えてみたい。
   世界に、私は唯一人である。私という独自性、置き換え不可能性は比較するものがない。
   そして私は、世界の中に生きつつも、世界と交渉しつつも、唯一人である。誰かと会話をしている時も、唯一人である。話相手がいて、一緒に暮らすことができることは、私にとって必要なことだ。普通の意味で無人島で暮らすように、また多くの人の中で暮らしつつも私一人であるならば、私は健全な精神が保てないとも思う。
   それでいながら、私はいつも一人だと思う。私は、私という窓から世界を覗いているのだが、また世界を聴いているのだが、家族とおしゃべりをする風景においても、私は直接に家族である他者を知ることはできない。私は、私の窓から世界を眺め、その中で活動をしているが、直接に他人の窓を覗くことはできない。皆が他人の窓を覗くことができるのであれば、私は唯一人であると言わなくてもよい。
   このこと、唯一人の私の絶対性、このことから私には特別な地位が、他人とは異なる地位が、私にとって与えられていると言ってよい。他者の死は、私にとって風景である。しかし私の死とは、当たり前だが私の消滅、私という窓から眺めた風景そのものの消滅であり、唯私だけが行いえることである。そして、逆には、この風景の存在は一重に私という存在にかかっている。この点で私が生きることは、ひとつの風景、世界の存続がかかっている。この意味で私という存在はかけがえがない。
   このかけがえのない私ということ、存在を考えるとき、私ということ自体に、寂しさがある。何故ならば、私は単数形であり、まさに一人であると感じるからだ。そしてこのことを感じない時は、私は社会の中で充実している時間であるのだが、この時に私は、私であることを単数形であることを忘れている。この時の私はややこしいが、私達という複数形、もしくは自意識が欠如へと変化しているように思う。私が、私と言わずに行動しているとき、例えば料理を作っているとしてもいいのだが、この時に私という意識は、私にはない。私は、塩が足りているだろうか。よく焼けただろうかと考えるだけである。このような時間においては、私は忘却され、その行動の中に埋没しているように思う。この時に、私は寂しさを感じることなく、自意識の欠如(私という主張のない状態)の状態になる。皆で料理を作った場合には、私達という意識が後発的に生じるように思う。その時に、私が一人であることを忘れている。日本人は、この皆で料理を作った。私達の意識への帰属がとても強い。そこで、私がという言い方が好まれない。
   この私達という構造、私には時間があると、すぐにテレビをつけることが癖になっているような感がある。旅行先に行っても、旅館かホテルであればテレビがある。家と違うことをするために旅行に行っているのだが、ついテレビをつける。私が何故、テレビをつけるのか。私が一人であることを忘却するために、気づかせないために私は、そばにテレビを置き、本を読み、誰か他者がそばにいるかのような幻想を頼りにする。
   しかし、テレビをつけても私が一人であることには変わりがない。テレビも、しばらくすれば飽きがくるし、その時には消す。この時に、私が唯一人であることに気づき始める。誰かがそばにいれば、一人じゃないという考えの人もいるだろうが、テレビがそばにあり、そこから映像と音声が聞こえればそこに人がいると考えるだろうか。私が唯一人であることは、私のそばに実際に人がいても、それは私が覗いている窓の映像と音声であるということ。直接にその人と感覚を共有することはできないということだ。私は感覚の共有が直接にできないからこそ、そこに人がいることを確かめるために会話をし、感覚の共有を言葉によって間接的に感じている。会話が必要であることこそ、私が一人である証拠でもある。
   私達ということは、共感というものの中に私の寂しさを忘れさせるが、やはり私が唯一人であるということ、寂しさそのものを解決することではない。
   私が唯一人であることを考えることは、私を考えることであり、寂しさが何であるかを考えること。私の自由というものは、この寂しさの中に存在するように思う。

父と子の対話

2011-09-10 12:29:51 | 子との対話
夕食時の会話。概ね、このとおり。
 
父(私)
   学校の平均点など気にしなくていい。周りの点数など気にしなくとも、唯私一人が点数が良ければよい。
   私一人の点数がよければそれで良いという言い方は駄目だ。学校では皆が点数がよくなることが良いことであって、私一人が点数が良いということは、反感を買う言い方だ。
   勉強とは一人でするものだ。私が努力をし、私の点数を上げることについて何らやましさはない。私が影響を与えることができるのは、私の点数であって、皆の点数ではない。皆の点数は、個々の人が努力をすることだ。
   先生の視点であれば、皆の点数が上がることが良いことだが、私からは私の点数が上がることが良いことだ。私の点数が上がることで他人の邪魔をするわけではない。間違ったことを言っているのではない。
   同じ事象であったとしても、日本人的な表現では、「私の点数が良い」という表現はよくない。先生によっては、きっと何か言われる。こういう時は、「がんばって勉強しました。」と言うんだよ。
   「1000人の人がいる。このうち、500人を助けるためには500人を殺さなければならない。」と言うよりも、
   「1000人の人がいる。このうち、500人を助けるために500人の人が死ぬことができる。」
  同じ500人が死ぬことについて、このように言うことができるんだよ。
   同じ事象を言い換えることによって、良く見せたり、悪く見せたりすることは良い表現とは思えない。むしろ、このような表現の中にはおかしさがないかを考えることだ。
   日本人的な表現としては、私は他人の言葉の言い換えを見つけることができ、私は他人に対して言い換えを十分に発揮できる。これが良いことだね。
   .....。