今年も残すところ少し、あと会社に行くのも何日とカウントダウンに入っている。毎年、この頃の寒くなる感じと、年も終わりという感じが好きだ。正月になっても何をするわけでもないのだが、時間が多くできるので読書もできるし、まあ無駄に時間を過ごすという感覚も悪くない。
この無駄な時間というものだが、時間を大切にするとかよく言われるが、何が大切にしたことになるのか分からないところがある。毎日かつかつに生きていれば時間を大切にしたことになるのだろうか。それとも、何もすることがなく、時間が過ぎていくことに注意する。前者は、時間が過ぎていることにさえ気がつかない、時計を見ると、もうこんな時間かという感じ。後者は、数を数えて時間が過ぎるのを待つ感じ、珈琲を蒸らすのに20秒を数えるが中々時間が過ぎない感じが近いか。
時間が過ぎるのに気がつかない時は、充実している場合が多い、何かに充実していれば時を大切にしたことになるのか、この考えでいくと生産性が最大に発揮された時、最高に時間が大切にされたことになる。時間あたり単価というような経済学的発想だ。
一方は、時間自体に注意しているが、その分何もしていないので、生産性は最低だろう。そういう意味では、休暇のようなものだ。
時間は、大切にする意識があろうがなかろうが等しく過ぎていく。そしてその時間で何をしたかを問うことが、時間を大切にすることの意味なのだろうが、何をしたとしても等しく時間が過ぎていく、このことの絶対性は確実だ。何をしてもなのだが、何かをしたから、大発見や社会の役にたつことをしたとしても、何もなすこともなく終わったとしても時間は絶対的に過ぎていく。この点はあらゆる人に平等だ。ちやほやされる人もいれば、人から搾取された人もいるだろう、しかし、終わりの時は等しく人にある。それがいつかは誰にも分からない。
後から、人は時間を大切にしたか考えるのかもしれないが、どのように評価すれば良いのだろうか。子供のうちに不幸にも亡くなる人もいるし、高齢で亡くなるかもしれない。その、それぞれの時間をどのように考えれば良いのか。
私に分かっているのは、ただ等しく時間が流れていくということだけである。充実した時間、充実していない時間、何かをなした時間、何もなさない時間、これらは皆、等しく時間である。
この誰にも等しい時間を過ごし、生がある。このことの意味、大切に過ごした時間、大切に過ごしていない時間、そのようなものは、本当はないのだろうと思う。