世界の中でいる私、そして世界は私であると考えている私。
前者は、世界内存在である私。世界内存在というとき、その世界は私が理解している。私の立場で見ている世界だ。世界は私の外には共通するひとつの実体として存在しているように思えるが、実際には人々は世界を立場、立場でしか理解することができない。
私が世界内に存在することは確かだが、その世界は私の世界(私という視点・視点というよりも光景の全てが私であるのだが。)内に存在する。
この世界は、私が体験しているこの世界は、日常性においてはハイデガーの言葉によれば*非本来的と呼ばれるものだが、私には世界を本来的と非本来的の二つに切り離した世界観はやや共感しにくい。世界は、むしろ常に非本来的であり誰も本来的には生きていない。(それゆえに、非本来的な生き方をする人を世人とハイデガーは呼んでいるのだが。)
この生き方を非本来的な生と考えるならば、これに共感せざるを得ない。無知は幸せという台詞がある。私たちは、何かに繋がれているのではないか。そしてこれに気がついていないのではないか。私が見る世界は、私という経験・人格フィルターを通して世界を眺めているのだ。このフィルター自体が何かに繋がる鎖であれば、私はこの鎖を見ることはできない。私は、何に繋がれているのか結局は見ることができないのではないかと思う。
本来的に自問して、何が見えるのか。非本来的な生を眺めることによって何が見えるのだろうか。この眺めから得た、反省をもとに自分の可能性を切り開くが、そこにはまた違う眺めがあるのだろうが、この鎖から、違う場所へと鎖を繋ぎなおしているだけではないかとも思う。この意味では、非本来的と本来的には、おおきな違いがないようにも思う。
カッコウは血を吐きながら歌を覚えると、ゴーシュはそれを聞いて自己を見直すのだが、非本来的と本来的はそのようなものか。とも思う。
*注 非本来的とは、普通の人々が暮らしている生き方である。映画を見て、テレビを見て、仕事をして、子供や親の心配をして、自分の髪が薄くなってきたことを心配して暮らす生き方そのものである。
本来的とは、こんな生活が本当の私のあるべき姿なのだろうかと自問する生き方である。ややこしいことにハイデガーは、普通の人が普通に生きている状態を非本来的と呼んでいる。