日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

存在と時間 読書メモ2

2012-12-28 19:22:07 | 日記
  世界の中でいる私、そして世界は私であると考えている私。

  前者は、世界内存在である私。世界内存在というとき、その世界は私が理解している。私の立場で見ている世界だ。世界は私の外には共通するひとつの実体として存在しているように思えるが、実際には人々は世界を立場、立場でしか理解することができない。
  原発推進派と反原発派が見ている風景は同じ世界ではない。世界は人により異なって見えるのだ。
  私が世界内に存在することは確かだが、その世界は私の世界(私という視点・視点というよりも光景の全てが私であるのだが。)内に存在する。
この世界は、私が体験しているこの世界は、日常性においてはハイデガーの言葉によれば*非本来的と呼ばれるものだが、私には世界を本来的と非本来的の二つに切り離した世界観はやや共感しにくい。世界は、むしろ常に非本来的であり誰も本来的には生きていない。(それゆえに、非本来的な生き方をする人を世人とハイデガーは呼んでいるのだが。)
  ただ、久しぶりに映画のマトリックスを見ていて気がついたのだが、世の中の人々(世人)は、マトリックスに繋がれていながら、それに気づかないで機械の電池として死んでいく。
  この生き方を非本来的な生と考えるならば、これに共感せざるを得ない。無知は幸せという台詞がある。私たちは、何かに繋がれているのではないか。そしてこれに気がついていないのではないか。私が見る世界は、私という経験・人格フィルターを通して世界を眺めているのだ。このフィルター自体が何かに繋がる鎖であれば、私はこの鎖を見ることはできない。私は、何に繋がれているのか結局は見ることができないのではないかと思う。
  本来的に自問して、何が見えるのか。非本来的な生を眺めることによって何が見えるのだろうか。この眺めから得た、反省をもとに自分の可能性を切り開くが、そこにはまた違う眺めがあるのだろうが、この鎖から、違う場所へと鎖を繋ぎなおしているだけではないかとも思う。この意味では、非本来的と本来的には、おおきな違いがないようにも思う。
  カッコウは血を吐きながら歌を覚えると、ゴーシュはそれを聞いて自己を見直すのだが、非本来的と本来的はそのようなものか。とも思う。

*注 非本来的とは、普通の人々が暮らしている生き方である。映画を見て、テレビを見て、仕事をして、子供や親の心配をして、自分の髪が薄くなってきたことを心配して暮らす生き方そのものである。
本来的とは、こんな生活が本当の私のあるべき姿なのだろうかと自問する生き方である。ややこしいことにハイデガーは、普通の人が普通に生きている状態を非本来的と呼んでいる。

存在と時間、読書メモ

2012-12-23 09:20:32 | 日記
  ハイデガー存在と時間では、現存在(人間のこと)は、世界内存在だと言っているのだが、これを分かりやすく言うと、現存在(人間(今ここにいる自分のこと))は、「世界の内に居る」と、「私は世界の内にある。」と言っている。
  今ここにいる自分が、世界の内に居るのは、今ここに居るのだから当たり前、ではここで言う世界とは何かが、問うべき対象に思う。
  世界内という世界は、私の世界であって天文学で言う宇宙の広がりのような世界ではない。むしろ、趣味の世界やオタクの世界という場合の世界の方が意味合いが近い。私という経験、人格が理解している私の在り方が私の世界を規定している。このような意味で私は世界内に居ている。
  この点では、ウィトゲンシュタインが世界は私であるという趣旨の発言をしていることと類似している。(厳密には意味は違うのだろうと思うが。)
もし、私が世界の限界であるならば、私が世界の内にいることも当然だろう。
命題論理風に言えば、xが存在するならば、それは世界の内にあるxである。
xには私を代入して、関数であるfの性質は、世界の内にあるという性質。
これが分かりづらい人には、fの性質が父ならどうだろう。f(x)は父である人が規定される。xが私なら父という立場での私が規定されている。
ところが、fが「世界の内にある。」という性質が何かを語っているのかと言えば、命題論理では何も意味しない。xが存在するとしか言えないし、それがどんな存在であるのかとは何も言っていない。
  そういう意味では、「世界の内にある。」という時の関数であるfは、もっと「オタクの世界の内にある。」とか、「職業上の立場としての世界の内にある。」とかいうような理解が必要だろう。
  そうでなければ、xを想定している時点で、xが世界の内にあることは想定済みであるし、ウィトゲンシュタインが言うように世界の外にあるものなど、誰も理解できないし、想像さえできない。

命題論理と全然、そして「やばい」

2012-12-08 10:19:02 | 子との対話
父 やばい、やべーとか言う表現、かなりやばいよね。何が言いたいのか。
子 少し、上から目線が入っている冷笑的な感じがするね。本当に否定の意味で使っている人っているのかな。
父 ルパンが銭型の父っあんに捕まりそうな時、やばいだろ。ほんとは、全然やばくないんだけど。オリジナルはこの使い方だよ。
子 やばいって全然を肯定に使っている人の言い方に似ているね。
父 いや、全然を肯定の意味で使うのは全然OKだけどね。論理的には、全然良い。全然悪い。言い換えると全て良い。全て悪い。どちらも問題ないね。レトリックとしても面白いんじゃない。
子 やばい。というのは、全然形容できないようなことを形容する時に使うのよ。
父 それ、かなりやばいね。形容できないようなことを形容する形容詞だよ。では、「やばい」はどうなるの、形容詞じゃないの。
かなりやばい状況を形容する形容詞だと思っていたんだけど。やばいでも形容できない時は、超~やばい。激やばす。それよりやばい時は鬼やばい、鬼鬼やばいってなるのかな。
子 言っている意味が分からないの、それとも、ふざけて言っているの。
父 いや、論理学では、自分を含んだ言及をすると、パラドックスになる。という話があるんだ。曖昧という言葉には曖昧な定義しかないし、厳密には厳密な定義がない。
形容できないことを形容する形容詞って上手くこのタイプの自己言及の文になっているんだよ。
「曖昧という語は曖昧である。」は、真でいいだろ。
「厳密という語は厳密である。」これが駄目なんだよ。厳密は、実際は曖昧な言葉なんだよ。自己言及をするとおかしいタイプの語があるんだよ。形容できないことを形容する形容詞なんてものを認めると、神様が怒っちゃう。
「この願いを叶えないで下さい。」って神様に頼んでいるようなものだね。一体どうして欲しいいんだよ。こんな願いないあるよ~。て言いたいね。
形容はできないと言っておきながら、形容できるんだから。Aでない。かつAと言っちゃってるんだよ。
これが、矛盾なんだけど。面白くないある?。
子 やばいね。


*曖昧と厳密は野矢茂樹さんの「論理哲学論考を読む」からの引用です。

勝手に解釈、論理哲学論(考)

2012-12-04 07:06:58 | 日記
世界は、事実の集まりであり、事実は命題によって表される。

命題とは、○○は××である。という形の表現だが、この表現を積み重ねることによって、事実の表現がなされて、世界が表現される。

命題の存在は、論理的に可能な世界を前提としている。たとえば、ポチは犬である。このことから、ポチという個体の存在、犬という種の動物の存在、また犬の存在から犬でないものの存在が前提となる。
そして、ポチは犬であるという命題の真偽は、ポチが猫につけた名前であれば偽となる。命題の真偽には、どちらであろうと価値はない。真偽のどちらかに分類される。偽であれば、事実認定に誤りがあったに過ぎない。真偽自体に価値があるのではなく、価値はポチ自体にある。

命題は、ポチが存在する。そしてポチは犬である。と分解できる。そしてこれ以上分解できない要素になった命題に真偽があり、この真偽の結果がポチは犬である。の真偽を決定する。
世界を表現する命題は、このような命題の積み重ねだ。もし、すべての要素からなる命題を表現できれば、世界は記述される。(無理だが。)

命題が世界を表現するのだが、命題が○○は××である。という形式を持つことは、世界に与えられたものではない。この思考の形式は世界の外側にある。
思考の形式である論理は、世界の中にあるのではない。例えれば、論理が世界を見る目であれば、目は自分の目を見ることができない。論理は自身を対象にすることはできない。論理は、ただあるだけだ。
どんな時にも、必ず真となる命題がある。この命題の形式は○○は○○である。当たり前だ。単語の意味を調べた時に、気がつくと元の単語に戻ることがある。愛=人を好きになること。好き=人を愛すること、辞書を引いていると行き当たる。これは、世界を正しく表現すると、必ずこの形式に行き当たるということだ。

世界は、こうして見ると難しくない。○○は○○であるだけだ。一方、常に偽となる命題もある。いわゆる矛盾だが、これは○○は○○でない。犬は犬でない。というような表現だ。これも当たり前だが、世界を正しく表現できていない時の表現は、これになる。何を言っているのか分からない人がいるが、その人の表現はどこかで、このような構造が仕組まれている。普段は、そのおかしさに気づかないかスルーしているだけだ。むしろ、おかしさや笑いはこの矛盾する命題を是認し、そこから成立している。

私が世界を覗きこみ、世界を命題として捉える。世界を命題として捉えぬことはできない。世界を理解するということは、、言語化しそれを理解するということだ。言語の仕組みそれ自体に論理が仕組まれている。そして、世界を言語外で理解することもできない。(感動することはできるだろうが。)世界を理解し、語ろうとする時、言語の内で行う他ない。私が思考する限界は、私の言葉である。
そして、私は論理に従い言語を使用し、世界を記述するのだが、世界の中には価値はない。世界に存在するのは、○○は○○だ。という当たり前の事物に出来事が存在するだけだ。この出来事は、そのままにあるだけで、犬が犬であることに価値はない。ポチが居て初めて価値が存在する。ポチに価値を与えるのは世界ではない。ポチに価値を与えるのは、この世界の外に居る私だ。
そして、世界に意味(価値)を与える。命題に意味を与える。○○は○○だ。と言う私は世界の理解者であり、世界の価値創造を一身に担う者である。これは、誰かに頼むことはできない。
この意味では、世界は私が命題として記述し、そして世界に意味を与える。世界は私そのものであり、私は世界である。

この独我論的世界観、社会と反することはない。誰もが、同様に世界であるならば、他者の世界を尊重しなければならない。
この他者の尊重は、世界を記述しても現れはしない。何故、他者の世界を尊重しなければならないか。
これは、世界の外側の話である。だから、世界の側からは、現れない。この倫理は、私の内から現れる。
私とは、この点では世界を超えた存在である。世界<私。

これは、ウィトゲンシュタインの論理哲学論(考)を読んでのまとめです。
勝手に解釈しているので、テキストの正しい理解と異なる可能性ありありです。そして、私なりの世界観も表現しているのでオリジナル変形しているでしょう。また、この話の延長を書こうと思います。