日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

将来

2011-11-27 09:56:02 | 日記
    「お前たちの将来は暗いぞ。」と子が通う中学校の先生が言うそうだ。
   これだけ聞くと、すごいことを言うと思うが、続いてよく勉強しろよと言うそうだ。確かに、私の子の世代の将来が明るいという展望はない。
   私自身の給料も下がり始めて何年が経過した分からない。そういう世の中になったということだ。
 
   この前の政策仕分け(提言型)では、生活保護受給額が最低賃金を上回っていることを理由として、生活保護受給額の引き下げを提言していた。ニュースでは、生活保護受給者が、最低賃金や基本給の引き上げを要望したインタビューを紹介していた。生活保護受給者の主張では、生活保護の受給額が高いのではなくて、最低賃金や基本給が低すぎるという主張だったのだが、民主党の考える方向性は全く逆の結論だった。この提言は、未来を提示している。
 
   放射能は、日本中に大量に吐き出された。そしてこの拡散もまだ止まっているわけではない。拡散した放射能は今後、何十年、何百年の影響をもたらすだろうし、他の原発がいつ事故を起こすかは確率的問題になった。事故は起きないわけではなく起きると考えざるを得ない。この確率も、東大教授が言う巨大隕石が落下する確率よりは、遥かに高いものであることが破滅的結果を経てやっと分かったのだが、単純に考えて、原子力利用を人類が始めて以来、人類は既に3度の破滅的な事故を招いている。
   私の世代では冷戦下による核戦争の恐怖というものが、漠然と世界を覆っていたが、現在では、身近に撒き散らされた放射能、再度の事故の恐怖、風評被害を名目とした情報統制が日本を覆っている。
   スーパーで買い物をすれば、きのこ類に放射能検査済みのシールが付いていた。私自身、事故以来キノコを買わなくなっていたのだが、気にする人は多いのだろうし、全く気にしない人も多い。全く気にしない人からすれば、風評被害なのだろうが、危険性が分からないものは全て排除という選択は、調査能力に限界のある気にする方の個人としは当然の選択だと思うが、結果として世の中は気にする人、しない人に二分された感がある。 気にする側に立つ私とすれば、スーパーでの買い物ひとつで不便になった。買い物では、放射能を含有しやすいものは買わない、産地は確認してから買う。
   今の日本で生きていくことは、放射能をどの程度避けるか、どのように金回りの良い方に回るか、それを自己責任の名のもとに選択をしていくことになる。
 
   私の子が言うには、原発を続けたい奴はバカだ。何故分からないのだろう。この点では私も全く同感だ。
   そして金を儲けをしたいそうだ。世の中には、お金を持てない側とお金を持つ側の2通りあって、お金を持つ側にまわりたい。中学の先生の発言も基本的にはこのことを敷衍して勉強をしろと言っているものと思う。
   このことについての批判は可能だが、私にはこれに代わるべき案はない。私としては、金儲けよりも好きなことを見つけそれを続けることができる人になってもらいたいのだが、私自身がこれに成功していないので説得力がない。
   そして、これが、大人自身が自らの行動に既に懐疑的であること。単純な世界観の提示ができないことが、私の子の世代の将来が暗いという原因、先の見えない未来でもあると思う。

時間というもの

2011-11-13 08:43:56 | 日記
   先日、久しぶりに駅前を通りがかった。以前にあった店はなくなり、新しい店に変わっていた。ビルが丸ごと変わっているところもあった。子供の頃、母に連れられて買い物に行ったデパートは姿を消した。
   デパートのエスカレータを上る時は、自分の買い物でなくても嬉しくて、そのころの街の雰囲気そのものがときめいていたように思う。
   そういう駅前も、今は多くが姿を変えた。また、駅前に行く通りも子供の頃は細い里道であったのに、今は大きな道ができている。普段気にしていないところで変化があり、私はそれに気がつかないままに過ごし、そして時折に気がつき、何かを失くしたかのように時折に思う。
 
   私は、一期一会という言葉を単に人との出会いの意味でなく、より広い意味で考えている。
   一期一会という言葉が示すのは、私が立ち会う時間と場の全てを対象としているし、一期一会という言葉は、生が刹那であること示し、生そのものが一期一会であるように思っている。楽しい時は、その時限りであり、これを振り返る時には既に、楽しさは過去である。どのような瞬間であれ、振り返る時には過去である。全ては、その場、その時限り。
 
   私は、それでいて実生活では今という時を一期一会として意識できない。むしろ、時間を意識している際には、未来の時間を目標に今を過ごしているように思う。いいことであれ、悪いことであれ、未来のその瞬間が到来することを意識し、その準備を今しているのだ。月曜日が始まれば、土日の到来を待ち、1日が始まれば仕事の終わりの時間を待つ。労働は私生活とは分離している。私生活が私の時間という風に考えると、時間の質は分断されている。この時間の捕らえ方は、学生時代から同様であり、私的時間と公的時間の分断が習慣化し、生活に染み付いている。時計やカレンダーを見ると、時間の到来を指折り数えている。
   私は、今を生きるのだが、未来と過去に目を向けて生きている。私の思考は、過去と未来に向かう性質を持ち、今を思考しない。また、今を言葉にしろと言われても、漠然として今としか言えない。私が今を言葉に直す時、その時には、言葉にした対象の時間は経過している。例えば、私が自転車に乗って風を切るとき、その瞬間が今なのだが、これを言葉に直した時には過去である。言葉によりすくい取ることできる時間とは、現在を対象としていても、言葉にした時にはその瞬間は過ぎ去っている。
   楽しいという言葉を発する時、私は楽しいのだろうか。本当に悲しい時は、私は言葉を発するのだろうか。この言葉は気づきによって発せられる言葉であるが、この言葉を発した途端に悲しみや楽しみの瞬間は過去になる。
(一方で、憎しみの言葉を吐き出す時、悲しみの言葉を吐き出す時、その感情は増幅するようにも思う。憎しみの感情が言葉によって、対象を明確化し、明確化した言葉を対象として新たに憎しみの感情が生まれる。このことは、むしろ言葉が感情を再現し、反復することによって現在を生み出しているように思う。言霊という言葉があるが、言霊とは、このような言葉の反復による感情の増幅と固定化から、その力を生み出しているように思う。)
 
   一期一会とはこの言葉を発する前の瞬間、その時々の言葉によらない世界の捉え方のように思う。言葉で過去をすくい取るならば、一会は複数回の解釈をもって理解し語ることができる。本来、一期であるとはすくい取れない時間であるからこそ一期であって言葉による反芻ではない。
   私の時間は、全て一期であり、私の空間は全て一会のものだと思う。このように考えると一期一会の言葉は、平常の時間と空間に還元され、特別なものでもなく、当たり前のことを言っているだけ、私の解釈も意味を失うようにも思う。
   事実、私は、私の時間と空間は一期一会ということを意識しないままに暮らしている。充実した時間、知らぬ間に時間が過ぎた時には、一期一会は意識できないが、一期一会を体現したように思う。このように時間を過ごした時には、私は時間を振り返ってもあまり記憶がなく、振り返った時には、何かが面白かったように思うのだが、結局、何が面白かったのだろうと感じている。
   私には面白かったことは記憶できないし、一部に残った記憶も言葉である。多くの面白かったことは記憶されないままに過ぎ去っていく。このように考える時、一期一会と言う言葉が頭に浮かんでは消えている。