旧約聖書を読んでいるのだが、多く民族皆殺しのシーンがある。女、子供問わずに神の命令で殺してしまう。大洪水の際にも、箱舟に乗り込んだノアの一族、一組の生物の他は皆殺しになる。
神が全能なら、皆殺しにしなければならない行為を、何故、放置し悪事をさせるのだろうか。神が全能なら注意すれば悪人も自主的に言うことをきくと思うのだが。自主的にきいてもらう事は、神では説得にならない強制となってしまう論理的不可能になるということなのだろうか、説得ということが出来ないのだろうか。
皆殺しにされた民族は、先にイスラエルの土地に住んでいたからとか、理由があって殺されてしまうのだが、それは死なないといけない悪事なのだろうか。乳呑み子を含めて罪があるのだろうか。旧約聖書を信じている民族なら罪を認めるのかもしれないが、一方的に殺される側は違う信仰を持っているんだけど議論の余地なく罪ありとされる。乳呑み子は、同じ民族ということが殺されねばならない罪なのだろうか。全能なら助けることも出来ると思うけど助からない。
罪ということは、旧約聖書を信じているかいないかで評価が全く変わる。旧約聖書に書いてあることが正しいと信じるかは、結局それを読んだ人の判断なのだ。信じると信じない、異なる判断と一方の判断は、決して交わらない。信じる側は、信じないという選択枝を許すことが出来ない。信じないを許すこと=信じないことになるからだ。だから、信じる人が皆殺しをしない理由(行為の是非を疑うこと)がない。信じない人は、信じる人の存在を許すことが出来る。信じることを信じていないから。だから、議論にならない。信じない民族が旧約聖書の中で皆殺しに会っても、良い悪いの議論にはならない。一方には、神の前に良いという結論しかないからだ。
旧約聖書が誤りだとは思わない。当時のイスラエルの人々の文化が反映しているのだろうと思う。現在、皆殺しを神が命じたと信じる人が現れたら、どうやって説得すれば神が命じていないと理解してもらえるだろうか。神が選んだ人以外は皆殺しすることが神の命令であることを反証する方法は論理的にはないだろう。神学的に異端と言っても、信じている人をいかんとも出来ないだろう。旧約聖書の時代も、必死に何とか皆殺しを止めさせようと努力、説得しようとした人もいるかもしれないけど、そういう人は石打の刑にされたのかもしれない。この旧約聖書の時代に、「汝の敵を愛せよ。」という人がいたかもしれないが処刑され、歴史に残らなかったのかもしれない。
旧約聖書の世界には、敵という概念が存在する。敵と味方、善と悪、二元論的なものの見方をしているのだけど、神の愛の前で、敵っているのだろうか。汝の敵を愛せ。と言う神と同じ神と思えないのだが。
人間の不幸の始まりは、敵という概念を生み出したことだろうと思う。いつ、敵が生まれたのかは分からないが、洋の東西を問わず敵はあって、漫画の世界でも敵が必要で鬼だと退治されてしまう。子どもの頃から、ずっと敵がいるわけだから、二元論の考えはなじんでいるのだろう。
この概念を壊す事が出来れば、世界は変わると思うのだけど。