日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

手料理

2016-03-21 16:08:36 | 日記
  今日は、朝から花粉症ぎみなので、一日家にいる。スーパーに行って、晩御飯の用意にブリのあら、大根、蕗を購入した。蕗は筋を取るのが面倒なのだが、この季節の食べ物なので買ってきた。お揚げといっしょに炊いたんにする。葉は、当座煮にした。ブリは、妻がブリ大根にしてくれる。
  冬の料理のしまいに、春の料理を合わせて食べる。この時期に限られるメニューだ。
  季節感のある料理を子には食べさせたいと考えている。手をかける贅沢はするが、食材は安い時に良いものを買うよう心がけている。高いから良いものはあるが、できるだけ安いもので良いものを使う。それでも、一家4人で食べるとなると、それなりにお金がかかってしまう。
  それでも、時々、美味しいと思えるものを食べないと、季節が分からなくなる。  

写真

2016-03-20 18:24:20 | 日記
  今日、たまっていた写真のデータから印画紙にやっと印刷をした。デジカメを使っているのだが、便利なようで、データがたまる。印刷していないとパソコンがトラブルとデータが一気になくなってしまうので、時々印刷していかなくてはいけない。データで保存するよりも、印刷した方が確実に残るだろうと思う。
  この写真も、こんなことがあったと思えるのでやはりあった方がいいのだろう。うちでは、できるだけ記憶にとどめようというか、その場限りという考えがあるので、ビデオ撮影というものはほとんどない。残っているのは写真くらい。
  写真の中の子が小さく、笑っている写真があるのがうれしい。なんてことはないのだが、子が笑っているというのは、幸せな気分になれる。こういう時間をあげることができたのかと考えると、まんざらでもないなと思う。
  うちは、特に貧乏でもないが金持ちでもない。その中で、笑いながら生活できた。悲しみがあまりなかったというのは良い生活を送れていると思う。悲観すると、何か足りないものばかりだが、身近なこと一つでも良いことがあると思える。
  生活は、大きな大層な目的に向かって進んでいるのではない。何か、小さなものの積み重ねなのだろうと思う。満足だけではダメだけど、不満ばかりでもダメなのだろう。

めも

2016-03-12 15:20:20 | 日記
  下の子が来年大学受験になる。早いものだ。このブログでこの子との対話を書いてからもう5年くらいは経つのだろうか。小学生だったのが、中学、高校となり、上手く行けば来年は大学生になる。
  理系を希望しているのだが、すべり止めに文系を受けようかと言っている。文系だからダメというのではないのだが、この選択で世界が大きく変わる。私の職場でも技術系と事務系ではやはり仕事が異なるのだが、選択の度に並行世界が生まれると考えると、技術系に行った世界の軸と文系に進んだ世界の軸とでは大きな違いがあるだろう。
  子の選択がどちらが正しかったということは誰にも分からない。人は選択をした時点で、もしくは選択をしない時点で何かの可能性を捨て去るわけだ。次々とその選択の連続があるのだが、選択により自分が選んだ世界が、現れ、その世界も新しい選択によって新しい世界へと以降する。このことは、自分自身で積極的に選択をしないことによっても、それ自体が選択として世界を選ぶことになる。
  

めも

2016-03-07 06:58:18 | 日記
  「何故、神はユダの存在を許したのか。」 私は、キリスト教徒ではないのだが、西洋哲学を読んでいるとどうしても神の存在の証明とか、面白い話があるのでキリスト教の知識はある程度必要になる。
  今、ライプニッツを読んでいるのだが、彼はこの点では分からないと書いている。まあ、そういう結論になるんだろうと思うが、もう少し説明して欲しい。
  この問いが、すごい所は、何故裏切ったからではなくて、何故、存在そのものを許したのかという点が問われているところだ。
  初めから、裏切ることは神なら知っているんだから、存在を許さなければ良かったんじゃないの。ユダにして見れば、裏切るために初めから存在を許されたことになるし、キリストには存在しない方が良かったとまで言われている。私がユダなら、キリストにはそんなことは神に言ってくれと言いたくなる。
  何で、神はユダの存在を許したのだろうか。必要がないのに許したと考えると、必要が無いものって、神の予定のもとに世界を作ったんじゃないの。適当につくったらこんな感じになってしまったとでもいうのだろうか。そう考えると、人間ってあんまり神にとって関心がないのかなと思ってしまう。
  世界は何故、今の姿をしているのかと思うのだが、多分あんまり意味無いんだろうな。