日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

風評

2011-04-30 18:32:45 | 原発問題
  風評被害が今問題になっているが、風評被害の最大の犠牲者は福島周辺の子供だと思う。 
福島の学校での放射能汚染の基準については、やはり変更をしないということだ。風評被害は事実に反する理解による被害と考えるが、事実としては、確率的に子供が死ぬということだ。
  この確率は被曝する量に応じて上昇する。死について確率的な係数が、1ミリシーベルトと20ミリシーベルトだが、数量が多い方が、単純に多くの子供が死ぬということだ。誰が死ぬかは、決まっていないし、死んだ者は被曝の影響で死んだかどうかは分からない。
  これでは科学的な因果関係は立証しようがないので、死ぬ者にとっては、健康にただちに影響がないことは当然である。影響は確率的に子供の全体数に対して、数十年に渡って表れる。この影響も広域で観測しない限りは現れない。
  誰が死ぬか分からないことを理由に、また、死ぬ者が増えることは子供の全体数からみて影響がないことを理由に子供は係数を受け入れなければならない。
  福島の風評被害をいう場合には、真っ先に安全を検討すべきであるが、野菜の場合では基準値以下となったそれだけである。基準値以下よりも何もない方を選ぶに決まっている。この点で消費者は正しい選択をしていると思う。
  親の気持ちとして、子供の安全を考えるならば、基準値以下よりも何もない方を選択することが正しい。無農薬野菜を買う消費者は農薬についての風評被害を起こしているのだろうか。
  政府は学校での被曝量を20ミリシーベルトを相当程度に下回ることを予想しているが、その根拠の説明はない。文部科学省の積算を計算しても、呼吸による内部被曝と食物からの内部被曝については含まれていない。この点では、まさに子供は安全というプロパガンダによる風評被害者である。








生きる意味の意味

2011-04-30 11:14:39 | 生きる意味
  日々の生活に飽き、休みに入ってやっと一息、生活を振り返って生きる意味を考えよう。
  これまでに何度か考えたが最終的な結論は、生きる意味はない。 
  言い方を代えれば、生きる意味についての意味ある回答はない。

  生きる意味を生物が問い尋ねる。答えるのは誰か。生物が、生きることについて外部的に意味づけをしたいとすれば、非生物に答えてもらうのが簡単であるが、「意味」は言葉であり、「言葉」は人が使う道具である。人が使う道具について、人でないものに答えを求めても回答はありはしない。言葉で解答があるのであれば、それは人が生み出したものである。

  言葉として「生きる意味」は、それ自体では機能はしない。走る意味とか、食べる意味とかと違いはない。この場合の意味は走ること、食べることの目的であるが、これは個々の文脈から解答できる。しかし、生きるという普遍的な事実についての目的を生物が生物に問い尋ねてみても、私は気が付けば生存していたというだけである。

 私は、生きる意味を自身が訊ね答えることはできない。私は、生きる意味とは言葉に過ぎないことを指摘するだけだ。言葉には意味があるが対象となる事物が必要だ。言葉が持つ「音」だけで成立する意味などない。「イキルイミ」という「音」には「生きる」という事物がなければならない。「生きる」という事物は私である。生きる意味を訊ねる者がその答えという結果となる。これでは答えがないのも当然である。私は意味を訊ね続けることはできても、私が問い訊ねる限りは、私には永遠に解答が帰ってこない。
  先の「食べる意味」のように目的としての意味とは異なり、私が私に生きる意味を問い訊ねても、目的としての意味は帰ってこない。むしろ、この場合は私が意味を付与せざるを得ない。だから私が訊ねている間に意味が帰ってこない。
  生きる意味とは、対象としての事物としての意味しか有さない。食べる意味であれば、生存を維持するためであり、会話を楽しむ契機であり、食べることを楽しむ(食べることに苦しむ)こと等々であるが、生きる意味の場合には、何々のために食べるという食べることの上に位置する目的としての意味がない。
  誰でも、目的としての意味を生きることに付与することはできるが、それは食べる意味に目的としての意味を付け加えることと同様であって、その人の理解に過ぎない。
  生きる意味の場合は、食べる意味よりも、皆が共通して意味として了解される目的が現代では喪失している。そこで、普遍的に生きる意味を問い訊ねても見つけることはできない。問い訊ねてる限りは、見つからない構造は先のとおりである。
  私は、「食べる意味」とは食べることを楽しむ(食べることを苦しむ)という、食べる行為自体が意味であると考えているが、「生きる意味」についても同様に生きることを楽しむ(生きることを苦しむ)という生きる行為自体が意味と思う。生きるという行為に、後から目的を付与してみても、それはあとのせに過ぎない。

  生きる意味の対象は、生きること。生きる意味は生きることの中にあるのであって他所に探しても見つかりはしない。私が、生きる意味という無色透明なものを、世界の中で探しても何も見つからない。結局は、生きることという無色透明なものに、私が色をつけ、形を持たせるない限り、意味は生まれないと思う。
  そして私自身には、その色や形は、私が生きている限り見えないと予想をしている。私が色を塗りつけている間は、そのキャンバスを眺めることはできないだろうし、私にはキャンバスを眺める視点と視力はない。この点で、自分の色と形を見ることが出来る人がいるとすれば羨ましくも思うが、私は自分自身ではそのことは信用していない。

  私は、生きること以上に生きる意味がないことを承知し、生きる。加えて言えば、私は、見聞きするものの意味を自身に訊ね、関心を持ち、それを楽しみ(苦しみ)に生きる。
  この意味では、私の生きる意味・目的は関心とも言えるが、関心は生物が生きることの最低条件であり、関心のない生物はいないとも思う。
  「生きる意味」に意味がないことを言いながら、私が生きることで、生きる意味を創出しつつ生きている。そしてその創出の姿も見ることはできない。私はこの今を意識することしかできない。
  ここから始めれば、生きる意味は、この今を意識することであるが、私は、今を意識し、生きる意味をかみ締めて生きたりはしない。
  時々に、今のように考えるだけだ。
  そして私には、生きる意味は、訊ねても経過は面白いが意味ある回答にならない。
  それでも時々訊ねる意味はあると思う。



愛それは、はかなく

2011-04-24 08:01:02 | 日記
  愛の反対は、無関心。
  この言葉での愛の意味は、関心である。関心が愛であるのか考えよう。
  知的な愛であるが、関心のないところに愛はない。
  私は、世の中の多くの出来事に関心が呼び起こされ、そしてその出来事から関心を失う。世の中に,、関心を持つべきことは多くあるが、そのほとんど全ての出来事に対して私は、参加をしない。
  テレビのニュースでは、私は一時の関心を持っても、次のニュースを聞けばすぐに関心を既に失っていく。鳥の脳みそのようだ。
  多くの惨事と慶事が世の中にはあるが、私は出来事の全てに参加することはできない。私は、傍からそれを眺めるだけである。眺めるだけでも関心があるのであり、世界に生じている多くの出来事は気が付きもせずに過ぎ去っている。
  出来事は、人が関心を持つからこそ、出来事となる。逆説的ではあるが、事件は現場で起きているんじゃない。関心があるからこそ起きているんだ。
   今、この瞬間にも、世界のどこかで、人が死んでいることだろう。今、この瞬間に、どこかの森で新しい木が芽生えていることだろう。私の態度に関係なく、物理的な現象は次々に生じていくが、それは私が参加することによって初めて出来事として結実する。その参加の第1条件が見ること、聞くことである。
  出来事の成立は関心である。見ること、聞くことのどちらにしても、関心のないことは私は見ない。聞かない。
  見ることは、目さえ開いていれば自然と見えると思いがちだが、実際に私の視野にあるのは、関心のある事物だけである。視野の中に入っていても多くの事物は実は見えていない。人の意識は正面の事物に注意を払っているだけであり、正面の事物も背景となれば見ることもできていない。探し物でも、自分の目の前にそれがあるのに、人に言われて初めて気付く。聞くことも同様に、騒音もなれてしまえば除外される。
  私に対して関心がない者から私を見れば、その者にとって私は世界の背景の一部に過ぎない。私は可能性として存在するに過ぎない。見えない事物である。
  関心とは、出来事の成立であり、一つの世界の成立(森の中で新しい木が芽吹くこと)、私の世界の成立である。私の関心で世界が次々と結実し、そして私の関心の喪失により世界は霧消する。そして、私が関心がないことは、私が知らないままに過ぎ去り消失する。
  関心は世界の成立の契機であり、世界は関心により創造され、人により語られる。
  一つの世界の成立を愛と見るならば、関心は愛である。世界の成立に人の語りは必要がないとする立場であれば、愛にも関心は必要ないだろう。この時の愛は、人が語る愛ではなく、愛の概念を超えた愛であることだろう。すれば、愛は人の言葉であるにもかかわらず、その言葉を超えた存在となり、表現不可能なものを言葉で表現したこととなり、愛は言葉の意味を失う。
  愛は、はかなく、又は永遠か。



ニュースピーク

2011-04-23 07:31:14 | 原発問題
  原発事故以来、安全が多く語られているが、この言葉の意味は逆転しつつある。安全を語ることは、危険を語ることである。健康を語ることは、疾病を語ることである。
  これまでに安全を語ってきた者は危険をもたらした。安全を語る者に疑問を持たない人は、自らに危険を受容することとなった。
  今、危難の際に安全の基準を変更し、これまで危険と考えてきた事象を安全の側に振り分ける。そこで、安全を宣言する。事象自体には変化がなく、受け止め手の考え方を変更しただけで安全となる。安全と危険の境界は確かに、受け止め手の考え方しだいである。危険という言葉は概念に過ぎない。ただそのままに事象がある。
  何故、今、安全を語るのだろうか。
  安全を語る目的を考える。社会には、一定の犠牲が必要である。これは、交通事故の死亡者と社会での利便との対比で語られるとおり。便利な社会を享受するには、確率的に死亡者が発生することを受容しなければならない。
  安全の基準を変更することは、便利な社会の維持に必要な一定の犠牲者数を変更することである。犠牲者は確率的に発生をするので、集団を構成する人員に必要な係数をかけることによって算出される。今、安全を語ることはこの係数をどの値でとるかを考えることである。
  便利な社会を享受している人、その中で係数の算定に指導的な役割を持つ者が、この係数を変更し、必要な犠牲者数を社会的に提供する。そしてその計算をする者は、自分はその母数の中には含まれないことを承知している。
  この母数の一員となるか否かは、ケースによっては自分で選択が可能である。これまで、安全を言葉の意味そのままに受け入れてきたがこれは失敗である。語られた安全について評価をしない者は、安全を語る者の目的に自身を差し出すこととなる。安全を語るものは説明をしない。これは安全を語る者の裏のメッセージである。私が提供する安全に満足できない者は自身で判断せよ。
 
愛の反対は無関心。私の子が学校で覚えてきた。
  今新しいスローガンを、安全の反対は無関心。安全は危険、真理は嘘







2011-04-17 22:50:17 | 原発問題
  今日、原発からの風が吹いている。ここ数日間、風の方向と放射性物質の状況を確認することが日課になった。
  私が住むところは、福島からは遠く離れている。それでも風の向きには注意をすることにしている。今のところ、これ以上の悪化はないようにも思えるが、最悪のケースの可能性もある。アメリカの評価は、今のところ変わらない。日本の発表よりも、アメリカの評価とドイツやイギリスの天気予報が役に立つ。
  どうしてこんなことになったのだろうかと思う。安全な原子力はどこへいったのだろうか。このことを訴えていたCMもめっきり見なくなった。CMに出演したタレントは今何を考えているのだろう。自身への信用を売り物にして原子力の信用をアピールしたのだが。タレントも原子力については、よく考えていなかったのだろう。
  多くの学者がテレビで解説をしているが、彼らは今までに何をなしてきたのだろう。本当に安全だと思ってきたのだろうか。だとすれば、バカに過ぎない。用意した答えは想定外だが、それでも責任はとらなくても良い。彼らは賢い、強いものになびいただけだろう。そして今テレビの前で説明をしている。それでも彼らに責任はない。
  東京電力の誰も責任はとらないだろう。最悪でも株主代表訴訟で個人資産を吐き出す人が数名でるだけだろう。
  今回の事故は、人道に対する罪と思うが、直接に起訴されるべき人は見出せないシステムが作られていることだろう。誰もが巧妙に責任を逃れていくことだろう。このことに責任を取れる人もいないことは、はっきりとしている。
  多くの責任は、現場で働く労働者に押し付けられるだろう。彼らが得るものは小さいだろう。彼らの健康管理は、これから国の責任で行うことが発表されたが、この記録も全てアメリカやフランスへと流れていくだろう。彼らは、初めての長期的被爆についての貴重な観察対象となるだろう。250ミリシーベルト以下で、直ちに健康に影響がないはずの直ちでない確率的影響を観察することができるのだろう。
  私は、この事故を観察しつづけているが、テレビで大きな声をしている人は言う必要がないことを言っているにすぎない。安全です。危険だから事故なのだろう。危険だから報道しているのだろう。危険を回避することを説明する人は、ネット上で個人的に発言しているに過ぎない。マスメディアとして、危険を報じることはとても少ないと感じる。危険であることを考えなかったが故にこのような状態になったにもかかわらず。
  反省のない人達は、また多くの事故を引き起こしていくことだろう。今避けることができる危機について、危険でなく安全を強調し続けることだろう。
  今、CMは普通に戻りつつある。誰も危険を感じることが少なくなりつつあるのだろう。ACのCMも役に立った。そして原子力発電のCMもいつかは戻ってくるだろう。そしていつかは原子力にも安心するのだろう。