日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

日本の道徳というもの

2011-05-26 22:33:31 | 日記
  山本太郎が反原発発言のせいでドラマから外されたとニュースがあった。彼の言動が、スポンサーの気にいらないものだったようだ。彼の言動に反社会性があるとは思えない。むしろ社会的行動の結果が干されるという状態を招いている。日本では、社会的行動は望まれない。社会的行動をする者は、活動家であり、主義者である。
  学校教育では、表のメッセージとしては、正しいことをするよう要請される、しかし、裏のメッセージでは社会的に正しい行為(おかしな校則を変えようとしても誰も相手にしない。論理的な正しさは基準にならない)をすることは望まれない。
  アメリカの映画では、一人で正義を貫き、最終的に社会の理解を得て人を助けるというパターンがあるが、日本映画にはない。日本で同じことをすると、理解されず煙たい奴という雰囲気しか生まれない。
  山本太郎は、煙たい奴の認定を受けたのだろう。一人の煙たい奴を作ることは、次の煙たい奴の発生を防ぐ効果があるのでとても大切だ。
  日本に道徳はあるが、倫理はない。日本の道徳で正義の問題はない。日本の道徳は共感の問題である。皆と共感できる、煙たくないことをすることが、日本の道徳である。正義の行いをすることは、倫理的行為であるが道徳的行為ではない。倫理的に正しくとも、煙たい場合は、日本では正義ですらない。
  日本で道徳的であることは、煙たがられないことである。この点、山本太郎は日本の道徳に反したので、道徳的制裁を受けたと言える。
  原発事故の発生は、まさに日本の道徳の中で発生した事故である。煙たい奴を徹底して排除し、冷遇をしてきた。日本は民主的国家であるので、煙たい奴は意見は言えるが決して敬意をもって遇されない。
  日本の道徳でない意見を言った者、正義を観点とした倫理的意見を言った者は冷遇される、社会は彼に見せしめとし惨めさをかみ締めさせる。そうしない者は、同罪、同調者とされてしまう。
  私の住む国は、何と貧しいのだと思う。正義についての本が売れても実践はない。正義についての講義は放送するが、正義を叫ぶものを出演させることはない。この国の道徳は、均一であることだ、大きな力に逆らわない方が良い。
  今や、大きな力が間違っていることが歴然としているのに、その力に誰も対抗できない。原発村での出来事は、日本の戦争の失敗と共通点が多い、間違いに気づいた者は沈黙させられる。皆がおかしいと感じても、力を持つ場、空気の前に誰も声が出せない。自分の利益を守りたい。そして破局となる。
  テレビでは相変わらず馬鹿な番組をやっている。
  スポンサーが提供してくれる馬鹿な番組を見るために、私は馬鹿なコマーシャルを見て、最後にはスポンサーが提供してくれる放射能を受け入れなければならない。






生きる意味3

2011-05-15 18:09:27 | 人生の意味
  人間は生物として、他の動植物よりも高い価値を持つというのは、人間固有の価値判断に過ぎない。この点では生きる意味は動植物と人間は同価値である。
  生きる意味を問うということは、このような意味を訊ねている訳でない。むしろ、生命現象から離れた、人の活動の意味を問うている。集団内での個人、世界における自分自身の位置づけ、これが生きる意味を問うことの意味である。
  私の世界、解釈の中で、私自身の位置づけ、価値が生きる意味である。自分の位置が特定できない。また位置に価値を自身で見出せないと生きる意味を喪失してしまう。
  私は、自分の世界(私が解釈しているこの世界、風景)の中で、自分を重要な存在と確かめたい。そのために、金銭、名声、地位を得ようと活動している。
  自分の世界の中で、自分を重要と認めたいがために、私と他人との比較、関係によってそれを確かめる。この行為の中に、生きる意味を見出そうともがいている。 私が世界の中で、私をどのように位置づけようと全て自由であるはずなのだが、実際には、私は社会的な価値、位置づけをすることに満足をする。(価値ということ自体が社会性が必要であり、社会性のない価値は価値が喪失していまう。)
  生きる意味を見つけようとすることは、自身の生の全体に対する解釈というよりも、この点では自身の社会での位置付け、場所取りをしようとすること、この実践、活動が生きる意味としての意味内容である。
  私の消滅によっても、私が生きてきた意味というものが残るという、この幻想、評価、私の物語を求めるが故に私の位置を求めるのだろう。
  私の信じる結果もいつかは波紋が消えるように消えいくこと、忘れ去られることは必然であるが、それでも私が解釈を欲してしまう。私が私を評価する活動、これが私の生きる意味を問う構造である。そしてその評価が私の生きる意味である。

 
 

生まれたことの意味

2011-05-08 11:17:24 | 人生の意味
「生まれたことの意味」
私の子、高校生の宿題のテーマである。詩を読んでの感想文ということだが、先週に私が生きる意味を考えた後であったので、少し驚いた。再度考えてみようと思う。

  私が生まれたことは、物語の始まり。私は自分の物語を「語る」ために生まれた。と仮定しよう。 
  私の物語を語る時、それは私が世界で体験したことから切り出した創作、私なりの解釈である。
  私の物語の全体は、膨大な事実と心象の積み重ねである。物語として語り、削り出される可能性としてはそこにあるのだが、全体としては語られることのない物語でもある。イメージ的には巨石から石像が生み出されるように、私がそこから削り出し、語ることによって、初めて形をともなった物語となる。
  この可能性としての物語の全体は、私の消滅とともに消滅をする。
  人の死は、可能性としての物語の消滅である。偉人で凡人であれ、物語として削り出されるのは、ほんの一部であり、それは創出である。どのような形であれ、物語が作品として残るのは可能性としての全体の一部にすぎない。可能性としての物語は、その人の消滅とともに消滅し、その人が秩序づけた膨大な意味、情報が消滅する。そうして無意味に帰する。
  私がこのように文を作ることは、一つの語りであるが、日々の生活の会話であっても、私の物語の削り出しである。会話は、記録されないものがほとんどであるが、一部が記憶され、記録されれば削り出された物語となる。この文がそうであるように。
  私の可能性としての物語、私が削り出す物語がいつまで続くは分からないが、私がいる限りに物語は存在する。
  人が生まれたことだけでは、意味は生まれてはいない。人は語ることによって初めて意味を保持する。人は死ぬことによって無意味に帰するが、もとよりそのような存在である。生物は、無秩序の中での連関を生み出し、そして無秩序に帰る。人もそのような在り方でしかないように思う。
  そして、このことを否定的に取る必要はないと思う。私は無秩序に帰ること、この事実に整然としてありたい。無秩序の中で秩序を作り続けることを楽しみとし、その秩序を時折に眺めたい。

  生まれたことの意味は、無意味の中で意味を見つけ、そして無意味へと帰していくことである。
  私なりの生まれたことの意味であるが、高校生は何を見つけだすのであろう。