日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

子供のスマホ

2015-04-28 09:24:33 | 日記
子のスマホの調子が悪い。扱いがぞんざいなので、子にはそう指摘するのだが、子にとっては、スマホはズボンのポケットにそのままつっこんで置く物らしい。
子が言う「いけいけ」の感じの人はそんな人なのだろう。スマホは携帯ホルダーに入れたりしないものらしい。
私にすれば、精密機械で高額な製品であるから、カバンに入れるなり、ショックを与えないことを前提に使用することを考えるのだが、子にとってすれば、それほど高額という考えがないようであるし、スマホを消耗品のように考えている。このあたりは、企業の思う壷で、消費社会に洗脳されているのかというか、消費社会に頽落しきっているのかと思う。
物を大事にしないのは、自分で汗を流して働いたり、他人に文句を言われながら対応をしたりする経験がないからだろうかと思う。
庶民がお金を稼ぐことは、自分の時間を切り売りし、他人の言うことをきいて、初めてお金がもらえるということなのだが、そのあたりがよく分からないようだ。
こんな愚痴であるのだが、消費社会で物を大切にしていない自分の姿が、子にも影響を与えているのだろう。物は大事に扱うようにしているが、どこかでぞんざいなところ自分にもあるのだろう。






堤防沿いを走る。

2015-04-18 18:16:39 | 日記
自転車で堤防沿いを走ってきた。
川の流れを見ながら、歩くような速さで進む。休日で、野球にサッカー、ラグビー、少年チームの練習がさかんだ。
いつもの風景であるが、この何年も同じ光景がある。多分、20年くらいまえから、あるんじゃないかと思う。
年々、子供達は成長し、少年チームを離れていき、また新しい人が入ってくるのだろう。
うちの子も、成長しもう少しで手を離れることになる。
今日は、日差しが強いせいか、少し疲れた感じだ、このサイクリングも暑くなれば、しばらくはお休み、また、秋になり、涼しくなりはじめたら再開になる



存在と時間からの一考

2015-04-16 07:12:22 | 日記
「頽落している自己を見つめるのが、本来的自己であるのだが、」(翻訳に、この表現はそのままはない。)というような表現は、世間の中での役割、与えられた肩書きから見た自分を、離れたところから見直す自分が、本来の自分、この本来の自分は可能性としての自分があるだが。くらいの意味になる。
多くの可能性から、今の世間の中での自分を選択している。この自分でない可能性を見ることが出来るが、本来の自分。どちらが本来で、どちらが非本来かというとアナログレコードのA面、B面みたいなもので、どちらが本来であってもいいのだが、様々な可能性を選択可能であることを認識している自分を本来的と考える。
この本来的な自分が何かというと、可能性でしかない。自分の中身は、非本来的な自分が、自分はこれだ「例えば父であり、A社のサラリーマン」と言える自分であるのだから。そう考えると、本来的な自分は、可能性ではあるのだが、空虚な自分である。自分が空虚であるからこそ、世間の中での役割に没入してしまう。いわゆる会社人間が生まれたりするのは、可能性でしかない自分というものは何者でもないから、そのことを認めたくないのだろうと思う。
可能性である自分には、自分をある分野に投げ出す勇気があれば、異なる自分が得られるのだが、その勇気も現実には環境的に限定されている。突然に、異なる社会に飛び込むということは社会的生物である人間から考えても実際には難しい。
このことも、結局はもし異なる可能性に挑戦しても環境適応化すれば、そのときには以前とは、異なる非本来的な、世間の中での役割に適合している状態になる。そしてまた、本来的な自分が新しい環境、可能性を見ようとするのかもしれない。
本来的な自分と、非本来的な自分の入れ替わりは、日常のことだ。何でこんなことをやっているのかな、と思うことうは本来的な自分が、社会、環境に没入した自分から自分を見つめている時だ。




普遍の意味

2015-04-12 16:29:55 | 日記
私の理解があっているのか心もとないが、色即是空、世の中の形というものは何もない。空であり、無常であるという考えがあるが、普遍論争での論点もそんなところにあるのではないかと思う。どこか共通点がある。
普遍論争では、唯名論では普遍など存在せず、普遍とは名に過ぎない。実在論では、普遍こそが真の実在と強い立場では言っていたが、普遍が存在せず、名であるとすれば、普遍と言う実在がない。そこには、形と言うものがないのではないかと思う。赤や、三角、お金、様々な普遍があると思うが、これが名に過ぎず、実在はしないというものであれば、世の中に形というものは実在しないという、色即是空の考えに共通点があると思う。
お金を例に考えてみよう。
この唯名論の立場であれば、お金はどう理解するのだろうか。お金は、実在しないのだろうか。
ハイパーマネーや信用取引というものは確かに空想上のものだ。これが、目の前の一万円だとどうだろうか。これは、インクがしみついた紙であるが、そこに金という普遍が張り付いているように思うのだが、唯名論の立場であれば金とは名に過ぎないわけであり、金という属性や性質は認められない。この金という性質を認めるのであれば、全ての紙幣、硬貨には共通する金性というようなものが存在することになる。そうすれば、それは実在論であり唯名論ではなくなってしまう。
赤という普遍を認めない立場は、比較的分かりやすい。赤そのものなどは存在しない。というのが唯名論の立場であるが、金そのものを認めない立場というのは分かりにくい。現実にはクレジットで買い物を唯名論者といえどもするわけであるが、これは実在ではない言えばそうであるのだが、あえてお金は実在しないという立場というのも、世の中に存在するものがかなり少ない立場になるだろう。では一体何の存在を認めるのかと言えば、全てとしかいいようがないのではないかと思う。個物という境目は、何らかの概念、普遍による線引きがなされているのだろうと思う。これが、実在ではないと考えると、世の中、色即是空なのかと思う。世の中は、あるようにあるのであり、そのままにある。ただこれも、見えるとおりにあるわけでもない。見えるものはまた、形であるのだから。







労働の意味一考

2015-04-11 17:52:25 | 日記
労働の意味、働くことの意味をよく考える。好きでもない仕事を続けているのだから、よく考えるのも当然と言えば、当然。日常の必要を満たすため、衣食住を得るために労働が必要であるのは当然である。
これが、労働のそもそもの意味、この上に何かを加えると、労働から生み出されるものが、何らかの作品へと昇華していくのだが、この昇華した結果が、労働者の手に帰って来ることはほとんどない。評価されない労働であり、労働の本質とも言える。労働の本質は、資本による搾取、労働以上のものを得ることが、生産可能であり、これを換金可能であるからこそ、労働者を資本は雇用する。
この本質、評価されない、金になり帰ってこないというところが、労働の労働たる所以であるが、では手を抜けば良いかと言えば、そういうわけにもいかない。労働の評価見合いで良いのは当然であるが、働くということは相手、環境が存在する。私の手違いは、まわりに影響をするのだから、その影響は悪いものであってはいけないと思う。自然、人を相手にしていると何とかしてやろうとか、満足してもらおうという考えが起きる。
これは金だけの問題ではない。では、この関係が労働の意味足りえると言えば、そうではない。環境は不断に変化するし、人の評価をえるために働いているわけでもない。
ここで、労働に意味を与えるということに無理があるのだろう。労働に意味を与えるということは、金であればそのままだが、これにまんぞくせず、ことなる意味を見出したいとなれば、違う目的を与えることになるのだが、ある目的を与えたとしても、この目的に満足できるか、しばらくすれば、また一つ次元の上の目的が欲しくなるだろう。金という目的に満足せず、この上の次元の目的を探そうとするように。
延々とこの繰り返し、これは労働に限る話ではないようだ。生きる目的などというものを考えれば、次の目的を見つけることの連続を要求することになるのだろう。
意味は無いという。結論も一つの結論。