日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

夢と現実

2018-01-20 17:26:31 | 日記
  P・K・ディックの小説を読み終えたところ、彼の小説は読み終えたところでどよーんとした気分になれるので、それが好きで読んでいる。爽快感のようなものはなく、彼が書いた小説の未来と、現在がどう違っているか。それを考えるのも面白い。
  彼の話には、巨大な官僚機構、毎日、くだらない小説や、雑誌、TVドラマを見る人々。愚民は、政府のプロパガンダを信じて、真実は知らない。そういう道具だてが多いのだが、現実もそうだなと思う。小説は1960年代、70年代くらいに書かれたものだろうか。すでに50年以上が経っているが、すでにそのころからかわっていない。
  オーウェル1984のように大衆は管理される。マックス・ヴェーバーが言う鉄の檻に大衆は閉じ込められているのだが、むしろ、そのことを喜ぶような世界。1984のような世界になっているのだろうと思う。
  現実の大衆が好きななんとかランドは、待ち時間が数十分で、アトラクションを楽しむのは数分。キャラクターに入っているのは人間に過ぎないのに、真夏のさなかでもその姿、その上、その中にいる人間は使い捨て部品、時が来れば契約は打ち切り。キャラクターの中身は若者の夢を喰い物にする雇い止め、非正規の雇用関係。夏休みには、子供達や大人が喜んで、中にいる人のことは考えずに楽しんでいる。私には、想像力の欠如としか言い様がないが、多くの人がそれに満足している。
  この喜んで、その体制を受け入れているところ。私には悪夢のような世界に思えるのだが、多くの人はそれこそ、管理された鉄の檻による安心に満足している。
  
  


人の真似をしないとは

2018-01-14 12:10:42 | 日記
  成人式のニュースをしていたのだが、インタビューで新成人が「他人の真似をしない人」になると、言っていた。妙に、それが気になるのでここにメモしておこう。
  彼は、かなり奇抜な服装をしていたが、彼のまわりの人々も同様の格好、その地域では地域ごとに衣装をそろえて集まるそうだ。かなり郷土愛の強い地域。
  彼の服装は奇抜なのだが、周りが、皆、奇抜なので、その地域では標準化されてしまっている。奇抜さも、一つの記号化、その奇抜な服装がヤンキーの象徴のようになっており、その象徴の範囲内の服装なのだ。
  彼は、そういう服装の話をしているのではないのかもしれない。生きる上での指針のようなものを言いたい、伝えたかったのかもしれない。
  成人式に出席するという行為が一つの枠の範囲、その中で奇抜な服装をするというのも一つの枠、これにすっと納まっているのだ。とりあえず、成人式については、人の真似をしないという行為や目標の範疇外であろうと思う。
  日常生活において、円滑に暮らすならば、定型のことをしなければならない。出勤時間や挨拶は欠かせないだろう。買い物ではレジにはならばなければならないし、お金を支払わなければならない。
  彼が言いたい人の真似をしないというのは、日常生活を送るのに必要な習慣のことではないのだろう。何か、重大なことについて、人の真似をしないということなのだと思うのだが、考えてみるとそれが何であるのか思いつかない。
  出世したいとか、名声を得たい。逆に清廉に生きたいとか、考えても人の真似にならざるを得ない。先達は、大概のことはやってしまっている。自分がやりたいことをすればいいと考えると、自分のやりたいことが人の真似でないと言えるのだろうかと思う。それを意識せずにやれば人の真似ではないのだろうか。
  終局的に言えば、自分が決定した行為は、他人の強制があったとしても最終的には自分がやると選択した結果、つまりその判断をした際には自分がやりたいことを結局やっているのではとも思う。そう考えてしまうと誰もが、自分のやりたいことをやっている。環境的制限はあっても、自分が選択したこと以外に自分ができることはない。
  自分の意識のもとに、自主的に決定したことも、他人の影響がないとどうして言えるのだろうか。影響はあっても、真似ではないと言えるのだろうか。真似と真似でないことの境界というのは、線としては引けないのだろう。ぼかした雲のように、雲と空の間のどこが境界かわからないように。
  では、本当に自分が愛しているということをすると考えるとどうだろう。例えば、私自身は、本当に愛していることを仕事にしているのではない。金銭や環境がそろうなら違う仕事でいい。本当に自分が愛していることなら、他人がしていても、他人がするのを見てそれが良いと考えても、真似ではないのではないだろうか。ここにオリジナリティがあるような気がする。
  でも、かなりこれが難しいだろうなと思う。
 
  


主語と述語と世界の関係についてのメモ2

2018-01-03 15:33:00 | 主語と述語について

  fである何かが存在する。 論理式で書くと、∃xf(x) 

  このfが物事の本質。xは個物である何かを指している。∃は、存在するという意味。
 この∃xf(x)が成立するのは、変項であるxにある特定の値が入った時になる。faが存在するとしよう。aは、特定の値であるので、ある個物を意味するので、例えばaを安倍晋三とする。
 これが成立するのは、fが人間であるとか、総理大臣であるとか、右翼の軍国主義者であるとかになる。仮に左翼の共産主義者では不成立となる。
  faが在る時、fが存在すると言えるのか。faは個物だがfは何らかの性質や事態を現している。aが存在する時にその述語となるf無しに存在することはないだろう。
 安倍晋三の存在は、何らかの背景の下、fの元に見られることになる。それ故に、忖度されることとなる。
 言葉を使う人間は、そこに何らかの性質を様々な面から見て取り、又は自己の判断を含めて投影をする。物事を、物事の存在と同時にそこにfの存在、内在をみる。aなしのfというものは成立しないが、fなしのaも存在しない。安倍晋三は、この名が日本人であることを示している。
  fが無ければ、素粒子の雲のようなものが世界には在るだけに、個物というものも、物の境界というものがなくなってしまうだろう。fなしには、aそのもの、aをbからもa以外のものから切り離して見ることもできないだろう。
  そういう意味で、存在するもの、個物でさえも、人の意識にかかっているものだと思う。世界は、個物からの抽象化、普遍を取り出す作用によって、分類整理されていると考えてよいと思う。
  私が言葉を使う時、物を見る時、何らかの相のもとにある。そこには、何かのバイアスがあるだろう。世界の側にfaがあると私が思う時に、私はaでなくfを見て取る。fを具体化、具現化したfa、aよりもfを見るのだと思う。
  人と人が話しをする時に、互いにaよりも、fを見て、fを話題に話しをするのだが、その二人の間に共通するfとは、共通するようで実は、違う物である。fに公共性はあるのだが、それぞれのみるfは、その人限りのf、faという個物に受肉した途端に、それぞれが見るaは一つ、でもfaは何通りにもなる。
  存在することと、そこに何らかの性質を見ることは、同時的に起こる。そして、何かを伝えるには、このfaを何らかの意味で伝えることなのだが、一つのaを見てもfaは何通りにもなる上、言葉の上では同じfと言っても、fの意味が人それぞれに違っている。そこに、コミュニケーションの難しさがあるのだろう。