日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

世界と私の関係

2012-08-25 19:02:47 | 日記
世界を覗く私に、世界から見た私。
私の視点から見た世界。これは誰もが理解しやすいだろう。誰もが、自分の世界を持つ。ルパン三世風に言うと、「男には自分の世界がある。」というと意味が分かるだろうか。私には私の世界がある。誰にも私の世界がある。

では、世界から見た私は、私とは世界そのものだ。
私というのは世界の縮図であり、世界の歴史や文化すべての結晶が私。これが世界から見た私。
私が世界であることを言うと。独我論の響きがあるが、この意味合いともう一点、あなたそのものが世界の縮図であり、結晶であるということ。
私の中には、喜怒哀楽、知識、経験いろいろなものが詰まっているが、これは世界そのものの縮図なのだということ。
私は、独り生きてきたという人がいても、その人でさえも世界の影響を受けることなく生きてきたわけではない。人間であるということは、世界を引き受けて生きている。

では、皆、同じ「世界」に生き、なぜ、それぞれ違う生き方をしているのだろうか。
それは、違う世界に皆が生きているからだ。同じ「世界」に生きていながら、それぞれに違う世界に生きる。人は、皆すれ違って生きている。同じ風景を眺めていると考えても、私とあなたとでは、全く違うを世界をみているのだ。言葉ひとつをとっても、会話をしてもすれ違うことがないだろうか。

私は、世界を引き受けながら、私の世界を持ち、新しい世界を目指して、いや毎日を生きながら、世界が過ぎ去るのを見ながら、これはどういうことだろうと考えている。

この引き受ける世界は、自分で選べない点と、選択可能な点がある。生まれついての環境や容姿は、決定済みであり、これを変更することは私にはできない。ただ、毎日は選択の連続である。この選択で私が引き受ける世界は、変化していく。大きなことでなくても、道の脇に何があるか。人の表情ひとつに何を見つけるか。そんな小さな選択、気づきでも世界は変わる。
この気づきの連続それに鈍感、愚鈍が私の小さな世界であるだが、私にとって世界最大の世界でもある。

今、ブラームス交響曲第2番が盛り上がっているところだ。これだけで世界は、大きく、変化に富んでいる。世界は、きらめいているようにも見えるし、悲しくも見える。いつも変化を続け、また同じ毎日のようにも見える。こうして日が暮れる。

父と子の対話 完璧編

2012-08-19 08:28:47 | 子との対話
父 テレビで、アナウンサーが「ほぼ完璧」と平気に使っていたよ。こんな人は、完璧の璧を壁
  だと思ってるんじゃない。サッカーの解説だったから。
子 漢字があってるかは、分からないけど、ほぼ完璧って使ってもいいだろ。意味は分かるよ。
父 日本語の乱れどうこう言うことがあるが、アナウンサーが「ほぼ完璧」ってほぼ全くアウト
  と言いたいよ。
子 アナウンサがー言いたいのは、完璧に近いということだろ。
父 完璧に近いならいいんだけど、「ほぼ完璧」は完璧の言い切りで終わるからね。完璧の意味
  知ってると聞きたくなるよ。無限小数的に近いなら、完璧と一緒と言えなくもないけど。
  そんな程度に完璧じゃない時に、「ほぼ完璧」と使うんだよね。
子 1%~5%くらい足りない時に使うんじゃないか。もとから完全な事柄なんてないんだから
  自信はあるんだけど、完全には保証しませんよ。という意味で使っているんだろ。
父 そうだよね。でも確率で言ってしまうと、その1回にあたると完璧な失敗にあたるというこ
  ともあるよね。100回のうち1回も、失敗されると「ほぼ完璧」て安請け合いだね。「原
  子力は安全です。」と断言してた人達と一緒だよね。
  「ほぼ完璧」と言われると逆に不安にならないか。ほぼの部分のリスクがどの程度か、説明
  して、その分だけ完璧じゃないと言って欲しいよ。
子 完璧なことなんて、初めから無いと知っていれば、「ほぼ完璧」もOKだと思うよ。
  完璧なことが世の中に在るか無いか、考え方の違いじゃない。
父 そうとも言えるけど、一旦、完璧という言葉を使用するなら、論理上はその言葉の意味と整
  合する文を作って欲しいな。「ほぼ」は完全じゃないことを意味していて、「完璧」は完全
  なことを意味している。この二つを連結して文を作ると、すなわち矛盾だよね。完全な矛と
  完全な盾と両方がぶつかるとどうなるのだろうと思ってしまうよ。こんなことをしたら、
  対消滅して世界が消えてしまうんじゃないか心配だよ。
子 言葉は、意味が分かればそれでいいんだよ。
父 論理的には、そうも言えないよ。
子 完璧な論理は、そもそも無いんでしょ。
父 。。。。。

めも

2012-08-12 18:26:16 | 日記
  映画のマトリックスでは機械に繋がれた人々が機械の電池、電源として使用されていた。そして、人々は皆、夢を見ている。夢を現実と思いながら。そして、そのことに気がつくこともなく死んでいく。
  このプロットは、プラトンイデア論での洞窟の比喩が元になっているのだろう。そのことに、前回の記事を書いて気がついた。
  洞窟の比喩は、鎖に縛られて前しか見えない人々が後ろから差す光の下に、影を見て、それを現実と思い込んでいる。振り返り後ろ(現実)が見れないので現実の存在を知ることができない。そんな話だ。
  私達は、現実を見ているように思っているのだが、実は現実が見れていない。特に欲しい物が人々にはあるのだが、それが本当に自分が欲しいものか理解できていない。例えば、子供にはオレンジ色のハンバーガーショップが大人気だが、あのマトリックスに出てきそうな、現実離れして喜ぶ子供達が投影されるコマーシャルを止めてどれほどの人が、あのハンバーガーを美味しいと思うのだろうかと思う。
  電気が足りないことについてもそうだ。原発がなければ電気が足りないなどということも幻想に過ぎない。私達は望む現実を見ようとしている。又は気がつかないうちにプロパガンダされ、自らがそう考えていると思い込んでいる。
  首を後ろに向けようとしても、前しか向けない価値観を、合理性という名のもとに刷り込まれているのだ。合理性の観念が現実を支配し、非合理的な価値は淘汰される運命にあるという価値観を自然に近代社会は受け入れ、発展させてきた。この合理性は、絶え間ない進歩主義に裏打ちされているのだが、進歩しない人々は自然と後退する。人々は走り続けなければ、今の位置にいることができない。この恐怖のうちに、合理性を受け入れ進歩を続けてきた。
  
  

父と子の対話 スマートホンと便利な社会

2012-08-11 10:40:24 | 子との対話
父 スマートホンってそんなに便利かな。
子 携帯電話を持ってないような人には分からないよ。
父 携帯電話で十分じゃないか。携帯電話にパソコンの機能がついてなくても、パソコンがあるところで調べればいいんじゃないか。
子 パソコンもデスクトップがあるじゃないか。あれが持ち歩けるようにしたパソコンだろ。持ち歩けると便利なんだよ。
父 パソコンを持ち歩くのは、仕事のためだろ。携帯電話にそんな機能が付くようになれば、いつでも仕事をしていなければならなくなるよ。しかも、GPS機能で居所まで会社に探知されているんだよ。そんなことが、本当に便利なのかなあ。会社にとって便利なだけで、社員が自分の携帯電話で自分でお金を払って便利というようなことではないと思うんだけどなあ。
子 営業で色んなところに行かなければならない人には便利なんだよ。
父 社会全体がスマートホンがあるから便利という圧力を与えているんじゃないかな。スマートホンがあるから便利、イコール幸せというイメージを知らず知らずに押し付けられているように思うんだよ。スマートホンがあるから幸福になった人なんていないんじゃないか。スマートホンができる前の人が不幸だったわけじゃないだろ。本当の便利さとは違うと思うよ。営業の出先で仕事をするのが便利というのは、無駄のない仕事ができるということだけど、その便利になった分だけ、また違う仕事を同じ時間で要求されるだけだよ。それを、会社員に過ぎない一個人がスマートホンで便利になったと喜ぶようなことかな。
子 スマートホンの話で、幸福がどうのこうのとか言うようなことかな。
父 スマートホン自体で幸福になるかどうかだけを問題にしているんじゃないんだよ。むしろ、スマートホンの便利さは、あるんだけど、その便利さは誰にとっての便利さかを、便利と言う前に考えた方が良いと思う。自給が900円から1000円くらいで定職につけないワーキングプアの人でも携帯電話やスマートホンを持っている。収入全体から考えて通信費の占める割合が高すぎるのに。そのような人でも、収入に比べて高額な通信料の携帯電話を持ち続けなくては仕事につけない。携帯電話や特に割高なスマートホンをそんな人までありがたがるのはおかしいだろ。
子 パケ死だね。(注、パケットが払えず自滅することを言うそうだ。)
父 スマートホンがある社会が便利な社会という幻想を、社会自体が与えていると思うんだよ。むしろ、スマートホンなど無いような社会こそ、個人にとって便利な(幸福な)社会かもしれないのに。そのような考えを便利という言葉を使う時に一度考えてみるべきなんだ。映画のマトリックスでは、人々が機械に繋がれて電池にされていたのを覚えてるかい。人々は、携帯電話やスマートホンの電池にされているんだよ。人々は機械に繋がれて便利と言う夢を見せられているんじゃないか。
子 機械に繋がれた人は、夢の中、マトリックスでは幸せに生きているからいいんじゃないか。
父 電池にされた人々は役に立たなくなれば、電池にされていたことにさえ気がつかないままに捨てられるよ。これが幸せなのかな。ブランド品もそうだけど、社会が与えた幸せ、目標のブランド品を買うために必死に働く人々は、この社会、システムそのもの、そしてシステムを支配する人々の電池にされているじゃないか。人々がブランド品を手に入れてもマトリックスのように夢、幻想に過ぎないんじゃないか。
子 マトリックス2と3で、ネオを倒してマトリックスに戻ろうとした人がいるよね。マトリックスが夢でも、幸せを感じることができれば、それでいいんだよ。
父 彼は、現実世界からマトリックスに戻ろうとしたんだけど、現実世界に気がついてマトリックスを選ぶけど、気がつかないままにいることが幸せだろうか。
子 そんなことに気がつかない方が幸せだよ。