日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

イメージと現実

2012-10-21 07:47:12 | 日記
この世は、幻か。と言っても、今回はマトリックスのような、仮想現実的設定を考えるのではない。
私たちが考える現実とは何か。私たちの現実は言語依存性が極めて高い。というよりも言語に依存することなく現実を捉えることができない。
「現実」ということをどのように捉えるか、次第で現実が変わってしまう。あなたと私では、現実と言っても、現実には言葉の意味や使い方が違う可能性が常にあり、必ず多少なりとも違っているのが当たり前ということだ。むしろ、どんだけ細かな定義を作ろうが解釈がどこかで変わってしまう。「現実」という言葉ひとつをとっても、この調子だ。
バベルの塔の話のように、人は言語が異なれば互いに理解できない。この可能性は、同一言語を使用する人についても、起こりえることだ。あの人は、こちらの言うことが全く理解できていない。という現象に出会ったことはないだろうか。
私たちは、言葉を通して物を見る。純粋に見るという行為だけを考えても、実際には見るということは、何が見えるかを認識することだ。パソコンが見えれば、パソコンと頭の中で見えるものを理解してしまう。
野田総理がテレビに映っていれば、太ったあごの脂ぎったおっさんなのだが、私の頭の中では、すでに二枚舌というワードが瞬時に浮かんでしまう。ある人をその人のイメージぬきに先入観ぬきに見ることは、まずできない。
社会の幻は、特に典型的に言語依存性が高い。肩書きや、ブランドは、言語抜きには機能しない現実だ。代表取締役なんて言葉は、会社制度のないところでは、全く何の意味もない。この点では言語依存性現実、社会機能性現実とでも、言うべきものだろう。ブランドについても、状況は同じ、高額なコマーシャル抜きにブランドなど成立しない。私たちは、そういう意味では言語化されたイメージの世界の住人なのである。この言語化されたイメージなしに私たちは現実を理解できない。そして、これは、普遍的な抽象概念にかかわることだけではない。個別の事物そのものも私たちは、イメージを通してから理解している。あらゆるものを私たちは言語化し、世界を言語化したものだけを覗き見ている。世界を眺めて私たちが理解し、見えているのは言語化した部分だけだ。言語化できない世界は、言語化した世界が絵の模様であるなら、地に他ならず、この地は見ていても、人には図柄としては見ることができない背景として溶けてしまう。
私たちが考える現実とは、私たちがイメージする現実に他ならない。この幻の中を、現実と考えて生きて行かなければならない。という現実。
それでいても、現実が幻であるとしても、悲観、悲嘆する必要はない。その悲観や悲嘆もまた幻にすぎない。まどろんだ現実、様々な解釈の可能性の中を私たちが生きていることは、幻ではない。この意味では、人を除いた動物は幻を見ないだろうと思う。動物が幻を見ないのであれば、動物としての人は幻ではないし、その生も幻ではない。

概略 資本論

2012-10-04 07:07:34 | 日記
プロレタリアートは労働者のことです。労働者とは、時間を自己の商品として会社(資本と呼びます)に売る人です。労働者が売る商品は、自分の時間しかありません。決して仕事自体を売っているのではありません。肉体労働、精神労働どちらであっても、時間単位で他人に支配される人は労働者です。労働者が何故、時間を売るかといえば、労働者には時間以外に売るものがありません。
土地や工場や資材を持たない人は、自分に売ることができるのが時間しかないからです。

資本は、労働者の時間を購入することによって、富を蓄積します。資本にも、土地や、工場や、資材の価格は自由にできないですが、購入した労働者の時間は、自由に上手に使うことができます。人使いが下手だと富が生まれません。今まで二人で仕事をしていたのをマニュアル化して一人でできるようにすると、一人分の購入した時間に余裕が生まれます。この余裕の時間でまた生産します。この余裕の時間が富の蓄積になります。パソコンやシステム変更で仕事が変わります。こんなとき、労働者は、今までよりも仕事を早く済ませても、新しい仕事が増えて働く時間は結局変わりません。これを繰り返して、一人にたくさん働かせるシステムを作ります。これが富の蓄積になります。こんなにキツイ仕事をすることと、他人の支配の下に興味がない仕事をすることが労働疎外です。某牛丼チェーン店が夜中に一人で営業しているイメージです。二人は必要なところを一人にします。某ハンバーガー店で社員は一人、あとはマニュアル化して同じことばかり言うアルバイト店員しかいない。社員は休むことなく働いて、サービス残業もたっぷりのイメージです。
サービス残業は、資本のまるもうけになりますので、資本はこの形で搾取するケースもあります。

何故、労働者の労働疎外が生じるかと言うと、生産手段がないからです。生産手段があれば、自分で工夫して働くことができるのですが、他人の生産手段の中では勝手ができません。労働者の賃金は、生産手段を買うのに必要な額がありません。この賃金は、労働が再生産(飯を食って労働者の子供が労働者になれるくらいの賃金になります。)するの必要最小限の額になります。何故そうなるかは、労働者が増えても賃金は上がらない。(雇用大=好景気だが、労働者自体が増えるので買い手市場でそれほど値が上がらない。)、労働者が減っても(雇用小=不景気、リストラの状態)賃金は下がるからです。

これでは、労働者が金持ちになれることは永遠にありません。労働者の子供は、いつまでたっても労働者で人に支配されるままです。
そこで、労働者も支配側にまわることを考えます。これが階級闘争です。
支配側にまわるには、まず生産手段を自分で持つことです。資本から、賃金で生産手段を買い取ることはできませんので、これが社会革命になります。社会革命が成功すれば、生産手段が労働者の手に収まりますが、誰かが独占すると同じことですので、生産手段は社会科(社会的所有)になります。(共産主義が上手くいかないのは、結局は誰かが独占してしまうことに一因があります。)
生産手段が自分の手にあれば、自分で工夫して働くことができます。(農業や自営業の生き生きしたおじさん、おばさんのイメージです。)
そうすれば、生き生きと働くことができるので、労働疎外が克服されます。
このような、生き生きと働くこと(働くことに喜びがあること。)によって人間性が回復されるのです。

ワーキングプアや、リストラが首切りと同意語になっている現在は、労働者、会社員が人(一人の人格)として扱われていません。
この状況を回復することが、人間性の回復にあたります。