日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

幻想

2019-07-27 16:04:38 | 日記
    何か、これを知っているというものが、漠然と欲しいのだろうと思う。世界についての洞察、私という主観から、客観視した世界の姿、それを知りたいのだろうと思う。私が見ている世界は、常に私の視点であるのだが、それを横から眺めるかのように真実の姿、私というバイアスがかからない世界。そういうものが、そういう見方が可能であるのか。世界の側と私の側を分けると、世界に私が辿り着くことはない。物自体という考え方をする限り。私が見る世界は、事実とは、真実とは違うのだろうか。
    実在を探すということは、こういうことなのか。世の中の多くの物が、イメージや幻想でしかない。では、幻想でない物が何か。その線引きが分からない。物は、観測すれば、する程にその境界は曖昧になる。その幻想も、現実ではあるのだが真実ではない。世界にある物が幻想だと知りながらその中で、幻想を身近に引き受けて、幻想を忘れて生きる。
    幻想に巻き込まれて、真実という考え方自体、それが幻想。そう思うと、全てが幻想になる。この共同幻想を支える人間全体。
    幻想の渦で、生きる人々、幻想に気がつくことなく、それが真実と信じ疑いを持たない。むしろ幻想を楽しむ。

自己同一化とは

2019-07-20 11:16:41 | 日記

    自己同一化、アイデンティティーの確立とか、これが問題の根源になっているのだと思う。自分の所有物と自分を同一化、同一視すること、これが執着の始まり。子供がおもちゃを取り上げられると、泣き出すように、大切なものに自分を映し出す。物が自分自身になる。これは、物に限らず、知識や、伝統、地域、出身校、信仰、地位、評判等に自分を見る。

    自分を見る時に、其処にあるものは、自分へのイメージ。我を害されたそう思う時に、自分が同一視しているものが害されたのだが、それが、自分へと置き換わる。その時は、自分への攻撃となる。そこからは、対立の関係が始まる。
    本当に、自分と自分の所有物は同一だろうか。当たり前のことなのだが、私と私が所有する車や、地位、レコードコレクション、そのようなものと、私は同じではない。しかし、所有物は、これを大切にするうちに私を構成する一部となる。私は、所有物に支配されるに至る。これが、執着心の過程だろう。指輪物語の一つの指輪のように。
    私は、所有物でなければ、何なのだろうか。私は、私という思考の枠組みなのだろう。思考もまた、所有物の一つに過ぎない。この思考の枠組みは、正しく動いているだろうか。
    論理的に動かなければならない。正しく事実を見なけれならない。
    この正しさは、個人に依る正しさではない。相対的な正しさでなく、普遍的に正しさがなくてはならない。これが、理性であり、知恵だとおもう。
     このような知恵を、正しいことを正しいと見る。そういう枠組みが自分であれば良いと思うが、こう言うと、それも所有物の一つになるだろう。
     この考えさえも、捨てる客観視、そういうものがいるのだろうと思う。それでも、色んなものを疑問に思い、捨てると、 最後に、残るものが理性なのだろう。