日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

多数決について

2013-02-23 14:28:44 | 日記

子が、豚を小学校で飼い最後に食べるかどうか子供たちで決めるという映画を観た話をしてくれた。
クラスで豚を飼って最後に食べるかどうか、子供たちが議論をして決めるというお話だったそうだ。
その話を聞いて違和感があったので述べておきたい。

このクラスにあたる子供たちには、豚を飼うか飼わないか初めに選択肢が与えられた。そして豚を殺して食べるかどうかも、選択枝が与えられた。
この選択肢は、二者択一である。どちらにも関与しないという選択もあるが、これはこれで、特に殺さないという選択肢を選んでいないので、この場合でも殺すに関与したと感じざるを得ない。殺さないという選択肢を選んでも、結果が殺すになれば自分の力不足と責任を感じざるを得ない。

先生は、この選択枝を与えることも、与えないこともできるが子供は、選択を与えられただけだ。たまたま、この先生のクラスになったということで、生物の生死に直接的に関与することが求められた。この関与にあたって、一人の子供の意見はどこまで尊重されたのだろうか。

映画では、皆が話し合い、どうしても決まらないので最後は多数決で決まったそうだ。生き物の生死を多数決で決めるところには違和感がある。
どうしても、殺したくないという一人の生徒の考えは、残りの生徒全員の考えが殺すであっても、これは尊重すべきではないかと思う。
「殺すな。」という命題は、論理的には、それ自体では何故を問えば、正しいとも正しくないとも言えない。
しかし、「殺すな。」という命題は人の心にそれが真理であると訴えるところがある。
何故、殺してはいけないか。それは「殺すな。」が何を条件とせずとも正しいからだ。
では、正しいとは何を意味するか。正しいの意味を知らなければ、正しいは言えないし、理解できない。
正しいの言葉を使うものは、その使い方を既に学んでいるが、この学びの中に「殺すな。」があると思う。
人が、何かを殺す時には、何らかの理由をつけないだろうか。殺さない時に理由が必要だろうか。
この「殺すな。」という命題の前には、多数決は意味を失うように思う。
何故、この場合に少数意見よりも多数意見が正しいと言えるのか。社会での効用についての命題は多数決によって決さざるを得ないこともある。この場合には、どのような社会的効用が豚の生死にあったのだろうか。初めより、豚を飼育する時点で、殺さないという選択肢がある以上、それは一人の意見であっても尊重すべきであったのではないかと思う。

この記事については、私と子との間で会話の感想に過ぎない。映画自体は、私は観ていないので、公平性に欠けているかもしれない。

 

 


無いことについて

2013-02-10 11:09:41 | 子との対話
子 主人公は、頭の中にだけいる犬がいなくなったと言って大騒ぎをするんだ。
父 面白いね。現実の犬じゃなくて、空想の犬がいなくなったことを頭の中で想像しているんだ。元々いないものがいなくなる想像か。
子 主人公は、いつもこの犬と一緒だったんだよ。
父 いつもいない犬がいなくなる想像はどうだい。
子 どういう意味。
父 僕の頭の中には、普段から犬がいないんだけど。今日は、ポチがいないんだよ。いない犬がいなくなることができるだろうか。いなくなるということは、どこかにポチがいないといなくなるとは言えないよね。はじめからポチいなければポチはいなくなることができるのか。不思議に思えないか。
子 何。
父 だから、僕の頭には、タマがいないんだよ。とか、テリーがいない。ジョセフがいないとか。
いないものだから無限にいないと言えるよね。
このいないものをわざわざいないと言うとどうなるか。
普段は、頭の中にいる犬がいなくなったと言われると、まだ言っている意味が何とか分かるよね。
僕の頭の中には、ミミズがいないし、石ころもないんだよ。と言い出したら、意味がわかるかい。普段は頭の中にいるのかいと聞いたら、いやいつもいないよ。でも今いないんだよ。と言って騒ぎ出したら。
いないことは、間違っていないだろう。石ころが頭にないのは当たり前だけど、この当たり前のことを口に出して言われると違和感がある。
無いものについて、無いと言う。この手の上には石ころがないです。この文は意味があるか。
文脈によっては、意味が生じる場合があるよね。これから手品でも始まるのかな。と考えるしかない。でなければ、こいつ何言っているの。となるだろ。
私たちは、文章自体が意味をもっていても、現実の使用の中では意味をもって無いものについて言及することができない。在るものについてしか語ることができないんじゃないかということ。
子 はじめから無いものについては、語れないということか。でも空想ではいろんなことが語れるよね。
父 空想でも、無いものについては語れないんじゃないか。空想上あるお話は可能だけど、空想上もないお話ができるかい。

体罰の肯定と構図

2013-02-09 11:24:54 | 日記
口で言っても分からない者には、体で教えよう。
これが基本的な体罰の考えとしよう。
この考えの根本的な問題は、人を殴ることがいけないことをこの考えでは教えることができないところ。

いくら人を殴ってはいけないと説明しても、人を殴ることを止めない人がいるとしよう。
こんな人を殴るのを止めさせるにはどうすればいいだろうか。

口で説明しても言うことを聞かないから殴って言うことを聞かせると、禁止している物事そのものを自分が犯すことになる。
人を殺してはいけないと言いながら、お前は人をたくさん殺したからという理由で人を殺す。

何かを禁止するために、その物事を用いて禁止をする。
暴力がいけないことは、社会の常識であるが、暴力の発生を未然に防ぐには、一種の抑制された力が必要。これが、警察であったり、軍隊であったりするわけだが、法により抑制された力と考えても、事実的には、暴走することもあるので警察や軍隊が暴力を行使することもある。

体罰も同じ構図にある。
体罰を肯定すれば、暴力が否定されるべきものであることを否定できなくなる。
体罰は暴力ではないと定義する方もおられるであろうが、法に認めれらない力の行使は親、教師でも暴力として評価される。
愛情があれば、暴力が許される論についても、偏愛者の暴力は体罰にはならないのかという問題が生じる。偏愛でない。正しい愛情があれば許されるとしても、では正しい愛情とは何かを決めるのは、当の体罰をする人しかない。
自身が正しい愛情を持っていると確信して人を殴る人に、何を言っても無駄のような気はする。
ここに、暴力が根絶できない構図がある。だれもが、人を殴る時に「自分は正しいことをしている。」と、考えて人を殴る。
体罰、暴行、革命、戦争で殴る人は、殴られる人よりも自分は正しいと信じている。

この殴る人に殴ることがいけないことを教えようとしても、その人を殴ることはできない。
口で説明しなればならない。
「言っても分からない者には、体で教えよう。」という考えを持つ人自身にだ。
この人自身が口で言われても分からない、人は体で叩きこまれないと分からないと主張している当人なのだが、その人の考えのとおりに、その人風に体に教えてやることができない。これでは、永遠に当人は理解することができない。

もはや、どうしようもない気分になるが、それでも口で説明をしてやらなければならない。

アンドロイドは電気羊の、、、、、、、、

2013-02-02 17:30:34 | 日記
ロボットは心を持つことができるのか。

あなたは、ロボットに心があることを信じることができるだろうか。
ある日、心がある機械が生まれたとしよう。もしくは、心があるのではないかと疑われる機械、機械自身が心の存在を主張し始めたとしよう。
その時、あなたはどうしてロボットに心があるか確かめることができるだろうか。
私は、ロボットに話しかけて心があるのかないのか、まず試してみるだろう。そして、完璧な回答を、会話をロボットが返してくる。(スマートホンでは、これに近いことが起きている。)
私は、会話ではロボットに心があるかないか、確かめることができないと理解する。
次には、ロボットに危害を加えたり、怒らせようとしてみる。見事にロボットが怒り出した。私は、まずいことになったと思いながらも、本当に怒っているのかどうか分からない。自己防衛プログラムが働いているのではないかと疑いがあるからだ。
次には、私が悲嘆にくれている様子をしてみよう。出来の良いロボットは、私をなだめ、なぐさめてくれるだろう。ひょっとすると、何の反応もないかもしれない。わざとやっているのだろうか。ここでも、私は疑いをはらすことができない。
途方に暮れた私は、ロボットに訊ねてみる。「お前には、本当に心があるのかい。」
ロボットは、私に言った。
「私も、あなたに心があるのか本当のところ分からないのです。あなたが言う心と、私が言う心が一緒かどうか、私には分かりません。しかし、私にはこころがあると私は信じています。」
ここで、私はこれ以上の詮索を諦めるだろう。

私は他人にも心があることを信じることができるだろうか。信じることはできる。しかし、確証はない。ただ、きっと心があなたにもあると信じるだけだ。
いやひょっとすると、あなたには、心はないかもしれない。私からすると、あなたは人の心をもたない人かもしれない。
私とあなたが同じ心を持つかどうかは、実のところ私には分からない。あなたは、私と同様に心を持つように見える振る舞いをしているだけかもしれない。

もし、ロボットが心を持つようになったとしても、人はそのことを認めようとはしないだろうし、とてもよくできたプログラムに基づいて行動しているだけだ。彼らには心はない。と言うだろう。
一方、人形を捨てることは難しい。何かしら心があるように思えるからだ。長い間使い続けた道具にしても同じだ。捨てる時には、何かしら感謝の言葉をその道具に述べてから捨てる。私には、道具にも心があるように思えてくるから。
他人の心の有無は、その人でなく、むしろ私の側にあるような気がする。