最近、「神は悪の問題に答えられるか」という本を読んでいる。だいぶ前に買って置いていたのだが読み始めると面白い。
日本人の感覚で仏教的に言うと、悪は存在するもので受け入れるものだ。仏教では、蓮が象徴であるように、汚濁した世の中でも独り歩めというのが、基本的な態度で世の悪は前提である。
一方で西洋的には、悪は二元論だと善と悪の戦い、一元論だと善の欠如として考えられている。世の前提として善が存在して、何故だか分からないが悪が存在している。
この本のテーマだが、神は全能である。神は完全な善である。悪が存在する。これを同時に考えると、どうして悪が存在するのか、となる。
人の中で暮らしていると、悪に出会う。自身が知らずに悪であることもある。
私が思うには、悪は認識的な存在で、物はそれ自体は善悪を持たない。物体の色のようなもので、赤色や黄色をした物はあるが、それは光線があたり人の目で見て初めて赤や黄色と映る。原爆やアウシュヴィッツという出来事は悪だが、悪は人の判断の側にある。
出来事が存在するか、歴史的事実が存在するかというと、物として存在するという人は、少ないだろう。(4次元世界で、過去の出来事が全て実在すると考える人は、物同様に存在すると言うかもしれないが。)
悪魔が物のように存在すると考える人は、悪も物としての実在と考えているように思う。
私は、物レベルで悪は存在しないとは思うが、世の中に悪はあふれている。毎日、悪いニュースが流れるし、身の周りでも悪があふれている。
気が付いていない人もいるが、格差社会と言われる中で裕福な人、そうでない人、資産のある人、ない人、何故、そのような違いがあるのか考えると合理的な理由はない。親から受け継いだ環境、それが大きくものを言っている。努力とかそういうものも含めて環境要因は大きい。人は、生まれた時に其処に投げ込まれるのだ。この社会システムも、見方によれば悪である。
社会システムの悪の中に生きていると考え、仏教的な汚濁の世の中に生きていると考える方が、納得はしやすい。捨てる神あれば拾う神ありだ。これが、一神教だと世界を作ったのが神で、汚濁にしたのが人間だと言っても、放置している神は善なのかという疑問が起こる。
原爆は、最も大きな悪だと思うが、原爆投下をした機の随伴機はネセサリーイービル、必要悪という名が付いている。アメリカは、原爆投下は、必要悪だと主張している。日本政府でさえ、1963年判決の東京原爆裁判で同様の主張をしている。
この様な必要悪の主張が、神が、悪を許しているのは最終的には悪よりも善が多くなる。損益計算書や、貸借対照表のようなソロバン勘定で善が多くなるから良い。というような言説を生み出す土壌になっているのだろうと思う。
この本でも、絶対悪の代表としてアウシュヴィッツが度々あげられるが、アメリカでの議論のためか原爆には言及がない。
議論は、何故、悪が存在しているのかと考えているのだが、そもそもキリストを信じない者は救われない考え、これは悪でも善でもないのだろうか。
この手の議論は、性質上、正解は分からないのだが、悪が何かというところは、また別の議論として考える必要があるのだろう。