日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

マトリックス論考

2011-08-15 10:12:43 | 日記
  マトリックスとは、基盤、数列の意味があるそうだが、このマトリックスという考え方は、文化、言葉による、社会からの個人の支配、個人の位置づけ、そして個人の中での文化や言葉が、まさに思考の基盤であり、座標である数列を意味している。
  私が何かをなそうとする時、私は今の位置から違う位置へと移動する。この位置の移動は、座標によって示すことができる。この座標は、比ゆ的な意味合いだが、何か目標を立てるとは、移動を意味する。
  私が持つ座標上の目標は、文化により規定された位置であり、お釈迦様の手のひらの中の移動のようなものである。文化により規定されない座標上の位置特定は、おそらくできない。
  同一の座標系でなく、異なる座標系へ移動してもこれはできない。例えば、日本語による価値体系での座標系から英米語での価値体系への座標系へ切り替えたとしても、やはり、座標自体から抜け出すことはできない。
  座標系から脱出をするには、もはや言葉の使用自体、思考自体が停止された状況でなければならない。
  映画におけるマトリックスの存在は、仮想性に着目されやすいが、むしろ、私の現実世界が仮想世界の写しであること。(現実世界を理解する時に人は、仮想世界を通してしか理解できないこと。)、そして現実世界には仮想世界が溢れかえっていること、そのことに中々気づいていないこと、着目すると、この映画のメッセージに奥行きがでる。
  現実世界は、「金銭」、「権利」、「正義」等々様々な仮想上のものがあふれ流通している。そしてこの仮想上のものを疑うことなく人々は生活をしている。むしろ、これらのことに疑問を持つと社会上非常に暮らし難くなる。
  さらに、社会にはコマーシャル、プロパガンダがあふれ、一々これに疑問を持つことも難しい。
  文化、言葉によるマトリックスを基盤、ソース、母体として私は、思考しているのだが、このマトリックスは、常に巧妙に操作されている。言葉自体の使用法から、意味合いまで、知らぬ間に変化しつつある。(例、リストラ、安全、基準、)
  この文化、言葉というマトリックス自体が、常に変化し、流れていく存在であり、この流れに大きな影響力を持つ為政者が思惑を働かすこと、各人はそれぞれの持ち場において、自己のマトリックスの拡張を図っていくのであるから、他者の思考によって、私の思考が操作されることは前提ではある。
  私が世界を眺める時に、私は世界を言葉に変換して眺める。社会的事柄に対する感想については特に、他者の言葉を私の言葉に変換する作業である。この変換作業に使用する言葉の意味自体がすり替えられては、私自身が変換作業におけるこれまでとの変化に気が付かない可能性が高い。
  私は、この文化、言葉というマトリックスから抜け出すことはできない。そして、自己のマトリックスの拡張を図り、自己を振り返り、マトリックスが仮想上の存在であることをマトリックス内で認識する。
  私は、このマトリックスに自身が支配され、マトリックスの存在に気が付かないままに死んでいく人間になりたくない。そう考えつつも、既にマトリックスの範囲内の考えであることに不安がある。この解決を言葉に求めることがまずできないとも予想している。ただ、もう少しマトリックスの構造は眺めてみたい。
 ( マトリックスの存在を、文化、言葉としたがこれでは、あまりに漠然とした理解ではあるので、マトリックスの縦横の軸が何を意味するか分かれば、座標の意味が解けるのではないかと思う。これは、考えをまとめることができれば後に記載したい。)

豊かさの欺瞞

2011-08-07 13:03:34 | 日記
  家から車で10分くらいのところに大資本の巨大商業モールができた。
  そこの商品は、大資本らしく珍しいものがなく、ありきたりのものが並んでいるだけだ。そこには沢山の人が、吸い込まれていく。
  普段、そこへは行かないのだが、ある日、用事があって寄ってみた。子や妻に何か美味しいもので買って帰ってやろうと思ったのだが何も良いものがない。(百貨店と違うので非日常的な高級品はない、高いか安いか分かりにくい中途半端な焼き菓子なんかはあった。)
 
  昨日の晩10時過ぎにその前を通ることがあったので、店を見ると煌々と電気が付いている。(晩10時を過ぎれば、労働基準法の深夜労働にあたる時間であり、一昔前は女性は保護の対象であり労働が禁止されていた。)
  私が住む世界は、これが豊かさであり、誰かが深夜労働をし、誰かが深夜に買い物を楽しむ。そして、これが便利さとして皆が受け入れている。
 
  深夜に働く者には家族があり、その生活は豊かなのだろうか。彼と彼女は、25%増しの深夜賃金を貰い、それで満足しているのか。家族がそれを享受することに満足しているのだろうか。
  深夜に買い物をする者は、昼間に買い物ができないのだろうか。昼間に買い物ができない家庭は、昼間はどんな生活をしているのだろう。
  経済的に許されれば、誰も好き好んで、深夜に働く者はいないだろうし、深夜に買い物はしたくない筈だが、このことを誰もが忘れつつある。深夜に働き、深夜に買い物を拒否することは環境がこれを許さない。深夜労働と長時間労働を受け入れなければ雇用されず、深夜で買い物をしなければならない。このような生活状況は、決して豊かであり、便利さ、だとは思えない。
  どこかで、踏み外した過程があると思う。
  世間の労働組合は、衰退の一途であり、巨大資本に対抗する者はいない。
  そして、自営を除いて、日本人の多くが労働者階級であるにも関わらず、テレビではセレブがもてはやされ、書店では、もしドラが流行る。多くの人が、経営者の目を持つ前に、自分が労働者であることを忘れている。セレブの富そのもに関心が奪われ、富の源泉がどこにあるのかを忘れている。
 
  何故、このような虚偽が受け入れられているのだろう。
「豊かさは、深夜に買い物ができること。」
「豊かさは、年中無休で、正月でも、好きな日、好きな時に、買い物できること。」
「巨大商業施設で、煌々と照明が輝く中、買い物ができること。」
 
  多くの人が、ひとときの享楽の前に、商業施設が提供する価値観の基に、疑問を持たずに暮らしているように見える。自分が犠牲者であることを忘れている。
 
  朝から夕方まで働き、家族と食事をする。日々の暮らしの買い物は昼間や夕方に済ます。これだけで豊かになると思うのだが、このような価値観はどこにも喧伝されない。当たり前だが、これを皆がやると、深夜に働く犠牲者の存在がなくなってしまう。経営サイドでは、出来れば、深夜に働くこと、買い物ができることが富だと思わせておくことが都合が良い。こんなことを喧伝すれば、労働者が自覚、虚偽の豊かさから目が覚めてしまうだろう。
(一世帯に労働者一人でも生活できる。今はこれができない。賃金は低く押さえられ、特に商品経済を享受し、特に住宅を所有しようとすれば2名で働かざるを得ない、この住宅は、一世代毎に建て替えがなされ、そのような安価?な商品が供給されている。住宅はローンで購入し、預金金利は極端に低いのに、貸し出し金利で労働の果実を搾取される。二人で働き続けなければ、二人で全力疾走しなければ家は失い、暮らすこともできない。)
 
  私は、この巨大な商業モールが一つのシステムとして機能する社会システム、このシステムが豊かさをもたらすとは思っていない。そして、このシステムそのものに対抗することも出来ない、このシステムの欺瞞性、犠牲の構造を見ることは難しい。人は自分が見たくないものを見ない。
 
  私が出来ることは、システムを眺め、その流れに巻き込まれないことだ。もう既に巻き込まれているように思うが、少なくともそのことに気が付いていたい。