日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

ゼノンの矢と世界について

2019-02-01 17:52:05 | 今とは何か(時間について)

  ゼノンの飛ぶ矢は止まっている。という話の反証を考えるというお題を上の子が大学でもらってきた。

 矢は直線状の1点を必ず通るので、その1点を見れば必ず止まることになるというそういうお話。  
 上の子は、飛ぶという運動、運動自体が時間を要するので、止まっている時点を捉えることが、運動という前提、飛ぶという言葉の意味から外れている。という見解だった。
 言葉の用法、定義の面から捉えると、確かにそうだろうと思うが、この問題は、むしろ言葉の意味の問題だけでなく、実在の在りかたから見た方が面白いと思う。
 時間は、無限分割できるのか。点の連続が線であるように、今の連続が時間だろうか。
 私達が住んでいるこの時空間は、今だけが存在するのだろうか。過去は、過ぎ去り虚無となっているのだろうか。未来は、私達の期待や思考の中にだけ存在するのだろうか。この私が言う「今」は、この瞬間なのだが、その瞬間というものは点ではなく、むしろ継続した時間を有する。そうでなければ、思考さえできないだろうし、音楽を楽しむこともできないだろう。
 この継続する時間の「今」は、幅があるのだが、それは脳内で電気的に生理的反応が生じているからだろうか。本当に、存在するのは、瞬間の方なのだろうか。
 もし、実在するのは、時間の幅がない「今」(過去、未来はない)だけであれば、その時、矢は止まっているように思う。
 タイムマシンで自由に時間を移動するシーンが漫画や映画にあるが、もしタイムマシンがあれば、移動した瞬間があり、移動した先、そこは止まっているのではないだろうか。
 このタイムマシンモデルだと、時空間は既にコンプリートされ、固定された状態にあり、その座標上を任意に移動しているように思う。この時空間の全体像は、固定され、つまり全体、そしてそのどの時点も、変化がなく止まっているように思う。この時空間の中で運動は、物体が占める座標上の位置の変化として表現されるのだろうが、こう考えると座標上で静止しているように思える。
 座標での位置の変化を運動と考えるのが、物理的な解釈での正解だろうと思うのだが、座標での位置の変化と考えると、やはり金太郎飴の切り口を見るようなイメージが沸く。(この金太郎飴の顔は切り口で変化し、笑ったり泣いたりするような特殊な金太郎飴になるが。)
 私達が住む、この世界の本当の姿は、どこかに過ぎ去った過去が保存され、これから来る未来も周到に用意されているのだろうか。キリスト教の神様は永遠であり、神に始まりも終わりもなく、世界は神が決めたように初めから終わりまで、救われる者、救われない者、全てが予め決まっているという世界観。そういう世界観であれば、人の視点を超えた視点からすると世界は静止したかのように見える、どのように観察するのか、動画で見るのか、静止画のコマ送りでみるのか、ただの静止画で見るのか、そういう違いなのではないかと思う。
 静止画のイメージを考える時、ゼノンの矢は止まっている。
 私の常識や、主観を考える時、客観とは違いがあるのだろうと思う。
 もし時間の方が非実在であり、この場合、時間は座標系のもとでの物体の位置の変化でしかない。逆に位置の変化がないところに、時間は存在しない。
 位置変化があると、そこに時間が生じる。位置変化を観察者が見るとそこには、時間が生じ、運動が生じる。観察者が、ある金太郎飴状の時空間の切り口を見るとそこには時間はなく、運動は生じない。
 ここでいう時空間は、ある物体の位置の変化を表す座標上の変化でしかない。こういうと、結局、言葉の用法の違いようにも思えてくる。時間があるのか、位置変化を時間と呼んでいるのか。この範囲では、言葉の問題のようにも思えるが、次のことを考えるとそうだけではないように思う。
 本当に、時間が、主観の元にあるのか、物体のような客観的な存在者なのか。
 時間が、主観の元の体験でしかないのであれば、世界は止まっている。(継続した時間というものなどない。)というのが本当の姿なのかもしれない。
 時間は、位置変化なくても、また、その変化を観察する観察者がいなくても、世界には時間が流れているのであろうか。ここまでくると、空間の存在も疑問視されてしまうが。
 ただ、自分の時間の存在の信念、そういう主観が正しいとも思えない。世界は、家庭や仕事の場とは、違う意味のあり方をしているのではないかと思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

因果関係について

2018-10-20 16:47:31 | 今とは何か(時間について)

    原因と結果、運命論者であれば、原因と結果が予め定められていると考えることに違和感はないだろう。私が生まれて死ぬまで指先一本の動きまで汗の一つまで、何事も定まった通りに進む。

    この時、原因と結果は成立するのだろうか。結果が予め定まっているならば、結果についての原因は、無限に後退していく事になる。因果の連続だが、どこに区切りをもたらしているかは、人の見方による区切りは、無限分割が可能だろう。私が生まれるためには、5万年前だろうとその父と母が原因にあり、その前にさらに遡及される。
    時々考えるのだが、使徒の一人であったユダは、イエスを裏切らないことが可能だったのだろうか。イエスの処刑の原因はユダの裏切りなのだろうか。
  ユダに自由意思があれば、裏切らないことも可能だった。そうすると、イエスの処刑はない。この場合、イエスはキリストになることができたのだろうか。イエスはキリストとしての定めがあるのであれば、ユダが裏切らないという意思をユダは自由に持つことができたのだろうか。
    ユダは、伝や翻訳にもよるのだが、生まれてこない方が良かったとキリストに言われているが、自分が生まれたことは神の御意志によるのではないかと思う。
  そこで、生まれなかった方が良かったと言われることほどつらいものはないと思う。人は、自分が生まれる環境を選んで生まれてくるわけではない。気がつくとそこに存在しているのだから。
  生まれたことや、行為の自由という選択の余地は、彼にはあったのだろうか。
  イエスは、ユダの裏切りを前もって知っているのだが、彼にはしようと思うことをしろと言い、止めろ。とは言わない。 
  彼は、結局、イエスを裏切り、悲惨な死に方をする。 
  これが、原因と結果ということだと思うのだが。
  良い死に方が出来なかったことも、予め定まったことだったのではないかと思う。
  定まった結果についての原因は彼にあったのだろうか。それでも、その結果について人が責任を負うことになるのだろうか。
  ユダも悔い改めれば救済されたのだろうか。
  悔い改めることが出来ないことも予め定まっているならば、ユダは初めから救われない。
  全てのことに原因と結果があるのであれば、初めの原因が作られた時、全てが静的に定まっているのではないかと思う。
  また、人の時間の理解は、本質的に原因と結果に基づくものだろう。過去とは原因であり、現在は結果である。現在は原因であり、未来は結果である。追憶は過去への思考であり、不安や期待は未来への思考である。これらは、原因と結果に基づく思考の働きだ。
  人は、行為を原因と結果に基づいて述べることになるが、時制が言葉にあるように、人の思考は時制、原因と結果、因果関係に基づいて理解されている。
  過去を、因果関係に基づいて理解した時、そこに自由の余地はないだろう。そうする以外に、何々が出来た。可能であったと言うことはできるが、実際に出来るか言えばもはや出来ないことだ。じゃんけんにグーを出して負けて、私はチョキを出すことも出来たというようなことになる。
  人が自由だというのであれば、過去に囚われることがない、現在が必要なのだろうと思う。因果関係に縛られた時間理解のもとに現在を考えるのでは、自由はないのではないかと思う。
 
  
     
   

不思議な感じ

2018-07-22 17:59:31 | 今とは何か(時間について)
  毎日、生きているのだが、いつも今しかない。日々に、日は暮れて、新しい日になるのだが、それでも、毎日が今なのだ。これを何十年と繰り返して、今、この歳になっている。
  後、何年かで子が大学を卒業して、後、何年かで仕事を卒業して、とか考える。何年後とか考えているけど、いつも今しかない。でも、その何年後かは、結局やってきて、その時には今になる。
  仕事に行って、早く5時にならんかなと思って、その時はやってきて今になる。
  私には、今しかないのだが、その今は、将来のことを考えて過ごし、過去を思い出したりして過ごしている。
  今しかないのだが、その今は次々と違う今となっている。違う今という表現をしたが、今自体は、常に今なのだろう。今の私の環境、状態が変化しているだけで、今というものが変わっているわけでもない。
  この変化は何なんだろうと思う。私が子供だった頃、その時も常に「今」だったわけだが、その今は、過ぎ去って、今でなくなり、残された記憶しかない。
  そう思うと、自分が居なくなる今も予想できるわけだが、そういうものも必ず「今」になる。常に今しかないのに、新しい今がやってくる。
  ある意味、今は、常に消し飛んでいっている。異なる場面へと移りすぎていく。映画のフィルムのコマが再生される度に次々に消し飛んでいくそういう気分がするのだが。
  この次々と消え去るリアルな映画の中に生きているだろうか、自分が居なくなる時というのは、フィルムの最後のコマが終わるときなのだろうか。
  こう連続する今を考えると、子供の頃から今まで、連続したフィルムができるわけだが、そうすると私は、何一つとして、違うことはできなかったのだろうと思う。一つとして、違っていれば今は存在しないというか、今現在のこの環境はないだろうと思う。違っていればと考えても、私には、今から一つとして変えようがないことしか、過去にはない。
  考えると、私には、色んな選択肢があったように思うのだが、今、という視点に立ち過去を見ると、今に至る選択肢は他にない。未来、これからを見ると選択肢があるように思うのだが、常に今に立ち、選択をしているのだが、その選択も、後から見るとこれしかないということになる。
  最終的に、私が居なくなる時、私が過去を振り返ると、これしかないという道筋というか、選択肢の連続ができているのだろうと思う。どのような選択をしていこうと、最終的には「これ」しかなくなるわけだ。
  その時に、ああしていれば、こうしていればと考えても、変わらない。こうするしかなかった、もしくはこうなることしかなかったということになる。
  変わらない過去を受け止めて、今を過ごすしかないのだろう。そういう意味では、選択肢があるように見える今、この「選択」しかできないわけだ。
  この選択が、毎日であり、今であるわけだが、そう観るとフィルムのコマは選択肢の連続なのだろう。
  どういうコマが次に来るかは、今のコマにかかっているわけでもある。そう考えると、コマの連続性を考えると、今のコマから次のコマへの変化というものは制限、物理的連続性、何らかの連続性があるわけだ。このコマは、子供の頃からずっと続いているわけだが、常にその物理的連続性なり、何らかの連続性の制限の基にある。
  そう考えると、私が今こうなるのは子供の頃からある程度決まっていたのだろうかという気もする。神様が敷いたレール上にあるような。