日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

自殺が悪であると考えること、人生に意味がないと考えること

2018-05-26 10:02:01 | 生きる意味
自殺は、悪いことだと考えている。そのことは、以前の記事に書いたとおり。その論旨は、生命の本質である生きることを否定する行為は、悪。いたずらに、自身や他の生命の存続を目的とせずに生き物を殺す行為は、忌避されていること。直感的に嫌悪感のある行為であること。悪は、人の価値観によるものであるので人の直感による忌避、嫌悪は、それ以上の理由を必要としないこと。
  一方で、「人生に意味はあるか」と尋ねられた場合には、私は、「人生に客観的な意味はない」、そういう答えを持っている。主観的に、自分の人生にどんな意味づけをするかは、人それぞれなので、そういう意味では、人生の意味は、人それぞれが決めることと思う。それ以上の客観的な人生の意味、人生と言われるものの普遍的な意味があるかと言えば、それはないだろうと思う。
  客観的、普遍的な人生の意味が存在しないのは、人生を横から眺める視点。そういう者は存在しない。少なくとも、自分ではないし、人の立場ではない。人生は、その中を生きるのであって、外に立つことができるものではない。それ故に、人生に客観的な意味を持たすことなどできない。
  神のプログラムとして、神の目的達成のための手段として人の生が、人それぞれに用意されているのであれば、人生には客観的意味が用意されていることになる。その意味は、人には神の栄光という以上の意味は理解できないであろうが。
  人生の意味を、客観的に捉えるには、それに見合ったスケール、定規が必要なのだ。この定規は、人生を測ることができるのだから、人生を盤上に乗せることができるようなものでなくてはならない。このようなものは、私の人生には存在しない。
  前置きが長くなったが、自殺が悪であると考えることと、人生に意味がないと考えることはどのように折り合うことができるのだろう。人生に客観的意味がないのであれば、自殺が悪だと客観的には言えないのではないだろうか。
  客観的な意味のない人生に自ら終りを告げる行為は自殺なのだが、そうであれば、客観的には自殺という行為にも意味はないということにならないだろうか。
  自殺に意味がないのであれば、悪たりえないのではないかと思う。一方で、自殺は生命の前提を否定する行為、無目的な殺し自体が直感的な悪と考えると、無目的という点では悪になる。
  ただ、そこには神のような客観的な視点ではなく、人の主観的な、直感による悪、主観的な視点ではあるが、多くの人に共感する直感、多くの人々の間で共通した主観性が担保できるであろう点では、間主観的な意味がある。
  「客観的に人生に意味がない」と言う際の客観性と、「客観的に自殺は悪だ」という際の客観性の違いには、客観的という語の意味が異なるのであろう。人生に意味がないという考えは、神の視点にたって客観性を考えているのだが、自殺は悪だという主張の客観性は、主観に基づく価値、その価値に基礎をおいた客観性であり、神の視点ではない。人の価値観という普遍性を利用した客観性の主張になるだろう。
  そう考えると、自殺は、神の視点による客観性から考えると、悪でもないということになるのかと思う。この場合の神は、個別の人に関心なく、悪や善というような価値も持たない客観的存在ということになるだろう。
  また、自殺は、善か悪かという問いは成立するが、人生は善か悪かという問いは成立しない。人生は、自殺のように、善悪を問うような行為ではないのだろう。行為の集合体が人生なのであろうが、それを善悪問うことは、最後の審判になる。そこで問われているのでは個別的な人生であって、普遍的な人生そのものではない。
  自殺が悪だという主張は、主観性の強い主張だ。客観的視点からは、そもそも悪という概念自体が客観的でない概念で、初めから価値観に基づく主観性の強い概念なのだ。
  人生に意味がないと考える時、その時、自殺を考えるのだろうと思う。人生には客観的に意味がない上に、主観的にも、「人生に意味がない」と考えると、そこに自殺が入る余地が生まれるのだろうと思う。客観的には悪いことはないと。
  再度考えるのだが、人生には、客観的に意味がないのだろうか。生きるという行為自体に意味がある。ここにいう意味は価値ということだが。何よりも、生きるということ。生存それ自体が価値ではないか。
  「客観的に、生きることに価値があるか」と訊かれると、「価値」を問うということ自体が、善悪を測る、尋ねる行為だと。価値を問うという行為に対しては、「「客観的に」価値を測る定規」は、人なのだと。
  意味や価値を問うということが極めて人間的行為なのだが、そこで、何度も問いを繰り返すうちに、人は虚無にたどり着くのだろうと思う。意味の意味をいくら尋ねても、その意味をさらに尋ねることができる。最終的には、そんな行為には意味がない。となり、虚無にたどり着くのではないかと思う。
  ネーゲルは、人生に意味がなくても、人はアイロニーを持って生きることができると主張している。このアイロニーの意味は図りかねるのだが、客観的な意味はなくとも、それを知りながら、四苦八苦しながらも人生を楽しむことも出来る、そこに客観的な意味がないと結論しながら。
  こういうところでは、人は、アイロニーな存在なのだろうと思う。


  






私の位置

2018-05-13 08:54:01 | 私とは何か
 私は、世界の中に生きているのだが、世界の中心である。私は、世界のほんの小さな存在、色んな意味で小さな存在である。無名の人、普通の人、大衆一般に埋没する存在に過ぎない。
  私は、この社会に埋没したある特定の視点から、世界を眺めている。この私の眺め以外に、私に世界は存在しない。この世界は、私の視点からしか眺めることはできない。
  世界を物理的に記述しようが、歴史的に捉えようが、それを理解しているのは、結局は私の視点からのことである。客観的な記述は、私以外の様々な視点においても同意が可能な内容が含まれているということに過ぎない。私に、私以外の視点を与えるわけではない。
  この絶対的に世界の中心たる私が、他者からするとちっぽけな存在であり、私の存在は環境の一部にすぎない。このことは、私から見て他者が環境に過ぎないことの裏返しになる。
  この世界の中心である私が、世界を眺めて自身を小さな存在と考えるのは、おかしさがある。私の世界の鼎立は私の存在に1人かかっているのにかかわらず、その存在を小さいと考えている。私の視点としての絶対性と、社会的地位、評価というものを、私を私という対象として眺めた時に同一の次元に混同して、同レベルで考えると、私の視点としての絶対性、私の意義を失くしてしまうのだろう。
  この時、私は世界は、私の世界でなく、他者と共通するフィールドの世界にあることを意識している。他者と共有する公共世界を、私の私的世界観からは別に前提している。その時に、私はちっぽけな存在だと自分のことを考える。
  何故、自分が公共世界においてちっぽけな存在と考えるか、それは誰も私を褒めたり、もてはやしてくれないから。自分が少しでも偉大だと思えるのは、他者が私の存在を大きいと考えているであろうと、自分が考えている時だ。
  私の世界において、私が、自身の存在の大きさを対照するのは、公共世界における他者の振る舞い、そこに一喜一憂しているのだ。他者の振る舞いを引照点として自身のおかれている世界における位置を特定しているのだ。
  まあ、これは、平たく言ってしまえば給料明細をみれば自分が自分に相対している世界からどのような評価を受けているのか、簡単に知ることができる。もっとみじかには他者の言葉づかいや態度というものから、誰もが自分の位置を特定している。そこに喜びや悲しみを見出す人が多い。
  私の存在を、私がどう私を考えているか、このことは、私が私への他者の振る舞いをどう考えているかに拠っている。自身の位置を世界の中で特定するには、私への他者の振る舞いを座標として使用する。
  私は、私の世界のただ1人の住民であるにもかかわらず、そこに公共世界での座標を必要としている。そのようなものが必要なのだろうか。ただ1人、世界を体感できる絶対的中心であるのだが、そこが公共世界のどこなのか常に気にして過ごしているのだ。
  公共世界のどこに位置しようが、私の絶対性、私が常に私の世界において中心にいるという事実には全く変わりがないにもかかわらず。
  他者がちやほやしてくれようが、くれまいがそれをどう考えるか、自分の世界では、全く私の勝手のはずなのだ。そのようなことを気にする必要は、公共世界における生存上の条件を満たす範囲で行えばそれで良い。それ以上の公共世界での位置づけを、自分の世界で行い、期待をして、そこに失望する。そして、失望の上に自分が小さな存在だと考える。
  世界は、私から見た風景。その風景に私は視点としてはあるが、私自身は写らない。自分の撮った写真に自分が入っていないのと同じこと。ところが、公共世界の座標の位置づけというものは、私が入った、写りこんだ写真、世界を横から見た写真を撮っていることになる。今流行りの自撮りを観念的にしているようなものだろう。
  自撮りをして写真うつりが良いか。そこに一喜一憂する。もう自撮りを止めればいいのだろうと思う。何か安心を得るのに、他人を引照点にする。他人を引照点にしなくても、私の絶対的中心性は変わらないのだから、公共世界上の座標のどこを放浪しようがそれで良いのではないかと思う。
  単純な、偉さ、そういう気分を味わうことに喜びを見出すのを止めれば、私の世界は、また世界の見え方は変わるのではないかと思う。

自殺は悪いこと?

2018-05-12 06:52:41 | 生きる意味
子  自殺は悪いことと言える?
父  それは、言えると思うよ。人を殺すことは、悪いことでしょう。死それ自体は、人にとって基本的に悪いことだ。誰もが避けることができるのなら避けたいと思うだろう。生に満足した後に死ぬことがあればそれは、悪いことではないかもしれない。ただ、それも期待した人生を送った後での話しでしかない。長寿の上の大往生であれば、それは死も悪いことでないのかもしれない。死は、生命に基本的に組み込まれた出来事である以上、受け入れる必要もあるのだろう。ただ、それを肯定的に認めるのは、その生に何らかの意味を見出すことができるからだ。そこに意味を見出すことが出来ず、絶望して死ぬことは肯定的に認めることの反対だ。
  生まれる前の状態が悪いことでなければ、死ぬことも悪いことでないという人もいるが、生まれる前は喪失ではない。死は一つの可能性の消失、喪失なのだ。だから、人は子供の死のような早すぎる死、突然の事故死、このようなものを喪失と考える。まだ、生まれていない命は喪失ではない。自殺は、人の可能性を途絶する死なので悪いことだ。自殺が、不幸な出来事であることを否定する人は少ないだろうと思う。不幸な出来事は、悪いことであり、それを招く行為は悪い行為だろう。
  眼の前に、避け得ない死が迫っている状況での自殺、自決と言われるような行為や、医師が患者の痛みを取り除くために麻薬を投与する際に死期がいくばくか早まるとか、延命治療を望まないということは、そこには選択の余地がない避け得ない死が前提になっている。ここで、それを議論とすると安楽死の是非を問うような話になるので、今話す自殺とは切り離して考えた方がいいと思う。
 
子  自殺に追い込まれた人は、そうせざるを得ない環境があったから、選ぶことができなくなっているだと思う。そういう状況で、死んだ人を悪いと言うことはできないんじゃない。
父  精神的に追い込まれて正常な判断が出来ないということは、そうだと思う。ただ、正常な判断ができない状況下での行為だとしても、正常な意識の有無にかかわらず、結果的に行った行為が間違った行為となることはあるだろう。一般に、心神喪失下で起こした殺人は、責任能力がないことをもって無罪になるけど、殺人が悪くないということではない。責任を当人に問えないということでしかない。その点で、正常な判断能力を失った人を責めることは酷だと思う。
  私は自殺した人が悪いと言っているわけではない。その人の人格が悪いということでなく、その行為が悪いと言っている。自殺した人の尊厳を守るために、自殺は悪いことではないと考えてしまうのは、そこに論点のすり替えが起きている。自殺が何故悪いという問いは、自殺という行為についての問いであって、自殺した人が何故悪いという問いではない。行為と、人は切り離して考えるべきだろうと思う。自殺という行為は悪いことだが、それを行った人が悪いということはではない。死者を批難すべきではないと感情はあるし、そうだと思う。最後に行った行為が悪い行為であったとしても、生前には良い行為を行ったであろうし、悪い行為も行っただろうと思う。人は、良い行為、悪い行為を双方を常に行いながら生きているのだと思う。最後に、不幸な巡り会わせで悪い行為の順番が来たのだけど、だからといってその人の全てが否定されるわけではない。その人を評価するのであれば、全体の生を見て評価すべきだろうと思う。だから、その人の行為の一部をもって、その人を評価するのは不当だと思う。ただ、その人を肯定するために、その人の行為の全てを肯定する必要はない。人は誰もが、善悪双方の評価を受ける行為しかできないから。良い行為しかしていない人は存在しないと思う。
  もう一つ思うのは、自殺した人と、自殺を踏みとどまった人の違いはどこにあるのだろうか。その人にとって自殺は必然なのだろうか。自殺に追い込まれた人にとって、死を選択したことは必然だったのだろうか。ほんのわずかな、環境の違い、例えば、窓の外を見た時に虹が出ていたとか、そんな劇的なことがなくても、ほんの少しの思いなし、脳内の思考の動きで、死を選択しないこともできたのではないだろうか。
  積極的に自殺が悪いことでないという人は、自殺をする自由、そのような権利的なものを主張する人もいるだろう。この場合での自殺は、正常な判断能力のもとでの判断での自由を意味しているのだと思う。そうでなければ、自由と言えないだろうから。こういう主張のもとの自殺では、自殺した人は自由意志で死を選んだことになる。自由意志での死は、死を選ばないこともできたのだろうと思う。パラレルワールドAという世界のA氏は死を選択したが、A’の世界でのA’氏は、そこで死を選ばず踏みとどまることができた。あらゆる可能な世界においてA氏は死ななくてはならない、そうであれば、必然と言えるだろう。この場合は、自由意志は否定されるのだろうと思う。自殺の場合は、A氏は死ななくてはならない。環境から必然性があるとまで言えるのだろうか。
 
子  自殺を選んだ人は、死を選んだんだから他に選択はなかったんじゃないの。
父  今から、じゃんけんのグーを出すか、チョキを出すか、君は選ぶことができるかい。
子  それを選ぶことはできるよ。
父  では、今、チョキをだしたとしよう。 さあ君は、チョキを既に出した後に、「私はグーを出すこともできた。」と言う。それとも、今となっては「チョキしかだせなかった」と言う。私は、君はグーを出すこともできたと信じているんだよ。この会話を始めた時から、既にチョキを出すことは因果的に必然的に定まっていたのかもしれない。君の脳の思考回路からすれば、私がこういう発言をした時点で、チョキを選択することは必然的だったのかもしれない。こう考えることもできる。ただ、私は選択するまで、実行するまでは定まっていない、確率的にどちらにも成りえたと考えているんだよ。グーが生であって、チョキが死であったとして、どちらを選択することができたか、選択の後になって可能性を考える時、それが必然か否かは、自由意志の考え方に帰着するのだろうと思う。
  自殺した人のまわりの一言がほんの少し違えば、朝出かけるときにほんの一言違う言葉をかけてあげることができれば、ほんのわずかな違いで踏みとどまることができたのではないか、私はそういう可能性を考える。そうでなければ、自殺という結果から、それを一つ一つ過去に遡って出来事の連続を追いかけていくと、どの出来事も必ず起こらなければならなかった必然、突き詰めて行くと、その人が生まれた時からの連続した出来事の全てが、今の結果につながっている。因果関係を強く考えていくと起きた出来事の全ては必然であり、それはその人の生まれる前の歴史も含めてそう考えざるをえないようになる。そうすると、人には自由などなかったということになる。
 
子  自殺は悪いこと、悪いことは、悪い。という説明だけど、どうしても悪いことは悪いと説明されても納得できないんだけど。
父  人を殺すことは悪いこと。生命は、生きることを目的として存在している。生命の定義のようなものだ。それを否定する行為は、生命の目的に反している。だから生き物を殺すことは否定される。トマス・ネーゲルという哲学者が言っているのだけど、生き物を殺すことを肯定できるのは、自らが生きることを理由として殺す。この時にのみ肯定ができる。戦争のような環境においてさえ、そうだ。兵士と兵士は、面と向かって互いを殺す力を持っているから相手方を殺すことが正当化される。降伏した無抵抗な敵を殺すことは、兵士であっても禁止されている。それは命を殺すことそれ自体がはじめに禁止されているからだ。相手を殺すことが許されているのは、自らの生存を賭けているからだ。そこに生きることが前提されているからこそ相手方の命を奪うことを正当化しているのだ。
  だから、対抗する力がない人を、一方的に人を殺すことは、殺戮であり、生き物の原則、生きるという目的を奪う行為であり悪いことだ。
  命を奪うことは暴力だ。その暴力は悪い。この暴力が正当化されるのは、生存をかけて人が戦う時だけだ。自殺は、他人でなくその暴力が自己に向かっているのだが、そこに生存をかけるという事実はない。単に暴力であるだけだ。だから、暴力は悪い。それは他人に向かってなく、自己に向かっていてもだ。人は、生命である以上、生きることが目的だ。それを奪う行為は、自己に向かおうが悪い。
  「風の谷のナウシカ」に出てくるセリフなんだけどナウシカは、「私達は血を吐きつつ、繰り返し繰り返しその朝を越えて飛ぶ鳥だ。」と言う。血を吐きながら飛ぶことに価値、生きるという行為があるのだと思う。それを否定する行為は悪い。
  悪いということは、一つの倫理的判断だ。死が悪くないと考えると、生も悪くない。地上には生命が満ちているが、その生命も物理的には素粒子の雲のような集まりに過ぎない。物理的な観点、人の主観のようなものがない純粋に客観的な観点があるとすれば、その物理的な世界にはなにも価値のあるものはないのだろう。ただ、広漠とした空間に素粒子が浮遊しているだけだろう。時空間と言うような視点すらないのかもしれない。そういう視点から、それは死は悪いことでも何でもないのだろう。ただ、これは悪いとか、そういう言葉を使う世界ではない。そもそも人の言葉で表現できる世界ではない。悪いということは、初めから人の主観に基づいた言葉なのだ。そこには倫理的判断そのものが入っている。悪いということは、一つの直感でもあると思う。そこに客観的根拠、物理学的な説明は与えることはできないのだろうと思う。だから悪いことは悪い。これが理解できないのは、悪いという言葉の性質が理解できていないのだろうと思う。
  言語的な面から言えば、悪いことが、何故悪いか、悪いことは禁止されていることをだから、言葉の意味自体にそれが含まれている。やってはいけないから悪いことなのであって、悪いことだからやってはいけない。他の言葉に置き換えることもできるだろうが、結局はトートロジー(同語反復)に帰ってくる。だから、悪いことは悪い。
  自殺が悪いという本質とは違うけど、自殺は残された者みなを傷つける。自分が大切にしている人を傷つける。それも、残された者は、傷つけたことに対して抗議することもできない。このこともよく考える必要がある。
  抗議のために、自殺する人もいるが抗議の声は、届くべき人には届かない。その人を愛する人が傷つくだけの結果になる。愛する人を失くした人は、自殺は悪いことではないと考えたくなるかもしれない。自由意志のもとに、正当に死を選んだと。そうすると、そう考える人自身も自殺を選ぶ傾向性が生じるだろう。そういうところで、連鎖が生じる。そのことも波及的な効果だが、悪い結果に繋がっていると言えると思う。この波及した結果について、死者に問うこともできないのだが。
 
参考
上記の一部は、トマス・ネーゲルの論文集「こうもりであるとはどのようなことか」に納められた論文(死、戦争と大量虐殺、その他)を参照した意見です。もちろん、上記はネーゲルの考えを正確に伝えているものでもありません。

主観と客観

2018-05-05 17:33:30 | 日記
  連休も、明日でお終い。連休中は、トマス・ネーゲルの論文集を読んでいた。
  自分の理解をまとめるために、トマス・ネーゲルの読書感想を少し書こうと思う。
  彼は、主観と客観性について語っているのだが、概略は以下の感じ。正確な理解ではないと思うので、興味のある場合は、直接、彼の本を読んで欲しい。
  客観性と主観性は、人が持つ視点の両極にある。視点が二つというよりは、同じ視点の両端にあるようなイメージ、彼の表現ではないが、左目と右目で遠近感があるように見えるように、両極から物事を見ることができて初めて、ものを正しく見ることできる。
  世界は、客観的に存在するものや、事実というものがある。それは、主観的な視点から捉えたものや、事実とは異なる。事実は、主観とは別のところに客観的事実というものがあるように思える。
  が、客観的なものの見方というものも、主観から離れて見ることができているわけではない。主観側よりも客観側に寄って見る状態にあるその程度、人が見る以上、人の視点を離れているわけではない。物理学の数式のような表現によっても、それは程度の問題であり、完全な客観性を得ている訳ではない。
  世界は、主観が提供しているように見えるということも、これも一つの事実。木の葉っぱが緑色に見えるのは、人間の主観的な現象なのだが、(虫や犬ならば、違ったように見えよう。)この主観的な視点で起こっている、見え方というものも、客観的に存在すると言える。そうでないならば、人間の世界に色はない。
  世界の側に、色というものがないとしても、人の世界に色があるのは、それ自体を認める必要がある。絶対に、人間の手が届かない神の視点があると考えると、それが究極的な事実のように思えるが、それよりも、主観を含めた色のある世界というものを客観的に認めよう。
  客観的に考えると、人生は空しい。主観の世界では、世界からみれば実につまらない出来事を大層な一大事と考えている。これも、遠近法で、どちらの視点も必要。生きるためには、主観が必要なのだ。ところが、主観に拘泥していると、実につまらないことを気に病むことになる。世界から見れば、自分の失敗など、大した出来事ではない。そう考えることも必要。要は、バランス感覚なのだ。
  まあ、大体、こういう感じのことが書いてあったように思うのだが、このあたりデヴィッドソンの意見で、人が見て存在していると考えるものが事実ということは確率的に確からしい。妄想や、幻覚であることは、なくはないが、確率的に低いことなので、多数の者で観測できる多くのことは、現実と考えないと、確率的に起こりえないようなことを考えることになるので、それよりは、その場合は事実と考えよう。そういう意見に何か、似ているところがある。どこが似ているかは、よく考えていないのだが直感的に共通するところがあるように思う。客観性の基準をデイヴィッドソンが言及しているということなのだろうか。このあたりは、いつかまた意見をまとめようと思う。

  以下は感想
  自分の人生を見て、実に空しいものがあると感じることがある。年齢的に総括できるような歳、予想がつく歳に立って、そう客観的視点に立つとそう思える。
  主観的立場では、その空しい人生において一喜一憂してあたふたしているのだが。
  客観的立場に立てば、それでも生活するために、自分には当面やらなくてはいけないことはある。主観的にはそれに満足しておこう。

彼の本 「コウモリであるとはどのようなことか」、「どこからでもないところからの眺め」
どちらの本も、かなり難しい。私は、言っていることの半分もしくはその半分も理解できていないと思う。
でも、細部は読み飛ばしても、なんとなく言いたいであろうことは分かる(気がする)。誤解している可能性も結構あるが、それは読み返ししての、自分の理解の不足と間違い探しと思えばそれで良いと思う。
題名が面白いので、興味が出て買っただが、気力が続けばけっこう面白い。