日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

何故悪いことをしてはいけないのか。

2016-07-31 17:42:09 | 日記
  人は、何故、悪いことをしてはいけないのか。うちに永井均さんの本があるので、子が読んで面白いと言っていた。
  本では、悪いこと自体はなくて、世の中に不都合なことが悪いとされているという説明があったと思う。
  私の考えでは、むしろ悪いという語自体に悪いという概念が含まれている。循環論法になるんだけど。カントの定言命題風に言うと、仮定なしに悪いということ、どんなものであれ悪いという評価がされると、それは禁止や否定の意味を持つ。「悪いことをしてはいけない。」これが、「もし悪いことをするべきである。」となると、それは悪いことでなくなっている。泥棒を職業にする人は、泥棒をすることが良いことになる。悪いは、この点で相対的だ。泥棒を職業にしていて、泥棒をしないことは悪いことになるだろう。
  悪いことは、語自体にそういう否定の意味があるから自動的に、論理的にそうならざるを得ない。
  では、嘘をついてはいけないではどうだろうか。嘘をついて良いか悪いかも、場合によりけり。この場合、悪いことのように直接的に否定が帰結するわけではない。
  何故、嘘をついてはいけないのか。

見ていない木は存在するのか。

2016-07-24 17:41:22 | 日記
  今日、いつも行く温泉施設に行ってきた。週末に時折行くことにしている。
  1人で行くので、知らない人ばかりなのだが、1人で来ている人も多い。そこには、露天風呂があり、植え込みがある。露天風呂からいつもその植え込みを見て、自分が来ていない時も、ここの植え込みには、この木があるのだろうと、思う。
  この植え込みの木は、私は数週間に1度くらい見るわけだが、私が見ようが見まいが、そこにあるのだろうと思う。ただ、あることが分かるのは私が見る時だけだ。世界中のものがそんな調子だ。昔に行った旅行先の場所についても、今もあるはずだが、あるだろうと思うだけ。
  今までに、多くの人と出会ってきたが、その人も今もどこかにいるだろうと思うだけ。きっと元気にしているのだろうが、調子を崩しているのかもしれない。
  世界中の多くのものが、この調子で私は世界にいて、そこで目にして初めて存在を確認している。一方、私を見られる立場と考えると、多くの人にとっては、私はいないのも同じ。存在が確認できないから。有名でない私は、世界にとって、私が風呂場で偶然に出会う人達と同じようなもの。通り過ぎれば存在が忘れられる存在である。
  有名であっても、結局は忘れられる時が来るのだろうが、小さな世界、会社や組織でそれなりの立場にあっても、世界から見ると、似たりよったり、多くの人がそのような存在である。
  私達は、この流れいく世界の中で漂う塵のようなものだ。世界その物さえも、塵のようなものなのかも知れない。



日本を褒めるが気持ちが悪いTV番組

2016-07-23 21:20:27 | 日記
  最近、日本人がすごいというような、テレビ番組が多い。日本の職人を外人に紹介するとか。
  見ていると気持ち悪い感がある。職人技の紹介はまあ面白いのだが、スタジオにいる芸能人のコメントが絶賛ばかりで、台本通りなのは当たり前なのだが、ここまで日本人を褒めて何が面白いのか。外人が褒めるなら、まだしも、日本人が日本人を最終的に褒める構図、気持ち悪い。
  あたりさわりがなく、政権与党に圧力をかけられる心配もなく、スポンサーの心配もない。みなが長い物にまかれていく中での、愚民政策の一つかと思えるほど気持ちが悪い。
  せっかく、外国と比較するなら日本がダメなところを徹底比較してもらいたいのだが、そういう社会的に意味が生じる番組はない。昔はあったのだが、どんどん日本を翼賛する番組ばかりになっているように思える。
  

主語と述語から考える世界観

2016-07-16 18:22:59 | 主語と述語について
  主語と述語の関係は、ライプニッツの意見であれば主語の概念に述語が含まれている。「人間は動物である。」と言えば、人間という概念の中に動物が含まれている。「イチローがヒットを打った。」と言えば、イチローという概念の中にヒットを打つ。ということが含まれている。
  この調子でいけば予想できることだが、イチローが行うことの全てが予め、イチローの概念に含まれることになる。人間で不可能なことは、現実化されないので含まれる範囲が限られたものであることは確かだが、世界は予め神に定められた世界観になる。
  主語と述語の関係が、上手く収まっている文。言い換えると意味のある文は、世界を正しく言い表している文になる。この世界は、文で表現される時には、一つの事実として世界からその一部が切り取られる。
    では、事実とは、主語と述語の関係にあるのだろうか。人が事実を表現しようとする時、どうしてもそこには、主語と述語が必要になる。日本語は主語を省略できるが、その時には主語が隠されているだけで、主語が存在しないわけではない。
  文で世界を正しく表現することは、事実を語ることになるのだが、この正しくは何を持って正しく表現になるのか、真偽が問題になるわけだが、文に対する真偽は何と比べて真だと言っているのだろうか。
  事実は言葉によって主語と述語により表現されるのだが、世界を観察してこれを表現する言葉が、世界の側と一致するかと言えば、必ずしも一致しない。極端に語彙が少ない者は、表現できる世界は身近なことの一部に過ぎないだろう。語彙が多ければ世界と一致するかと言えば、必ずしもそうはならない。世界の側と、言葉はやはり異なるものだ。同じものにはなりえない。
  言葉を使って世界を表現して、それが正しいかどうかを言葉を使って検証するのだが、言葉を使って言葉が世界に一致するか検証するのだから、その検証も言葉に依存せざるをえない。そういう意味では、言葉で事実と考える物が、世界の側の事実であるかどうかは怪しいものだ。人が考える事実は、主語と述語関係において表現されるのだが、神でない人が、主語にどのような概念が含まれるのかを確実に言えるわけではない。
  主語と述語の関係は、世界の存在の仕方の一つの見方である。世界に存在するものは、主語と述語により結局説明をせざるを得ない。人が世界に存在するものを理解する時は、主語と述語の関係において理解をする。
  主語と述語の関係は、単純なことだが、人の世界の見方、ありようを規定している。
  そう考える時、自分の言葉や考えというものは、世界そのものに見えるように思えることも、結局、1人の考え、相対的なものに過ぎないとも思える。


意味の意味 雑感

2016-07-02 16:25:08 | 人生の意味

  「意味」の意味は何か、意味が分かっているから問うているのだろう。意味が分からずに問うことはできない。かといって、意味を明確に説明することは難しい。

  人は、何らかの意味を尋ねたくなるものだ。何らかの理由があるから、何かが存在しているだとか。何のために、何をしているだとか。生きている上で、何のために生きているのだとか、何のために仕事をしているのだとか。何らかの意味を求めて生きている。実は、何のためでなく、理由はないが生きているというのが、私が思う本当のところなのだが、この本当のところに、何か意味をつけたくなるのだ。
  意味がないということに、意味がないことを受け入れることは、一つの仏教的な態度だと思う。キリスト教的態度であれば、神の栄光を称えるために人が存在しているというような理解になるのだろうが、何も意味がないということを受け入れることは、無常を受け入れることになるだろう。
  この意味のなさを受け入れるということは、頭で分かっても実態として受け入れることは難しい。人にちやほやされたいとか、偉いと思われたいとか、そういうことを求める時に、何か意味をそこにつけてやりたくなるのだ。
  意味がないんじゃない。こんなに意味があるんだと、その時に自分の偉さを自分で認め満足したい、そういうところに意味、生きる意味というものを押し込んでいる。それが、意味がないと考えるのか、社会にとって意味があると考えるのか。自分ひとりの満足で意味を自分で満足できない時、ほぼそうなのだが、社会に、まわりの人に意味を認められたいと考える。そのような、人に認められた思える時に、自分自身で意味を認めることが本当にできるのだろう。それまでは、自分が認めた意味など、自分でも信用できず、意味づけることができていないのだ。
  世界に意味があるとすれば、それは自分が意味をつけるものなのだが、その自分が意味をつけるだけでは、意味をつけることに満足できない。自分の世界における意味なのに、他者の意味付けに依存する。
  別の見方をすれば、他者と自分との意味の共有、それを人生の意味とか、生きる意味とかいうことになるのだろうが、人は、本当の意味で人と一緒に生きることができるのだろうか。それぞれの(自分の)世界に、人は生きている。世界は、人に開示されているが、そこで世界を見ることができるのは、自分ひとりしかいない。横に妻がいても、彼女はそこに違う世界を見ている。同じ世界を共有することはできない。この意味で、世界は無常で移ろう。永遠の一つの世界などなく、その人の世界があるだけだ。
  この世界の意味と、人生の意味、私の存在の意味、意味の意味、
  世界の意味は、意味の意味をしることができれば、それが世界の意味であり、また人生の意味であり、私の存在の意味であろう。
  全てのものに意味があるとすれば、意味の意味は世界の意味を意味することになるだろう。意味が何を意味しているか、それは存在が何を意味するのかを言っているのだと思う。
  ただ、この意味というものも、意味はない。意味という言葉には指示対象がないのだ。抽象的存在者である意味というものも理解しがたい。幻想なのだろうと思う。その時、世界は無常であり、流れ去るものだと思う。
  人は、幻想の中に、意味の中に、意味のプールの中で泳いでいる。この流れは、一つの幻想なのだが、幻想もリアル、現実でもある。
  人は、食べていかなければ生きることはできない。一つの歴然とした現実だが、食べていけてもそこに、何か意味という幻想なしには、また生きていくことも難しい。それが幻想と知りつつも、幻想に意味を、幻想を現実と信じて、幻想ということを忘れやっていく。幻想といえども一つの現実、幻想を幻想と呼ばなければ現実でしかない。
何かを、言葉で意味づける時、それが幻想になるのだが、言葉によらない現実は幻想ではなく、本当の世界、私の世界だろうと思う。子供の笑顔を見るときや、きれいなものを見た時の気持ち、これは幻想ではなく現実である。これも、言葉に直して、噛みしめると幻想になっていく。