日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

5分前世界創造仮説

2012-05-26 16:27:58 | 日記
バートランド・ラッセルが遊び半分でいったような次のような仮説がある。

世界は5分前に創造された。としても誰も反証できない。(翻訳文とは異なります。)

こう言われると、奈良の大仏や、万里の長城はどうやってできたんだ。恐竜の化石もあるじゃないか。と言いたくなるのだが、この反証材料も、5分前に1瞬にしてできたんだ。以下、お前の10分前の記憶も、5分前に作られたものだ。という感じで反証は反証されてしまう。
 
壮大な設定なのだが、この5分前ってどうなってたのだろうか。

5分前に一瞬できたのは、ものや記憶だけなのだろうか。それとも宇宙の歴史137億年も、変な話だが一瞬に圧縮して作られたとしたらどうなのだろう。宇宙の歴史事実全てを経由して5分前に作られたとすれば。


→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→137億年の長い時間T1系が
   ↓ 圧縮する。(時間を加速する。ジョジョスタンド使いホワイトスネイクのように。)
   ・5分前の点の時間T2へ(点なので時間と言えないか、間がない。)
            
仮に時間の流れを加速し、5分前の一瞬に圧縮して世界を作ったとしても、圧縮した歴史が作られた世界にあるとすれば、世界は5分前にできたのでなく、やはり137億年前にできたことになってしまう。

でもこの場合、5分前と言っている自分は、その瞬間に立ち会ってそれに気がついているのだから、137億年の歴史の外に立っていなければならない。
(中にいると時間が加速されて一瞬で作られたことに気がつけない。(時間が加速していようとその時間の流れの中では、生物は時間が加速していることに気がつかない。))

5分前に世界ができたと言っている自分は、137億年とは違う時間経過の中にいて、これに気がついた訳だから137億年の歴史の時間軸と違う時間軸を同時に持っているということになる。

→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→137億年の長い時間T1系が  
   ↓圧縮する。
   ・T2系 ・から5分後、今から5分前に世界ができたと言っている私がいる。
       この点を見ることができるのは、137億年の外T2系から見ている私
       私が20歳なら、T1系の20年分の歴史も含めてT2系で5分前に生まれたと言っている。

→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→137億年の時間軸T1系

   ↓下の時間軸に合流する。
   ・→まだ、世界創造から5分間しか時間が経過していない時間軸T2系 

5分前に世界ができたことに気がついた私は、137億年の時間軸にも20年間は存在するのだが、下の時間軸にも合流時には存在する。(この5分よりも前には、下の時間軸では私は存在しない。この時間軸が合流した時点で同時に存在した私は一人となってしまう。仮に異なる時間軸が合流したとしても、5分より前に世界がないことを知っている私は、この時点では二人いなければならない。そして、私は瞬時に時間が進みだしたことに気がついている。)

時間系列が二つあり、一方が合流したもしくは世界を並行移動した。

→→→→→→→→→→→→→→→→137億年の時間軸T1系
                ↓合流 又は次元を並行移動
                →時間軸T2系又はT1’系 


T2系やT1’系で世界は5分前にできたと言えると思うのだが、これに気がついた私(5分前に時間が進み始めたことに気がついた私)は、どんな能力を持っているのかとは思う。
そして、私はやはり5分前に世界ができたことを皆に知らしめようとしても証明不可能だし、バカにされるだろう。世界の真実を知っているのは私だけなのに。もちろん誰も反証もできないが。(T1系込みのT2系、T1’系なので)
でも、考えるとこのような時間の平行移動や合流ということは、多重世界、多次元の成立を考えるとありそうな気もするのだが。そして今この瞬間にも次元を移動しているような気もするが、能力者でない私は気がつかないのだろうと思う。

なお、ラッセルの5分前世界創造仮説は、私の書いたことと,言いたいことが全く違うので興味のある人は、勁草書房「心の分析」講義週憶p188を参照して下さい。
ラッセルの設定では、「5分前に全く実在しない過去を「想起する」」のであって、本当に経験される必要もないし、次元の移動のようなことは考慮されていません。
過去と現在には、論理的には何ら連続性が必要ないということを主張されています。

意味

2012-05-12 11:02:24 | 日記
意味について最近考えている。意味ということ自体の意味を考えるのだが、物には名があり、名が示す意味はその物だが、物自体の意味が何か。

物自体に意味があるか無いかは、人がその物の使用目的から考えて、物に意味を見い出す。この時に言う意味は、使用目的、目的遂行のためにその物が存在しているという考えを意味と呼んでる。
目的遂行のための存在が意味であれば、目的は人が決定しているだから、人が目的を解釈すること以上に意味は存在しないということになる。この点で、物事は人の解釈以上の意味を有さない。
意味は、人に作られるものであって、初めから物に存在する意味を人が発見するものではない。意味を見つけ出したということは、その人が、ある文脈の中で、その物の役割(意味)を構成(解釈)したということだと思う。(ペンを見つけたとしても、その意味は字をかけば通常のペンの意味だが、それで頭をかけば孫の手の意味、もっと違う使い方を見つける人もいると思う。高級ペンであれば、むしろ書くこと以上にそのペンは高級であること、地位を示すことに意味がある。)
であれば、物事の側には意味がないということは、世の中に存在する意味や意義は全て、人が構成した意味や意義ということに帰結する。

言葉で構成される意味というものは、初めから人が使用する言語である以上、その範囲内でしか構成ができない。そう考えれば、仮に言葉を超える意味が存在するとしても、その意味は言葉では表現できないし、言葉で表現できない意味は、言葉を使用して理解する思考では理解できない。だから、そのような存在は仮定をしても理解不能ということに帰結する。

このことは、意味について考えても、世に絶対的な意味というものなどない。言葉を超えた意味など意味として理解できないことを言っている。
全ての意味は、人が構成した合意内容(個人の中でもその人自身が自身に合意した内容)でしかなく、この合意も世の流れ、言葉の移り変わりによって変化していくものでしかない。

世間では、様々な物に意味を見い出し、色々な人が苦労をし、争いを繰り広げているがそれも、この意味ゆえのことだ。この意味が、幻のようなもの、解釈、合意に過ぎないことは、知っているのか、忘れているのか。
それでいて、この幻を互いに合意すべく努力し続けなければ社会は成立しない。個々人、互いの意味をぶつけ、そして両者の意味を理解しあうこれが社会的活動、いわゆる創造的、クリエイティブな活動なのだと思う。
我々は、意味の在り様を気にしようが、気にしまいが、結局は意味に囚われ生活せざるを得ない。むしろ無意味を受容することの方が難しく、言語活動を通して結局はこの無意味ということにさえ意味を見い出すようになるだろう。

おまけ
ペンは物を書くために存在するのだから、それがペンの意味だが、違う使用方法があるからと言って、違う使用方法がペンの意味にあたるのだろうか。という疑問は残る。ペンの本質を考えれば、書くことがペンの意味であって、それ以外の目的は派生的であり、むしろそのような使用方法は、ペンではないとさえ言える。
この時に、ペンと言う言葉には本質的に書くことが含意されており、名詞の中に既に意味(使用方法)が決定されているということも言える。名詞の中に意味が決定されているとき、名詞とその指示する使用方法が決定されている時には、その言葉を使用するにはその意味を知っていなければならないので、ペンの意味は書くことに決定されてしまう。
こうすると、名詞の中に既に意味が規定されている以上は、言葉の意味が移り変わっていく以上には意味は解釈できないとも言える。
ただ、ここで本質という言葉を使用したが、何が本質かということについては解釈の要素が入ってくる。そしてそこに争いと合意が生まれるのだろう。

風景

2012-05-04 19:02:54 | 日記
今日、久しぶりに川岸を自転車で走った。
いつも感じるのだが、堤防の上から眺める風景は広い。街中に住んでいると開けた場所がなく、視界にはいつも建物があり数十メートル程度で遮られてしまう。
ここでは、遠くの山や、ビルがよく見渡せる。
この風景の中に自分ひとりがいることは、そして風景の中で、私が立っているこの場所から、私には世界に何にも関わりがない。この瞬間に私がいなくても、気がつく人は誰もいない。
世界と私は、隔絶しているのだが、それでいて、この世界は私の視界の中に存在する。もし私がいなければ、この世界は消える。無論、私の中だけで、完結し消えてしまうだけだが。
川を眺めているとボラが飛び跳ね、チャポンと音がする。大きなものは、30センチくらいはある。魚が水面から跳ねた時に、何が見えるのだろうかと思う。
私が、跳ねることはないのだが、跳ね上がったときに見える風景は何か違うのだろうかと思う。

目的論の誘惑
私が、魚を跳ねるのを見るとき、魚は何故跳ねるのだろうと考える。そして魚には何か目的があって跳ねているのではないかと考えたくなる。
同様に、私は跳ね上がるべき何か目的があるのではないかと考えたくなってしまう。
水底に住みつつも、いつか光輝く、水面を越えて飛び出す時があるのではないか。一瞬の出来事だろうが、その時の風景には何か意味があるのではないかと思う。
この意味というもの、何か目的を示唆しているのだが、意味を考えることは、物事の目的を考えることだと思う。しかし事物の存在から、目的を解釈することは誤っているように思う。「蜂が存在するのは、僕がハチミツを食べるためにある。」と言ったクマのプーさんと同じだ。
私の存在が目的を有しているわけでなく、むしろ私が目的を生み出すのだろう。私というものには、この視点であれば意味はない。
意味がない私が、意味を作り生活をする。そして、飛び跳ねる何かを探したくなる。