日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

車社会考

2010-11-28 06:35:44 | 日記
 高速道路での考え事。
 この渋滞で何人の人がいるのだろう。20mで6台、1台2人で、12人、100mで60人、1km600人、渋滞8kmで4800人が同じ渋滞に会っている。
 左側から追い抜いて、自分の前に入ったと思ったら、すぐに右車線に割り込む人、初めから右車線へ出ればいいのに。どれだけ急いで、どれだけ早いのだろう。渋滞の中で急いでも5分も変わらないはずだ。5分早く出発すれば済む話なのに。
 渋滞の車の列では、少し前を空ければ車が割り込む。車間を広めにとると割り込まれる。車間を広めにとりたい私は、一番左側の車線を走るのだが。
 ここに居ている車、渋滞全体がゆるやかな社会と化している。共通性は、同じ時に同じ方向を向いて皆走っている。皆、この渋滞から抜け出したいと思っているが、図らずもここに集まってしまった人達だ。少しでも同じ空間で同じ時間をやや不愉快に過ごしている。ゆるやかな運命のようなものを感じる。
 進む方向は皆同じだが、車の1台、1台の思惑は別だ。今は一緒でも、行き先は皆違い、やがてはばらばらに散っていく。仕事で走っているのか。デートの帰りなのか。家族旅行なのか。一人なのか。帰りを待つ家があるのか。
 少しの間、車を止めて端からこの風景を眺めたいくらいだが、高速道路で立ち止まることは許されない。
 車を走らせながらでも眺めていると、いろんな意味で他人より前に出たいという人がいる。車は、服装の延長だ。その人が見栄を張りたい人はそのとおり、人を威嚇したい人はそのとおりの車の様子をしている。一目で近づかない方がいい車は、皆同じ姿をしている。
 粗暴な運転をする人は、自分が粗暴であることを周囲に知らしめてそれに満足している。本当は車という道具が危ないだけなのに、自分の力を強いと信じて快感を得ている。こんな人は、渋滞もそれなりに楽しんでいるのかもしれない。私がその人の隣に乗ることがあれば、二度とその人の車には乗るまいと思う。
 助手席に乗っている女性は、彼氏がパワフルな運転をすることに力を感じて、やはり同じく楽しんでいるのだろうか。彼氏は車で、鳥や魚のように求愛のダンスを踊っているのかもしれない。
 そんな中で、合流路に差し掛かり前方にバスを入れた。ありがとうの合図を返してくる。仕事の車は、概して前に入れるとあいさつをしてくれる。仕事の知恵、マナーなのか。
 渋滞をしていると割り込ませないことに必死になっている姿の車があるが、これはその人の姿がそのままだと思う。割り込ませないことにどんなに価値があるのだろう。渋滞の列で、自分の1台前に車が居ても何の影響もないと思えるのだが。
 しばらくすると、渋滞は自然と解消した。何がさっきまで詰まっていたんだろうと思うが、車はばらばらに散って過ぎ去っていき、私もさっきまで参加していた緩やかな社会から抜け出してしまった。
   
 
 
 

働くことの意味

2010-11-25 21:23:14 | 日記
 労働は生活の糧を得るためにあるのであって、本来は労働自体が生活の目的となることはない。
 生活の糧を得るための労働が、生活そのものに転倒した。社会の生産性から考えれば、人が生活の糧を得るために1日8時間働く必要もなければ週に5日も働く必要ははない。にもかかわらず、実際には、このような条件であればかなりの好条件の労働だろう。
 仕事先では、時給800円から900円のアルバイトをしながらも、ブランド物の財布を持っている人がいる。安い労働力で、高価なブランドを購入してくれる国民がいることは、資本を持つ者には好都合だ。
 安い賃金で作った商品を、作った本人が高く買ってくれること、社会全体ではこのような構図だが、この構図は、やくざが人夫を手配し、人夫が得た金を賭場で巻き上げる姿に似ている。アルバイトをしながらブランドの財布を持つ人は、この事実を知りたくもないし、むしろブランドに満足していると言うだろう。ブランド品の購入は庶民のささやかな階級を超えた冒険なのだろう。
  
 会社と言う世界での労働で自己実現が出来ると考えることは、会社員に定年があり、役職は喪失すること、自分への社会的評価が会社での役割に過ぎないことを考えれば、会社での役割そのものが自己でないことは明らかだ。役職や会社の肩書きを無くした自分がどれほど尊敬されるだろうか。
 少なくとも、今の労働を自分の意味とすることには、その労働が自分で尊敬できるものでなければならない。自分で尊敬もできない仕事が自分の意味となる訳がない。
 よく働くことは、非難すべきことでもないし、されることでもない。気持ちよく働くことは自分にとっても大切だし、自分と付き合うことになる人たちにとっても重要だ。
 このよく働くのよくが問題なのだ。誰にとって良いかが問題だ。自分にとって良いか否か。働く目的と量が、その人の最低限であり十分なものであることを考えなければならない。
 人に使われて働く人は、働くことの目的をまず考える必要があるし、本当に労働している自分を自分と決めることがよいのかを考える必要がある。これを考える暇もないような状況であれば、何かが間違っているのだろう。
 今、私がよく働いているかは、難しい。仕事をしているときは熱心にしている。時間を忘れている時もあると思うが、本当に自分がしたい仕事をしているとは思わない。
自分がやりたい仕事を見つけることは、難しい。やりたい仕事も、やってみないと本当にやりたかった仕事かどうかも分からない。
 どんな仕事をしていても、その社会にはその人の役割と、人柄が生まれてくるだろう。そこでの役割自体には意味がないと思うが、そこで生まれた人柄がその人の働く意味になるのかもしれない。
 労働は、基本的につらいものだ。時間を切り売りしているのが労働者であり、人の命令を聞くのが労働者の本質だからだ。ただその中にいて、自分の人柄が、自分に満足できるものとして発揮できるのであれば労働に金銭以外の意味が見出せるのでないだろうか。
 ただ、働く意味をあまり考えすぎることも、控えなくてはいけない。最悪、働く意味が見つからなくて、働けないのでは、働くことを考え続けることもできない。 
 
 
 

勤労に感謝

2010-11-23 19:05:36 | 日記
 労働は生活するためにあるのであって、労働自体が生活の目的となることはない。
 このことは、太古の時代から生活のために労働しているのであって、労働自体を目的とした社会が成立したのは近代以降の価値観による。
 なお、労働自体が生活の意味となることは幸せだ。私生活と労働生活が分離せず一体となっている。このような人がどれほどいるだろうか。
 貧困であれば、労働自体が私生活そのものとなってしまう。また現代での暴力的なサービス残業も私生活の喪失となってしまう。このような意味でなく、労働と私生活が一致することが理想だろう。
 
 さもなければ、労働と私生活は分離し、互いに充実する生活を選ぶことが懸命だろう。私生活が充実するほどに、金銭、時間を得る労働環境は昨今ますます険しくなっている。現代で個人が私生活と一致した労働を行うことは、とても難しい。
 明日は仕事だ。私生活のために働かなくてはならない。労働の中でも、気がつくと時間が進んでいることもある。この時は、充実しているのだろう。
 このような時間は、自分で気がつかないうちに、よりよく収奪されているような気もするが。収奪されたことを気にして気持ちよく働かないこともうまくない。
 今は、勤労していることに感謝されるのでなく、勤労できることに感謝だろう。もとから勤労感謝の日と言ってもそんな風な意味合いみたいだが。何だかなと思うが。
 
 まあ、あしたも労働しようか。
 
 
 
 
 
 

生活と時間

2010-11-21 17:34:28 | 日記
 最近出かけていないので、自転車で軽く出かけた。歩いて出かけるときもそうだが、空を見ることが多い。空の下に町があり、山があり、山の向こうには見えない何かがある。不思議に思う。
 他の人も、空を見上げたりしているだろうが、こちらは見えない。川沿いのグランドで野球を少年や、大人がしている。それぞれに家庭があるのだろう。どんな背景をその人たちが持っているのか分からないが、私と同様に色々な体験をしている人々が集まり楽しんでいるのを見ると、自分の知らない世界が至るところにあふれている。
 子供の頃の生活は、全てが新鮮であったように思う。日々が嫌なことも面白いことも次々と起きていた。
 今は、この変化が自分が嫌いになったのだと思う。生活に変化は少なく、変わりがないことを楽しむようになったのかもしれない。散歩での風景が楽しみだ。いつも同じ風景だが、今日は日が暖かく、風が気持ちがよい。
 今の生に満足しているわけでもないが、ここから出て行くつもりもない。もっと充実した生に出会いたいとも思うが、その勇気もない。
 どうにも、私は不足を感じる性質だ。人は自分の器が空っぽであるがために、その中身をどうしても詰め込みたくなる。自分が詰め込んだものを覗き込んでは何が入っているかを見て満足する。詰め込まれたものは全て過去であるのに。
 何が入っていようが、今の私には、詰め込んだものは残っていない。底の抜けた器だ。次から次へと何かを詰め込んでいないと、何かが入っている気がしない。
 時間は、等しくだれもを過ぎ去っていく。無為の時間も、有為の時間も時間には変わりがない。自分一人が自分の時間に満足をつけ、不満をつけている。
 何もしていない一日は、何か無駄に過ごしたような気がするが、何かをした一日も淡々と過ぎ去っていく。有為な一日を過ごしたと思っても、記憶の片隅に残るだけだ。
 その時、その時が面白ければ、充実した日になるのだが、それも夕食の時には忘れている。充実した時間も、そうでない時間も過去となれば、今に何の関わりもない。
 過去を大切にし生きていくことは、記憶を言葉に呼び起こし、何度も反芻することだ。そのような楽しみも良いかもしれないが、今の感覚に優るものはない。
 
 生とは難しい。本当に楽しい思いを毎日出来れば最高だが、そんな生もあろうはずもない。今の生活に見つける小さな楽しみ、今はこれを楽しもう。
 何か、大きな出来事があるとしたら、いつか必然に出会うだろう。  
 
 
 
 

意味 3

2010-11-15 23:52:52 | 私とは何か
 意味は、人によって見出される。
 どのようなものでも、これに意味を与えているのは人だ。
 人がいようがいまいが、物は人に関係なく存在する。花は存在するが、人がはじめてこの花というものを見つけて意味を見出す。
 人がいなくては、花に意味をつけることができないが、花がなくては花に意味をつけることもできない。
 花は、私が滅んでもやはり存在し続けるが、この花を認識するものがいなくなる。  花の、物の存在は、意味とは別個にある。在ることと意味とは別だ。花は人が見ていようがいまいがある。
 よその庭にある花を見つけて、こんなところ花が咲いているのかと思うことがある。この花を見つけなければ、花の意味をつけることができないし、花があることも分からずじまいだ。
 生活で、世の中の多くの物に出会いその時々に、その物に意味を見つけ、印象の強い出来事は、記憶に残し、多くの物事はその時につけた意味を忘れていく。一度でも出会う出来事よりも、世界に広がる物事には、出会わないことの方が絶対的に多い。
 この出会わない出来事には、意味はない。テレビの世界であれ、一度でも出会わないことには、在ること自体が認識できない。
 そうすれば、意味の発生の原因は、私の出会いであり、出来事であり、その出来事に対する印象、印象から発した言葉が意味の内容だ。意味が生まれるには、出来事が必要だが、在ることだけでは意味とはならない。
 
 散歩で見つけたもの、喫茶店で見つけた漫画、どれも、たまたま見つけたものだ。この発見は不思議だ。見つけたから自分で意味を見出したが、見つけなくてもその喫茶店には、その漫画が存在する。多くのものごとを多くの人が発見し、その物事に次々と意味を与えている。
 私は、多くの出来事で他人がつけた意味を何も知らずに過ごしている。
 顕微鏡を覗けば、水滴の中にも多くの出来事が発見できるだろう。夜に空を見上げれば星を見つけることもできるし、天体望遠鏡があれば、より多くの星が見えるだろう。
 世の中の出来事の絶対多数が、私とは無縁に、私に観察されることなく、過ぎ去っていく。私の存在も、世の中の出来事の絶対多数からすれば、全く顧慮されるところなく、過ぎ去っていく。
 私の生活の中では、私が常に世界の中心に位置しているが、その私の存在も、世の中の出来事の絶対多数からみれば大海の泡沫、ミクロな場所でのミクロの時間での出来事にすぎない。
 自分の存在がミクロな事象であることを知りつつも、世界の中心が自分と言っている。私の世界では、私は、私の周辺に絶対的な影響を与え生活を続けている。
 私の頭を悩ますことが、私の問題が、世の中でいつも起こり続けている。それも、私の小さな世界の小さな出来事だ。
 何か滑稽で、さみしくもある。