ブラームスの交響曲第4番、カラヤンの80年代の録音で学生時代に聴いていたものだ。当時はcdも高かった。この4番は、好きなので何枚か持っているのだが、一番これがしっくりと来る。セルやワルターも持っているが、カラヤンが一番枯れているように思う。
この曲が好きなのは、哀しさ、人生の終わりを感じ、進みながら後悔を感じるところだと思う。
学生時代から今に至るまで、同じことを感じているのだが、学生時代よりも後悔する事が増え、喜びも経験したが、本質的に喜びはその場の体験で追憶は本当には喜びではない。喜びは、それに気がつく前の体験だ。一方で後悔は、過去に原因はあるが、今、現在の体験で、喜びと違い何度も現在進行形で体験することになる。
後悔することが好きなのではないが、罪の意識、不可能を知る贖罪の意識、そういうものが、時折、頭に持ち上がる。そして、それを意味がない、不可逆性の世界に生きることを、今しか、この様になった世界(自分の選択の結果)を生きる自分には、今、後悔しても仕方がないと諦める。
後悔と諦念、それはセットだ。
夏目漱石の「心」を高校生の頃に読んで何が面白いのだろうと思った。私の子も、それを読んでいるのだが、本当の意味では理解出来ていないのではないかと思う。今、50を過ぎて読み直したのだが、何か自分の事が書いてあるかのように思えた。何も、後悔することが無ければ、頭では理解出来ないとは言わないが、感覚で迫るものが無いのではないかと思う。そういう意味では理解出来ない方が良いように思える。
「 心」では、先生に後悔はあるのだが、諦念、それがある意味でないように思う。この場合の諦念が、積極的なものかはわからない、諦念で、何を諦めるのか。
漱石も、藤村操の事件の体験を経てこの作品を書いているが、この作品は、懺悔、後悔を含めたもの、一種の諦念が結実しているように思える。
ブラームスの4番も、後悔で始まり諦念で終わるそういう作品に思える。