日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

ブラームスの「4番」と漱石の「心」

2020-06-14 15:30:02 | 日記
    ブラームスの交響曲第4番、カラヤンの80年代の録音で学生時代に聴いていたものだ。当時はcdも高かった。この4番は、好きなので何枚か持っているのだが、一番これがしっくりと来る。セルやワルターも持っているが、カラヤンが一番枯れているように思う。
    この曲が好きなのは、哀しさ、人生の終わりを感じ、進みながら後悔を感じるところだと思う。
   学生時代から今に至るまで、同じことを感じているのだが、学生時代よりも後悔する事が増え、喜びも経験したが、本質的に喜びはその場の体験で追憶は本当には喜びではない。喜びは、それに気がつく前の体験だ。一方で後悔は、過去に原因はあるが、今、現在の体験で、喜びと違い何度も現在進行形で体験することになる。
    後悔することが好きなのではないが、罪の意識、不可能を知る贖罪の意識、そういうものが、時折、頭に持ち上がる。そして、それを意味がない、不可逆性の世界に生きることを、今しか、この様になった世界(自分の選択の結果)を生きる自分には、今、後悔しても仕方がないと諦める。
    後悔と諦念、それはセットだ。
    夏目漱石の「心」を高校生の頃に読んで何が面白いのだろうと思った。私の子も、それを読んでいるのだが、本当の意味では理解出来ていないのではないかと思う。今、50を過ぎて読み直したのだが、何か自分の事が書いてあるかのように思えた。何も、後悔することが無ければ、頭では理解出来ないとは言わないが、感覚で迫るものが無いのではないかと思う。そういう意味では理解出来ない方が良いように思える。
   「 心」では、先生に後悔はあるのだが、諦念、それがある意味でないように思う。この場合の諦念が、積極的なものかはわからない、諦念で、何を諦めるのか。
    漱石も、藤村操の事件の体験を経てこの作品を書いているが、この作品は、懺悔、後悔を含めたもの、一種の諦念が結実しているように思える。
    ブラームスの4番も、後悔で始まり諦念で終わるそういう作品に思える。
    

喜び

2020-06-12 16:49:13 | 日記
    新しい電話機を買った。電話帳を入れ直したのだが、多くの番号が不要になっていた。 これまで、人付き合いなく暮らしてきたので当然のことだ。
    日々の暮らしは、いや応に他人との比較を突き付ける。自分では、そういう事を止めようと思うが、やはり心の底には比較がある。社会は意図してそういう区別を用意している。人の肩書き、店の格、車、自然と区別がある。
    私は、ある意味で世を捨てている。そういう区別の外で生きようと思い暮らしている。それでも、心ではそれを望んでいる事を知っている。それを求める事が馬鹿げた事だと一方で思うのだが、人に承認される事を未だに望んでいる。もう期待しないと考えても理屈ではなく、感情が望んでいるようだ。
    人は、社会的な生き物である以上、交渉、そういうものに喜びがあるのかと思う。同調性そういうものにも喜びがあるように、何か、人との関係の中で比較自体にも喜びがあるのかもしれない。
   私は一人歩もうと思うのだが、そこに喜びがあるのか、それとも、交渉の中で喜びがあるのか。それも私の好き勝手だ。
   喜びは、どこにでもあるように思うが、その種類、イジメを喜びにする人もいる。
   私は、何を喜びにするのか。未だにわからない。

弁当

2020-06-07 17:10:13 | 日記
   今年の春に、子どもの引っ越しをした。行きは、子と妻と一緒に、新幹線に乗り弁当を食べて、帰りは疲れて妻と二人で崎陽軒の弁当をビールを飲みながら食べた。コロナがなければ、東京を観光して、蕎麦でも食べたのだが。
    疲れてたのだが、やっと子どもが一人立ち出来るところまで来たこと、そういうもので満足だ。もっとやれた事もあるだろうが、自分のことでも一杯で、まあ、がんばった方だと思いたい。
    その時は、疲れたけど妻と一緒に子どもの引っ越しが出来た事は、それだけで幸せなことだ。子がいなければ出来ない事だし、子の就職が決まらなくては、また、一緒にいる妻がなくては出来ない事だ。
    時々、幸せな時のこと、そういうものを思い出す。過去を楽しむのは、良い事なのかわからないが、そういう風に思い返すことがあるだけ良いのだろう。
    

パンと時間

2020-06-01 13:28:19 | 日記
    最近、パンを焼き始めた。ピザやフォカッチャは、以前から焼いていたので本格的なパン、カンパーニュやロデヴのような発酵に時間がかかるパンを自分で作り始めた。これまでのピザやフォカッチャは、砂糖を入れてイーストがそれを食べて、アルコールを作っていたのだが、カンパーニュやロデブは、小麦をイーストが食べて、アルコールを発生させる。そのためだと思うのだが、とても香が良いものができる。
 捏ねてから、発酵が終わるまでに4、5時間かかかるのだが、そこから焼き上げに40分程度、完全に冷めないと食べられないから、さらに2時間くらい待つ。
 朝に始めて、夕方に食べられるくらいになる。酵母も自分で起こす事が出来たのだが、これには4日程度かかる。
 こうして作ったパンでワインやビールを飲む。それを楽しみに作っているのだが、自分の技術の向上、出来上がりの向上そういうものが実感できる。パン屋のパンの出来映えのすごさも理解できるようになる。手の仕事の良さは、こういうところにあるのだろう。
 子どもの世話が、後3年で終わる。これが終わった後、自分のために何が残るだろうか。人の中で、仕事以外に人付き合いもなく暮らしてきた。仕事が終わる時が来れば何が残るのだろうか。
    静かに生きようと思い、人付き合いは無い。別に、特に意図した訳でもないのだが、好きなようにしていると自然とそうなっただけのことだ。
    社交的な事に憧れている訳ではない。こういう考え、好みなだけの事だ。
    毎日を、淡々と過ごす。
    歳をとって振り返ると、この時期の事を幸せに思えるだろうか。幸せと思う時には、その幸せはない。そのことに気がつかない時間、後で想い返してようやく気がつく。