フランクルの本を1冊さきほど読み終えた。
10年以上前に、読んだきりだったのだが、今読むとこういう意味で言っていたのかというところが多い。
フランクルが言うには、人生に意味があるかないか、すなわち世界に意味があるかないか。それはどちらでも、有る、無いどちらでも理解可能。その人が決めることだという。
世界に、意味があると言っても、意味は理解可能な範囲を超えている。この場合、論理的には、ないと言っても、あると言ってもどちらも変わらない。あると言う場合には、進んで理解不可能なものに価値があるという態度になる。ないと言えば、そこで止まるか、価値は自分で作り出す。
人生に求めるものはなく、人生が私に求めている。何を求められているのか。どうも、第三者視点が入るように思う。価値や意味というものを求める時点で、この二つが何らかの公共性を帯びてくるのでないかと思う。
私だけの価値や意味というものを、もし私基準で、人生や世界について求めたり、設定したりしたとしよう。それが価値や意味になるか。私基準でこれらの価値や意味を見出したりしたとしても、私はこれに満足できるのか。それは、他人の評価を受けず私だけが意味というものを与えた時、それは意味になるか。
言語である以上、意味は他人が理解可能でなければ意味たりえないのでは。そういう意味で、私が人生や、世界に意味を与える時、私基準というものでは、どうしても与えることができないのではないかと思う。通俗的な意味というものがなければ、私が与えた意味というものは、口にしたとたんに溶解するのではないか。
意味を超える意味、そのような意味、価値の存在は言葉どおり、理解不可能だ。
理解を超えるところに、価値を認めることは信仰なのだろうと思う。この漠然として理解不可能性を価値として信じる。これが何を意味しているのか分からない。