日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

V.E.フランクルについてのメモ

2016-01-31 16:12:30 | 日記
  フランクルの本を1冊さきほど読み終えた。
  10年以上前に、読んだきりだったのだが、今読むとこういう意味で言っていたのかというところが多い。
  フランクルが言うには、人生に意味があるかないか、すなわち世界に意味があるかないか。それはどちらでも、有る、無いどちらでも理解可能。その人が決めることだという。
  世界に、意味があると言っても、意味は理解可能な範囲を超えている。この場合、論理的には、ないと言っても、あると言ってもどちらも変わらない。あると言う場合には、進んで理解不可能なものに価値があるという態度になる。ないと言えば、そこで止まるか、価値は自分で作り出す。
  人生に求めるものはなく、人生が私に求めている。何を求められているのか。どうも、第三者視点が入るように思う。価値や意味というものを求める時点で、この二つが何らかの公共性を帯びてくるのでないかと思う。
  私だけの価値や意味というものを、もし私基準で、人生や世界について求めたり、設定したりしたとしよう。それが価値や意味になるか。私基準でこれらの価値や意味を見出したりしたとしても、私はこれに満足できるのか。それは、他人の評価を受けず私だけが意味というものを与えた時、それは意味になるか。
  言語である以上、意味は他人が理解可能でなければ意味たりえないのでは。そういう意味で、私が人生や、世界に意味を与える時、私基準というものでは、どうしても与えることができないのではないかと思う。通俗的な意味というものがなければ、私が与えた意味というものは、口にしたとたんに溶解するのではないか。
  意味を超える意味、そのような意味、価値の存在は言葉どおり、理解不可能だ。
  理解を超えるところに、価値を認めることは信仰なのだろうと思う。この漠然として理解不可能性を価値として信じる。これが何を意味しているのか分からない。

パン屋での出来事

2016-01-17 11:26:02 | 日記
  昨年末のことだった。近くのパン屋でパンドカンパーニュを一つ買おうとしたら、何やら店主がバイトの店員に注意している。このパンは、よく先に買われているか、焼き上がりが15分後とか、あまり買えないことが多いのだ。
 その日、「パンは予約が入っておりお売りできません。」と言われた。レジに持って行っての話なので、私が悪いのではないが、買えないので、不満げにそのままパンを買うことなく店を出た。翌日に食べるパンだったので、違うパンは要らなかったのだ。
  今年になって、妻がそのパン屋に行くと、店主の奥さんに詫びられたと言う。その時は腹は立ったのだが、家ではこんなことがあったと言ってなかったので、妻には何のことかわからなかった。妻と一緒にその店に行ったのは、何年前か分からないのだが、妻と私が夫婦だと憶えていてくれたのだ。
  よく、自分探しに出かける人がいるが、こういうところに自分が見つかるのだと思う。私は、手にしたパンが買えなかったことで腹を立てた。バイトの子が謝っているのだが、「いいよ」という言葉の一つもかけてやればよかったと思うのだが、そういうことはできなかった。というかその時は考えもしなかったし、もうこの店に行くの止めよかなとさえ思ったくらいだ。
  一方、店の人は商売なのだが、何年も私のことを見ていた。誰が妻かも覚えているし。
  年末のことを妻に詫びたということを聞いて、自分自身、少し恥ずかしいと感じた。妻に言われたことが恥ずかしいのでなく、ただ自分の態度が恥ずかしいと思ったのだ。自分の気がつかないところで、人は自分を見ているし、自分の行動、行為に自分が現れている。悪いことをした訳でもないのだが、これが、本当の自分なのだと思う。

高校生の自分

2016-01-17 09:57:50 | 日記
  「高校を卒業して何がしたいということはあるのかい。大学に行くつもりらしいけど、何もすることがないから、目指すものがないから大学に行くんだろ。今は大学という目標を持っているけど、君は大学を卒業したら、何になるつもりだい。」
  それが分からないんだ。大学を卒業して何かになりたいというものがない。働かないと生きていけないから、働くことになるけど、どこかの会社に入らないといけない。でも、会社で出世したいとかそういう意欲もないんだ。お金をたくさん稼いでもそんなところに価値がないということを考えるんだ。生きていくのに必要な金があればよく、自分の時間を自分のために使いたい。それが今の希望さ。
 「それなら、乞食とか坊主とかがいいんじゃないかな。時間はきっとあるんじゃないか。」
  乞食はともかく、坊主にはなれないな。宗教を信じていないんだから。神がいるとか、仏が助けてくれるとか、そんな自分以外の存在を信じる気にはなれないよ。乞食は、なれそうだけど、生活きつそうだし。冬は困るよね。だからもう少し働こうと思うんだ。
  「楽して金が欲しい。たくさんじゃなくてもいいけど快適な暮らしがしたいということだろ。贅沢な要求だね。そうなると、大学行ったほうがいいだろうね。もはや、大学は肩書きにならないけど、出ていて当たり前の世界になってきているからね。」

  社会に反逆するってどういうことだと思う。
  「ロックを聴いたり、髪を伸ばすことじゃないの。まあ、違う方向性なら、はっぴみたいな服を着て、改造車に乗り回すとかかな。」
  それって、ある意味社会的に認知された行為だよね。パターンの元に答えただろ。だからそれは、ある意味社会的行為なんだよ。反逆しているというより、少数派に属したということだよね。ロックを聴いたりというのは、もう多数派だと思うけど。
  「じゃあ極端だけど人を殺したり、何か人の迷惑になることが反逆なんじゃないかな。」
  人を殺したりするのは、犯罪行為だけど、社会に反逆しているとは言えないんじゃないかな。広い意味で社会がどうこう変わるわけでもないからな。その人のまわりでは大変なことだけど。
  「どうすれば、反逆になるんだろう。」
  


  



記号と世界

2016-01-16 18:54:22 | 日記
  高校生の下の子が現国の評論で言語学をやっていて、ソシュールの研究者の書いた評論を読んでいると言った話をしてくれた。
  私が高校生の頃は、ソシュールも知らなければ、記号論も知らなかった。そこでどんなことが書いてあるのかは分からないのだが、シニフィエシニフィアン、ロゴスや差異という語がでてくるらしい。国語の範囲を超えているようにも思うのだが、子が言うには皆分かっていないんじゃないかなということだ。
  それもそうだと思う。世界が記号からできている。なんて話は高校生の時には思いもしなかったし、今でも世の中の多くの人はそういう理解をする人は少ない方だろうと思う。
  世界は、記号でできているという時、視覚や聴覚においてさえも、記号による理解、言葉による理解、負荷していることを意味している。世界を人が理解する時、人は記号を読み取ることしかできない。世界の何らかの意味を理解しようとする時、人は言葉により意味をつける。この意味づけ、世界の意味を読み取ることは、世界そのものを体験、感覚するのでなく、言葉を用いて読みとる。カントが言う物自体は体験できない。物自体でなく、何らかの物が表象する記号、記号の意味を体験することしかできない、というか物を識別できるのは記号の力であり、世界の中から一つのものを名づけ取り出して、識別しているのは、その物が記号、何らかの名称として理解されているからだ。
  この記号による世界は、感覚、印象だけでなく、価値判断についても、記号によっている。男は男らしく、強くあれ。とかこういうものも一つの記号である。不良はバイクに乗るとか、金持ちとヤクザはベンツに乗るとか、こういうのはステイタスを示す一つの記号である。しつこいが、成人式で馬鹿騒ぎするのも一つの記号的行為であろう。
  人が理解する世界は、記号から構成され、記号を組み合わせた命題により構成されている。この構成された世界は、私の私的な世界である。私の記号の体系(語彙)が私の世界であるのだが、この体系は、言語を使用している上で、公共性を持っている。それが私と私的世界の外部との交渉、接点となる。
  私は、公共性のある世界の中で暮らしながら、私的世界の中に生きている。
  世界に反逆するということは、この公共性の世界の中で、騒いだところで公共性の枠の中に納まってしまうのは、当たり前のことである。成人式にでかけて騒いでいるのは、この公共性の中で騒いでいるに過ぎない。本当に反逆したいのであれば、公共性に関心を持たないことだと思うが、言語の公共性の中で本当に反逆ということが可能で在るのか。反逆とはどういう意味になるのか。
  結局、意味に囚われる範囲で、反逆は失敗しているように思う。人は記号に囚われた存在なのだろう。
 





共約性

2016-01-11 08:43:54 | 日記
  今日は成人式、例年面白い記事が飛び出す。頭が子供、体は大人の人々が威勢をはって騒いでしまう。
  まじめな人の方が多いのだが、声が大きいこの人達は、目立ちたがる。普段、目立つような仕事がさせてもらえない立場の鬱憤なのか。
  動物行動学の立場から考えると、異性へのアピールがこのような屈折した形、鳥が求愛行動にダンスを踊ったり、青色のものを拾ったり、そんなものだと思う。えりあしの長い髪形をみると進化論的に尾が伸びてしまった尾長鳥を思い出す。あまりに尾が長い尾長鳥は捕食されて絶えてしまう。落ち着いたのが今のあたり社会に反逆しているつもりなんだろうけど、枠の中で騒いでいるにすぎない、本当に反逆できずに落ち着いたのが成人式で騒ぐくらいのある意味、予定調和。 
  実際の勇気や、気概、社会に反逆するというのは、成人式で目立つことでも何でもないんだけど、そういうことに気がつかないままに過ごしているんだろうと思う。
  社会や世間に背を向けたいのなら、そういう生き方もあると思うが、暖かい世間の中には居たい、そういうところで落ち着いた人々なんだろうと思う。
  一方、世の中のそういう人から見て、私が考えるようなことは全く価値がないんだろうと思うし、次元が違う世界で生きているんだろうと思う。
  世の中は、各個人の世界(私的世界)が同一のフィールド、物理的な空間の中に配置される共通世界なんだと思う。この共通世界というのは、一般的な世界の理解でよいと思うのだが、その中にも私的世界と公共世界が存在するんだと考えているのだが、公共世界は言語を通した意志の理解、共約性とでもいう世界。私的世界は、言語を使用しているので、公共世界から切り離されているわけではないのだが、相互理解の必要がない世界。ある意味自己完結、違う意味では言語に依存する意味では、他者の存在、言語の存在に依存しているが。
  共通世界は、見方(私の視点)によれば私的世界であるのだが、私の視点の外の視点の存在が前提されている。だからこそ、共通世界である。他者と自己が交わるところ、ここが公共世界、私的世界と言えども公共世界に交わらずに存在することができない。自己の保存は、公共世界との関わりいかんによっているのだから。
  この公共世界での交わりが、社会的な階層、職種、教養の程度等、何らかの次元が違う人々の間では物理的な接触も少ないうえ、考え方の相違が非常に大きいので理解不可能、共約性が極めて低いのだろうと思う。
  成人式の吠え声は、こういうところから表れてくるのだろうと思う。誰も理解してくれないと。
  共約性を目指してないのだから当たり前のことなのだが。