日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

シンクロ(水泳じゃないよ。)

2015-10-28 16:45:58 | 日記
子 今、ママとシンクロしてる。
父 シンクロって、考えると難しい概念だな。シンクロしているのは、偶然なのか、必然なのか。二人が同時に湯呑みを右手に持って首をかしげた訳だが、単に偶然にそうなったのか、何らかの必然性を持ってそうなったのか。必然なら、二人の関係には因果関係が存在するように思えるけど、因果関係であれば同時に起こるのでなく、連続して起こる。同時に起こるということは、二人に起きている事象は別々の事象かな。
子 シンクロって、同時に起きるだけのことじゃないの。
父 だから、同時に何故、同じ事象が起きているのかが不思議じゃない。物の見方になるけど、世界に起きることは偶然と考えるのか、必然と考えるのか。必然とすれば、連続した因果関係の存在が必要になるし、偶然しかないと考えると、因果関係はヒュームが言うように存在しなくなる。
子 言葉が上滑りしているだけのように思うけど。
父 考えると面白いんだけど。ブラジルと日本で同時に同じ事象が起きたとしよう。これは二つの事象に関係ないように思うよね。でも距離を近づけていくと、同時に起こる二つの事象には関係があるように思える。
子 それは、後から見て意味をつけるからそうなるんじゃない。
父 そうだけど、事実というのは、人が意味をつける出来事以外は事実にはならないから。確かに人が事実と認める出来事のベースには物理的な事象が必要だけど、それば無限個の事象の連続で、人があるエピソード、トピックに意味をつけないと事実にはならないから。そういう意味では、事実というのは人が意味をつけた出来事。
子 それとシンクロとどう繋がるの。
父 二つの事象について、別々に意味を持たすのか、一つの事象として意味を持たすのか。それは偶然の出来事なのか、必然の出来事なのか。こういうことを考えない人がほとんどだと思うけど、運命は存在するかって、誰でも一度くらいは考えたことがあるんじゃない。必然なら運命は存在するし、偶然なら運命は存在しない。シンクロの意味を偶然で考えるか、必然と考えるかで運命の存在のあるなしが変わってくる。普段使う意味では、偶然ではないんだろうね。ブラジルと日本で同時に起こる事象についても、ひょっとすると偶然ではないのかもしれない。
ユング心理学シンクロニシティというのがあるようなんだけど、世界精神みたいなものがあれば、偶然は無いのかな、ここまでくるとオカルトめいているから信じていないだけど。
子 ふーん







昼ごはん

2015-10-18 12:43:44 | 日記
  今、昼ごはんを製作中、ジャガイモのローストに、玉ねぎのロースト、どちらもローズマリーに、タイムの風味をつけている。オーブンでこんがり焼き上げれば、それだけで美味しい。
  そこに、近所のパンやのカンパーニュにバター、チーズ、蜂蜜をつけて一緒に食べる。
  簡単な料理だけど、おいしい。こういう生活の中に、真理があるんだろうと思う。真理というととても難しく感じるけど、人の生活の外に真理があったりはしない。自分の外側に真理を見つけ、それを崇めたりするけど、自分で見つけた真理だろうか。
  論理学で言えば、真理はゼロか1で表現できる。本ではFとかTで表現されていることが多い。真理はそんなものだと思う。難しい真理というものはない。どこにでも、真理は落ちているんだけど、人はそのことに気がつかない。落ちている真理を拾うところから、生活の中に真理が見えてくるんじゃないかと思う。


最近の興味

2015-10-11 07:15:47 | 日記
  新約聖書を読むと、ユダがイエスを裏切る場面がある。最後の晩餐のところなのだが、イエス使徒の1人が裏切ることを見抜いている。そして、そのような者は生まれなかった方がよかったと、言う。キリスト教を信じていない者にとっては、生まれなかった方がよかったという人間の存在を認めることは、人間の価値そのものが否定されているように思える。
  どのような者でも、生まれたからには、そのことだけで価値がある。そうでなければ、生まれなかった方が良かった人間が存在するならば、その者の存在自体を認めないことになる。
  ヒトラーは、多くの人を死に追いやった、彼に協力した人々も複数いるが、また核兵器を開発、使用した者もいる。生まれなかった方が良かったと、今の視点から見ると思うところがあるが、それでもその存在を否定することはできない。
  イエスが、生まれなかった方がよかったと本当に言ったかは分からないし、言ったとしてもどういう意図で言ったか分からない。だが、聖書にそれがそのままに残っているところは、正統なキリスト教の教えであることは否定できない。
  ユダヤ人の存在が厭われるのは、ここに起因しているのではないかと思う。現代の倫理観からすれば、およそ存在しない方がよかった人間を認めることはできないのだが、キリスト教におけるこの点の解釈がどうなっているのか、おいおい調べていこうと思う。
  ユダの福音書という、資料が近年発見されており、その中ではユダだけがイエスの理解者であり、協力者、その協力により、イエスが天に帰った。もちろんイエスの復活もない。そのような解釈があるのだが、もちろん異端として抹消されていた歴史である。この福音書に登場するイエスが、驚くほど星の王子様によく似ているのがびっくり、星の王子様が書かれた時には、この資料は世に出ていないので、関係性はないのだが。