エチカを読み終えたのだけど、肝心の第3種の認識のところが実感できない。スピノザは、自分が神の一部であり、自分の本質は神の必然の中にあるという。自分の存在も、神の一部だから永遠、確かに自分は消え去る存在だが、その消え去ることも神の必然の中にある。その神の一部である以上、自分が存在したことは永遠という。
世界が神なら、自分も神、その自分についての認識が神としての自分であることを知る。そうすると自分の存在は永遠の一部であることを知る。多分、こんなストーリーとなっているように思うのだけど、この神としての自分の認識というのが、実感として得ることができない。
理屈としては一貫していると思うのだが、自分が神と言ってみても、その自分のちっぽけさというか、肯定感のなさというか、そこを、自分を神の一部という認識が、実感がまるでない。
壮大なスケール感の哲学で、魅力はある。デイビッドソンのスリングショット論法の偉大な真理のような、すべての真理の集合があれば、それは神と言える。逆にいうと、真理の集合だから神なのだと思う。どちらも同じこと言っているように思うが、すべての真理の集合というものが存在するのだろうか。
ここにスリングショット論法とスピノザの神には、類似性、強く言えば同一性があるように思う。全ての真理、事実の集合を想定すれば、実体、様態と同じになるように思う。
エチカでは、世界はただ一つしかなく、可能世界は存在しない。最善世界でもなく、ただ意味もなく世界は神の流出であり、神そのもの、世界の全てが真理であり、真理しかない。そこで思うのが、神が必要なのか。信仰的な神と違い、祈る必要もなければ、人を救うものでもない。ただ、世界の全てを神と呼ぶ。この世界観、スケールの壮大さが、エチカの面白さで、この創造物を理解したいと思うのだが、一方で自分の人生の意味と、自分の日常と一致するかと言えば、しない。
自分の人生の意味を考える時に、ただ一つの様態であるのが自分で、自分は神の一つの表れだとしても、何か自分の本質を捉えていない、自分の日常から、自分は神の一つだと言っても何も解決しない、将来の収入や、生活のいくすえを考えても、仮に野たれ死にするにしても、それが神の表れであり、その神、他の神の様態は何も気にもしない、特に意味もない、そもそも人生にも意味はないのだと。
ここで言う神の理解をしても、自分の生活には一つのアイデアが追加されただけで、スリングショット論法のような考え方があることを知ったことと変わらない気がする。何となく、慰めのようにも思うが、すっきりしない。
可能世界が実在すると考える時に、エチカであればそんなものは存在しないと言うのだろうが、可能世界毎が神だと考えると、ただ一つの神がそれぞれの可能世界毎に存在する。エチカでは神は一つなので、複数の神は存在しないということだが、可能世界毎が神で可能世界を貫く、貫可能世界的な神が存在しない、神の対応物(可能世界)はそれぞれが別の存在だと考えて、可能世界は互いに干渉しない、可能世界の集合は一つの可能世界内には存在しないと考えるとエチカの神が一つということと整合するように思う。
そうすれば、無限の可能世界と神が開けるが、そこにただ一つ自分がこの可能世界にいる訳だが、その世界は必然しか存在しないように思う。無限の可能世界の中の一つの可能世界は、必然しか存在しないように思う。すると、エチカが言うように世界は必然しか存在しない。自分は、必然的存在で、神の一つの様態になる。
ただ、そこに自分の生活があるのだが、全てが必然と考えることに慰めを考えるのか、最善を尽くしてこれが必然だったと考えるのか。エチカという倫理は、この理解であっているのだろうか。
映画スターウォーズのEP.5のマスター・ヨーダの有名なセリフに、「Do or do not, there is no try.」があるのだが、これは、行為する時、行為しないことも、その時が全てであり、何事にも2度はないこと、日本語で言う「一期一会」、全てが一度きりであること、行為する時は、一度きりの出来事を行う、行為しないことも、ただその瞬間を生きるしかない。だから、試しがない。
このセリフは、エチカの世界においても、必然的な世界、そこに試しがないのは当然の帰結で、同じことが成立するように思う。
世界から自分を捉えると、あらゆることが必然で自分に迫ってくるのだが、そこにおける自分は、するかしないか、可能世界から見ても、選択肢毎に分岐する世界、自分が行った結果の世界に生きていくだけになる。そこに試しなどない。
エチカの世界が、必然的世界で、今、自分が生きているこの世界は、エチカの世界だと考えると、世界の多くの不幸や、出来事を考えると、その無意味さが自分に迫ってくるようにも思う。自分が意味があると考えることは、実は世界では意味がなく、自分自身が神の一部だとしても、その神に意味がない。エチカの神は、神の一部だとしても何か価値を与えてくれるような、自分の意味を与えてくれるようなものではないように思う。一期一会の世界で、ただその機会を生きる。それ以上は、何もない。自分の意味を考えても、刻々と生きること以上に意味はない。それが、積極的なことなのか。消極的なことなのか。どちらでもあるのか。
もう少しでエチカが読み終わるところ。スピノザは、人に対して、人間性に対して信頼があったのだろうと思う。多くの悪いことがあることは、スピノザも前提にしている。ただ、人間の知性が完全なら悪をなさないというような信念のようなものがある。ここで、人間の知性は完全も不完全もないと思う。神の知性が完全という設定だが、そのような知性は、デイビッドソンがいう偉大な一つの真実、コナン君がいう真実は一つみたいな、真理対応理論が前提になっているように思う。真理とは、事実と言葉が一致することのような、人間の真理は相対的で、どちらの面から見るかで変わるような、それは科学の観察についても起こると思う。
完全に善意で行う行為が悪をなすことはある。私自身がそういう行為、完全な善意とは言わないが、悪意がない行為で結果として悪をなしてしまったことがある。そのことについて、責任はとりようがない。そういう種類のことがあるが、スピノザが信じるような人間性があったとしても、やはりどこかに矛盾は生じるだろう。
スピノザが言いたいことは、特に人間についてはよく分からない。むしろ、形而上学の方が理解しやすいし、そのとおりだと思う。
最近、スピノザの本を読み始めた。スピノザは、神は世界だと言う。私もそう思う。もし、神が全能であれば、今あるこの世界が神が作った全てだろう。世界には、善と悪がある善悪二元論のようなものの見方があるが、世界には善も悪もなくただ世界があり、そこに人が善や悪を人の価値観から、見方からそう言っているだけだろう。世界は、人に対して関心はない。ただ、存在する。そういうものだと思う。
読んでいて思ったのだが、デイヴィッドソンのスリングショット論法と世界観が似ている。スリングショット論法は、世界の真理は、グランドファクト、偉大な事実のようなものが一つある。どういう真理かというと、京都は大阪の北にある。これは真理だが、同時に京都は大津の西にある。同時に、京都には漬物がある。これも真理だ。延々と続けていけば、京都は大阪の北にあるという真理と同時に、あらゆる真理をつなげても、それは真理である。いつか、全ての真理が網羅され、真理かどうかは、それに含まれるか否かとなる。
世界の真理が一つなら、神が真理なら、世界は神になるだろう。キリスト教でも、キリストは貧しい人、そこにキリストがいるというような言い方があったと思うのだが、もっと広い範囲であらゆるところに神があり、神でないものがない。
こういう世界観の方が、人間にそっくりな神様がいると考えるより神様っぽい気がする。
しかし、この神は人間に対して興味をもつような人格的な存在ではないから、人を助けてくれたりはしないだろう。まだ、スピノザは読みかけなので、また感想を書こうと思う。
一人でひまな時間を過ごす。休日になってすることは飯を作ることくらい。それ以外はだらだらと過ごしている。
充実した一日と、だらだら過ごした一日、どちらも同じ一日、どちらが良いのだろうか。
やること一杯の一日はしんどい、だらだらは楽、どちらが価値があるのだろうか。人生、全体についても、同じことが言える。だらだら過ごす人と、やること一杯の人、人と人の比較は難しい。自分の体験だけで比較しても、どちらが良いのかよく分からない。
そもそも、価値というのは利用価値や交換価値を価値と言っているが、人生や、時間について利用価値とか、交換価値ということは成立しないだろう。自分の人生に価値があるのかとか、時々思うけど、価値とか、意味とか、人の視点、観点、ものの見方に過ぎなくて、価値、意味というものは、本当にあるのだろうか。人の見方の問題で、色があるかないかのような話で、物の方に色があるわけでなくて、例えば赤なら、人の方で赤く見えるだけのように。価値とか、意味も、一種の見方、解釈に過ぎないのであって決まったものではない。
こう考えると、意味や価値は、実在ではなくて、一つの名前に過ぎない。唯名論の方があっていて、実在論は成立しないのではないかと思える。意味や価値が実在しないなら、何を目指して生きているのだろうと思うが、そんな事を考えなくても生きることはできるし、考えずに生きている人の方が多数派のように思う。
職場とか、周りの人を見ると、何を楽しみに生きているのだろうと思うことが時々あるが、そういう見方をする方が少数派のような気がする。これも、意味を問うていることになるが、意味を問うことは止めることができないのだろう。
存在と本質から見る中世の形而上学(本間裕之)https://www.youtube.com/watch?v=wEQCaZb2kVY&t=1151s
ユーチューブで上の動画を見た感想です。直接、動画の内容と一致しないですが、漠然とこうなんだろうなと思っていたことを、少し、まとめてみました。
存在と本質では、言葉の意味は違うように思う。存在は、あるということ。本質は、物事の核心、その物事がまさにそうだと言える性質だと思う。存在はあるということだが、何があるのかを考えると、そこには本質がからんでくる。存在は一つしかないと考えると、本質と言う言葉の意味も通常使っている意味とは違った感じになるだろう。世界に存在する物や物事は、実は一つしかなくて、世界には区分なんてなく世界そのものが存在するだけで、個物なんてものはない。こう考えると、そこの本質は、世界そのもの区分がないただ存在することになるだろう。
世界の中には、いろんな物や物事があると考えると、個々のものが存在している。個々の物や物事があると考えると、個々を区分することが必要になる。動物と人は違うとか、人は動物の一種で、猿と人は違うとか、存在する物についての種名や名前が必要になるだろう。そうすると、名前に相応しているものは何か、それが本質になる。
本質が定まれば、定義されると、そこに物が存在することになる。そう考えると、存在と本質は同じ物であり、物事の表裏、見方の違い、表現の違いのように思う。
存在と本質が違うと考えると、本質は概念やイデア、形相なのだろうと思う。概念、イデア、形相が先にあって、そこに存在を与える一神教の神がいる。この考え方は、ユダヤ、キリスト教と相性が良いように思う。ただ、イデア論を信じることが出来る人であれば問題ないが、本質は存在と別にあると考えることは難しい。
唯物論的な考え方に慣れていると、物があって、名前があって、正しく名前を呼ぶことが出来るなら、その物の本質をその人は理解していることになるだろう。物を名前で呼ぶことが出来るということは、物の存在を信じていて、また本質を理解していることになると思う。分ける意味はないように思う。本質があるが、存在がないもの、空想上の物だとか、歴史上の出来事とかこの場合の存在は、実在ではないとも言えるが、出来事は実在のとりようによっては実在であるし、空想上の存在も実在ではないがある意味で存在している。例えばアニメのキャラクターとか、ポケモンとかは現実に見ることもできるが空想ではある。本質があるものは、何らかの意味で存在がある。どんな意味でも存在しないものは、本質もないだろうと思う。