何が存在するかを考えることは、案外難しい。今、部屋ではブラームスの交響曲第2番が流れているのだが、ブラームスの交響曲第2番は、存在するのだろうか。
ブラームスの交響曲に、第5番は存在しない。彼は4曲しか交響曲を書いていないからだ。一方、ブラームス交響曲第2番は存在する。どこに、存在するのと聞かれると、どこという場所にはない。CDの中に存在しているわけでもない。かなり抽象的な意味で存在しているのだ。
大阪フィルでも、ベルリンフィルでもいいのだが、その演奏に存在しているのだろうか。この場合、40分程度の時間において存在しているというのだろうか。音は、消えては表れる。この音の連続、空気の振るえの時空的な存在がブラームス交響曲第2番なのだろうか。それとも、楽譜の全体がブラームス交響曲第2番なのだろうか。
ある演奏、出来事として存在しているという風にも思えるが、一方で誰も演奏していない時でもやはりブラームス交響曲第2番は存在しているというのが、常識的な考え方のように思う。多くの人の常識の中に存在していると考えるのだろうか。ブラームス交響曲第2番は概念上の存在であり、実在ではないとそう考えるのか。一方で、ブラームスのCDは実在だが、その内容は実在ではない。
そうすると、実在って考えていくと、世の中にあるもので実在と言っているものの多くが分解、瓦解していくように思う。 |
今日、日帰り温泉施設に行くと、幼稚園児くらいの男の子とお父さんさんが風呂上りの休憩場所にいた。子供が、喉が渇いたとジュースをせがんでいる。うちの子も風呂上りにソフトクリームを食べるか、コーヒー牛乳を飲むのが好きだった。
どうも、その子は買ってもらえない。お父さんは、「買わない約束だろ。」と言っている。先に約束を、何か約束があるようだ。約束を守ることは大切なのだが、風呂上りに喉が渇くのは自然な欲求なので、そこは買ってあげたらいいんじゃないとか、傍から勝ってなことを考えていた。
子供が一緒にお風呂に行ってくれるのは今だけなのだけど。。。 子が小さい時は黄金の時。
この時は過ぎ去るもので、うちはもう黄金というよりも、まだ輝きはあるが、黄昏に入りつつある。
下の子、上の子ともに大学生、上は来年は院生さんだが。これもあと何年かで卒業、この後は私の手を離れる時期になる。
下の子は、幼稚園児の頃だっただろうか、戸隠神社の参道で先に歩いていって、知らない爺さんとばあさんにカキ氷を食べさせてもらっていたことがある。
こんなことを思い出すのも、小さい子がいるというのは、かけがいがないことなのだと思う。
昨日、もらい物の黒豆の枝豆を食べた。もう秋が到来している。自転車で走っても、寒さを感じるようになった。もう少しで冬になる。一年で好きなのは、この秋だろうか。
カラヤンのブラームス第三番を聴く。いかにもなのだが、秋の感じがする。自分の歳もいつのまにか、CDジャケットのカラヤンの写真と同じくらいになっている。ずっと年上の人だったのに、だんだんと歳が近づいている。サザエさんのマスオさんよりも年上になった時は驚いたが、もう自分自身が驚くような歳でなくなってきた。
まだ、老けるには早い気がするが世間一般ではもう十分にいい年なんだろうと思う。
この歳になって、未だに何者でもないのを感じる。職人でもなければ、これという特技もない。人間的に、人物的に愛されるような人、人気者でもない。自分が何者でもないように思う。
何かになりたいという希望やそういうものから降りた、何者でなくても良いと思っていたのだが、人生でもう秋を迎えようとしているのだが実りがよく分からない。何もないよう気がする。
これを今から、作ろうと思うのだが、人は自分に自分で満足すればそれでいいのだと思うのだが、偉い人も偉くない人も、結局は塵になる。そのことに満足できればそれでいいだけ。