日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

どうしてここにいるのか。という気持ち。

2016-09-25 15:50:59 | 日記
        自転車で河口まで走ってきた。川辺は変わらずジョギングやサイクリングをする人、少年野球、釣りをする人、いろんな人がいる。
  その中を1人、自転車で走るのだが、いつも思うのだが、どうして私はここにいるのだろう。と、
  自分で自転車に乗ってきたのに、どうしてここに、という問いもおかしいのだが、別に、自転車でここに来なくても良かったのに。でも私はここにいる。
  ここにいることは、自分で選択した結果なのだが、この選択というのは、さかのぼると朝、自転車で出かけてみようかなと考えたこと、それ以前に、この家に住み、今の仕事を選んで、その前には大学を卒業して、以下、延々と遡及した結果が、今。
  それで、どうしてここにいるのだろうと思う。この思いをすることは、つまらない会議に出たり、つまらない宴会に同席したり、そんな時にもよく思う。どうしてここにいるんだろうな。違うところにいることもできたんじゃないかなと。
  でも、実際には、ここ以外にいる場所はない。これから違う場所を選ぶことはできるが、今はここしかない。
  そして、「今はここしかない」のだけど、今でない未来や過去には、ここは、存在しない。あるのは「ここ」でなくて、今から見る未来や過去には「そこ」にしかない。私が考えて、今の自分がいる場所を見る時は、未来や過去に見るのでなく今しかない。結局、今のここしかないことになる。
  今と違う場所を選んだとしても、その時にはそこが今はここしかない場所になる。その時、どうしてここにいるのだろうと考えるのだろう。
  私は、ずっとこの「どうしてここにいるのだろう。」という問いを持ち続けているような気がする。どうしてここにいるのかは、訊かなくても、自分の行為の結果であることは知っているのだから、尋ねる意味がないような気もするのだけれど、川に流れる葉っぱが自分だとすると、どこかの淀みにかかった時、どうしてここにいるのだろうと考える。そんな感じがするのだ。
  単に、今と違う場所への憧れに過ぎないだろうか。それでも、どこに行っても、やはりどうしてここにいるのだろうと考えるような気がする。この気持ちは、生まれてから延々と続く因果関係への不思議、それとは別に、自分の力ではどうしようもない、生まれ落ちた環境への不思議だろうか。
  誰もが同じような感覚を持つのだろうか。それが分かっても、解決はしないのだけど。

  

意味は言葉の内にあるのか?

2016-09-07 07:10:49 | 人生の意味

  意味は、言葉の中にあるのか。それとも外にあるのか。薔薇という言葉の意味は、言葉にあるのだろうか。それとも、言葉ではない「実在する薔薇」に存在するのだろうか。

  実在するバラというのが、一つの難点、「薔薇」と呼ばれる花は無数にあるが、「薔薇」そのものは存在しない。
  この時に、バラは名前に過ぎないのか、「薔薇」そのものや、「薔薇」という属性が存在すると考えるのか、これが中世の普遍論争だが、言葉の意味が言葉の中にあるのか、言葉に対応した外部、実在に意味が存在するのか。
  外部に意味がないと考えると、実在は無意味、無味乾燥した世界になる。一方、外部に意味があると考えると、人間の言葉の外に意味があり、人間は外部の実在の意味を読み取るということになる。人間が意味を作るのでなく、予め定められた外部の意味、神があたえた意味を読みとるようなイメージになる。
  薔薇の場合、外部にそれなりに対応したもの、花を見つけることができる。人生とか、生きるという場合、この時の意味、生きるという意味。この時に問われている外部の対象というものは存在するのだろうか。
  生きるとは、今、私が現に生きているのだが、このことを考える時、これは言葉の外部の対象について、考えていることになるのだろうか。ある生物を見つけて、生きるの意味を考える時、この場合、考えることができるのは、個体として生物であって、「生きる」を考えることにはならない。生命活動の特徴を考える時、これは教科書を読むようなことになるのだが、言葉によって他人に意味づけられたとしか言えない。生きるを自分で考えると、その対象となるものを、外部に見つけることはできない。
  人間は、(言葉の外部の世界に存在するのは確かだが、)考える時、言葉の内部にしかなりえない。意味が言葉の外にあるのか、言葉の中にあるのか。
  言葉にも、外部にも意味があると考えると、言葉に対応する外部の存在、真理の(言葉と外部の)対応論になるのだが、この時にはどうしても、外部に与えられた意味が必要になる、若しくは外部にある意味を読み解く、外部に実在に依存することになる。
  人生の意味を考えると、真理対応論でいけば、外部の人生と言うものに意味に対応するものが必要になるのだが、そのようなものを見つけることができるのだろうか。
  人生の意味は、見つけるものでなく、その人が作るものだと考えると、意味は言葉の側にあることになる。その時、客観的意味というものは存在しなくなる。意味は主観的なものになる。
  もう一つの考え方は、人生という言葉自体、意味がない、ありそうでなさそうなもの、そういう言葉もあるのかと
考えるか、ただ、こうして文を書いているんだから人生に意味はありそうな気はするのだが。
 
 
 
 

くらっしくコンサート

2016-09-04 11:46:32 | 日記
   タワーレコードで、ブラームス交響曲全集590円を、期限切れ間近の500ポイントを使用して税込み90円で買った。全曲で4曲なので、一曲あたり23円未満。昨日、第4番を聴いて、今第2番を聴いている。
  指揮者は、ズヴェーデンにオランダ放送フィル、有名どころではないけど、日本のオケよりは音がいい。演奏はスマートといった感じ。
  子も値段を言ったら驚いていた。この前に行ったブルックナーのコンサートが6000円だったと思うので、何という安さ。
  家で聴く音と、コンサート会場で聴く音は確かに違うのだが、どれほど違うかと言うと正直なところ、家で聴いた方が良かったという残念なコンサートも多い。
  曲が終わったとたんに、拍手を始める余韻も何もない人に、演奏中もガサガサと飴袋をいじるおばさん。肝心なところで間違えるホルン奏者とか。良いコンサートというのに出会うのも難しい。本当に良かったと思えるのは数回に1回くらい。好きな曲を聴きに行くと、自分の頭の中に理想のイメージがあるので余計にハードルが高くなる。
  生を聴かないで、CDだけで良いや悪いを言っていても、なんじゃそれ、って感じなので時々、生を聴きに行く。生を聴いて、初めてこんな曲だったのかと思うこともある。ブルックナー第9番の小泉さん指揮の演奏は本当に凄かった。ロックかと思うほどインパクトがあった。こういう体験があるから生も聴くべきなんだけど。