日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

私の位置

2018-05-13 08:54:01 | 私とは何か
 私は、世界の中に生きているのだが、世界の中心である。私は、世界のほんの小さな存在、色んな意味で小さな存在である。無名の人、普通の人、大衆一般に埋没する存在に過ぎない。
  私は、この社会に埋没したある特定の視点から、世界を眺めている。この私の眺め以外に、私に世界は存在しない。この世界は、私の視点からしか眺めることはできない。
  世界を物理的に記述しようが、歴史的に捉えようが、それを理解しているのは、結局は私の視点からのことである。客観的な記述は、私以外の様々な視点においても同意が可能な内容が含まれているということに過ぎない。私に、私以外の視点を与えるわけではない。
  この絶対的に世界の中心たる私が、他者からするとちっぽけな存在であり、私の存在は環境の一部にすぎない。このことは、私から見て他者が環境に過ぎないことの裏返しになる。
  この世界の中心である私が、世界を眺めて自身を小さな存在と考えるのは、おかしさがある。私の世界の鼎立は私の存在に1人かかっているのにかかわらず、その存在を小さいと考えている。私の視点としての絶対性と、社会的地位、評価というものを、私を私という対象として眺めた時に同一の次元に混同して、同レベルで考えると、私の視点としての絶対性、私の意義を失くしてしまうのだろう。
  この時、私は世界は、私の世界でなく、他者と共通するフィールドの世界にあることを意識している。他者と共有する公共世界を、私の私的世界観からは別に前提している。その時に、私はちっぽけな存在だと自分のことを考える。
  何故、自分が公共世界においてちっぽけな存在と考えるか、それは誰も私を褒めたり、もてはやしてくれないから。自分が少しでも偉大だと思えるのは、他者が私の存在を大きいと考えているであろうと、自分が考えている時だ。
  私の世界において、私が、自身の存在の大きさを対照するのは、公共世界における他者の振る舞い、そこに一喜一憂しているのだ。他者の振る舞いを引照点として自身のおかれている世界における位置を特定しているのだ。
  まあ、これは、平たく言ってしまえば給料明細をみれば自分が自分に相対している世界からどのような評価を受けているのか、簡単に知ることができる。もっとみじかには他者の言葉づかいや態度というものから、誰もが自分の位置を特定している。そこに喜びや悲しみを見出す人が多い。
  私の存在を、私がどう私を考えているか、このことは、私が私への他者の振る舞いをどう考えているかに拠っている。自身の位置を世界の中で特定するには、私への他者の振る舞いを座標として使用する。
  私は、私の世界のただ1人の住民であるにもかかわらず、そこに公共世界での座標を必要としている。そのようなものが必要なのだろうか。ただ1人、世界を体感できる絶対的中心であるのだが、そこが公共世界のどこなのか常に気にして過ごしているのだ。
  公共世界のどこに位置しようが、私の絶対性、私が常に私の世界において中心にいるという事実には全く変わりがないにもかかわらず。
  他者がちやほやしてくれようが、くれまいがそれをどう考えるか、自分の世界では、全く私の勝手のはずなのだ。そのようなことを気にする必要は、公共世界における生存上の条件を満たす範囲で行えばそれで良い。それ以上の公共世界での位置づけを、自分の世界で行い、期待をして、そこに失望する。そして、失望の上に自分が小さな存在だと考える。
  世界は、私から見た風景。その風景に私は視点としてはあるが、私自身は写らない。自分の撮った写真に自分が入っていないのと同じこと。ところが、公共世界の座標の位置づけというものは、私が入った、写りこんだ写真、世界を横から見た写真を撮っていることになる。今流行りの自撮りを観念的にしているようなものだろう。
  自撮りをして写真うつりが良いか。そこに一喜一憂する。もう自撮りを止めればいいのだろうと思う。何か安心を得るのに、他人を引照点にする。他人を引照点にしなくても、私の絶対的中心性は変わらないのだから、公共世界上の座標のどこを放浪しようがそれで良いのではないかと思う。
  単純な、偉さ、そういう気分を味わうことに喜びを見出すのを止めれば、私の世界は、また世界の見え方は変わるのではないかと思う。

世界と私

2018-04-15 06:54:43 | 私とは何か
        世界を見る自分と、世界の中にいる自分、どちらも同じ自分。主観的な私と、客観的に私を見るそれも主観的な私。つまるところ、私が世界の中の中心にいる。
  こう思うと、世界は私の中にあると思うのだが、世界は私の思うようにならないことばかりだ。私が思いどおりにできることは少ない。私の世界は、私と共にあり私の終焉とともに消滅する。一方で、私を除いた世界というものが、私の終焉と関係なく継続するであろうことも信じている。
  私の存在は、物質としての私を基礎としているので、物質的な世界に含まれていることは当然だ。ただ、私は物質的存在というよりも、意識としての私が、私は存在していると考えている。私の体と、誰かの体が入れ替わる映画が大ヒットしたが、私は物質でなく、意識として捉えられていることの証左だろう。
  私の意識が世界を認めているのだが、その世界には意識などといいうものはない。世界は、単純に物質的なものだろう。そこに、私という意識が存在して、様々な物質に価値というものを想像し、付加して創造をしている。世界における様々な事象に価値をつけて、一喜一憂している。多くのことが、想像したもの、抽象物だ。
  世界の物質的な面に、そこから、人は名づけを行い、抽象化、区分が生じている。何かを一個とカウントするのに、何か名前をつける。そこに抽象化、区分がある。
  言葉を使うところから、世界は抽象化され、そこに意味が付与され、意味があるところに価値が生じる。生じた価値を実在と捉え、世界は物資的な性質から、価値というような意識の性質を持つようになる。
  世界に、何が存在しているか。世界を、言葉を介して知ることにより、様々な価値あるものが、言葉の次元で生じている。そう、例えば、主義や主張のようなものも一つの実在として存在するようになり、そこにこそ価値があるものと思うようになる。
  価値というようなものは、物質的側面にはない。価値が存在しているのは、意識の側にある。世界に何が存在しているかを問うと、物や出来事に、どこまでの抽象化や概念を存在として認めるのが妥当か。そういう程度の問題になる。薔薇が存在しているのか、赤色は存在しているのか、民主主義は存在しているのか。
  意識の側にある価値というものも儚いものだ。私の終焉とともに価値は消失する。価値ある物が私以外の誰かに相続されて継続されるというのは、私の気休めだ。物は、私より後に残るだろうが、私が置いた価値が相続されるわけでもない。価値は、人それぞれが、与えられたものを信用するか、作り出すだけだ。
  この意識の中で価値を求めて、人生を四苦八苦しているわけだ。そして、何か満足するものを見つけようとしている。路傍の石にでも、満足すれば私は満足できるわけだ。そして、それは誰が文句をいう筋合いでもないし、むしろ、誰も何も言わないだろう。
  
  

アイデンティテイというもの

2017-01-29 17:06:17 | 私とは何か
      アイデンティティという言葉、どうも昔からこの言葉が好きではない。この言葉を言う人は、単純にアイデンティティという物が存在しているとでも思っているのだろうかと、昔から思っていた。
  自分を自分たらしめているもの、そんな唯一つのものなどないし、様々な面が自分だとしても、その面なんて、二次元的に切り分けることができるようなものではない。
  アイデンティティを確立するとか、そんな確立したものがあるなんて本気で思っているんだろうか。自己は、時間経過で変化するし、その一瞬でさえも決まった自我などというものはない。自我というようなひとつの幻想、そのようなものがあるのであろうと思い込んでいるだけ。自分が今見ている世界そのものが、自我であって、今聴いている音楽も自我、今見ている世界の内の一部が自我で、他者は自我ではないとか、今、自分が見ている他者は自分の目を通して見た他者、それも私の一部、こういうと独我論のようだが、世界を見ている自分と、その見ている自分の世界は同じものだ。世界観というものは、自我そのものでしかない。そこにアイデンティティを確立せよと言われるのだが、世界は初めから自分そのものでもあるし、そこに築く自我というようなものはひとつの信仰でしかない。
  自分に、まわりの人に私はこういう人ですよというキャッチフレーズをつけて、箱に入れて差し出すようなものだ。本当にそんなものがあるとは私には思えない。
  だから、昔からアイデンティティという言葉を聞くと信用ができないなとしか思えない。心理学解説が始まるのかという感じを持ってしまうのだ。
  便宜上、アイデンティティはあると考えると、措定すれば便利なんだろう。みんなそれが便利だからそう信じていなくても、半分信じてる振りをしているのだろうか。
  そんなものは無くても何にも困りはしないと思うのだが。




人生ゲーム論 2

2011-01-08 17:44:49 | 私とは何か
 人生ゲームの作り手は私であり、私がゲームのフィールドと枠となる規則、目的を決めている。ゲームのフィールドとは、私が生活している場所だ。ゲームの規則と目的は、私がこれまでに受け入れてきた言語や、この言語に基づく世界観から構成されている。
 私は、日本語を使用しているので、日本語に基づいて発想し思考しているし、価値観も、西洋的思想を受け入れつつも、意識しなくとも日本社会のものだ。権利や義務などは、もとは日本語になかった言葉だが、日本語に翻訳された意味で、日本社会での使用の仕方を受け入れている。
 私は、日本社会で、日本語によって人生ゲームを繰り広げている。
 私が、人生ゲームを作っているのだから、私が自由にゲームの枠とルールを変更できるのだが、そうも簡単にはいかない。
 このゲームのフィールドは、私が生まれた時に初期値として決められ、使用するルールも生まれた時から、与え続けられている。もちろん初期値が与えられただけであるので、これまでにゲームで築きあげた装備類と経験値を失う勇気があれば、リセットすること、準備すればフィールドとルールを変えていくことができるだろう。(フィールドとルールの変更は、生存自体を危険にするものだ。)
 仮にこれらの条件を変更しても、依然としてフィールドとルールは存在する。いかに自分がフィールドとルールを変更したと思っても、変更しただけだ。私は、このゲームから飛び出すことができない。私は変更したフィールドとルールを支配をするが、またこれらに私は支配されることとなる。
 どうしても私は、このゲームから抜け出すことはできない。
 
 このゲームの輪廻から抜けることは難しい。私は、このゲームから抜けることはできないだろうが、私が解釈したゲームであることは分かっている。このフィールドもルールも私が選び続けた結果であるし、部分的には変更することも可能ではあることも分かった。その上で、生活している。
私のゲームの解釈は決まったものではない。この解釈はいつも変更する危機にさらされていると言っても良いのかもしれない。
 私のゲームの目的は、ゲームの目的を探し、解釈を続けることかもしれない。これも私のゲームの解釈だ。
  日々、言葉のゲームに囚われながらも、言葉のゲームを超える可能性はあると思う。言葉でない喜びのある生活をする人は、その時このゲームを越えているのだと思う。
 私は山を歩いたり、川辺を自転車で走ることが好きだ。この時は、少しでも言葉のゲームを忘れているのかもしれない。
 私は、日々が言葉のゲームであることを知りつつ生活している。
 日々が言葉のゲームであると考えると空しくなることもあるが、つまらない出来事に囚われている自分に気がつくこともある。気がついてもどうにも考えが止まらないこともあるが、ゲームであればこのゲームを楽しむこともできる。
 このゲームに疲れたら、休息をとればいい。
 

言葉と人生ゲーム

2011-01-03 11:18:17 | 私とは何か
 人生が、言語による壮大なゲームに思えるときがある。子供の頃は感じなかったことだが。昨日は、ドラマで信長が滅してしまった。こんなのを見るとそう思ってしまう。
 
 言語は、パズルゲームに近い、単語と単語を組み合わせると、文が生じ、文を有機的に構成してやると物語になる。
 会話の構成は、推論を相手方に投げかけ、相手は投げかけられた言葉に対し、自分の推論から返答を行う。互いに投げかけている時は、自分の視点からの風景を、言葉にし伝えているに過ぎない。私は、他人の視点からの風景が分からないので、それを相手に聞く、互い見ているものの風景の確認作業が会話である。面白い会話は、相手の推論と自分の推論との間に大きな差が生じた時に生まれるのだと思う。
 一人でもの事を考えるときも、自分の中に会話が生じている。考える作業は、基本的に、自分の中の会話だ。常に会話をしている自分は、言語によるパズルを組み立てるプレイヤーだ。
 生を言葉によって語り始めるとゲームとなる。人生を物語として面白く語ることもできるし、目的として面白く語ることもできる。前者は伝記で、後者は人生論となる。生を考えれば、どうしても言語のパズルゲームの中に組み込まれてしまう。考える行為が言語に頼っている以上は、必然そうなる。
 私の目の前にあるこの世界は自分以外のプレイヤーが存在し、皆が、それぞれが自分のゲームを、「億万長者の土地」を目指している。しかし、必然だれもそこには到着できない。
 ボードゲームではそこが終着だが、現実の生に、そんな終着点はない。現実では、そこで生が終わるという出来事が待ち受けているだけだ。人生自体は、ゲームではない。事実としての生存があるだけだ。
 この言葉のゲームは、現実の生に、どのような意味、面白みを見つけるのか。
 一つの生であっても解釈があり、解釈によって様々な物語を作ることができるだろう。人それぞれが、解釈を持つことができる。
 人の生は、その人だけが知る物語であり、連綿としたエピソードで構成されている。ただ、この物語は言語で全てを語ることはできない。自分の生についても、その人が言葉で表現できるのは全体の一部にすぎない。第三者は、この物語の一部を切り取る。ある方角から見た一面を物語るだけだ。
 一方で、この一面的な物語を、またその物語の解釈たる教条、言葉に、人はしがみつき、心に、この教条に従って、営々と城を築いている。
 そして現実の世界で、このゲームの延長と拡大、実現化をしている。
 生は、言葉のゲームではない。生のために言葉を使用すべきであるのに。言葉で作られたもののため、言葉に規定されたものに生を費やしている。言葉で生を解釈すべきであるのに、解釈から生が規定されている。両者は営々としたサイクルとして、解釈し、規定され、またそれを解釈し、規定する。この営みが止まったところが、教条主義に陥るのだろう。
 では、どうすれば良いのか。
 私は、言葉のゲームプレイヤーだ。私の言葉による人生ゲームは、私が解釈しなければならない。また私の解釈でしかないこと。私は人生ゲームのプレイヤーであると同時に、私が当のゲームの作り手であることを認識することだ。
 こうすれば正しいということは、言葉で説明することはできないだろう。正しい解釈というものを自分で作ったり、人に教えてもらっても、違う教条を知ることになるだけだろう。
 
 散歩にでも行こう。