日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

原子力と二重思考

2011-07-24 08:05:32 | 原発問題
  二重思考は、ジョージ・オーウェルの小説「1984」に出てくる概念だ。二つの相反する概念を同時に信じる思考方法であり、プロパガンダの手法、マインドコントロールの成果である。
  これだけでは、何のことか分からないので実例を挙げる。
  原子力安全・保安院原子力安全委員会どちらも原子力の安全確保するための国の機関であり、その名称には安全が使用されている。どちらも、その存在により安全が保障されたかのイメージを見たものに植えつけることに主眼が置かれている。
  しかし、水力安全・保安院や水力安全委員会は存在しない。安全なものには、安全を題する機関など本来必要がないからである。原子力安全・保安院原子力安全委員会は、危険性の存在に基づいて、存在するのであるが、危険を題する名称とはならない。
  原子力の安全と危険この二つの相反する概念を同時に信じたのが、この組織のメンバーと、その協力者である。
  設置者自身は、二重思考の欺瞞性には気が付いているからこそ、原子力危険院や原子力危険委員会と名づけなかった。しかし、設置者自身も、この名づけの意味、二重思考であることを忘却し、相反する概念を同時に遂行できると信じ始める。
二重思考は、自らが作った信仰を信じることにより、自らが作った信仰にいつか支配される。この点では一種の信仰である。二重思考では、危険を説きながら、平安を説く。そして信仰が作られたものであることを忘却し、ドグマを信奉することに価値を置く。そして少数の為政者のみが、二重思考の欺瞞性に気づきつつ、民衆を支配する道具として二重思考を利用している。)
  二重思考は、欺瞞の方法、技術であるが、そのことを作成者自身も含めて、その語を聞いた者に正当性を信じ込ませるところ危険がある。リストラは、今では首切り、解雇の意味であるが、本来は再構築であり首切りの意味ではない。しかしながら、再構築という意味をもって首切りを実施するので、罪悪感を忘却することが可能となる。
  「1984」は、ソビエト型社会、戦前の日本のような全体主義、より高度に為政者が民衆の心を支配することによる恐怖を描いたと思う。私は、ソビエトの崩壊後は、一時この小説の意義を忘れていた。もはやこの恐怖は現実にはならないとさえ信じていた。
  しかし、この考えも浅はかであることに今になって気が付いた。世界には、二重思考の網が張られている。メディアの至るところに二重思考が織り込まれている。私を包む言葉、情報の多くに、二重思考の言葉が織り込まれている。そしてこの情報操作による二重思考は、そのものの存在さえ感じさせないほどに巧妙に設置されている。
 もう一つ例を挙げれば、「節電」、電力会社が節電をコマーシャルしているのは何故か。本当に、節電されては儲からない電力会社が、オール電化を進めてきた電力会社が節電を推奨するつもりがあるのだろうか。彼らの意図は、節電しなくとも良い社会、電気の溢れた社会の実現が目標であり、彼らの利益である。ひとつ、ひとつの言葉に織り込まれた、他者を支配しようとする意思、節電のコマーシャルには、電力を潤沢に消費する豊かさという価値観、電力がない恐怖感、脅迫としか思えない。
 そしてこの二重思考は、原子力村の構造、性質そのものであり、原子力村自体が大きな二重思考の一部でもある。
 世の中は、広い意味では言葉により織り成されているが、この言葉が二重思考のターゲットである。私は知らず、知らずに二重思考の言葉の中で思考し、二重思考の提供者の思惑の範囲の思考をする。
 私が、私の言葉で考えを持っているのか、他者の思考の枠による言葉で考えているのか 、マスメディアの言葉については特に意図がある。言葉の意味を考えよう。
 

物忘れ早やすぎ。

2011-07-11 18:28:11 | 原発問題
  原発再稼動が問題になっているが、日本人の物忘れの早さにあきれてしまった。
  今も、福島原発放射能を撒き散らし、東電も原子力安全委員会原子力安全保安院もこれを止めることができない。
  福島の農産物は放射能に汚染され、放射能に汚染された牛は東京に出荷されていた。これからは、海産物の汚染が目立つようになるだろう。こんなことさえ、汚染牛の出荷さえ解決できないのに、原発は安全宣言。
  福島事故の責任の所在は、全く明確にされていないし、関係者の処罰が全くなされていない。関係者は人道に対する罪で、断罪されるべきだと思うがその様子もない。
  原発を推進してきた原子力安全委員会原子力安全・保安院が安全といっているのに、ストレステストをすることがおかしいという論調がメディアにあふれている。
  事故前には積極的に事故原因を具体に指摘されたにもかかわらず、これを放置をした原子力安全委員会原子力安全・保安院、彼らの言うことを信用できる人の頭の構造が分からない。
  読売テレビでは、コメンテーターが「安全は信用するか、しないか。」だと言っていた。信用するか否かではないだろ。福島原発では安全を信用していた結果がこれ。信用するのではなく、安全を立証すべきことを回避した結果がこれ。
  信用するか否かという次元で話をするにしても、原子力安全委員会原子力安全・保安院の福島の事故についての関係者個人の責任、断罪、贖罪が終わってから言うべきことだろ。彼らのこれまでの仕事は、結果として国民、世界への背任であり、何事もなしとげていない。贖罪などできるものではないが、彼らが未だに笑いを浮かべながら答弁する姿を見ると怒りがわいてくる。
  ストレステストなど、データを入れるのが原子力安全・保安院なら、安全の結果しかでないことは明白だ。彼らはこれまで危険と言ったことがない人の集合なのだから。都合の悪いことは、全て想定不適当でデータから抹消するだろう。

  福島の事故で、原発は簡単に爆発することが誰にも分かった。その気になれば、発電機に、送電施設の破壊や、道路の寸断で、送電関係、復旧関係の職員の抹消、この程度で日本の原発は、原子炉を直接に破壊しなくとも、勝手に爆発してしまう。
  日本の原発をあともう一つ制御不能にすれば、日本は今の状態にさえ復旧できないだろう。これに相対的な利益があると見れば躊躇なく実行する者はいないのだろうか。これは誰を信用すればいいのだろうか。
 

子との対話(数の不思議)

2011-07-09 09:09:23 | 子との対話
昨日の夕飯の会話です。事の始まりはよく分かりません。

子 5個のタイルと5個のタイルを足せば10個のタイルになるから、5+5=10が分かる。
私 タイルが5個あることから、5を発見することは難しいよ。小学生が、初めて数を教えてもらう時に、タイルが5
  個あることから、5という数字を見つけることは以外と難しい。私なら、タイルは5個あるけどそれが5とは言えな
  いのじゃないかと聞いてみたくなるけど。5個と5は違うんじゃない。5個たす5個は10個だけど、このことから
  5+5=10は言えないじゃないか。
子 タイルじゃなくても蟻にしても答えは同じだから、5個から5は言えるよ。
私 蟻と人だったらどうなる。蟻5匹にヒト5人を足すと10個になるのかな。10ライフでしょうか。
  コップの水にコップの水を足しても、量は増えるけど1にしかならないよ。1リットルの水とヒト5人を足すと何て
  答えになるんだい。
子 蟻とヒトは10個でいいんじゃないか。水とヒトそれは単位が違うから単位を揃えないとだめだろ。水1リットルにヒトの体積を足すことができるだろ。
私 ヒトを60リットルとしたら、水1リットルにヒト5人を足すと、301リットルになるのか。何かおかしくない。
  水の1リットルとヒト1人は全く違うんじゃないか。どうして、違うものから同じ1を見つけることができるのか不思議じゃないか。
子 机の上の皿は数えることができるじゃないか。
私 このワイングラスは数えるのかい。
子 それは皿じゃないだろ。
私 ここに、お茶碗がおいてあったら、それは皿に数えるのかい。何を数えるかは人が決めているだろ。
子 ん。。。。
私 この机の上にあるものを数えてくださいと言われたら、数えることができるかい。
子 何を数えるか、単位を決めないと、数えられないだろう。
私 原子や分子の数まで数えるとか言うこともできるからね。
      先に何を基準に数えるかを決めないと、数は数えられないし、数えられない人に数の数え方を教えているは
  ずなのに、初めからタイルを5個を数えさせるのっておかしくないか。小学校の問題でも、よく考えると結構難しい問題があるよ。
子 そんなことを言う小学生いないだろ。パパだから言うんだろ。