日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

子との対話(権利の存在について)

2011-10-16 12:58:28 | 子との対話
夕食での会話、子は、高校の倫理で権利について学んでいる。
 
子 自殺しようとしている人を止める権利は、あるでしょうか。
 
父 その人を止める力があれば、止める権利はあるんじゃない。権利というものは、力の行使であって、止めさせることができる人には、その権利がある。
 
子 力を行使することは、権利じゃないのでは。
 
父 権利には、理念の面と、力の行使の面の両面がある。世界の人すべてが幸福に暮らす権利があると言っても、理念的には、そのような権利は存在するかもしれないが実現できない、実現する力を持たない権利は、在るとは言えない。
目の前にピストルを持っている人に対して、あなたには私を殺す権利はないと言っても無意味だろ。そんなこと
を言っても、引き金さえ引けば死んでしまうのだから。生殺与奪は、目の前の人の考え一つにあるんだ。私なら、
その人の権利を認めて、お金を払うとか考えるけど。
 
子 じゃあ、実現する力がない弱者には権利がないということ。強者だけに権利があることにならない。
 
父 どのような、権利も強者の力の裏づけがあって、初めて権利と言える。日本では、国家権力に認められた権利が、国家によって強制させているだろ。今、日本で認められている権利は、日本の法律で定められた範囲だ。そして国家の前では、誰でも弱者だ。それでも、日本の法律を守らないことを初めから決めている人に対しては、日本の法律も有効ではない。ピストルを持った人の前で権利を主張することは馬鹿げているだろ。権利とは、相対的なものなんだ。
 
子 弱者は、いじめられっ子は黙っているしかないの。弱い者をいじめる権利はだれにもない。
 
父 弱者を守るために、法律があるんだが、自分で声をあげない弱者は誰も助けない。弱いものをいじめる者に対して、あなたにはその権利がないと言える力がなければ、それは権利にならない。権利の上にあぐらをかくものは救済しない。困った人の全てが助けられるのではなくて、権利は自分で助けを呼ぶ人を助けるんだ。
労働者がサービス残業をすることは、法律上は必要がないことだが、労働者が自分でそのようなことをしないと
主張しないと権利は実現しない。理念上でいくら存在する権利でも行使しなければ権利にならないんだよ。
 
子 何かおかしいと思うんだけど。学校でならう権利と違う。
 
父 学校で習う権利は、主に理念的な面を教えているんだ。権利は力によって勝ち取られたものだ。権利だけ叫ぶ人がいるけど、権利の理念の面しか教えないとそうなってしまう。権利があるところには義務が必ずある。民法という法律の考えに同時履行の抗弁権という考え方があるんだけど、お互いに何か契約する時は、特に取り決めをしなければ、互いに同時にそれを提供しなければいけない。商品の売買をすれば、買った人はお金を提供する義務があるし、売った人には商品を提供する義務があるんだ。それはお互いに代金をもらう権利だし、商品をもらう権利でもある。だから権利だけが存在するということはない。権利があれば義務があるし、義務があれば、それを実行する力がなければいけない。
 
子 じゃあ、ピストルを持つ人には人を殺す権利があると言ったけど、撃たれる人には死ぬ義務があるの。死ぬ義務なんて直感的におかしい。
 
父 たしかに、死ぬ義務はおかしいな。だけどピストルで撃たれると結果的に必ず死んでしまうから、その人には死ぬ義務があるんじゃない。何回撃たれても死なない人がいれば死ぬ義務はないけど。日本には死刑があるけど、この時には、殺される人に死ぬ義務があると言えるよ。ヨーロッパはそのような義務は認めていないけど。戦争で人が殺される時も、殺される人には、そのような義務はないと思うけど、相手方からすれば戦争のための尊い犠牲であって、その人は死ななければならなかったと言うと思うよ。この意味で、権利は相対的なものでしかないんだよ。理念上の権利は、人を殺す権利でさえ立場によって異なるし、実行力の存在で権利と言えるかどうか決まる。また、実行力のない理念だけの権利も潜在的な可能性としてはあるかもしれないが、それを権利が在ると言えるかどうか。
 
子 お皿をかたずけて、分かったんだけど、私に食べられた豚からすれば死ぬ義務はないように思うけど、やっぱり食べられた豚には死ぬ義務があるんだ。
 
父 。。。。。
 
 
 
後記
殺す権利については、理念上も存在しないのかもしれない。
日本には死刑があり、国家にその権利が認められているが、それは本当に権利なのかと考えると、生殺与奪に関しては、権利概念から外して考える必要があるのかとも思う。
子が疑問に感じる死ぬ義務は誰にもないということは、普遍性を持つ真理なのかもしれない。
ただ、生には死があるだけであり、死は人がなす行為と言えない。生物は生きることが本質であり、死ぬことは生物の結果でしかない。それを死ぬ義務という行為(生きるという生命の本質から外れた設定)で考えることに無理があるようにも思う。首を吊られる義務と死とは別に考えれば整理できそうに思うが、分けて考えることも形式上の整理でしかない。
人が人を殺す時には、権利でなく、ただ事実がある、利便として、手段として人を殺しているそのように考える方がしっくりするのかもしれない。

人と依存の関係

2011-10-08 08:56:44 | 日記
   酒を飲まない日を作ってみた。今週は月、火は酒を飲んでいない。水木金は飲酒をした。そして今日は飲まない日にしようと思う。これは、家計と健康維持のため、そして、酒を楽しむ時間を他の楽しみにしようという、飲酒を制限した時にどんな結果が生じるかを観察するという実験でもある。(今のところ、体調が良い気がする。)
   今日は、何かを習慣とし、それに依存する構造について考えてみようと思う。
 
   ある人はタバコ、お酒、仕事、TV、それを習慣とし依存する。
 何かしら、依存という構造にもたれて、これを心の拠り所として暮らし、習慣の中に依存が生じ、依存のために習慣が発生する。習慣という定型化された行動は、心を落ち着かせやすい。習慣は、何も考える必要がないから、そこから、その時々に考えない、感じない生活が生じると思う。
   心の拠り所は、とは何だろうか。タバコ、アルコール、家族、仕事、アイドル(歌手、俳優、趣味、何らかの対象であれば良い。)を手にしているときに安心感がある。
   私がこれらを欲するのは、私が空しく、何もしないことに耐えられないからだ。何もしない時の私は、私が何者でもないことを知っているし、何もしない退屈、何もしていないという事実、無価値な時間に耐えることは難しい。
   習慣から生じる依存は、私が空っぽの存在であることを一方で知りながら、それを意識しないために、私にはこれがあるという偶像を私自身の中に生みだす。私がアルコールをとる時には、気分の上昇が起こり一時的な高揚感を生み出す。それは、一時的なものであって本来の私自体には何の変化もない。アルコールがあれば私が何者かを考えることを要さず、空しさを忘れさせることに成功する。そして、アルコールは、小さな幸せの小さな偶像となる。もちろん小さな偶像は、アルコールだけに限らない。
   私が作った偶像は、偶像の大きさに合わせて私を幸せにする。そして、私は偶像が大きくなれば、偶像がないことに恐れを抱き、偶像が継続することを望むようになる。私が作り出した偶像から、満足だけが生じればいいが、私はこの偶像を守ることに窮し、振り回されて暮らしていく。
原発の物語は、この偶像の関係にある。偶像を意識的に作り上げ、偶像へ資金を投射し、偶像を介して資金を回収していく。偶像は世界に溢れている。)
   本来、私が生み出した偶像(イメージ)は完成とともに消え去れば良い。楽しみは、その時限りの満足であるはずだ。この一期一会の楽しみに偶像(イメージ)を抱き永続性をもたらすこと望む時、その時に私の中に依存が生じる。 この偶像のあり方は、私の心のあり方である。心の拠り所は、私の中にあるのでなく、私が私を投射する偶像の中にある。
   偶像を持たないことは、私の中に何もないこと。絶対的な投射の対象などないことを知ることだ。それは私を投射する対象は、常に相対的であり流動的なものでしかないことを知ることである。私自体が投射の対象と同一でないこと、自己同一視できないことを意識しなければいけない。
   一方で、依存の構造は、私が選んだ対象が社会的に評価されることであれば社会的な成功を生み出しやすい。また、社会的に評価されないことでも(反社会的でない限り)私が偶像に疑いさえ持たなければ、私は幸福に暮らすことができる。(自己満足と言われる姿だ。)依存も方向性が良ければ悪いことだけではない。依存していることに気づかないこと、依存していることについての評価をどう考えるかだけだ。
   既に私の中には、よく見ればあらゆる種類の偶像(これまでの教育、経験から得た既成概念、価値)が用意されているし今も偶像に乗り暮らしている。そして世界の側からは、ひっきりなしに新しい姿の偶像が提供されている。商品経済は、人を商品に依存させることに、依存であることを気づかせないうちに、消費者自らが進んで欲しがるCMを大量に提供している。また、政府は常に多くのプロパガンダを流し続けている。今は、依存の関係について対象を一つとして考えているが、実際には依存の関係は個人の中で同時並行的に価値の体系の中で進んでいる。私の中で、私の何が依存であり、何が依存でないかを知ることは難しい状況にある。
   今も、多くの人がTVに依存しているし、ネット、携帯電話に依存する、商品を買うことに依存する人など、依存は一人の中に同時進行で生じている。
   そして、依存の対象を見つけ、これを否定すること、 これも突き詰めると自己完結型依存、自己という考えへの自己依存という姿(循環論法)になる。依存という言葉にあまりにこだわっても、自己ということにあまりにこだわっても、やはり依存という構造から人は抜け出すことができないのかもしれない。
   ここまで考察して依存という構造そのものが人のあり方そのものであるように思えて来た。依存は、抜け出すということでなく、違う付き合い方を考える必要があるだろう。また、実験の結果がでれば考察してみようと思う。