日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

法事を終えて。

2014-05-25 17:47:59 | 日記
今日、法事が終わった。
百か日の法要だったが、納骨も一緒にした。
これまで何だかんだと大変だったが、一区切りついたものと思う。
遺族にとって、気持ちを切り替える大きな節目だ。

ここで、私自身の信仰という宗教への考え方を書いておこうと思う。

仏については、人間ガウタマ・シッダールタとしての仏は好きだ。現在の日本の宗教で解釈されているような、仏については、ほとんど興味がない。人を救うことができる。とか言うお題目は、死後の世界を見たかのようやことだ。ガウタマ自身は死後のことなど分からないと言っているのだが、どうしたらそんなことになるのか。岩波書店からは良い翻訳本があるのだから、お経を覚えるよりも、そちらをよく読めば良いのにと思うくらいだ。
自分で判断せずにどうして、人の言うことを信じるのか。
生きるとは、人に教えてもらうことではない。自分が考えることだ。

ただ、人の気持ちの区切りをつけるための儀式としての宗教、その効果はほんとうにあると思う。ただ、それは残された遺族の気持ちの問題としてだ。
それでも、私はお経を読んでくれた僧侶には敬意を払うし、その人の善意というものを信用している。私の世俗宗教への信仰とは、一人ひとりの僧侶や神官の方の善意が前提になっている。
神社のお参りも好きと言えば好きだ。何か神々しさを感じるのは確かだ。もっとも、自然地形に感嘆していることがほとんどではあるが。故に、大金を要求する信仰というものは信用していいない。

私自身は、他人に成仏させてもらうことができるとは思っていない。私を照らすことができるのは、私の思惟の力だけだ。私が私の光である、私が照らす先に世界があると思っている。まあもっとも、この光は私しか照らすことができないのだが。私が死ねば、私はちりになるだろう。それが私と言う思惟の世界から物理的な世界に帰るというそれだけ。これを成仏と言えば成仏でないかと思っている。こんなことは、言ったもの勝ち、信じたものが信仰だろうと思う。

ひとりあること。

2014-05-10 18:34:49 | 日記
  社会の中で生きていて、それでいて一人であることに気づくこと。
ひとりよがりになれということではない。どれだけ友人がいようが、家族がいても一人であることに気がつくことが重要だ。
  日常でも、実は一人だということに気づくこと。
  世界は、だれだけ広くともやはり私の世界であって、私が認識しているこの世界は、私という存在に、その全ての成立がかかっている。この意味で私は一人なのだ。誰かと、「私が認識しているこの世界」というものを共有することはない。この点では、私というものは、誰もが絶対的に孤独な存在だ。
  
  私という存在を中心にして世界が拡がりを持つのだが、日常生活でそのことに気がつくことは少ない。あくせくと、社会システムの中で暮らしていれば、自分がむしろ末端という考え、自分の代替可能性は社会システムの中では当然のことだ。このギャップが日常性と非日常なのだ。
  
  最近、ブルックナー交響曲をよく聴くのだが、私が一人いるということを何故か感じさせる。
たくさんの人で演奏しているのだが、孤独な音楽を感じる。これが非日常の感覚だと思う。

  ブルックナーの音楽には静寂があり、この音楽を中心として、世界の広がりを感じるのだろう。この音楽を聴く私は、そこに一人しかいない。ライブを聴きに行くこともあるのだが、この音楽の体験は、内的である。同じように感動する聴衆がいても、私自身、拍手をしていてもやはり体験は個人的だ。この体験自体は共有できるものではない。共感ということはあるが、これは類推であり、直接他人の体験を感じているわけではない。


  

概念は実在するか。

2014-05-03 16:35:03 | 日記
概念は実在するか。
実在というところが、問題なんだろう。普通に概念は存在するものとして生活をしている。日常言語では、学校や会社に行ってくるというようなことを普通に言っている。
学校は、どこに実在するのか。建物が学校かというとそうでもない。廃校になった学校は、もはや建物でしかない。学校は概念上存在するのだが、日常ではこれを実在の存在として考えている。
言語を使用する際に、こんなことを考えながら使用していては、何も言えなくなるので通常は考えない。しかし、会話だけでなく思考というレベルにおいても、学校は存在するものと普段は考えている。
みな、私というものは存在すると思っているが、実は私という存在も概念上の存在だと考えることもできる。
私という存在が概念だとすると、まあまさに概念であるのだが、思っている私と実際の私の食い違いが起こる時に、人は悩んでいるだがこれは、まさに私が概念である証拠でもある。なりたい私と本当の私、そもそも本当の私って、本当でない私なんて存在するのかとも思うが。
概念が実在ではないと考える時、人は何に悩んだり、苦しんだりしているのだろうと思う。全て空想上の出来事のように思うのだが、概念が実在する。臨在すると考える時、真剣に悩むのだろう。肉体的レベルで痛いとか、空腹だというのと、概念上の悩みとは大きく違う。人は落胆するし、おだてられると、誉められると気持ちがよくなるものだ。何故、落胆し喜ぶのだろう。
自分の概念上の私と、人に評価された時の私、これの相違がこのような気持ちを生み出すのだろうと思う。
人の評価にしろ、自分の概念上の私にしろ、そのようなものが存在するのか。そしてそれがどのような意味があるのか。
概念上の私が大きくなるとき、現実の私が小さいことに気がつくとき、私というものがどんな人であろうが、大きさなど変わらないものだと思う。偉大な気持ちがするかしないかだろう。ある意味、自己満足、どんなに人に評価されようが、結局は自己満足しかない。何せ私の最終的な評価者は私しかいないのだから。
概念が実在しないと考えると、世界は意味を有さない。意味とは概念そのものであり、概念が意味だからだ。実在とは、この無意味の世界を意味すると思う。
そういう意味では世界には意味はなく、私の側に意味が存在する。