日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

主観

2019-06-30 18:04:17 | 日記
  世界を正しく見ることは出来るだろうか。世界について、私の見方が正しいということがあるのだろうか。
  世界を見る方向性は、人それぞれ、自分の目線で見ている。同じ物や出来事を見ても、同じ見え方はしていない。 
  世界についての認識は、人それぞれに異なるのだろうか。誰が正しくて、誰が間違いということはないのだろうか。私たちが作り上げた言語、習慣その中でゲームを行っているだけなのだろうか。その言語や習慣の枠の中で、とりあえずその時に正しいことが決まるのだろうか。
  世界をどのように見ても、これが正しいという真実そのものが、幻想に過ぎないのであれば、いかに正しく見ようと言っても、正しさは何に対しての正しさになるのだろうか。言語、習慣に即しているだけなのだろうか。
  例えば、人を殺すことは正しくない。これは、原則的に妥当だが、ある条件下では是認されている。戦争や、死刑制度のある国、尊厳死、中絶、色んな原則からの例外があるだろう。
  正しく見ることが、人において相対的なら、正しく見ていないという主張はもはや意味を失くすことになる。
  正しく生きることは、何を意味するのだろうか。
  大きな視点から見ると、ちっぽけなこまごまとした人という存在が正しい、正しくないか、ほぼ、意味がないように思う。こういうと虚無に陥るようだが、世界が無秩序であることを考えると、正しいや正しくないという観点は、人の主観にしか意味がないのだろう。
  そう思うと、この人生というのは皮肉なものだろうか。主観の他に意味がないと思いながら、その主観の正当性は、主観にしか担保されず、その主観の上で生きていく。
  そうして、皆が手探りで意見をぶつけ合う。それで対話をするのだろうか。そこで対話があればいいのだが、多くの関係は、議論の元に帰るようだが強制、報酬、恐怖による示唆、支配それが正しさになるのだろうか。
  それを正しさと認め、ながらながらに進んでいるのだが社会なのだろうか。



   

比較

2019-06-29 17:51:17 | 日記
    自転車で初めて通るところに出ると、少し旅行したような気分になる。大きな家に小さな家、金持ちと庶民、見ればわかる。
    方丈記では、大きな家でも、小さな家でも、其処に住んでいる者も、変わらないものは少しだと言う。人の寿命と家と、どちらが長いのか、大変な思いをして、買うものだが、いつかは、手放すことになる。
    どんなものでも、そうだ。家族も、いつかは手放すことになる。
    多くのものを自分で持つ、ヤドカリが背負うように、重荷を背負っているのだが、そのような荷物は本当に必要なのだろうか。
    荷物が大きくて、あえいでいるのだが、皆、荷物のことを、責任、義務、理想、と呼んで大切にしている。
    この荷物を横に置いてみれば、自分が何に苦労して、何のために、今、生きているのか。
    皆、自分で荷造りをして、重いと言っているのだが、何故、こんなことをしているのだろうと思う。
   人を見て、自分と比較し、自分もああなりたい。そう思うところから、背に荷物を載せているのだが。
   

何もないこと。

2019-06-15 16:40:36 | 日記
    上の子が就職活動をしている。希望のところに受かればいいが。これから、一人で生きていくことになる。好きなことを仕事に出来ればいいのだが。
  私自身は、仕事は自分が好きなことをしてる訳ではない。毎日、就業時間が早く終わることを考える。これは、不幸なことだと思う。   
    多くの人が、そのことに気がつかずにいる。自分の立場、昇進そういうものに、自分への社会的評価が有ると満足する。自分とそのことを同一視してしまえば、自分の仕事が本当に好きなことかもう疑問に思わない。
    自分はこの歳になって、退屈で辟易した仕事をしている。その上、仕事上の技術と言える物もない。人を勘違いさせる地位、役職もない。蓄えもない。私はこれまで何をしてきたのだろうか。
  自分を見て、何もないと思う。
  子や妻はあるが、それは私の所有物ではない。私が持つ物、何がしか、そういうもので大事なものは何もない。  自分は、ひとかどの人物、人から尊敬されるような何者かに、なりたかったのだろう。そういう願望があるのだろうと思う。一方では、そんなものは実のところ、虚栄心を満足させる他に何もないと思う。
  そのような心が空しいものだと思う。
  自分に何もないことを知ると空しい気持ちがするが、それを受け入れようと思う。人生は、空しいものだと。
  その上で、毎日の繰り返しを、9時から5時まで同じことの繰り返しを、また繰り返していこう。