日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

エチカの感想 

2024-08-18 17:56:51 | 日記

  エチカを読み終えたのだけど、肝心の第3種の認識のところが実感できない。スピノザは、自分が神の一部であり、自分の本質は神の必然の中にあるという。自分の存在も、神の一部だから永遠、確かに自分は消え去る存在だが、その消え去ることも神の必然の中にある。その神の一部である以上、自分が存在したことは永遠という。
  世界が神なら、自分も神、その自分についての認識が神としての自分であることを知る。そうすると自分の存在は永遠の一部であることを知る。多分、こんなストーリーとなっているように思うのだけど、この神としての自分の認識というのが、実感として得ることができない。
  理屈としては一貫していると思うのだが、自分が神と言ってみても、その自分のちっぽけさというか、肯定感のなさというか、そこを、自分を神の一部という認識が、実感がまるでない。
  壮大なスケール感の哲学で、魅力はある。デイビッドソンのスリングショット論法の偉大な真理のような、すべての真理の集合があれば、それは神と言える。逆にいうと、真理の集合だから神なのだと思う。どちらも同じこと言っているように思うが、すべての真理の集合というものが存在するのだろうか。
  ここにスリングショット論法とスピノザの神には、類似性、強く言えば同一性があるように思う。全ての真理、事実の集合を想定すれば、実体、様態と同じになるように思う。
  エチカでは、世界はただ一つしかなく、可能世界は存在しない。最善世界でもなく、ただ意味もなく世界は神の流出であり、神そのもの、世界の全てが真理であり、真理しかない。そこで思うのが、神が必要なのか。信仰的な神と違い、祈る必要もなければ、人を救うものでもない。ただ、世界の全てを神と呼ぶ。この世界観、スケールの壮大さが、エチカの面白さで、この創造物を理解したいと思うのだが、一方で自分の人生の意味と、自分の日常と一致するかと言えば、しない。
  自分の人生の意味を考える時に、ただ一つの様態であるのが自分で、自分は神の一つの表れだとしても、何か自分の本質を捉えていない、自分の日常から、自分は神の一つだと言っても何も解決しない、将来の収入や、生活のいくすえを考えても、仮に野たれ死にするにしても、それが神の表れであり、その神、他の神の様態は何も気にもしない、特に意味もない、そもそも人生にも意味はないのだと。
  ここで言う神の理解をしても、自分の生活には一つのアイデアが追加されただけで、スリングショット論法のような考え方があることを知ったことと変わらない気がする。何となく、慰めのようにも思うが、すっきりしない。
  可能世界が実在すると考える時に、エチカであればそんなものは存在しないと言うのだろうが、可能世界毎が神だと考えると、ただ一つの神がそれぞれの可能世界毎に存在する。エチカでは神は一つなので、複数の神は存在しないということだが、可能世界毎が神で可能世界を貫く、貫可能世界的な神が存在しない、神の対応物(可能世界)はそれぞれが別の存在だと考えて、可能世界は互いに干渉しない、可能世界の集合は一つの可能世界内には存在しないと考えるとエチカの神が一つということと整合するように思う。
  そうすれば、無限の可能世界と神が開けるが、そこにただ一つ自分がこの可能世界にいる訳だが、その世界は必然しか存在しないように思う。無限の可能世界の中の一つの可能世界は、必然しか存在しないように思う。すると、エチカが言うように世界は必然しか存在しない。自分は、必然的存在で、神の一つの様態になる。
  ただ、そこに自分の生活があるのだが、全てが必然と考えることに慰めを考えるのか、最善を尽くしてこれが必然だったと考えるのか。エチカという倫理は、この理解であっているのだろうか。
  映画スターウォーズのEP.5のマスター・ヨーダの有名なセリフに、「Do or do not, there is no try.」があるのだが、これは、行為する時、行為しないことも、その時が全てであり、何事にも2度はないこと、日本語で言う「一期一会」、全てが一度きりであること、行為する時は、一度きりの出来事を行う、行為しないことも、ただその瞬間を生きるしかない。だから、試しがない。
  このセリフは、エチカの世界においても、必然的な世界、そこに試しがないのは当然の帰結で、同じことが成立するように思う。
  世界から自分を捉えると、あらゆることが必然で自分に迫ってくるのだが、そこにおける自分は、するかしないか、可能世界から見ても、選択肢毎に分岐する世界、自分が行った結果の世界に生きていくだけになる。そこに試しなどない。
  エチカの世界が、必然的世界で、今、自分が生きているこの世界は、エチカの世界だと考えると、世界の多くの不幸や、出来事を考えると、その無意味さが自分に迫ってくるようにも思う。自分が意味があると考えることは、実は世界では意味がなく、自分自身が神の一部だとしても、その神に意味がない。エチカの神は、神の一部だとしても何か価値を与えてくれるような、自分の意味を与えてくれるようなものではないように思う。一期一会の世界で、ただその機会を生きる。それ以上は、何もない。自分の意味を考えても、刻々と生きること以上に意味はない。それが、積極的なことなのか。消極的なことなのか。どちらでもあるのか。