主語と述語の関係は、関数の関係f(x)にある。主語となるのがxで、述語になるのがfだ。
通常の文をy=f(x)の形で考えると、yとは話者の言いたいこと、出力、表現したいこと。右辺が、話者の文である主語xと述語fになる。
通常の文の表現では、yとかいう言い方はしないし、関数的な言い方で「fであるx。」のような表現をすることもあまりない。文は、主語と述語で構成されるので、(日本語の場合、主語は省略されることも多いが、何が主語であるのかは、文脈的に読み取られることになる。)およそ意味のある文は、関数で表現できる。これが、論理学の命題論理の基本的な発想だと思う。
「世界に存在するものが何か」を語ることができるのは、文でしかない。世界をどのように理解しても、表現するとそれは文になるので、世界に存在するものは、文での主語になるか、文の主語になりえるもの。それがどのようなものかは、述語で語ることになる。
普段の会話では、○○が存在するという語をつけることはないが、自分が主張していることは何らかの意味で存在するか、もしくは、そういうものは存在しないと(否定の場合)言っている。中国人ぽく言うと○○あるよ。という感じか。
「ある○○が存在する。」を、存在すると言う意味の記号「∃」で表現すると、「∃xf(x)」となる。
次に、∃xf(x)について、fはホモサピエンスとしてみる。
すると、ホモサピエンスである何かな何かが存在するとなる。
その上で、この文が正しいかどうかは、ホモサピエンスがこの世界に1人でもいることが実証できれば、この文は世界を正しく表現していると言える。
この例のように、∃xf(x)は、存在を認めることができる文を表している。
関数の例を、もうひとつをあげてみよう。
次に、f(a)が成立しているか調べるために、aのところに個人名を代入する。そこで安倍さんを代入すると「f(安倍晋三)」になる。
存在するものが何かという問いは、形而上学の問いだが、この論理学の式を使うと、世界は述語となる関数に説明され、そして主語となるものから構成されていることになる。逆に言うと世界は、主語になりえるものの集合とも言える。世界は分解すれば、先の式で表すことができるし、人間が理解可能な、表現可能な存在と言うものは、先の形で表すことができる必要があるのだろう。