日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

今日の料理

2016-11-27 14:53:37 | 日記
  今日は、牛肉の赤ワイン煮こみを作っている。すね肉を、玉ねぎ、ニンジン、トマト、ワインと一緒に煮込む。基本的なフランス料理、シチューの原型のような料理だ。今、低温のオーブンに鍋ごと入れたので、あと2時間ほどで出来上がり。
  うちは、金持ちではない。その分だけ自分で美味しい料理を作ることにしている。今日の制作費は、牛なので少々高いが、肉が900円程度、野菜は200円分、ワインが400円分くらいだろうか、1500円程度で、6人前程度できるだろう。お店だと少ししかないが、うちの人数なら大目にあるだろう。
  普段は、牛は食べないようにしているのだが、たまには良いと思う。下の子が大学受験で、今日は一日中模試を受けている。疲れたところなので、力がつきそうで暖かいものを食べさせてやろうと思い、普段よりも高めの値段設定をした。
  世間では、女性活用とか言っているのだが、女性がおせち料理を作らなくって久しくなるように思う。外にでれば家の仕事ができなくなるのは当然で、そこに企業がサービス、商品を持ち込むのは当然のことだ。それを利用しないと生活がなりたたないのだから。家でおせちを作るのが正しいとか間違いということではないのだが、女性がパートに出かける家庭では、年末におせちを作るのは結構厳しい、しんどい作業だと思う。自分でも、休みはゆっくりしたいと思うのだから。
  いったい何が豊かさなのだろうと思う。高い値段をだせば、自分で作る料理よりも美味しい料理はあふれている。そのために、あくせく働いてそのサービスを買う。そのサービスのために働くので、サービスは買わないと生活がなりたたない。
  どこかで、この循環を切り離さなければならないのだろうと思う。

目を凝らして見ると在るかな?

2016-11-12 18:52:56 | 日記
  在るものと無いもの、在るものがどういうもので、無いものがどういうものか説明できるだろうか。素朴に言うと、目の前に在るものがあるのであって、そこに無いものがないものくらいだろうか。
  目の前にあるものがあるというけれど、パソコンが目の前にあるのだが、パソコンはキーボードと液晶画面に、ハードディスク、CPU、バッテリー等々の組み合わせでできている。私のパソコンは、キーボードのシフトキーが外れかけているのだが、外れたキーはパソコンではなくて、外れていない時はパソコンなのだろうか。けっこう多くの部品からできている物は多い。それをまとめて例えばパソコンと言っているけど、パソコンが故障した時は、それらの部品もパソコンなのだろうか。その時は、廃パソコンなのか、それとも各部品の集合になるのだろうか。
  私達が、単純に物と思っているものも、言葉による仕分けとでもいうのだろうか、一般名詞になっているものがあると思っているのだが、実際にそこにあるものは「パソコン」なのだろうか。一般名詞がそのままあるわけではない。物があるのは確かなのだが、そこにあるのはどこにでもある「パソコン」、電気屋に行けば何十台とある「パソコン」そのパソコンがあるのだろうか。
  こういうと、パソコンと呼んでいる具体な物がそこにあるんであって、「パソコン」があるわけじゃないような気になってくる。世の中のほとんどの物が「パソコン」と同じで一般名詞で呼ばれている。固有名詞にしても、結局は同じになるのだが、イチローという人がいるが「イチロー」が存在しているという時、何か抽象化された物が存在するように感じる。そこに本当にあるのは、名でなく事物のはず。
  こういう見解が唯名論なのだろうか。私は、一般的な意味ではパソコンや、イチローの存在を疑っているわけではないのだが、私達が存在していると感じている物の多くは、物を切り分けて名を付けているのは人で、物自体にファンタジーにあるような物自体の本質を表す「真の名」で呼ばれている物があるわけではない。
  本質という考え方も、物の本質というときパソコンの本質でいけば、シフトキーはパソコンの本質ではないような気がするが、シフトキーがないパソコンは使えないと言えば使えない。そうするとパソコンの本質はシフトキーやバッテリー、バックライトを含めて個々の構成部品の性質を本質とすることになる。そのバッテリーにしてもその本質はというとリチウム、電極等々、細分化されそれらの集合が本質ということになる。そうすると、本質というものが本質らしくなくなってくるのだが。
  私が存在していると思っているものは、目を凝らして見れば見る程に、小さな物からできているし、実はあいまいに存在していたりする。
  物でさえもこれだから、愛情があるとか、ないとか。学歴とか、責任感とか、目を凝らせば存在というのは、凝らすほどにあいまいで、あるのかないのか、確率論的にあるのだろうなと思うくらい。
  こういう信仰がないと、世間では生活できないけど、時々そういう世間を見ていると本当に何が存在しているのだろうと思う時がある。





植木と私

2016-11-06 14:02:51 | 日記
  日帰り温泉施設へ行ってきた。そこに露天風呂があり、ちょっとした植え込みがある。そこには、人の身長くらいの樹木が植えてある。そこへ行く度に思うのだが、ちゃんと在る。私が見ていない間に枯れたり、消えたりしていない。私と、その植え込みとどちらの寿命が長いのか分からないが、行く度にまだあると思う。
  私に関係なく、その樹木は成長し、私に関係なくいつかは枯れてしまうものだと思う。永遠にそこにあるわけではないし、その温泉施設もいつまでもあるわけではないだろう。私に関係なく、私と関わりのない人間の意志でその樹木はそこに植えられたわけだが、木からすれば人間の意図を知るわけでもない。
  人間の意図があろうがなかろうが、日の光があれば、そこに与えられた場所に育つ。
  人が露天風呂の景色のために、置いたのだがそのことは木にすればどうでもよいこと、木は何も考えない。木に目的があるかと言えばそのようなものはないだろう。そこにあるから、そこに育つだけだ。自然と葉は、日の向きにあわせて茂っていく。
  私と木の違いはあるのだろうか。私は、何故ここにいるのか、誰かにそこにあるように配置されたのだろうか。誰かの意図があろうとなかろうと、植木が自分の目的を知らなくとも何も問題にしないように、私はそこに置かれている。私がそこに置かれて意味があるかないかは、私には分からない。私はそこで日があれば日を浴びてそこにあるように生きる。ただそれだけの存在なのだろうと思う。
  生きることに意味や何かを求めるのは、植え込みに置かれた植木の意味を考えるようなものだろうと思う。植木にはどうでもいいことだ。そのような意味があろうがなかろうが、そこで育つだけ、そして枯れていくそういうものだと思う。